ゴ・サンソプ牧師による講義(YouTube動画)

*教会の住所*地図
〒367-0044 埼玉県
本庄ほんじょう見福けんぷく 3-4-1
電話:0495 (22)2785

緊急事態宣言が延長となり、8月29日の礼拝後に予定されていた本庄教会・伝道協議会が中止となりました。そこで、協議会で視聴予定であったYouTube講義動画をこちらのページで視聴できるようにいたしました。48分の動画です。

◇「小グループの分かち合いで成長する共同体」

講師:ゴ・サンソプ牧師(韓国・グサラン教会 主任牧師)
通訳:武井俊考牧師(水戸第一聖書バプテスト教会 主任牧師)
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※2021年5月10~12日に聖書キリスト教会・グレイスホーム(千葉県松戸市)で行われた弟子訓練コンベンションからの講義動画です。

※動画は枠内の赤く反転する再生ボタン(▶)をクリックすると始まります。48分間の動画です。
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※こちらのYouTube動画は、聖書キリスト教会・グレイスホームのYouTubeチャンネルに掲載されているものを、許可を頂いて転載させていただいたものです。
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※動画の停止時や、動画視聴を終えた後に「その他の動画」等として推薦され表示される動画は、本庄教会や聖書キリスト教会・グレイスホームとは関係ありません。YouTubeが表示させているものです。ご了承ください。

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日本キリスト教団本庄教会
〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1
TEL 0495(22)2785


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2021年3月の生花

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講壇こうだんのお花(#144)

2021年3月21日の聖書せいしょから

「するとあるじょちゅうが、ペトロがたきらされてわっているのをにして、じっとつめ、『このひといっしょにいました』とった。しかし、ペトロはそれをして、『わたしはあのひとらない』とった。…ペトロは、『あなたのうことはからない』とった。まだこうわらないうちに、とつぜんにわとりいた。しゅいてペトロをつめられた。ペトロは、『きょにわとりまえに、あなたはさんわたしをらないとうだろう』とわれたしゅわれたしゅことおもした。そしてそとて、はげしくいた。」

(せいしょ:ルカによるふくいんしょ)
22しょう56-57せつ, 60-62せついち

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講壇こうだんのお花(#143)

2021年3月14日の聖書せいしょから

ひとおんなが、じゅんすいじょうこうなナルドのこうはいったせっこうつぼってて、それをこわし、こうをイエスのあたまそそぎかけた。…イエスはわれた。『するままにさせておきなさい。なぜ、このひとまらせるのか。わたしにいことをしてくれたのだ。…このひとはできるかぎりのことをした。つまり、まえもってわたしのからだこうそそぎ、まいそうじゅんをしてくれた。』」

(せいしょ:マルコによるふくいんしょ)
14しょう3せつ,6せつ,8せついち

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講壇こうだんのお花(#142)

2021年3月7日の聖書せいしょから

「それで、イエスはかみまえにおいてあわれみふかい、ちゅうじつだいさいとなって、たみつみつぐなうために、すべてのてんきょうだいたちとおなじようにならねばならなかったのです。じつしんれんけてくるしまれたからこそ、れんけているひとたちをたすけることがおできになるのです。」

