月報『マラナタ』30号 巻頭言

説教:
『わたしたちをになってくださるかみさま
2020年9月13日
けいろうしゅじつれいはいより

せっきょうしゃひきよし 牧師ぼくし
せいしょしょ:イザヤしょ46しょう1-4せつ
ルカによるふくいんしょ15しょう1-7せつ

義也牧師講壇

1、恵老の日を覚えて

本庄教会では9月の第2週目を「恵老の日」礼拝としておささげしています。この後、8名の80歳以上の兄姉を覚えて、健康と歩みが神様によって祝福されますようお祈りをいたします。さて、本庄教会では「けいろう」という言葉を、「恵み」に「老い」と表記していますが、ここには「老い」ということへの一つの信仰的な姿勢が表わされていると思います。本庄教会で、本日「恵老の日」をお祝いするということは、恵老祝福を受けられる兄姉方のこれからの歩みに主の祝福とお支えを祈り願うと同時に、これまで兄姉が本庄教会に仕え、それぞれが信仰の歩みを証しする者とされた主の恵みに感謝する時でもあるのです。

兄姉、お一人お一人に命を造り与えて下さった主なる神様。そして、命の誕生から今日にいたるまで、それぞれに出会い、導き、救い出して、今まで共に寄り添い、共に歩んでくださったイエス様の恵みを思い起こし、感謝をおささげしたいと思います。また、私たちも恵老の兄姉と本庄教会で出会い、礼拝の交わりを通じて、共に主の救いの恵みに連なり、神の家族とされているこれまでの歩みを主に感謝し、恵老の兄姉が生涯を通じて証ししてきた主の救いの御名を、私たちも共に心から賛美したいと願います。

2、バビロン捕囚の地での不安と嘆き

イザヤ書46章1節から4節を共にお読みしました。そこでは、40章から始まる、主なる神様の神の民への預言が語りかけられているのです。特に、この46章の箇所には「背負う」という言葉が繰り返し登場します。まず1節~2節には人間によって重荷として担がれる偶像について語られます。ベルとネボと呼ばれる二つの名前が出てきますが、これらは紀元前6世紀の初めにイスラエルを侵略し、イスラエルの民を捕虜として連れ去ったバビロン帝国において、ベルは別名マルドゥークとして知られていたバビロニアの守護神、ネボは文学と農耕の神として崇められていた、偶像の神々の名前です。さて、これらのベルとネボは、別々の神殿で崇められていたそうなのですが、新年を迎えるごとにネボの神殿とベル(マルドゥーク)の神殿との間で行進行列が行われていたそうです。その儀式の中で、これらの像が家畜や船に乗せられて行きかうということがあったようです。

こうした、様々な偶像が祭り上げられているバビロンの文化の中で、そこに捕虜として連れてこられたイスラエルの人々の心の内はどのような状態だったのでしょうか。捕囚の民とされていたイスラエルの嘆きは、旧約聖書の哀歌にその嘆きの歌が語られています。また、詩編の137編には、バビロンでイスラエルの人々が覚えた嘆きがストレートに歌われています。

「バビロンの流れのほとりに座り、シオン(つまりエルサレム神殿の丘)を思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして、『歌って、聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で。」(詩編137:1~4)。

天地万物を創造された真の神を礼拝していた民が、彼らの礼拝所であったエルサレム神殿から引き離され、異国の地に捕囚の民としての生活を余儀なくされてしまったのです。

自分たちの心が主から離れてしまったから、民の中の弱きものを顧みず、富や名声に溺れて不正を行い、神様よりも政治的な権力や近隣諸国との軍事的な同盟を頼りとしてしまったから、主なる神様はそのような過った歩みを徹底的に裁かれているのだと、感じていたかもしれません。しかし、その裁きの先に、神様が再び彼らを憐れんで、顧みてくださるのかということが大きな問いであったのです。

先ほどの哀歌でも、嘆きの中で祈りを閉じています。
「なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか。主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました。」(哀歌5:20~22)

遠くバビロンで捕囚とされてしまった彼らの内側には、喜びや希望はすっかり消えてしまっていたのです。もし、このままこの地で主なる神様からの助けの手がなければ、わたしたちはバビロンの民と一緒に、このべルとネボを担ぎ上げるものとされてしまうのだろうか。真の神様であられる主の御名を忘れないようにと自らに言い聞かせながらも、いつかはベルとネボを拝むものになってしまうのではないか…そのような不安が彼らの心の内にあったかもしれません。

3、担い、背負い、救ってくださる神様

しかし、主なる神様は決して神の民をお見捨てにはならないことをはっきりとお示しになるのです。本日読まれたイザヤ書46章では、真の神様とは、ベルとネボのように、担ぎ上げられるものではなくて、命を創造して与えた者を慈しみ、苦難のなかで心身共に疲れて嘆く彼らを背負ってくださる御方なのです。

「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
(イザヤ46:3-4)

このイスラエルと同じく、私たちも神様を信じるものとされ、この主日の礼拝へと招かれています。御子イエス・キリストの十字架の恵みによって神様の民に連なるものとされた私たちは、イスラエルの民と同じく、胎を出た乳児の時から、齢を重ねて白髪となるときまで、すべての歩みが神様によって支え導かれているのです。

