月報『マラナタ』17号巻頭言(2)

説教:
かわひとびとは、さいわいである』

2019年8月11日の説教から

せっきょうしゃひきよし 牧師ぼくし
せいしょしょへん51ぺん8〜14せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう6せつ

19.8.maranatha 義也牧師

1、悲しみの歴史を繰り返さないために

 先週は、平和聖日の礼拝をお捧げしました。8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下を覚えて、また8月15日には終戦(又は、敗戦記念日)であることを覚えて、再びその悲しみの歴史を繰り返さないように祈りました。

 そのためにも、本日の礼拝の中では、関東教区が作成した、戦時中の日本基督教団のキリスト者が犯した過ちについて覚えて、関東教区「日本基督教団罪責告白」を共に告白いたしました。

 十字架を通してキリストの平和を与えられている私たちは、その恵みによって平和を祈り願い、神の御力によって造りだす、キリストに遣わされる使者とされていることを共に覚えたいと思います。

2、山上の説教・幸いシリーズ

 さて、先日の平和聖日には、疋田國磨呂牧師から、マタイによる福音書5章のイエス様が山上でなさった説教の「幸い」の箇所(5:3~12)の中の、9節の「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」についての御言葉に聞き、共にその恵みを頂きました。

 今回は、少し前に戻って、6節、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」の御言葉に共に聞きたいと思います。来週は、引き続き、4節「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」によって疋田勝子牧師が御言葉を取り次ぎますので、来週もぜひ期待して、礼拝に集っていただければと思います。

 本日与えられているマタイによる福音書5章6節は、イエス様が山上でなさった説教です。マタイ4章では、イエス様がガリラヤ湖でペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネという4人の漁師を弟子にお招きになり、彼らと一緒にガリラヤ地方を巡りながら、各地の会堂で神様の国である天国の恵みが到来したと、人々にお告げになり、病気や悪霊に苦しみ悩む人々を癒し、また解放してくださったことが語り伝えられています。そして、その評判がシリア一帯に広まり、各地から人々がイエス様を求めてやってきたのです。大勢の群衆を御覧になって、イエス様は彼らに語るために、山に上り、大勢の人に説教をお話しになりました。

 新共同訳聖書には見出しがついていますが、5章3節から12節には「幸い」という見出しがついています。実は、英語圏ではここの箇所には特別な名前があり、the Beatitudes(ザ・ビアティテューズ)と呼ばれています。難しい単語ですが、「最高の祝福」を意味するラテン語から来ているとのことです。

 つまり「幸いである」…というのは、その幸いが神様から頂いたもの、「神様がその最高の祝福を下さったのだ」という信仰に立って、受け取られるべき言葉なのです。ですから、英語訳の聖書では、「幸いである」となっている箇所を全て、 「Blessed(祝福されている)」と受身形で翻訳しているのです。ですから本日の聖書箇所である5章6節の「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」というのは、つまり、「義に飢え渇く人々は、祝福されている、その人たちは満たされる」とも言えるのです。

3、神の義について

「義」に対して、「飢え渇いている」とはどういうことなのでしょうか。

 「義」と言うと、世間では、道徳的・倫理的な正しさ、裁きの公平性ということが連想されると思います。また「正義」ということで理解される場合、「何が正義で、何がその正しさの基準となるか」は人それぞれです。むしろ、お互いの思い描いている正義がぶつかり合って、争いが起こり、巻き込まれた人々が理不尽にも傷つけられ、虐げられてしまっているのが現状ではないでしょうか。

 これらに対して、ここでイエス様がお語りになっている義というのは、これらの倫理や裁きといったこととは全く無関係ではありませんが、実は旧約聖書の時代から既にある「義」、つまり「神の義」という、具体的なことを、お語りになっているのです。これまでも、説教の中で触れさせていただいたことがありましたが、「神の義」というのは、神様から与えられた掟、十戒を中心とする律法が人に求めていることを行うことです。何が義なのかというのは、この律法が物差しであり、判断基準となってきたのです。

 しかし、旧約聖書の時代のこの律法による「義」というものは、神様が人にただ命じて従わせるというだけの一方的なものではありません。ここには、大切な前提があります。その前提は、出エジプト記や申命記に記されている「十戒」の言葉に出てきます。出エジプト記20章2節。十戒の第一戒の前書きのようにして伝えられている箇所ですが、こうあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