(せいしょ:ヘブライじんへのがみ)
2しょう17-18せつ

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TEL 0495(22)2785


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聖書日課朗読

2021.4.2 聖書日課

せいしょしょそうせい22しょう1~18せつ


マルコによるふくいんしょ15しょう21~41せつとおいの


2021.3.31~4.1 聖書日課

せいしょしょ:イザヤしょ63しょう1~10せつしゅつエジプト13しょう3~10せつ


ヨハネによるふくいんしょ15しょう1~17せつ・15しょう18~27せつとおいの


2021.3.30聖書日課

せいしょしょ:エレミヤしょ11しょう18~20せつ


ヨハネによるふくいんしょ14しょう15~31せつとおいの


2021.3.29聖書日課

せいしょしょ:イザヤしょ5しょう1~7せつ


ヨハネによるふくいんしょ14しょう1~14せつとおいの


2021.3.27聖書日課

せいしょしょ:サムエル24しょう15~25せつ


ヘブライじんへのがみ13しょう1~21せつとおいの


2021.3.26聖書日課

せいしょしょ:サムエル24しょう1~14せつ


ヘブライじんへのがみ12しょう14~29せつとおいの


2021.3.24と25聖書日課

せいしょしょ:サムエル23しょう1~7せつ・23しょう8~23せつ


ヘブライじんへのがみ11しょう32~40せつ・12しょう1~13せつとおいの


2021.3.23聖書日課

せいしょしょ:サムエル19しょう32~44せつ


ヘブライじんへのがみ11しょう23~31せつとおいの


2021.3.22聖書日課

せいしょしょ:サムエル19しょう16~31せつ


ヘブライじんへのがみ11しょう13~22せつとおいの


2021.3.20聖書日課

せいしょしょ:サムエル19しょう2~15せつ


ヘブライじんへのがみ11しょう1~12せつとおいの


2021.3.19聖書日課

せいしょしょ:サムエル18しょう19せつ~19しょう1せつ


ヘブライじんへのがみ10しょう19~39せつとおいの


2021.3.18聖書日課

せいしょしょ:サムエル18しょう1~18せつ


ヘブライじんへのがみ10しょう1-18せつとおいの


2021.3.17聖書日課

せいしょしょ:サムエル17しょう15~23せつ


ヘブライじんへのがみ9しょう15-28せつとおいの


2021.3.16聖書日課

せいしょしょ:サムエル17しょう1~14せつ


ヘブライじんへのがみ9しょう1-14せつとおいの


2021.3.15聖書日課

せいしょしょ:サムエル16しょう1~14せつ


ヘブライじんへのがみ8しょう1-13せつとおいの


2021.3.13聖書日課

せいしょしょ:サムエル15しょう17~37せつ


ヘブライじんへのがみ7しょう11-28せつとおいの


2021.3.12聖書日課

せいしょしょ:サムエル15しょう1~16せつ


ヘブライじんへのがみ7しょう1-10せつとおいの


2021.3.11聖書日課

せいしょしょ:サムエル12しょう15b~25せつ


ヘブライじんへのがみ6しょう9-20せつとおいの


2021.3.10聖書日課

せいしょしょ:サムエル12しょう1~15aせつ


ヘブライじんへのがみ5しょう11-6しょう8せつとお祈り


2021.3.9聖書日課

せいしょしょ:サムエル11しょう18~27せつ


ヘブライじんへのがみ5しょう1-10せつとお祈り


2021.3.8聖書日課

せいしょしょ:サムエル11しょう1~17せつ


ヘブライじんへのがみ4しょう12-16せつとお祈り


2021.3.6聖書日課

ヘブライじんへのがみ4しょう1-11せつとお祈り


2021.3.5聖書日課

せいしょしょ:サムエル7しょう18~29せつ


ヘブライじんへのがみ3しょう7-19せつとお祈り


2021.3.4聖書日課

せいしょしょ:サムエル7しょう1~13せつ


ヘブライじんへのがみ3しょう1-6せつとお祈り


2021.3.3聖書日課

せいしょしょ:サムエル6しょう1~19せつ


ヘブライじんへのがみ2しょう10-18せつとお祈り


2021.3.2聖書日課

せいしょしょ:サムエル5しょう1~25せつ


ヘブライじんへのがみ2しょう1-9せつとお祈り


2021.3.1聖書日課

せいしょしょ:サムエルじょう2しょう1~11せつ


ヘブライじんへのがみ1しょう1-14せつとお祈り


2021.2.27聖書日課

せいしょしょ:サムエル1しょう1~27せつ


マタイによるふくいんしょ22しょう1-14せつとお祈り


2021.2.26聖書日課

せいしょしょ:サムエルじょう31しょう1~13せつ


マタイによるふくいんしょ21しょう33-46せつとお祈り


2021.2.25聖書日課

せいしょしょ:サムエルじょう24しょう1~23せつ


マタイによるふくいんしょ21しょう18-32せつとお祈り


2021.2.24聖書日課

せいしょしょ:サムエルじょう20しょう24b~42せつ


マタイによるふくいんしょ21しょう12-17せつとお祈り


2021.2.23聖書日課

せいしょしょ:サムエルじょう20しょう1~24aせつ


マタイによるふくいんしょ21しょう1-11せつとお祈り


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2021年2月の生花

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講壇こうだんのお花(#141)

