月報『マラナタ』29号 巻頭言

説教:
『あなたがたにへいがあるように』
2020年8月2日へいせいじつれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい2しょう7せつ
ヨハネによるふくいんしょ20しょう19-23せつ

國磨呂牧師講壇

1、戦後75年を振り返り

今日は、日本基督教団では「平和聖日」として礼拝をささげています。

今から75年前の8月6日広島に、9日長崎に、人類初めて戦争のために原子爆弾が投下されました。この衝撃で、太平洋戦争を始めた日本が、ようやく、14日に連合軍によるポツダム宣言を受諾し、15日正午、天皇によるラジオ放送で、日本が無条件降伏したことが国民に知らされました。こうして、第二次世界大戦が日本の敗戦として終結したのです。内務省の記録によると、戦死者約213万人、空襲による死者約23万人と言われています。

週報の解説にあるように、この平和聖日は、原子爆弾の被爆を受けた西中国教区の教師・信徒たちが広島原爆投下の日を覚えて「平和聖日」として守るように教団に要請したとあります。広島・長崎の世界で初めての原子爆弾の被爆の悲惨な体験から、再び原子爆弾は使われてはならないと言う願いが、平和を祈る聖日を守る要請になったと思われます。

この願いと祈りは、今や世界中の人々によって国際連合における核兵器軍縮会議から「核兵器禁止条約」の成立となり、日本はその批准を求められています。しかし、私たちが忘れてはならないのは、太平洋戦争を始めたのは日本国で、日本国はアジア諸国の加害者であったということです。朝鮮、中国、フィリピン、インドネシア、タイなどの東南アジア諸国に侵略し、その戦いで一般人を入れて約二千万人の死者を出しているのです。

75年も経つと、太平洋戦争と言うと、広島・長崎の被爆だけが残って、日本が戦争を始めた加害者であることを忘れ去りがちなのではないでしょうか。私は77歳で、戦争が終わった時は、まだ3歳です。ほとんど戦争中の記憶はありません。私よりも年上の方々は、まだまだ、戦争中の記憶がおありなのではないかと思います。戦争の悲惨さを忘れないで、平和を造り出す者として立つために何ができるのでしょうか。

2、戦争はなぜ起きるのでしょうか

戦争は、自分の価値観や自分の国の利益を優先すると言う、人間の自己中心から起きます。自分の考えや利益を第一とするから、人と人との喧嘩、国と国の戦争が起きるのです。

私たち人間は、神様から共に生きるように造られたにもかかわらず、その神様を見失い、神様を信じないために自分中心になってしまいます。その根本は、神様を第一として神様と向き合おうとしない、神様に背いている人間の「罪」なのです。

その人間の罪を赦して、神様と共に生きるように道を開いてくださったのがキリストの十字架の死なのです。皆さん一人ひとりにとって、キリストは〝この私の罪を赦すために〟身代わりとして十字架の上に死んでくださったのです。神様は、御子キリストの命を犠牲にしてまでも神様に背いていた〝罪人のこの私を愛して〟くださっているのです。これが十字架の愛なのです。3日目に死から復活されたキリストは、罪赦されて神様と共に生きる私たちを励まし、導いてくださるのです。

イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と言われています。

3、復活のキリストによる平和

人間の本当の平和は、神様と共に生きることなのです。そのことを、いつも礼拝の終わりの派遣の言葉としてお読みしているヨハネによる福音書20章21節の御言葉から聴きたいと願います。

週の初めの日の夕方、イエス様が復活された日曜日の夕方です。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家に鍵を掛けて隠れていたのです。イエス様を十字架に架けたユダヤ人たちが、その仲間である自分たちをも捕らえるのではないかと恐れて、鍵を閉めて隠れていたのです。

そこへ、復活されたイエス様が来られて真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。そしてイエス様は、御自分の手とわき腹をお見せになりました。それは、十字架に釘付けにされた手の傷跡、槍で刺されたわき腹の傷跡でした。弟子たちは、死んだはずのイエス様であることを見て喜んだのです。
するとイエス様は重ねて言われました。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言われてから、彼らに息を吹きかけて言われました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

今日のこの出来事から、幾つかのことを学び聴くことができます。

2、戦争はなぜ起きるのでしょうか

(1)復活のイエス様による「平和」

復活のイエス様は、人々を恐れ、鍵を堅く締めて隠れている弟子たちの中に入って来られて、「平和があるように」と言われたのです。

私たちキリストを信じている者も、日々の生活の中に、人間関係、病気、仕事、老齢化などのさまざまな恐れと不安の中に置かれています。しかし、イエス様は、そうした私たちに対して「平和があるように」と声をかけて一緒にいてくださる方なのです。「平和」と言うのは、ギリシャ語で「エイレイネ」と言い、ヘブル語では「シャローム」と言います。「平和がありますように」とは、当時は、挨拶の言葉になっていました。しかし、イエス様が言われた「平和」は単なる挨拶ではなかったのです。

