説教:
『見えないのに信じる人は、幸いである』
2020年4月19日
礼拝より
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:イザヤ書42章5-9節、
ヨハネによる福音書20章19-29節
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
2020年4月19日
礼拝より
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:イザヤ書42章5-9節、
ヨハネによる福音書20章19-29節
主のご復活おめでとうございます!4月12日には、イースター復活主日礼拝を、インターネット中継を通じて、また一部の方は電話中継で共に礼拝をお献げしました。また、國磨呂牧師の説教原稿を郵送し、その原稿を通じて共に御言葉の恵みに与ったという方もおられると思います。新型コロナの蔓延の影響で、礼拝の献げ方についても変更が必要になったりと、忍耐が求められています。共に目に見える形では集えないこと、これは本当に寂しいことでありますし、大きな制約を感じるかもしれません。
しかしこの時も、主がこの礼拝と交わりの中に聖霊なる神様の助けによって、ご臨在くださることを信じ、私たちは本日の復活節の主日礼拝を共にお捧げしています。そして死から復活され、私たち人間の罪に打ち勝たれたイエス様の御言葉に共に聞き、私たちの信仰が弱まるのではなく、むしろ共に復活の主に顔をむけて、共に祈りを合わせ、賛美の歌を合わせる時に、復活の主の永遠の命の希望に共に結ばれて、私たちの信仰が新たにされ、私たち教会として新年度の歩みに押し出されて行きたいと願っています。
4年目から、一人一人が「キリストの体」としてどう生かされ、連なり、主体的に神様の御業に用いられるのか、お互いの歩みを主にあって受け止め合うことができるようにと願っています。その意味で「伝道協議会」を重ねて、皆で話し合って皆でできることを進める歩みをしたいと願います。
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本日読まれたヨハネによる福音書の20章の箇所では、復活されたイエス様が、弟子たちの集まっている所に、2回に亘って、姿を現してくださいました。週の初めの日の夕方とありますが、週の初めとは、安息日である土曜日の次の日ですから、今日の私たちにとっては日曜日ということになります。日曜日の夜に1回目、ところが弟子のトマスはその場所にいなかったと24節にあります。そこでイエス様は十字架の死から三日目に甦られた最初の復活日から8日目、つまり最初のイースターを1日目として1週間後に、弟子たちと一緒にいたトマスと出会ってくださったのです。本日も復活節第二主日、イースターから1週間後ですから、まさに今の時期に、トマスは復活の主に会ったのです。
今日は説教題として「見ないで信じる人は、幸いである」とトマスとイエス様との再会の箇所を掲げましたが、まずはトマスよりも先に復活の主に再会した弟子たちの様子を見てゆきたいと思います。
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さて、弟子たちが1回目にイエス様にあった時も、2回目にイエス様に会った時も、彼らは集っていた家の戸に鍵を掛けていました。私たちは、危険や恐怖を感じている時に、戸に鍵を掛けると思います。以前の日本では、ご近所との付き合いの中で、信頼関係が築けていたら、あえて戸に鍵はかけなかったという話も聞きます。これに対して、今日の聖書の箇所では、危険な存在を締め出すために、戸に鍵を掛けていたということが分かります。彼らは何を恐れていたのでしょうか。
イエス様の十字架の出来事を振り返ってみると、そこにはイエス様を「十字架につけろ!」と処刑所へと追いやった群衆の姿があります。これを扇動した当時の祭司長、ファリサイ派といった宗教指導者たちにより、自分たちも十字架刑に処せられるのではないかという恐怖があったのです。実際に、ペトロはイエス様が逮捕され連れていかれる中で、その後を恐る恐るついて行き、大祭司の中庭でイエス様が裁かれる様子をそっとのぞいている時に、イエス様の仲間だとの指摘を受けると、呪いの言葉を口にしてまでも、イエス様を知らないと、三度も関わりを否定したのです。
さて、ここで深く思わされるのは、この弟子たちが単に悪意を持った人間、つまり“人”を恐れていたのかということです。確かに、「ユダヤ人を恐れて」(9節)とは、祭司長たちのことです。しかし、ペトロもそうですが、弟子たちはみな、イエス様を裏切り、イエス様を見捨ててしまっていたのです。そのイエス様が復活されたことは、彼らにとって何を意味するのでしょうか。〝イエス様は私をどう思っていらっしゃるのだろうか。イエス様を見捨ててしまった罪人である私は、神様の前でどうなってしまうのだろうか。〟と言ったように、人間だけではなくて、神様への畏れもあったのではないかと思うのです。なぜなら、今回のイエス様の登場に先立って、イエス様のご復活後の目撃証言があったのです。
先週のイースター礼拝では、疋田國磨呂牧師の説教によって、マグダラのマリアが復活のイエス様に出会うという喜びの出来事を共に聞きました。ヨハネによる福音書でも同様に、イエス様が墓場で、マグダラのマリアに出会って下さったことが語り伝えられています。また、空っぽの墓を見たマリアから連絡を受けた、弟子のペトロと、イエス様の愛弟子と呼ばれているヨハネも既にイエス様の墓が空っぽになっていたことを目撃していたのです。時は既にイエス様の復活日の夕方になっていましたから、マグダラのマリアから、またペトロとヨハネからも、イエス様の復活について話を聞かされていたはずなのです。