2021年2月28日の聖書せいしょから

「『わたしのいえは、いのりのいえばれるべきである。…』」

(せいしょ:マタイによるふくいんしょ)
21しょう13せついち

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講壇こうだんのお花(#140)

2021年2月21日の聖書せいしょから

「また、だれもあたらしいぶどうしゅふるかわぶくろれたりはしない。そんなことをすれば、ぶどうしゅかわぶくろもだめになる。あたらしいぶどうしゅは、あたらしいかわぶくろれるものだ。

(せいしょ:マルコによるふくいんしょ)
2しょう22せつ

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講壇こうだんのお花(#139)

2021年2月14日の聖書せいしょから

かなしむひとびとは、さいわいである、そのひとたちはなぐさめられる。」

(せいしょ:マタイによるふくいんしょ)
5しょう4せつ

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講壇こうだんのお花(#138)

2021年2月7日の聖書せいしょから

かみは、わたしたちがおこなったわざによってではなく、ぶんあわれみによって、わたしたちをすくってくださいました。このすくいは、せいれいによってあたらしくまれさせ、あらたにつくりかえるあらいをとおしてじつげんしたのです。かみは、わたしたちのすくぬしイエス・キリストをとおして、このせいれいをわたしたちにゆたかにそそいでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストのめぐみによってとされ、ぼうどおりえいえんいのちものとされたのです。」

(せいしょ:テトスへのがみ)
3しょう5-7せつ

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2021年1月の生花

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講壇こうだんのお花(#137)

2021年1月31日の聖書せいしょから

ひかりなかにあるせいなるものたちのそうぞくぶんに、あなたがたがあずかれるようにしてくださったおんちちかんしゃするように。おんちちは、わたしたちをやみちからからすくして、そのあいするはいうつしてくださいました。わたしたちは、このによって、あがない、すなわちつみゆるしをているのです。」

(せいしょ:コロサイのしんへのがみ)
1しょう12-14せつ

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講壇こうだんのお花(#136)

2021年1月24日の聖書せいしょから

ことつたえなさい。おりくてもわるくてもはげみなさい。とがめ、いましめ、はげましなさい。にんたいつよく、じゅうぶんおしえるのです。」

(せいしょ:テモテへのがみ)
4しょう2せつ

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講壇こうだんのお花(#135)

2021年1月17日の聖書せいしょから

「すると、イエスはわれた。『どうしてわたしをさがしたのですか。わたしがぶんちちいえ*にいるのはたりまえだということを、らなかったのですか。』」

*ここでの「父の家」は神様を礼拝する場所=神殿を指します。

(せいしょ:ルカによるふくいんしょ)
2しょう49せつ

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講壇こうだんのお花(#134)

2021年1月10日の聖書せいしょから

「わたしたちは、いつもあなたがたのためにいのり、わたしたちのしゅイエス・キリストのちちであるかみかんしゃしています。あなたがたがキリスト・イエスにおいてっているしんこうと、すべてのせいなるものたちにたいしていだいているあいについて、いたからです。それは、あなたがたのためにてんたくわえられているぼうもとづくものであり、あなたがたはすでにこのぼうを、ふくいんというしんこととおしてきました。」

(せいしょ:コロサイのしんへのがみ)
1しょう3-5せつ

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講壇こうだんのお花(#133)

2021年1月3日の聖書せいしょから

「どんなことでも、おもわずらうのはやめなさい。なにごとにつけ、かんしゃめていのりとねがいをささげ、もとめているものをかみけなさい。そうすれば、あらゆるじんえるかみへいが、あなたがたのこころかんがえとをキリスト・イエスによってまもるでしょう。」

(せいしょ:フィリピのしんへのがみ)
4しょう6-7せつ

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2020年12月の生花

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講壇こうだんのお花(#132)
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2020年12月27日の聖書せいしょから

「シメオンはおさなご*うでき、かみをたたえてった。『しゅよ、いまこそあなたは、おことどおり、このしもべやすらかにらせてくださいます。わたしはこのであなたのすくいをたからです。これはばんみんのためにととのえてくださったすくいで、ほうじんらすけいひかり、あなたのたみイスラエルのほまれです。』」

