月報『マラナタ』31号 巻頭言

説教:
『キリストがわたしのうちにおられる』
2020年10月18日
きょうかいせつりつ132しゅうねんれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい15しょう1-6せつ
ガラテヤのしんへのがみ2しょう15-21せつ

國磨呂牧師講壇

1、設立記念日を覚えて

今日は、本庄教会が設立されてから132周年を迎えたことになります。本庄の地に、イエス・キリストを信じる群れができて、神の家族としてキリストによる恵みを証ししてきて132年になるのであります。

今、教会の標語を「わたしたちは神の家族」と掲げて歩んでいます。「神の家族とは何なのか」と説教を通して御言葉に聴いて来ました。少し振り返ってみたいと思います。

  • 神の家族とは、「あなたはキリスト(救い主)、生ける神の子です」と信仰を告白するキリストを信じる信徒の群れなのであります。
  • イエス様は、この「あなたはキリスト、生ける神の子です」との信仰告白を土台の岩として、「わたしの教会を建てる」と言われました。教会はイエス様の教会なのであります。
  • パウロは、イエス様の教会を「キリストの体」と表現し、私たち一人一人はイエス様の御体の一部分であることを教えています。「キリストの体」が喜びをもって生き生きと生きる要は、御体に連なる弱い部分が生かされることであります。

弱い部分も強い部分も共に一緒に生かされることです。実際の私たちの体のことを考えてみると、体のどんな部分も働きが担わされており、弱い部分だから働きを担わなくてもよいと言う部分はありません。教会の働きも、皆で一緒に担い合ってこそ、生き生きと生きるのです。

2、全ての人は、信仰によって義とされる

本庄教会を始め諸教会のキリストの御体とされている私たちが、御体の一部分として生き生きと生かされているのかと絶えず主から問われているのです。この問いの下で、今日の御言葉に御一緒に聴きたいと願っています。

15節に「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と言っています。

「ユダヤ人」は、神様が「祝福の源となるように」と選ばれたアブラハム(創世記12:2)の子孫で、天地万物の造り主である神様を信ずるイスラエル民族であります。

一方「異邦人」は、聖書が示す造り主である神様を知らず、さまざまな偶像の神々を信じているイスラエル人以外の国の人々を指しています。それゆえ造り主である神様を信じない罪人なのです。日本人も異邦人としての罪人であります。

ユダヤ人たちは、神様と共に生きる民族として、モーセをとおして「十戒」という神様からの掟をいただき、それに従って生きる民族でした。

「十戒」前半は、神様と人間との縦の垂直関係の在り方、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」「あなたはいかなる像も造ってはならない。」「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を心に留め、これを聖別せよ」等と示されています。

「十戒」の後半は、人と人との横の関係の在り方、「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」等が示されています。

ユダヤ人たちは、この「十戒」を基として作られた律法に従うことによって神の「義」を求めたのです。

「義」と言うのは、神様の義にあずかることで、神様と正しく向き合って神様との愛の関係を生きることです。これを「キリストによる救い」とも言います。

しかし、イスラエルの民は、偶像を禁じられていながら、偶像を造って神様に背き、アッシリアやバビロンの大国に滅ぼされると言う裁きを受けたのです。その意味で、ユダヤ人たちは律法に従うことによって神の義を得ることができなかった罪人だったのです。

16節「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」

 「律法の実行」は、〝人間の行い〟と言い替えて良いと思います。神様から与えられた「十戒」によって神様からの義を得られなかったイスラエルの歴史でした。そこで神様は、人が義とされるのは、律法を守るという人間の行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰による義を得る道を与えられたのです。

アブラハムは「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とありますが、まだ律法が示されるはるか以前、アブラハムは主の御言葉を聞いて信じたのです。これが信じて義とされることです(創世記15:5~6)。神様は、この信じて義とされる道をイエス・キリストを通して備えて下さったのです。

それは律法を守り得なかったユダヤ人たちの罪人も、異邦人としての罪人も、皆、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのです。

イエス様は、全ての人々の罪を背負って十字架にかかり、全ての人々の身代わりに犠牲の死を遂げて、全ての人々の罪の赦しを実現されたのです。

3、十字架の贖い

ですから19節で言われます。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」

「律法に対して律法によって死んだ」と言うことは、律法には、罪を犯した者は死の報いを受けるのですが、自分の命の身代わりの犠牲として、小牛、小羊などを献げることができたのです。贖罪の献げ物としてレビ記7章に詳しく述べられています。

キリストはわたしの罪のために身代わりの犠牲として十字架につけられた、ということです。

十字架に架けられて死んだイエス様は墓に葬られましたが、3日目に復活されました。弟子たちの前に現れ、「40日にわたって彼らに神の国について話をされ」て、そして天に上げられて、今は、神様の右の座についておられます。聖霊の働きと共に復活のキリストとして地上の私たちの傍らに来られて共に歩んでくださるのです。

それ故に、20節に言われています。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

パウロが、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言うのは、あの十字架のキリストの死は、私の罪のための死であったと、その犠牲の贖いを信じたお蔭で、自分は今、神様の前に義とされて生かされているのです。自分の罪の赦しのために死んでくださったイエス様は、今は復活のキリストとして、私の内におられ、私と共に生きておられるのですと、復活のキリストの現臨、今も共におられることをリアルに感じ取っていることを述べているのです。

そして「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです。」と告白しています。更にパウロは21節に「わたしは、神の恵みを無にはしません。」と信仰の決断をしています。

キリストの御体の一部分にされている私たちが、生き生きとして生きることができるのは、このキリストの十字架に流された贖いの血が通っていることを信じることです。どの一人一人にもキリストの十字架の贖いの血が通っており、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と、復活のキリストの現臨の喜びを分ち合うことです。この霊的な喜びに満ちあふれる教会となることです。

どうしたらそんな教会になれるのでしょうか。それは、19節から語られている、パウロが示す、キリストと共に十字架につけられ、キリストが私の内に生きておられるという復活のキリストの現臨を自分自身のものとして一人一人が信仰によって味わい、そしてその喜びを互いに分かち合うことから始まります。

復活のキリストが私の内に生きておられるという恵みを、ここにおられる皆さんにも与えられているのです。

設立132周年を祝うということは、「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」との恵みが、132年の歩みにおいて受け継がれ、今も同じように本庄教会の信仰的現実であることを証ができることを祝い喜ぶことなのです。

例)金太郎あめをご存じですか。どこを切っても金太郎の顔が出てきます。それと同じように、教会の歩みのどこを切っても、「キリストがわたしの内に生きておられる」とキリストが出てくるのです。それは、即ち、教会に連なる私たち一人一人の生活のどこを切っても共におられるキリストが出てくるのであります。

私は、皆さんに提案いたします。今、設立132周年を迎えた本庄教会の神の家族、そのキリストの御体の一人一人に、自分なりに「キリストがわたしの内に生きておられる」と言う信仰の喜びを証しする証しを書いて頂くことです。そして証し集を纏めてみてはどうでしょうか。

〈祈り〉

天の父なる神様、今日は本庄教会の設立132周年の記念すべき礼拝であります。この教会のキリストの御体の一部分として連なり、神の家族としての歩みを許されていることを感謝いたします。

パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と告白する信仰を、私たち一人一人の信仰として受け止めることのできることを感謝いたします。

キリストが私たち一人一人の内に生きていて下さる恵みの喜びを共に分かち合い、まだあなたのことを知らない人々にも、この恵みを分かち合うことのできるようにしてください。あなたを求めておられる方々の上に聖霊のお導きをお与え下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

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