特にマリアは「わたしは主を見ました」と、明確に証言しているのです。何度聞かされても信じられない、意味が分からないということはあると思います。特に、主のご復活については、私たち人間の知恵や論理では到底つかめない話です。しかし、それ以上に弟子たちは、今は復活され生きておられるイエス様ではなくて、十字架で処刑されて死んでしまったイエス様への負い目を感じて、罪の意識の中で苦しんでいたのではないでしょうか。これはまさに、罪を負って苦しんでいる、罪人である人間の姿なのです。
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その罪の“暗闇”と言ってよいほどの悩みと悲しみの中に、イエス様は突如として復活されたお姿を現してくださいました。扉に鍵が掛けられていたにもかかわらず、その扉を通り抜けて、彼らの真ん中に立ってくださったのです。
ルカ福音書では、この通り抜けたということについて、亡霊を見ているのではと弟子たちが驚いた様子が伝えられていますが、その時も、イエス様はご自身の手や足をお見せになって、「まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ24:39)とお伝えになっています。ここでは、どのようにイエス様が家にお入りになったのかよりも、むしろイエス様が弟子たちにお語りになった言葉に注目したいと思います。
「あなたがたに平和があるように」(20:19)とイエス様は開口一番におっしゃいました。イエス様と弟子たちが当時アラム語でお話しになっていたことを考えると、「シャラーム(平和)」とアラム語で言ったのかもしれません。ここでは、神様の平和が「あなたがたに…あるように」とイエス様がはっきりとお伝えになっています。さらに、ここに続くトマスとイエス様の再開の場所を含めると、三回も、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに繰り返しお語りになっているのです。
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イエス様は十字架で釘打たれた手と、槍で刺された脇腹とを弟子たちにお見せになりました。このことは、後にトマスが「指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と発言することに繋がります。
ただ、ここで私たちには、一つのことが示されます。それは、イエス様が、十字架の傷跡を残したまま復活されたということです。もし、傷跡も十字架に掛けられた形跡もなくなっていれば、十字架の出来事は、弟子たちの記憶の中からは忘れ去られてしまったかもしれません。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざがありますが、そうならないように、つまり、十字架で苦しまれたイエス様の御苦しみが、私たち人間の罪が赦されるためだったことを心に刻むためであったのです。
十字架の恵みを、復活された主に出会う時にも忘れることがないようにと、ここにイエス様の十字架の傷跡が示されているのです。そして、復活されたイエス様が、主なる神様の平和を告げながら、手と脇腹の傷を示されたことによって、弟子たちは初めて分かったのです。あのイエス様の十字架とは、私たちの罪の現実を示しながらも、私たちを死へと裁くためではなくて、私たちの罪を赦し、私たちを生かして下さる神様の愛の真実を知るためだったのです。イエス様の十字架の死は、永遠の命を与えて下さる神様への道を示して、私たちに救いの恵みを与えるためであったのです。
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また、今日の箇所では、イエス様が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と聖霊をお与えになっています。使徒言行録では、聖霊降臨は、イースターからさらに50日目の五旬祭(ペンテコステ)で起こった出来事として証言されています。しかし、主の復活を伝えたヨハネ福音書では、あえて、ここでイエス様が弟子たちの集まり、つまり教会に聖霊をお与えになったことを強調しているのです。また併せて、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される…」と罪の赦しの力を、教会にお委ねになっています。
「あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という後半もここにありますが、しかしながらこの「聖霊」と「罪の赦し」を教会に与えたというのは、教会を形成してゆく弟子たち自身がまず主イエス・キリストの復活に出会い、そしてイエス様の御体の十字架の傷を通じて、十字架の恵みに結び合わされて、罪を赦された者として立つことが教会の基礎とされているのです。パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(第一コリント12:3)と言っているように、聖霊の助けによって、主の十字架と復活による救いの出来事が、教会の語り伝えるべき唯一の福音(良い知らせ)とされ、私たちはこの世へと遣わされているのです。
イエス様ご自身も既に、弟子たちに、神の子であるご自身が天の父なる神様から与えられていた役割について、お語りになっていました。
「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネによる福音書6:39)
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さて、今日の新約聖書の箇所の後半部分には、“疑い深い”として有名なトマスが登場します。「わたしたちは主を見た」という証言を信じないで、「指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったことに対し、イエス様より「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたことにより、“疑い深いトマス”と称されるようになったのだと思います。しかし、トマスだけが、特段に不信仰であると、イエス様から叱られていると取る必要はありません。この箇所をよく見てみると、復活日にイエス様に出会った弟子たちは、再び家にこもって扉には鍵が掛けられていたのです。やはり当時の宗教指導者たちに怯えていたのでしょうか。それとも、イエス様が「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃった言葉にまだ応える時ではなかったのでしょうか。
