月報『マラナタ』17号巻頭言(3)

説教:
かなしむひとさいわいである』

2019年8月18日の説教から

せっきょうしゃひきかつ 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい27しょう28〜36せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう4せつ

19.8.maranatha 勝子牧師

1、人生の中の悲しみ

 私たちの長い人生の中では、誰もが悲しみを味わっていると思います。その悲しみも、深い悲しみや、ちょっとした悲しみもあるでしょう。また、その悲しむ期間も、長い期間の悲しみや、短いちょっとした悲しみもあるでしょう。

 私自身も今までの歩みの中で長い期間の悲しみがありました。それは、若い時に受験に失敗したのがとても深い悲しみでした。しかし、後で分かったことは、その失敗で別の道を歩んだことは、神様の導きであったと知らされたのです。こういうことは皆さんも体験されていることと思います。

2、山上の説教

 さて、今朝、与えられています「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」との主の御言葉に共に聞きたいと思います。
 「幸いである」との祝福の言葉は、5章~7章の説教の冒頭に当たります。このイエス様の説教は、山に登って語られたので、「山上の説教」と言われています。
 
 「山上」は、旧約聖書以来、神様の啓示の場所でした。モーセもエリヤもシナイ山(ホレブ山)で神様からの言葉を受けました。詩編121編1節にも「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と記されています。

 新約聖書においても、「イエスの姿が変わる」(マタイ17:1~13)時に、イエス様はペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られたと記されています。

 さて次に、この山上の説教は誰に対して何のために語られたのでしょうか。それは、イエス様の行動を最初から順に追って見るとよく分かります。

 イエス様は、マタイによる福音書では、3章に、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けました。4章に、公生涯に入られる前に、悪魔の誘惑を受けて、準備しました。そして、ガリラヤで伝道を開始され、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4・17)と言って、宣べ伝え始められました。その後、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(4・19)と言われて、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師を弟子にしました。

 そして、今朝の5章に入ります。イエス様は、大勢の群衆見て、山に登られ、腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきました。そこでイエス様は口を開いて「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」と教えられたのです。3節~13節まで、「幸いである」と言う祝福の言葉が9回も繰り返されます。

 山上の説教は、直接的には「弟子たち」に対して語られています。それゆえに、これはイエス様に従おうと決意したものに与えられた道であるのです。

 しかし、それは、決して弟子たちにだけ言っているのではなく、イエス様は「群衆を見て」とありますから、イエス様に従おうとする弟子たちと群衆の両方に語っておられるのです。

 4章17節の「悔い改めよ。天の国は近づいた。」との神の国の福音は、12弟子だけのものではなく、世界中の人々に向かって証ししなければならないものなのです。山上の説教を世界中に向かって宣べ伝えるのには協力者が必要なのです。

 そのために、まずイエス様は地上の諸会堂で教えられ、病人をいやされ、そして山に登られて協力者になる弟子たちに、山上の説教を教えられ、すべての民に教え、弟子とするように示されたのです。

3、「幸い」「悲しむ」「慰められる」

 次に3つの語句、「幸い」「悲しむ」「慰められる」について簡単に述べます。

(1)「幸い」について

 「幸い」は、ギリシア語でマカリオスと言って、「最高度の幸福と幸福感」を示します。

 人間として生まれた誰もは、幸福な人生を送りたいと思うわけです。そこから、どのようにしたら幸福に人生を築き、送ることができるかを追求し、多くの教訓などが語られて来ました。
旧約聖書では、どのように語られているでしょうか。

まず、詩編1編1~3節をご覧ください。
「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

 この場合、幸いとは、神様のおきてを守る者や神様に罪赦された者の幸いと言うように、神様との交わりがもたらす幸いに力点が置かれていることが特徴です。

 マカリオスはギリシア語的な「幸福」を意味しますが、へブル語的に、神様から与えられた「祝福」「救いの喜び」を表します。「祝福」は「幸福」を含むものですが、神様との人格的な深い交わりにおける喜びを軸としています。「幸い」とは、単なる幸福追求に生きるのではなく、神様との交わりに従って生きる時に、神様から与えられる賜物、それが幸いなのです。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と言われている通りです。