 また、5節以降には、こうもあります。
「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」

 つまり、イスラエルという具体的な民族と、主なる神様との間において、神様はイスラエルがエジプトで奴隷とされ苦しんでいた時、彼らをその苦役から救い出し、彼らの主、彼らの神となってくださったのです。

 救い主であられる神様との関係性の中で、救われた彼らは、主なる神様の掟を重んじ、従う中で、神様から祝福を受けます。また、反対に、掟に逆らうのであれば、神様の祝福を受けられず、不幸となるというのです。

 この救い主と救われた者たちとの関係の中で示されるのが、神の義なのです。その関係が崩れそうになるときには、主は裁きと懲らしめをもって、彼らを導き、正しい義の関係へと引き戻そうとされるのでした。そして、主の掟に背いてしまった罪を赦して頂いて関係性を修復する為に、主なる神様は律法を通じてエルサレムの神殿で、日ごとに動物の犠牲を献げるように定めていたのです。出エジプト記29章42節以降にはこうあります。

 「これは代々にわたって、臨在の幕屋(つまり神様がおられる場所)の入り口で主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う。そこは、わたしの栄光によって聖別される。わたしは臨在の幕屋と祭壇を聖別し、またアロンとその子らをわたしに仕える祭司として聖別する。また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。」と、繰り返し、神様が彼らの神となったことを強調し、そのことを理解し、味わわせるための礼拝が、イスラエルの民の生活の中心として定められていたのです。

 この意味では、「義」というのは、本来あるべき、神様と人との信頼関係であるとも、言えます。

 ある牧師は、この神様との義の関係を糸電話にたとえていました。糸電話とは二つの紙コップの様なものの底を糸で繋いだものです。もし、この二つのコップを結ぶ糸がたるんでいたら、声は反対側に届きません。同じように、神様の声を聞いて、神様の御心を知れるようになるためには、この神様と私たちの間の義の関係がたるんでいてはなりません。義の関係が真っすぐに張っていてこそ、私たちは、神様と向き合い、神様に従って歩むことができるのです。

 このように、旧約聖書においては、この神の義が、神様からの一方的な恵みとして与えられ、イスラエルは神様との祝福の関係の中に生かされていたことが分かります。申命記7章7節以下にも、イスラエルについて、はっきりと言われています。

 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを...」と言われているのです。イスラエルは義であられる神様によって絶えず、救われ、助けられてきたのです。

 これまでは、イスラエルを救い出し、彼らに律法を与え、神様との義の関係の中に置いて、彼らを導き、生かしてくださった神様のお話をしてきました。しかし、それでは、今日を生きる私たちにとって、その「神の義」はどのような意味を持つのか、ということになると思います。実は、旧約聖書に語り伝えられるイスラエルの歴史を見ていくと、律法によって導かれてきた神様との祝福の関係が、崩れていく様子が語られています。それは、ひとえに人間が神様を信頼できず、従いきれない、人の罪によって生じた不従順によるものでした。いつの間にか、律法が求めている「神の義」というものが、自分たちの力で成し遂げるもの、自分たちの力で満たす目標のように掲げられていきます。いつの間にか、自分たちで何が正しくて、何が義であるかを見分けることが出来るかのような、驕りが生じたのでした。

4、義に飢え渇くとは

 しかし、本日の6節の箇所は、それとは異なる、神様の恵みの真理を、私たちに示しているのです。「義に飢え渇くものは」とあります。ここでは「義を行うものは」とは言われていないのです。「飢え渇く」と言われているのです。しかも、「義に飢え渇く人々が…」神様によって「満たされる」ということが言われているのです。
 
 先週の國磨呂牧師の説教の中で、「平和を実現する」、「平和を造る」ということは、私たちの力で成し遂げられることではなく、神様の救いの力によって与えられる平和、しかも主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みによって成し遂げられる平和だと言われていました。ここでも、同様のことが言えます。古くは、旧約聖書において、十戒や律法を通じてイスラエルと主なる神様の間で保たれてきた義の関係が、今ではイエス様の十字架の贖いを通じて、イスラエル民族とは直接関係のない、異邦人のわたしたちにも、差し出されているのです。旧約のイスラエルの民は、律法を通じて、神の義を与えられてきましたが、わたしたちはイエス様を通じて神の義、つまり神様との本来あるべき、祝福された関係に加えて頂けるのです。