しかし、ここに再び、復活された主イエスが、彼らの集いの中央に立ってくださいます。「あなたがたに平和があるように」と三度目におっしゃいました。まだ、恐れている彼らを受け入れ、彼らが罪を赦されて、主の平安の中にあることを再び示されたのです。そして、イエス様は、他の弟子たちと同様、トマスを責め立てることもなく、彼の求めを受け入れてご自身の十字架の傷に触れさせるのでした。その時に、「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」と彼を信仰へと導くのです。すると、トマスは信仰の告白によってイエス様に応答しました。
「わたしの主、わたしの神よ」(28節)
トマスは、一度は疑いましたが、イエス様に出会って、イエス様の十字架の恵みを知り、イエス様を救い主として受け入れたのです。イエス・キリストへの信仰によって、新しい命、永遠の命が与えられ、救いに入れられたのです。復活されたイエス様との出会いを1週間先取りした弟子たちの口にも、まだこのようなはっきりとした信仰の告白はありませんでした。しかし、彼らも主の復活を喜んだのです。救い主を喜び祝う教会である弟子たちの群れの中で、トマスは信仰へと至り、罪を赦され、永遠の命の恵みを頂くこととなったのです。主の十字架と復活を、私たちの罪の赦しと神様の平安の中にあるという救いの恵みを喜ぶという信仰の群れの中で、トマスは主に出会って、信じる者へと変えられたのです。
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「信じる者になりなさい」という招きは、今も教会を通じて生きて働いてくださっている主イエス・キリストによって、私たちに語り掛けられ、さらには教会で共に礼拝を献げておられる兄弟姉妹の皆様の歩みを通じて、すべての人に語り掛けられています。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」との主の言葉はトマスと共に、現代を生きる私たちにも語り掛けられています。トマスは、復活から1週間後にイエス様に出会いましたが、私たちは、主が復活されてから約2000年以上も後になって、主に出会ったのです。しかも、実際に肉眼で見たり、主の肉声を聞いたりした訳ではありませんが、聖霊なる神様の助けによって、しかもイエス様によって救われた教会の群れのキリスト者の数々の証言によって紡がれた信仰が、私たちを復活の主へと導いたのです。
ヨハネによる福音書では、イエス様が十字架へと向かわれる前、天の父なる神様にこのように祈っておられました。イエス様は弟子たちを「彼ら」と呼んでこのように祈られたのです。
「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。…わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネによる福音書17:19~21、23)
イエス様の弟子たちも、また弟子たちの言葉を信じて後に続く私たちも、神様からの同じ一つの愛、主の十字架と復活の愛へと招かれています。主の愛によって、罪を赦され、聖霊の助けによって、主を信じる教会の群れとして建て上げられています。そのような私たちの言葉を通じて、私たちの歩みを通じて、トマスのように、信じるようにと招かれているこの世の人々がいます。イエス様が十字架と復活の愛によって招かれている全ての人々が信仰へと至り、罪を赦されて、神様と共に生きる群れ、教会へと加えられ、そして永遠の命が与えられますように、祈り求めて行きたいと願います。
本日は読みませんでしたが、私たちの信じるべき言葉、そして教会としての使命が、20章の終わり31節にもはっきりと示されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」
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天の父なる神様、
新型肺炎の蔓延する中に、インターネット中継や電話中継で共に礼拝をお献げできることを感謝します。
鍵を掛けて隠れていた弟子たちの姿は、罪を負って苦しむ私たちの姿であることを示されました。しかし、そんな弟子たちにも「平和があるように」と三度も祝福して下さり、十字架の手と脇腹の傷を残されたまま復活されたことにより、十字架の痛みは罪の赦しの証であったことを知りました。
私たちも同じように神様からの御配慮をいただいていることを心から感謝いたします。イエス様の傷に触ってみなければ信じないと言ったトマスに会ってくださり、責めることなく、「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」と信仰へと導いて下さったように、信仰の弱い私たちをもお導き下さい。トマスのように永遠の命の約束を信じ、「わたしの主よ、わたしの神よ」と信仰告白をしつつ歩めますように聖霊の助けをお与え下さい。
新型肺炎の蔓延する中に病んでいる多くの方々を癒やし、愛する者を失った人々を慰めて下さい。すべての人々を守り、1日も早く終焉するように憐れんでください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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2020年4月12日復活日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:詩編149編1-9節、