*ここでの「幼子」とはイエス・キリストのことです。

(せいしょ:ルカによるふくいんしょ)
2しょう28-32せつ

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講壇こうだんのお花(#131)
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2020年12月20日の聖書せいしょから

てん使った。『おそれるな。わたしは、たみぜんたいあたえられるおおきなよろこびをげる。きょダビデのまちで、あなたがたのためにすくぬしがおうままれになった。このかたこそしゅメシアである。あなたがたは、ぬのにくるまっておけなかているつけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

(せいしょ:ルカによるふくいんしょ)
2しょう10-12せつ

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講壇こうだんのお花(#130)
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2020年12月13日の聖書せいしょから

「『マリアはおとこむ。そのをイエスとけなさい。このぶんたみつみからすくうからである。』このすべてのことがこったのは、しゅげんしゃとおしてわれていたことがじつげんするためであった。『よ、おとめがごもっておとこむ。そのはインマヌエルとばれる。』このは、『かみわれわれともにおられる』というである。」

(せいしょ:マタイによるふくいんしょ)
1しょう21-23せつぜんはん

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講壇こうだんのお花(#129)
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2020年12月6日の聖書せいしょから

てん使は、かのじょのところにった。『おめでとう、めぐまれたかたしゅがあなたとともにおられる。』マリアはこのことまどい、いったいこのあいさつなんのことかとかんがんだ。すると、てん使った。『マリア、おそれることはない。あなたはかみからめぐみをいただいた。あなたはごもっておとこむが、そのをイエスとけなさい。そのだいひとになり、いとたかかたわれる…』」

(せいしょ:ルカによるふくいんしょ)
1しょう30-32せつぜんはん

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日本キリスト教団本庄教会
〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1
TEL 0495(22)2785


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マラナタ32号編集後記

本庄教会月報11月号をお届けします。

換気扇

11月22日の礼拝から、礼拝堂に4基の換気扇を設置し、2基からは吸気、残り2基からは排気と、効率の良い換気に努めています。また、加湿器を合せて設置しました。

試行錯誤の毎日ですが、主が顧みてくださることを信じて、できる努力を続けていきます。

在主


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月報『マラナタ』32号 巻頭言

説教:
めぐみとしてのえいえんいのち
2020年11月1日
えいみんしゃねんれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい2しょう7せつ
ヨハネのしんへのがみ3しょう16-17せつ

國磨呂牧師講壇

1、永眠者記念礼拝

今日は、永眠者記念礼拝として、本庄教会関係者の天に召された方々を想起して礼拝を献げます。神様の御言葉を通して慰めと励ましをいただき、御遺族皆様の上に神様の祝福とお導きを共にお祈りいたしたいと願います。

昨年の永眠者記念礼拝後、F.T.さん、S.N.さん、S.A.さんの3人が、「本庄教会 逝去者・納骨者名簿」にお名前が加えられました。お別れして1年も経っておられなく、まだ寂しさの中にもおられるかと思いますが、御遺族の上に神様の御慰めをお祈りいたします。

2、宗教心

最初に「宗教心」について考えたいと思います。

日頃、〝神も仏もあるものか〟と言って生きている人がおられます。また、日本人は、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれると〝無宗教です〟と答える人が多いと言われています。

このような〝神も仏もあるものか〟〝無宗教です〟と言われる人も、重い病気になったり、何か災いが起きたりすると、「神さま、仏さま」と言って恐れ拝むのです。正月三が日の初詣で、神社や寺に何百万人という人々が詣でる数は何なのでしょうか。

日頃、〝神も仏もあるものか〟〝無宗教〟と言っているような人々にも、「人間を超越した神さま、仏さま」を恐れ拝む心があるのです。それが「宗教心」なのです。

3、「神のかたち」

聖書は、この「宗教心」をどのように記しているでしょうか。

聖書の一番始めに書かれている創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された。」と書かれています。聖書は「天地を創造」された〝創造主・造り主〟を「神」と呼ぶのです。世界は、創造主によって造られた被造物の世界なのです。世界を造られた創造主は〝唯一の神〟なのです。