 「飢え渇く」というのは、わたしたちに足りないものを、必死に、神様に求めているということです。本日読まれた旧約聖書の詩編51編の言葉は、神様の前に自らの罪を悔い改め、神様に祈り願っています。

 「神よ、わたしを憐れんでください。…あなたに背いたことをわたしは知っています。…あなたの裁きに誤りはありません。…あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように…神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」

 わたしたちの救いの為に、イエス様が十字架に掛かってくださったことを信じ、その恵みを告白し、洗礼を受けたわたしたち一人一人は、イエス様の十字架の血によって罪を洗い清めて頂いた、その恵みを、身を持って体験していると思います。また、これから洗礼を受けられる方々も、イエス様が命をもって与えられている、神の義によって、罪を清め、新しく神様に信頼して歩む道を、神様が確かに備えていてくださっています。

5、義を満たしてくださるイエス様

 さて、「義」という話になると、どうしても「罪が清められる」、「清められる」という点だけが強調されてゆきますが。しかし、今日の箇所では、「義」を乞い求める人々を、神様が「満たされる」ということです。確かに、神様の掟である律法が人に求めている義務や要求を、イエス様が私たちに「代わって満たして下さった」ことが「義」であると、一つは言えるかもしれません。しかし、私たち自身の体も、魂も、その存在自体も、神様はしっかりと満たして下さいます。しかも適当な粗悪なもので満たすのではなくて、魂に命を与える良いもので満たしてくださるのです。

 義に飢え渇いている私たち。それは、言い換えるならば、神様の存在を見失って、希望を失っていた私たちです。スカスカに乾ききったスポンジが、水をぐっと吸い上げて満たされて、ふわっと膨らんでいくかのように、罪の暗闇と痛みと破れの中にあった私たちが、そこに寄り添い救い出してくださるイエス様によって、命の水を頂いて、永遠の命の希望を与えられるのです。イエス様の恵みを喜ぶ私たちの中から、恵みは溢れ出て、わたしたちは、地の塩、世の光として、自然とその恵みを家族へ友人へと証し、伝える歩みへと押し出されて行くのです。

 言葉で直接伝えられなかったとしても、この場所にも神様が共に居てくださるということを聖霊なる神様の導きのもとに信じて歩んだ時に、既にその場所には神様が共にいて、神様の愛と恵みで満たして下さっています。

 今日のこの「幸い」の箇所の5章10節にはこうあります。
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」

 「義」と「天国(神の国)」とは深い繋がりがあります。なぜなら、天国(神の国)にこそ神様がおられ、そしてその場所を正しく裁いてくださるからです。或いは、真の義によってその場所を治め導いて下さる神様が、私たちと共に宿って、臨在してくださるからこそ、私たちは召される前から天国(神の国)の恵みを先取りするかたちで、礼拝で、聖餐式で、また交わりを通じて、この地上にあって神様の国を、味わうことを許されています。しかし、それは現状として悩みが全くないということでもないのです。むしろ、周囲からの無理解もあれば、試練もあり、悲しみもあります。しかし、その先に、イエス様が再び来られる時に、全てを満たしてくださる神様の愛があることを信じたいと思います。

 私たちには、喜びもあれば、悲しみもあり、満たされる時もあれば、不足の中で苦しむときもあります。しかし、全てにおいて、その先に主がおられ、現在進行形で、「わたしたちの罪を赦して義としてくださり」、「満たしてくださっている」主がおられることを信頼し、歩んでいきたいと願います。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)とイエス様は私たちに語り掛けられます。憂いの中で、神様を見失いそうになるとき、“主よ、どうか私の内に、また私たちのただ中に来てください、そして全てを治め導いてください。”と謙虚な思いで祈り願いつつ、神様を私たちの心にお迎えいたしましょう。

 祈り 

天の父なる神様、
 今日はイエス様の「義に飢え渇く人々は幸いである、彼らは満たされる」という御言葉から共に聞きました。大切な御子イエス・キリストを十字架へと遣わしてくださり、イエス様の贖いの恵みによって、私たちは、いついかなる時も、神様によって義とされ、神様との祝福の関係の中に置かれていることに感謝します。
 これまで、罪の力によって、霊的に渇き、満ち足りることを知らず、希望を持っていなかった私たちを、イエス様は十字架の義と、永遠の命の希望で満たし、様々な不安と不満の中にある私たちを解き放ってくださいました。この恵みを覚えて、今週も歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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