マタイによる福音書28章1-20節
皆さん、イースター、主のご復活 おめでとうございます。
神の御子イエス様は、私たち人間の罪を赦すために、十字架に架けられて「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈りつつ、御自身の命を献げられ、そして、墓に葬られました。しかし、イエス様が弟子たちに予告されていたように、墓に葬られて3日目の朝、週の初めの日の明け方、すなわち日曜日の早朝に、復活なさったのです。
昨年暮れに、中国の武漢で発生した新型コロナウイルスが、3カ月の間に、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニア、アフリカと、あっと言う間に世界的に拡大してしまいました。昨日の朝日新聞の夕刊によると、「新型コロナウイルス感染者による死者が、日本時間11日現在、10万人を超えた。」と報じています。今、全世界がコロナウイルスの恐怖の中に置かれています。
日本も、新型コロナウイルス感染対策のために、先週、4月7日、国の緊急事態宣言が7つの都府県に発せられ、埼玉県もその対象の県となりました。
それで、私たち本庄教会も、すべての人々の命と私たちの命を守るために、主日礼を、ライブ中継を通して、同時に、各家庭で献げることになりました。
今回の新型コロナウイルスの世界的感染は、今から600年ほど前、1347年に中央アジアに発生したペスト病の発生・拡大感染に似ていると8日の新聞に報じられていました。その時も、ペストに対する何の防御の手立てもなく、あっと言う間にヨーロッパに広がり、5年間でヨーロッパの人口の3分の1が失われたそうです。
その紙面で、歴史小説作家の佐藤賢一氏は、次のように書いています。
「一説に人類は、どんな歴史の教訓も600年で忘れるという。あるいは知識として持ち得ても、現実味を覚えなくなるのかも知れないが、いずれにせよ、今の世界の無力が妙にうなずけてくる。この2020年は、1347年の大ペストから673年だからである。もう過去からは何も引き出せない。だから、うまく対処できない。仕方ないとしても、その報いは大きい。ことによると、世界を一変させてしまうくらい大きい。」と書いています。
私たちは、今朝、このような歴史的な事件に匹敵する新型コロナウイルス感染拡大の恐怖の最中に、2020年のイースターを迎えて、礼拝を献げているのです。
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私たちは、今朝、新型コロナウイルス感染と死の恐怖の中に置かれているからこそ、死の力に打ち勝って復活されたイエス様の出来事に、しっかりと目を向け、復活の主イエス様の御言葉に耳を傾けたいと願います。
受難週の金曜日の午後3時ごろ、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください」と祈りながら死なれました。そして、イエス様の弟子であったヨセフと言う人が、イエス様のご遺体を引き取ることをピラトに願い出て、岩を掘った新しい墓の中に納め、入り口に大きな石を転がして閉じました。それを見届けていたのが、「マグダラのマリアともう一人のマリア」でした。弟子たちについては、マタイ福音書は「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(26:56)と記しています。ヨハネ福音書は「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(20:19)と記しています。
一方、祭司長たちは、イエス様が「御自分は三日目に復活する」と言っていたから、弟子たちが来て、イエス様の死体を盗み出すかも知れないと言って、ピラトに番兵をつけるように願い出ました。そこで、イエス様の墓の石に封印がされ、番兵がつけられました。
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1節、「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」と記されています。
マリアたちが墓に行くと、大きな地震が起きました。すると墓の入口の石が転がっており、その石の上に天からの天使が座っていました。その稲妻のような輝きで、番兵たちは恐ろしさのあまり震えあがって死人のようになってしまいました。
天使は婦人たちに言いました。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、弟子たちにこのことを伝えるために急いで墓を去りました。すると、イエス様が行く手に立たれ、「おはよう」と言われたので、婦人たちはイエス様の足を抱き、御前にひれ伏しました。
するとイエス様御自身が言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
このようにしてイエス様は復活されて、マリアたちに会い、弟子たちにガリラヤに行くように伝言されたのです。
このところから、4つのことを聞き、考えたいと思います。
普通、人々は、人間の歩みは死んで墓に入ったら終わりと思っています。富める者も貧しい者も、愛情も憎しみも、真面目な生活もでたらめの生活も、全く同じように死んだら終わりです。
しかし、イエス・キリストを信じる者は、死んで墓に入ったら終わりではなく、イエス様の復活によって、天国で神様の御支配の中に生きる永遠の命にあずかることができるのです。墓は、キリストを信じる者には天国の入口にすぎないのです。
イエス様は言われています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書11:25~26) これは永遠の命の約束であります。