創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。」と記されています。

人は誰も皆、「神のかたち」に造られ、祝福されて生まれたのです。

創世記2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。この「命の息」は「神の霊」とも言われます。

土の塵のようなもので形づくられた人が、その鼻に神の霊が吹き込まれて、神様と霊的な交流・会話ができるようになったことを「生きる者となった」と言うのです。神様は人に霊を吹き込まれたので、人は生まれながらに神様と霊的に交流ができるのです。これが「神のかたち」なのです。それが「宗教心」とも言えるのです。

キリスト教では、目に見えない神様を「天の父なる神様」と呼びかけてお祈りをします。お祈りができることこそが「神のかたち」を生きることなのです。また「宗教心」があることの証拠なのです。

4、限りある人生

詩編90編10、12節に次のように言われています。
「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」

私たちの人生は、70年、80年と限りある人生です。しかも、苦労や災いが多く、瞬く間に終わってしまうのです。詩人は、自分の生涯を正しく数えることを教えてくださいと訴えていますが、人は誰も、自分の人生を正しく数えることができません。

コヘレトの言葉3章9~14節に次のように言われています。
「人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。
わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人はだれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。
わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」

私たちの限りある人生でも、「神を畏れ敬う」ことによって、神様がすべてを時宜にかなったように造られたことが分かるのです。「すべて時宜にかなうように造り」は口語訳聖書では「神のなさることは皆その時にかなって美しい」と訳されています。

私たちには神様のなされることを始めから終わりまで見極めることはできませんが、
人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることなのです。

誰もが飲み食いし、その労苦によって満足することができるのは、神様からの賜物(=恵み)なのです。

限りある人生において、私たちが喜び楽しんで幸福であり、満足できるという神様からの「恵み」を頂けるのは、「神を畏れ敬う」心を大切にすることによるのです。

5、「神のかたち」を見失った罪人

私たち人間は、いつの間にか「神のかたち」として造られたことを見失ってしまったのです。造り主である神様との霊的交流ができなくなって、神様の御心が分からなくなってしまったのです。このような状態を、聖書は「罪」と言います。

人間は皆、神様との交流を失い、神様の御言葉に聞かなくなったので、自分の価値観を基準にし、自分中心に生きるようになってしまったのです。

ですから、神様が恵みとして下さる喜びや楽しみの幸福や満足が分からなくなり、悪いことはみんな他の人の責任にし、他の人を裁き、他の人と争い、他の人の命を奪うこともしてしまうのです。そこには最早喜びも楽しみも満足もありません。

6、クリスマスに誕生された御子イエス様と永遠の命

神様は、人間に与えられている「神のかたち」を回復して、人々が神様から与えられる恵み・幸福が分かるようにと、神の御子イエス様を地上に誕生させて下さったのです。それがクリスマスなのです。

それが、ヨハネによる福音書3章16節、17節のメッセージなのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

クリスマスの出来事は、神の御子イエス様の誕生によって、世の人々が救われるためであります。「神のかたち」に造られながら、それを見失い、神様との霊的な交流ができなくなって滅びるしかない人間が、神の独り子であるイエス様を救い主として信じて「神のかたち」を回復し、永遠の命を得るようになることです。

キリスト教会の十字架は、神の独り子である御子イエス様が、神様に背いている全ての人間の罪を背負って、身代わりとなって死んでくださった十字架なのです。

イエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ福音書23:34)と祈りつつ死なれたのです。あのイエス様の祈りと死は、自分の罪の赦しのためであったと信じる者が「神のかたち」を回復し、永遠の命を得ることができるのです。

「永遠の命」とは、地上の限られた人生を生きる時も神様の御支配の中に生き、また、やがて死によって地上を去り、神様の御許、天の国に行っても神様の御支配の中に生きることなのです。永遠の命とは、神様の御支配の中に永遠に生きることです。

今日、永眠者記念礼拝の中に覚えられる方々は、神の御子イエス様をキリストと信じて、永遠の命を得て、神様の御許に生きる、天のみ民たちなのです。

今、こうして礼拝を献げていますが、この礼拝は既に神様の御許に召されて天におられる愛する方々と、地上にある私たちとが一緒に神様をほめたたえる礼拝なのです。

毎日曜日に献げる礼拝は、天上の民と地上の民が一緒になって献げている礼拝なのです。ですから、私は、御遺族の方々に、天に召された方々とお会いしたかったら、礼拝にいらっしゃい。お会いできますよとお誘いするのです。