 すなわち、これは追求される幸いではなく、神様との交わりの中で与えられる幸いなのです。山上の説教の祝福は、そのような性質のものであります。

(2)「悲しむ」について

 「悲しむ」は、ギリシア語でペンセオーと言って、ギリシア語の中で悲しさを表す一番強い言葉です。これは愛する者の死を狂わんばかりに悼み嘆く場合に用いられます。

 「70人訳聖書」と言うギリシア語訳旧約聖書の創世記37章34節で、この「悲しむ(ペンセオー)」と言う語は、息子ヨセフが死んだと思ってヤコブの嘆き悲しんだ時に使われています。この悲しみは、人の心に食い入ってどうにも隠すことができない悲しみです。心に痛みを感じて、押さえても押さえても涙が出るような悲しみなのです。

(3)「慰められる」について

 「慰め」は、神様から与えられるすばらしい恵みであります。この「慰め」をいただくためには、悲しんでいることも恵みであります。悲しんでいない人は、どうして慰めを受けることができるでしょうか。

 この慰めは、ただ単に悲しみがいやされると言う意味ではありません。これは、神様から与えられる素晴らしい恵みの賜物なのです。この恵みの賜物は、悲しんでいる人にだけ与えられるものです。今、慰めていただけるので幸いなのです。

 この慰めを下さるお方は、十字架と言う苦難を通して人々の悲しみを知っておられる慰め主であります。このお方のもとに真の慰めの道があります。私たちの悲しみは、イエス・キリストを仰がせる道となるからこそ、悲しみも恵みであるのです。

 へブライ人への手紙に「この大祭司は。わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:15~16)と勧められています。以上で、語句の説明は終わります。

4、慰められる者の幸い

 さて、イエス様が言われた「悲しむ人々は、幸いである。その人は慰められる。」と言う御言葉を3つの点で述べます。

(1)そのままの解釈

 この御言葉は、人生の最大の悲しみに耐え抜いた人は幸いであると言うことであります。それは、悲しんで見て初めて体験できるものがあります。

 ある夫婦の話です。御主人は、大変傲慢な亭主関白でした。奥さんは、勤めていて、働きながら子どもを育て、何から何まで一人でしなければなりませんでした。御主人は、怒りっぽくて、人前でも奥様を怒鳴り、恥ずかしい思いをしていました。たいへん悲しく心の中ではいつも泣いていました。

 ところが、その御主人が癌になりました。御主人は病気で苦しみ、悲しみ、病気になってみて初めて、奥さんのありがたみが分かって来ました。何にもまして、励ましてくれる人々の情けや奥さんの日頃の苦労が分かったのです。更にまた、神様の憐れみと慰めが分かって来ました。病気によってクリスチャンであった御主人の信仰が成熟してきたのです。

 順境にある間は何年たっても、物事の表面しか知ることができませんが、悲しみに遭って、人の心の温もりや優しさ、更には神様の慰めが分かって来るのです。

(2)悲しむ隣人を助ける人の幸い

 ある人は、この世の悲しむ人、苦しむ人に対して親身になって助ける人は幸いであると解釈しています。

 このことで、すぐに頭に浮かぶのはマザー・テレサのような働きであります。あのような大きな働きができなくても、私たちキリスト者は、イエス様から大きな愛をいただき、また、兄弟姉妹のお互いの愛をいただいて味わっていますので、周りに悲しんでいる人、苦しんでいる人がいるならば何とか助けてあげたいと思うのではないでしょうか。いや、自分が助けているようですが、本当は、その相手を通して自分が励まされ助けられている体験をします。このことが互いに慰められると言うことになるのです。病人の方をお見舞いに行って、かえってこちらの方が、励まされ、力をいただくと言うことがよくあります。

 教会生活の中で体験したことですが、あるとても上品な言葉を使うホームレスの人が、時々来ました。東京都の役所に勤めていた人で、家庭も、病気がきっかけで家族がバラバラになったそうです。70歳代の方、Kさんと呼ばれていました。

 よく水曜日夜の求道者会にやってきました。生活保護を受けると良いと思い問い合わせましたが、住所不定者は受けられません。山谷の教会にも行っていましたが、山谷にも縄張りがあってなかなか仲間に入れなく、苦労しているのだと言っていました。

 ある時、Kさんから大宮駅に来ているとの電話があり、急いで行ってみたら、体全体が黄色で、かなり重症の黄疸の状態で、やっと会いに来て下さいました。それが最後となりました。