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番兵たちの報告を聞いて、祭司長と長老たちの指導者たちは、番兵たちに多額の金を与えて、イエス様の復活を否定する工作をしました。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」と言う噂を流させました。
どんな時代にも、このように都合の悪い事を隠蔽する工作がおこなわれるのですね! 最近、私たちは日本の政治の中でも、隠蔽工作を幾つも見て来ています。
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しかし、隠蔽工作にもかかわらず、あの情けない弟子たちは「ガリラヤに行くように」との伝言を聞いて、ガリラヤの山に行き復活のイエス様とお会いしました。イエス様にお会いしてひれ伏す弟子たちの中には、疑う者もいたのです。
ところが、イエス様はとがめもせずに、この11人の弟子たちに大宣教命令を与えられたのです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
あらゆる人々をイエス様の弟子にし、バプテスマを授け、イエス様の語られた御言葉を守るように教えることは、全てのキリスト者の群れ、即ち、教会に与えられた光栄ある使命であります。私たち本庄教会にも、この使命は託されているのです。
この使命に励む私たちに、イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束して下さっているのです。復活の主イエス様がいつも一緒にいて下さるということは、イエス様の御言葉に従って、親しい者や家族のため、隣人のために福音が伝えられるように祈り、励む者に与えられる祝福であります。
新型コロナウイルス感染の恐怖の中に在る私たちに、復活のイエス様は「恐れることはない。」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されているのです。この復活のイエス様の御臨在を信じて、互いに愛し合い、祈り合い、支え合って2020年も神の家族としての歩みを進めて行きましょう。
*
天の父なる神様、
今、私たちは新型コロナウイルスの世界的感染の恐怖の中に、イースター礼拝を献げています。お互いの命を守るために教会に集まることも自粛するような状態ですが、この時こそ、死の力に打ち勝たれたイエス様の御臨在を求めます。どうか世界の人々を憐れみください。どうか、新型コロナウイルスの感染から人々をお守りください。感染された人々を助け癒してください。また愛する者を失った人々をお慰めください。
本庄教会の礼拝につながる一人一人を守り、死にも勝利して復活されたイエス様の御臨在と、十字架の贖いによる私たちの救いの恵みを周りの方々に分かち合うことができるようにお導き下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン。
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*講壇のお花(#97)
2020年4月26日の聖書から
「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」
(聖書:ヨハネによる福音書)
21章4-6節
*講壇のお花(#96)
2020年4月19日の聖書から
「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」
(聖書:ヨハネによる福音書)
20章26-29節
*講壇のお花(#95)
2020年4月12日の聖書から
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れならがも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
(聖書:マタイによる福音書)
28章5-8節
*
**
新型肺炎が猛威を振るう中、教会の礼拝は、マスクを着用し、受付で手の消毒をした上で、守られています。一日も早い終息を心より祈ります。くれぐれもご自愛くださいますように。
在 主
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2020年3月15日
礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:ヨシュア記24章14-24節、
ヨハネによる福音書6章60-71節
今日は、受難節第3週を迎えての礼拝で礼拝後、2019年度臨時教会総会を迎えます。本庄教会の2020年度の歩みの協議を前に、主の御言葉に聞きたいと願います。
神様が本庄教会に私たちを遣わされて、3年が経ちます。皆様にとって、この3年間はどのような3年間だったのでしょうか。私は、この3年間、神様が私たちを本庄教会に遣わされた目的は何なのだろうかと問いつつ、御言葉に聞いてきました。
教会が建てられているという事は、第1に、そこに生ける神様と復活のイエス様のおられることを証する礼拝を献げると言うことが、遣わされた者の任務であります。
イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と約束されています。そのイエス様の御臨在を証しするのが遣わされた者の第一の務めであります。この任務がどれだけできたのだろうかと問われます。
教会が建てられているという事は、第2にそこに生けるキリストの体としての群れがどれだけ活き活きとして造り上げられているかであります。
4年目から、一人一人が「キリストの体」としてどう生かされ、連なり、主体的に神様の御業に用いられるのか、お互いの歩みを主にあって受け止め合うことができるようにと願っています。その意味で「伝道協議会」を重ねて、皆で話し合って皆でできることを進める歩みをしたいと願います。
*