今日も、天上の方々は皆さんと一緒に礼拝を献げておられ、地上の私たちを見守り、礼拝を共にできることを喜んでおられることでしょう。

〈祈り〉

天の父なる神様、今朝は、永眠者記念礼拝として、この礼拝を御遺族の皆様と共に献げることのできることを感謝いたします。

私たちの人生は限りのある人生です。「神を畏れ敬う」ことによって神様が賜物としてくださる喜び、楽しむことの幸福を私たちに満たしてください。

御遺族の方々が、十字架上のイエス様の祈りを自分に対するものと信じて永遠の命を得ることができるようにお導き下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

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月報『マラナタ』31号 巻頭言

説教:
『キリストがわたしのうちにおられる』
2020年10月18日
きょうかいせつりつ132しゅうねんれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい15しょう1-6せつ
ガラテヤのしんへのがみ2しょう15-21せつ

國磨呂牧師講壇

1、設立記念日を覚えて

今日は、本庄教会が設立されてから132周年を迎えたことになります。本庄の地に、イエス・キリストを信じる群れができて、神の家族としてキリストによる恵みを証ししてきて132年になるのであります。

今、教会の標語を「わたしたちは神の家族」と掲げて歩んでいます。「神の家族とは何なのか」と説教を通して御言葉に聴いて来ました。少し振り返ってみたいと思います。

  • 神の家族とは、「あなたはキリスト(救い主)、生ける神の子です」と信仰を告白するキリストを信じる信徒の群れなのであります。
  • イエス様は、この「あなたはキリスト、生ける神の子です」との信仰告白を土台の岩として、「わたしの教会を建てる」と言われました。教会はイエス様の教会なのであります。
  • パウロは、イエス様の教会を「キリストの体」と表現し、私たち一人一人はイエス様の御体の一部分であることを教えています。「キリストの体」が喜びをもって生き生きと生きる要は、御体に連なる弱い部分が生かされることであります。

弱い部分も強い部分も共に一緒に生かされることです。実際の私たちの体のことを考えてみると、体のどんな部分も働きが担わされており、弱い部分だから働きを担わなくてもよいと言う部分はありません。教会の働きも、皆で一緒に担い合ってこそ、生き生きと生きるのです。

2、全ての人は、信仰によって義とされる

本庄教会を始め諸教会のキリストの御体とされている私たちが、御体の一部分として生き生きと生かされているのかと絶えず主から問われているのです。この問いの下で、今日の御言葉に御一緒に聴きたいと願っています。

15節に「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と言っています。

「ユダヤ人」は、神様が「祝福の源となるように」と選ばれたアブラハム(創世記12:2)の子孫で、天地万物の造り主である神様を信ずるイスラエル民族であります。

一方「異邦人」は、聖書が示す造り主である神様を知らず、さまざまな偶像の神々を信じているイスラエル人以外の国の人々を指しています。それゆえ造り主である神様を信じない罪人なのです。日本人も異邦人としての罪人であります。

ユダヤ人たちは、神様と共に生きる民族として、モーセをとおして「十戒」という神様からの掟をいただき、それに従って生きる民族でした。

「十戒」前半は、神様と人間との縦の垂直関係の在り方、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」「あなたはいかなる像も造ってはならない。」「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を心に留め、これを聖別せよ」等と示されています。

「十戒」の後半は、人と人との横の関係の在り方、「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」等が示されています。

ユダヤ人たちは、この「十戒」を基として作られた律法に従うことによって神の「義」を求めたのです。

「義」と言うのは、神様の義にあずかることで、神様と正しく向き合って神様との愛の関係を生きることです。これを「キリストによる救い」とも言います。

しかし、イスラエルの民は、偶像を禁じられていながら、偶像を造って神様に背き、アッシリアやバビロンの大国に滅ぼされると言う裁きを受けたのです。その意味で、ユダヤ人たちは律法に従うことによって神の義を得ることができなかった罪人だったのです。