ヨハネによる福音書14章27節に
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。」と言われています。

マタイによる福音書の28章19~20節で、復活されたイエス様が、ガリラヤの山の上で、弟子たちと会って、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と宣教命令を述べられた最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されておられます。

イエス様が与えて下さる「平和」は、争いや戦争がないという平和ではなく、世の終わりまで、どんな争いの時でも、どんな困難や病気の時でもご一緒にいてくださるという「平和」なのです。

がん哲学カフェの提唱者の樋野興夫医師は、「がんという病気があっても、病人でないように生きる」と言っておられます。復活のイエス様が、どんな時でもいつも一緒にいてくださると思うから、病気であっても病人でないように生きることができるのです。

私は、2007年以来、腎臓がんで右腎臓の摘出、腎臓がんの再発、前立腺がんと、この13年間、ずっとがんと共に歩んでいます。しかし、復活のイエス様が全てをご存じでご一緒だと思うと、心が平和な生活ができ、主の御業に仕えていくことができているのです。本庄に来てから、がんの方々と集まる「本庄がん哲学カフェ」で〝がん友〟の交わりも許されています。

(2)「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」

父なる神様が、御子イエス様をキリストとしてこの世に遣わしてくださったお陰で
私たちは神様に対する背きの罪が赦され、神様と共に歩む「平和」を与えられているのです。

このキリストによる平和を知った者が、人間の根本的な平和はイエス・キリストのもとにあることを周りの方々に伝え分かち合うために、私たちは遣わされるのです。

(3)「聖霊を受けなさい」

イエス様は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのです。

息を吹きかけてと言うことで、創世記2章7節の神様が人を最初に造られた時のことを思い起こします。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

このことから分かることは、恐怖におののいて、死んだようになっていた弟子たちに新しい命の息・聖霊を吹き入れることによって、この時、弟子たちは再創造されて、神様と共に生きる者とされたということです。

私たちも、聖霊の導きにより、イエス・キリストを信じた時に聖霊を受けて、新しく再創造された者となったのです。見失っていた「神のかたち」を回復することができ、御言葉に聴き、神様を「アッバ、父よ」と呼んで祈り、神様と共に歩む者とされたのです。

この聖霊を受けて新しく生きる者とされた信仰者たちに与えられている特権は、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言う「罪の赦しの務め」であります。

人間は誰もが心の平和を求めています。本人が自覚していないのですが、平和を妨げている罪の赦しを求めているのです。「あなたがたが赦せば」と言われているように、あなたがたとは教会の群れなのです。

教会の務めの第一は、罪の赦しなのです。自分たちがキリストの十字架の贖いによって罪が赦されたように、キリストの十字架は全ての人々の罪の赦しのために立てられているのです。人の罪を赦すということは、その人の存在を愛することなのです。

ですから、イエス様は「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われるのです。

私たち人間は、たとえキリストを信じていても、教師であっても、信徒であっても、罪深い行いをしてしまいます。しかし、どんな罪深いことでもキリストが赦してくださったように、互いに赦し合い、愛し合うのが教会なのです。教会という群れは、赦し合う者の歩みなのです。

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマの信徒への手紙5:20)と言われていますが、どんな罪も互いに赦し合う事が多ければ多いほど、恵みも増し、愛の豊かな教会になるのです。人目を気にしてピリピリするのではなく、互いに赦し合い、受け入れ合う愛の豊かな教会にしましょう。そのためには、「聖霊を受けている」ことを自覚し、聖霊のお導きを忘れないように歩んで行きましょう。

祈り

父なる神様、
平和聖日を覚えて、本当の平和はどこにあるのかを御言葉を通して思いを深めることができ感謝します。戦後75年の平和の中にある私たち、日本が戦争を仕掛けてアジア諸国を悲惨に陥れ敗戦になったことを忘れ去りがちであります。再び、戦争を起こすことがないようにお導きください。

イエス・キリストを通して神様を知り、罪赦されて神様と共に歩む平和を感謝いたします。イエス様が私たちに与えてくださる神様と共に歩む平和を、まだ知らない人々に知らせ、分かち合うことができるようお導きください。

また、日本の戦争によって悲しみや苦しみに遭ったアジアの諸国の人々と平和に歩むために私たちをお用いください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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