 とうとう生活保護を受けられないまま、また信仰にも導けないで申し訳なく思いました。しかし、私は、Kさんの生活保護の問題をきっかけに、社会人入学によって明治学院大学二部で社会福祉を勉強する機会を得ました。青年会の皆さんもKさんと交わることができ、Kさんの別れた子供を思う思いを聞いて、一人の青年が受洗を決意することができたのです。

 ここで教えられたことは、他人の苦しみ、悲しみに対して思いやりを持てる人は幸いであると言うことでした。

 この点で、もう一つ思うことがあります。それは、イエス様が十字架を背負って刑場に向かって行く時、キレネ人シモンが代わりに十字架を背負わされたことです。そこに民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成してイエス様に従いました。その時イエス様は婦人たちの方を振り向いて言われました。「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」と言われています(ルカ23:26~28)。

 私たちは、こうして日曜日に教会に来て礼拝をささげています。そして、救いの恵みをいただいています。この恵みを思うと、まだ救われていない家族のことを悲しみ、救われていない友人や近所の人たちのことを覚えて悲しみ、真剣に祈りつつ、伝道をして行くことの大切さを思います。

(3)自分自身のことに悲しむ人

 最後に、聖書が一番言いたいことかと思います。「自分の罪と自分の力のなさに悲しむ者は幸いである」と言うことです。

 イエス様が、伝道の最初に言われたことは「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。

 自分の罪に悲しまなければ、悔い改めることはできないのです。十字架を仰ぎ見る時、私たちは自分の罪を告白せざるを得ないのです。

 親子で言い争うことがあります。子供は、自分の気持ちを必死になって言います。〝少しわがままだ〟と思ったりします。そして、そのことが通らないと、親は分かってくれないと思って、子供はそれなりに悲しむのです。わがままで、自分勝手であると子供自身も知っているのに、どうにもならない子供なりの悲しみがあるのです。夫婦喧嘩なども、こういうことがあります。

 確かに、自分はわがままなことを言っているし、自分勝手なことを言っているが、しかし、自分の気持ちを分かってもらえない悲しみがあります。

 人にはいろいろな悲しみがあると言うことです。だからイエス様は「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」と言っておられるのです。 

 この御言葉は、たとえ、自分がわがままで、自分勝手からくる悲しみであるにもかかわらず「幸いである。その人たちは慰められる」と言われるのでしょうか。

 それは、その通りなのです。どんな種類の悲しみでも、イエス様はご存知であります。ただ主イエス様のもとに来さえすれば、その時、その時、その内容によって悔い改めさせられ、修正され、慰められて、幸いを与えられるのです。

 悲しみには、涙がつきものです。しかし、日本人という国民性は、悲しくても泣き顔を見せたら恥ずかしいことだから、と言って教育されてきました。だから、泣きたいのに泣かないで我慢してきました。

 しかし、泣きたいのに泣かないで我慢していると自分が見えてこないのです。悲しい時は、我慢しないで泣くことです。
イエス様も、涙を流されました。それはラザロの死に際して、マルタとマリアの訴えに、共に涙を流して悲しんでくださいました。私たちは、ありのままの姿で主イエス様の御前に、自分の悲しみを訴える時、慰められるのです。詩編にも「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(30:6)とあります。

 私たち人間は、自己中心の塊のようなもので、この罪は大変根深いものです。使徒パウロさえ、次のように告白しています。
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、私の中に住んでいる罪なのです。・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:19~24)・

 パウロのように、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と、へりくだって自分自身の罪を悲しむ者は本当に幸いであり、主の慰めをいただくことができるのです。

 以上の主の慰めは、この世の何をもっても変えることのできない主よりの賜物であるのです。そして何と言っても、この地上での私たちの悲しみ、苦しみは希望であります。それは主の再臨の時に与えられる恵みです。最後に黙示録21章3~4節を読んで終わります。

 祈り 

天の父なる神様、
 私たちの人生にはなぜこのような悲しみがあるのかと苦しむような様々な悲しみがあります。
 今日は、イエス様から「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」との御言葉の深い意味を示され感謝します。
 自分の罪と力のなさに悲しむ者を、いつもイエス様は共にいて赦し、慰めてくださることを感謝いたします。この恵みによって悲しむ隣人の傍らに立って主の慰めを共にする者としてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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