16節「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」

 「律法の実行」は、〝人間の行い〟と言い替えて良いと思います。神様から与えられた「十戒」によって神様からの義を得られなかったイスラエルの歴史でした。そこで神様は、人が義とされるのは、律法を守るという人間の行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰による義を得る道を与えられたのです。

アブラハムは「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とありますが、まだ律法が示されるはるか以前、アブラハムは主の御言葉を聞いて信じたのです。これが信じて義とされることです(創世記15:5~6)。神様は、この信じて義とされる道をイエス・キリストを通して備えて下さったのです。

それは律法を守り得なかったユダヤ人たちの罪人も、異邦人としての罪人も、皆、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのです。

イエス様は、全ての人々の罪を背負って十字架にかかり、全ての人々の身代わりに犠牲の死を遂げて、全ての人々の罪の赦しを実現されたのです。

3、十字架の贖い

ですから19節で言われます。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」

「律法に対して律法によって死んだ」と言うことは、律法には、罪を犯した者は死の報いを受けるのですが、自分の命の身代わりの犠牲として、小牛、小羊などを献げることができたのです。贖罪の献げ物としてレビ記7章に詳しく述べられています。

キリストはわたしの罪のために身代わりの犠牲として十字架につけられた、ということです。

十字架に架けられて死んだイエス様は墓に葬られましたが、3日目に復活されました。弟子たちの前に現れ、「40日にわたって彼らに神の国について話をされ」て、そして天に上げられて、今は、神様の右の座についておられます。聖霊の働きと共に復活のキリストとして地上の私たちの傍らに来られて共に歩んでくださるのです。

それ故に、20節に言われています。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

パウロが、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言うのは、あの十字架のキリストの死は、私の罪のための死であったと、その犠牲の贖いを信じたお蔭で、自分は今、神様の前に義とされて生かされているのです。自分の罪の赦しのために死んでくださったイエス様は、今は復活のキリストとして、私の内におられ、私と共に生きておられるのですと、復活のキリストの現臨、今も共におられることをリアルに感じ取っていることを述べているのです。

そして「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです。」と告白しています。更にパウロは21節に「わたしは、神の恵みを無にはしません。」と信仰の決断をしています。

キリストの御体の一部分にされている私たちが、生き生きとして生きることができるのは、このキリストの十字架に流された贖いの血が通っていることを信じることです。どの一人一人にもキリストの十字架の贖いの血が通っており、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と、復活のキリストの現臨の喜びを分ち合うことです。この霊的な喜びに満ちあふれる教会となることです。

どうしたらそんな教会になれるのでしょうか。それは、19節から語られている、パウロが示す、キリストと共に十字架につけられ、キリストが私の内に生きておられるという復活のキリストの現臨を自分自身のものとして一人一人が信仰によって味わい、そしてその喜びを互いに分かち合うことから始まります。

復活のキリストが私の内に生きておられるという恵みを、ここにおられる皆さんにも与えられているのです。

設立132周年を祝うということは、「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」との恵みが、132年の歩みにおいて受け継がれ、今も同じように本庄教会の信仰的現実であることを証ができることを祝い喜ぶことなのです。

例)金太郎あめをご存じですか。どこを切っても金太郎の顔が出てきます。それと同じように、教会の歩みのどこを切っても、「キリストがわたしの内に生きておられる」とキリストが出てくるのです。それは、即ち、教会に連なる私たち一人一人の生活のどこを切っても共におられるキリストが出てくるのであります。

私は、皆さんに提案いたします。今、設立132周年を迎えた本庄教会の神の家族、そのキリストの御体の一人一人に、自分なりに「キリストがわたしの内に生きておられる」と言う信仰の喜びを証しする証しを書いて頂くことです。そして証し集を纏めてみてはどうでしょうか。

〈祈り〉

天の父なる神様、今日は本庄教会の設立132周年の記念すべき礼拝であります。この教会のキリストの御体の一部分として連なり、神の家族としての歩みを許されていることを感謝いたします。

パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と告白する信仰を、私たち一人一人の信仰として受け止めることのできることを感謝いたします。

キリストが私たち一人一人の内に生きていて下さる恵みの喜びを共に分かち合い、まだあなたのことを知らない人々にも、この恵みを分かち合うことのできるようにしてください。あなたを求めておられる方々の上に聖霊のお導きをお与え下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

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