今日のヨハネによる福音書6章60節からの出来事は、イエス様が会堂で教えられた話を聞いた弟子たちが「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか。」と言って、多くの者がイエス様から離れて行った話です。
弟子たちが「実にひどい話だ」と言った話は、53節~58節です。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
私が伝道者としての生涯を献げようとして決心して神学校に入ろうとした時、当時、所属していた中渋谷教会の山本茂男牧師は、「疋田君、神学校入る前に、是非、明治学院大学に行って学んでほしい。そこは明治初期のキリスト教信仰の宝庫のような学校だから。」と言われて明治学院大学に入学しました。
ある時、明治初期のキリスト教に関する文献を読んでいた時、国のスパイがキリスト信徒の中に入り込んで、〝この宗教は人の肉を食らい、人の血を飲むひどい宗教だから警戒すべきである。〟と報告していたという記事がありました。
恐らく、今でも、今日の個所を初めて読むと、意味の分からない人は、ひどい話だと思うでしょう。イエス様がこのお話をされたのは、カファルナウムの会堂です。そこはユダヤ人たちが集まって礼拝をする場所で、そのユダヤ人たちが信じて守っていた律法には、血を飲むことは禁じられていました。
「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(創世記9:4)
「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。」(レビ記17:10~11)
イエス様が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と言われたことは、ユダヤ人が大切に守っていた律法の教えに反することで、「実にひどい話だ。だれが、こんなひどい話を聞いていられようか。」と言って、ユダヤ人たちがつまずいて離れて行ってしまうのも無理がないのです。ユダヤ人だけでなく、イエス様に従っていた弟子たちの多くの者も離れて行ったのです。今でも、ユダヤ人は血抜きの肉しか食べません。
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イエス様は弟子たちのつぶやきを聞かれて言われました。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・。命を与えるのは、〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」(61~64節)
人の子であるイエス様が、もといた所である父なる神様のもと(天)に上った後、人々は現実にイエス様の肉を食べ、血を飲むと言うことはあり得ないことです。イエス様の語られた御言葉は現実の体ではなく、霊的に理解されなければならないのです。だから「命を与えるのは〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言われたのです。
このことは、6章の初めから展開される五千人に給食の奇跡の出来事、「わたしは命のパンである」と言って人々の罪を赦すために十字架に御自身の命を献げられた出来事についての対話、そしてユダヤ人に対して論争した命のパンの意味・聖餐の意味にも言えるのです。
この出来事の霊的な意味は、聖霊のお導きをいただかなくては理解できないのです。
22~40節までは、五千人の給食の奇跡の場所から、イエス様を捜して追いかけて来たガリラヤの人々がカファルナウムでイエス様と再会し、イエス様と「イエスは命のパン」について対話しています。
ガリラヤ人:25節「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか。」
イエス様:26~27節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
ガリラヤ人:28節「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」
イエス様:29節「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
私たちは「神の業」と言うと何か特別なことのように思いがちですが、神様がお遣わしになった者・神の御子イエス様を救い主・キリストと信じることなのです。イエス・キリストを信じると、私たちはイエス様の御言葉と御心に支配されて、神様の御心に叶った歩みができるのです。
ガリラヤ人:30節「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」
イエス様:32~32節「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
ガリラヤ人:34節「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」
イエス様:35、38~40節「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない…わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
私たちの人生には平坦な道のりだけではありません。山あり、谷ありで、病気の苦しみや災害による災いや、人間関係による苦しみ悲しみがたくさんあります。しかし、どんな時でも、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されているイエス・キリストを信じて歩むなら、決して飢えることもなく、渇くこともないのです。喜びを見出し、感謝することができるのです。神様の御心は、信ずる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることであります。