この3節は、聖書の翻訳によっては、「生まれる前から神様によって背負われてきた」と翻訳しているものもあります。これは、イザヤ書44章2節で「あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主」と言われていることから来ている解釈だと思われます。私たちは目に見える、形のあるものに信頼して、心を寄せる傾向があります。しかし、神様は私たちが形づくられる前から、私たちに命を与え、そして今日この日まで、生きるものとし、神を信じるものとなるように、導き、救い出してくださっているのです。

「生まれる前」から主に選ばれ、担われていたのですから、私たちが地上の歩みを終えて、神様の御もとに向かうときにも、「わたしが担い、背負い、救い出す」と約束してくださるのです。神様は、現在の私たちの在り方に関わらず、神様に背いていると思う時も、心がかたくなにされ主を離れてしまったと思う時も、ただ神様の一方的な恵みの中で、私たちを主の近くへと招き、救い出して下さるのです。私たち、一人一人にはすでに神様から大切な命が与えられています。しかし、その命は神様の憐れみの中で、私たちを助け、担ってくださる主の御手の中で、初めて命の輝きを与えられ、神様の恵みに結ばれて生きることの喜びと平安が与えられるのです。この命の輝きは、私たちの地上での生涯だけで終わってしまう輝きではありません。地上の肉体の死を迎えるときも、やがて私たちの体が甦らされ神の国へと招き入れられる時の輝きでもあるのです。

4、失われた一匹を捜し出すイエス様の愛

私たちの体の死によっても終わることのない、命の輝きを、神様は主イエス・キリストを通じて示してくださいました。私たちの救い主であられるイエス様も、天地万物を造られた父なる神様と共に、私たちを担い、背負い、救い出してくださいます。ルカによる福音書15章には、見失った羊のたとえが語られています。この物語の中では、羊飼いが神様で、迷い出た羊が罪人である私たち人間を指し示しています。

さて、このたとえ話の中で、この羊飼いは一匹を見失ったことが分かると、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回」(ルカ15:4)るのです。この「野原」というのは「荒れ野」という意味です。本来、羊たちはお互いの背後にくっつくようにして群れをなして行動します。ですから、群れをなしていれば、これ以上逸れていく羊はないからと判断したのでしょうか。しかしながら、荒れ野には野獣など様々な危険が潜んでいます。その中に99匹を残してまでも、失われた一匹を捜し出そうとするのは、神様の徹底的な憐れみと、救い出そうとする神様の愛の力強さがここで語られているのです。失われた一匹を見つけ出すと、「喜んでその羊を担いで」(ルカ15:5)友達や近所の人と祝うのでした。

このたとえ話は7節に、このように纏められています。「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

このたとえ話は、決して、私たちを「九十九匹」の羊か、または「一匹」の羊かと仕分けることを目的としているのではありません。むしろ、私たちの誰もがこの〝一匹の迷い出た羊のように、罪によって迷い出てしまった存在〟なのです。ところが、イエス様はその「一匹」である私たちをも憐れみ、私たちの長所や賜物、秀でたところだけではなくて、むしろ私たちの弱いところ、罪の部分をも含めて、私たちの存在すべてを担っていてくださるのです。

イエス様の生涯の働きを記した福音書の中で、イエス様はこうおっしゃっていました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23) こうおっしゃった時、イエス様はこれに合わせて、ご自身が十字架で遂げられる死と、そして三日目に復活されることもあわせて約束されていたのです。私たちが日々担うべき十字架は、すでにイエス・キリストによって、すでに担われているのです。そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負
い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28~30)と悔い改め、赦しの恵みを受け取るようにと、招いてくださっているのです。また、この恵みの福音を分かち合うものとして私たちは遣わされて行くのです。

試練や困難の中にあっても、イエス様が私たちよりも先に、その重荷を担ってくださっていることを覚えたいと思います。キリストの霊によって導かれて、この本庄教会において、日々を共に耐え忍び、喜びを分かち合う神の家族とされていることに感謝しつつ、共に歩みたいと願います。

祈り

慈愛に満ちたもう天の父なる神様。あなたの御名を賛美します。
今日は共に「恵老の日」を覚えて礼拝をおささげしています。本庄教会の群れには、8名の80歳以上の兄姉が与えられています。兄姉は、これまで本庄教会に尽くし、信仰の継承のために仕えて下さいました。この恵みに感謝いたします。私たちもこの証しを受けて、主に結ばれて神の家族として歩むことの喜びを一人でも多く方にお伝えし、信仰を継承していくものとさせてください。
それぞれの歩みにおける、喜びや悲しみ、課題や葛藤は異なりますが、あなたはその一つ一つの生涯を受け止め、キリストに共に結ばれる者とされている恵みに感謝します。私たちは生まれる前から、またこの世の生涯を閉じて天国に行くときにも、主がすべてを担っていてくださっています。この主と共に、主に信頼し喜びと平安の中を歩むことができますように。
今コロナ禍で、特に施設に入所されている兄姉は、ご家族との面会ができず、つらい時期となっています。どうか主が慰めと平安を豊かにお与えください。また、会堂に共に集えず、インターネットを通して礼拝に参与されている方もおられます。どうか、そのお一人お一人に変わらぬ恵みと平安をお与えください。どうか、再びこの会堂で共に集い、主に礼拝をおささげすることができますよう、1日も早くコロナウイルスを終息させてください。
この感謝と願いを尊い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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