「永遠の命」というのは、地上の肉体の命が何時までも死なないことではありません。私たちは皆、神様から与えられた地上の命を終えて、やがて神様にお返しする死があるのです。でも、私たちの命は地上を去っても造り主である神様のもとに帰って存在するのです。地上にいる時も、地上を去っても造り主である神様に覚えられて存在する命、それを永遠の命と言います。その永遠の命は、イエス・キリストを信じる者に与えられる命です。
ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしは天から降って来たパンである。」と言われたので、つぶやいて、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と言いました。(41~59節)
イエス様は、ユダヤ人たちに次のように言っています(51節)。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
イエス様は、神様に背いて生きてきた人間の罪を赦すために、十字架のうえで、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、御自身の命を犠牲として献げられたのです。イエス様の十字架の祈りと死は私自身の罪の赦しのためであったと信じて、パンと杯の聖餐にあずかる世の人々は永遠の命を得るのです。
*
弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエス様と共に歩まなくなったので、イエス様は、12人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。
すると、ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と信仰を告白しました。
しかし、イエス様は、「あなたがた12人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と言われました。イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであるとあります。イエス様を裏切ろうとしていたユダのことをお見通しだったのです。
私が東京神学大学を卒業して、東京の柿ノ木坂教会の伝道師として遣わされた時、高校生の担当をしました。一人の女子高校生が、「ユダは救われないのですか。裏切る役割を与えられたユダが救われないのだったら、私は洗礼を受けません。」と言われたことが今も忘れることはできません。
ユダはイエス様を裏切りました。しかし、ペトロもカイアファの庭で、イエス様を知らないと3回も否み、他の弟子たちも皆イエス様を見捨てて逃げ去ったと聖書は明言しています(マタイ26:75、56)。イエス様を裏切り、背いたことは、12弟子の皆も同じだったのです。
その違いは何かと言いますと、ユダは自分のやったことの責任を取って首をつって死んでしまったのです(マタイ27:5)。他の弟子たちは、逃げて隠れていたのです。そこに復活されたイエス様が訪ね、また、ガリラヤの山でお会いし、御言葉を下さって、弟子たちを励まし、御業のために立てたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19~20)と命じ、約束されたのです。
今日の私たちも、12弟子と何ら変わらない、欠け多き弱き者であります。どれだけイエス様を裏切り、悲しませて来たことでしょうか。幸い、私たちは神の家族の一員とされて、愛する良き兄弟姉妹を与えられ、兄弟姉妹の祈りと励ましによって、復活のイエス様のおられる主の日の礼拝に立ち帰ってくることができています。
主の弟子の大切な本質は、どんな時も、どんなことがあっても、復活のイエス様のおられる礼拝に立ち帰ることができることです。
モーセに代わってイスラエルの民を導いたヨシュアに民たちは「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」と誓ってシケム契約を結んでいます。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と告白しています。しかし、どんなに誓約し、立派な告白をしても、私たちは自らの誓いや告白に背くような状態にしばしば陥ってしまう弱い存在です。
日本人は昔から、背いたり、失敗したら切腹などと死ぬことが責任を取って潔いように見てきましたが、聖書の教えは違うのです。
人間の命を祝福して造られた神様の御心は、悔い改めて、神様の御前に立ち帰って生きることなのです。それで、私たちは主日毎に、生ける復活の主・イエス様の御前に立ち帰って、悔い改めて、「あなたが永遠の命を持っておられます」とイエス様の御言葉と祝福をいただいて立ち上がり、生きるのです。それゆえに神様に感謝し、喜んで従い、御業に仕える歩みができるのです。
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父なる神様、
本庄教会の2019年度の歩みを導き、守って下さり心より感謝いたします。
新しい2020年度に備えて臨時教会総会を礼拝後、開催いたしますがお導き下さい。新年度も主の日の礼拝を守り、本庄教会の一人一人が「キリストの体」として、活き活きと歩むことができるようにお導き下さい。
背いた弟子たちの姿は私たちの姿でもあります。どうか、弱い私たちが絶えず、主日礼拝毎に御前に立ち帰って、悔い改めて、立ち上がり、神様と共に歩むことができるように憐れみ導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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2月26日からイエス様の受難と十字架の恵みを覚える受難節に入りました。4月12日の復活主日まで日曜日の講壇のお花はありませんので、聖書箇所のみ更新いたします。
3/29の聖書から
「『はっきり言っておく。一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。』」
(聖書:ヨハネによる福音書)
12章24-26節
3/22の聖書から
「『主よ、あなたはわたしの灯を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。…』」
(聖書:詩編)
18編29節
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。―光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです…そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」
(聖書:エフェソの信徒への手紙)
5章8-9、20節
3/15の聖書から
「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」
(聖書:ヨハネによる福音書)
6章68-69節
3/8の聖書から
「イエスはこれを知って言われた。『なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ…この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。』」
(聖書:マタイによる福音書)
26章10,12-13節
3/1の聖書から
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」
(聖書:ヘブライ人への手紙)
4章14-16節
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説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:イザヤ書26章12-13節、
ルカによる福音書2章8-20節
聖書箇所:イザヤ書9章5-6節、
マタイによる福音書2章1~12節
聖書箇所:詩編147編1-11節、
ルカによる福音書1章26~38節
聖書箇所:マラキ書3章19-24節、
ルカによる福音書1章5~25節
聖書箇所:レビ記11章1〜8節、
マルコによる福音書5章1~20節
聖書箇所:ネヘミヤ記3章33-38節、
マルコによる福音書1章21~28節
聖書箇所:エゼキエル書18章25-32節、
ヨハネによる福音書9章1~12節
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:詩編23章1〜6節、
ヨハネによる福音書14章1~7節
聖書箇所:出エジプト記15章22-27節、
コリントの信徒への手紙一10章14~22節
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:詩編8章2〜10節、
エフェソの信徒への手紙1章15~23節
聖書箇所:イザヤ書61章1〜2節、
ルカによる福音書4章16~22節
聖書箇所:ホセア書6章1-3節、
コリントの信徒への手紙一15章9~15節
聖書箇所:申命記8章2-10節、
ローマの信徒への手紙8章26~30節
聖書箇所:サムエル記上3章1~10節、
ヨハネによる手紙一4章7~12節
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:エレミヤ書31章1〜14節、
ルカによる福音書15章11~32節
聖書箇所:詩編23章1~6節、
ヨハネによる福音書15章9~15節
説教者:疋田勝子 牧師
聖書箇所:創世記27章28〜36節、
マタイによる福音書5章4節
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:詩編51編8〜14節、
マタイによる福音書5章6節
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:イザヤ書26章1〜13節、
マタイによる福音書5章9節
聖書箇所:創世記12章1〜4節、
ローマの信徒への手紙12章9〜21節
聖書箇所:詩編51編3〜4節、
マルコによる福音書2章1〜12節
聖書箇所:創世記1章27〜28節、
ローマの信徒への手紙12章3-8節
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日本キリスト教団本庄教会
〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1 TEL 0495 (22) 2785
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埼玉地区交換講壇のメッセージを掲載しました。
栗原先生は、ご多用中にも拘わらず、中2日で原稿を送ってくださり、感謝でした。
在 主
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*講壇のお花(#94)
2020年2月23日聖書
マルコによる福音書9章24節が掲載されていました。
*講壇のお花(#93)
2020年2月16日聖書
マタイによる福音書4章18-20節が掲載されていました。
*講壇のお花(#92)
2020年2月9日聖書
創世記32章25-29節と、テトスへの手紙2章13-14節が掲載されていました。
説教者:栗原清 牧師*
*埼玉地区講壇交換として武蔵豊岡教会から栗原清先生をお招きし説教をして頂きました。感謝いたします。
*講壇のお花(#91)
2020年2月2日聖書
ヘブライ人への手紙3章3-6節が掲載されていました。
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