月報『マラナタ』25号 巻頭言 2

説教:
えないのにしんじるひとは、さいわいである』

2020年4月19日
れいはいより

せっきょうしゃひきよし 牧師ぼくし
せいしょしょ:イザヤしょ42しょう5-9せつ
ヨハネによるふくいんしょ20しょう19-29せつ

4月19日講壇 義也牧師

1、復活の主と共にある新年度

 主のご復活おめでとうございます!4月12日には、イースター復活主日礼拝を、インターネット中継を通じて、また一部の方は電話中継で共に礼拝をお献げしました。また、國磨呂牧師の説教原稿を郵送し、その原稿を通じて共に御言葉の恵みに与ったという方もおられると思います。新型コロナの蔓延の影響で、礼拝の献げ方についても変更が必要になったりと、忍耐が求められています。共に目に見える形では集えないこと、これは本当に寂しいことでありますし、大きな制約を感じるかもしれません。

 しかしこの時も、主がこの礼拝と交わりの中に聖霊なる神様の助けによって、ご臨在くださることを信じ、私たちは本日の復活節の主日礼拝を共にお捧げしています。そして死から復活され、私たち人間の罪に打ち勝たれたイエス様の御言葉に共に聞き、私たちの信仰が弱まるのではなく、むしろ共に復活の主に顔をむけて、共に祈りを合わせ、賛美の歌を合わせる時に、復活の主の永遠の命の希望に共に結ばれて、私たちの信仰が新たにされ、私たち教会として新年度の歩みに押し出されて行きたいと願っています。

 4年目から、一人一人が「キリストの体」としてどう生かされ、連なり、主体的に神様の御業に用いられるのか、お互いの歩みを主にあって受け止め合うことができるようにと願っています。その意味で「伝道協議会」を重ねて、皆で話し合って皆でできることを進める歩みをしたいと願います。

2、復活から1週間後

 本日読まれたヨハネによる福音書の20章の箇所では、復活されたイエス様が、弟子たちの集まっている所に、2回に亘って、姿を現してくださいました。週の初めの日の夕方とありますが、週の初めとは、安息日である土曜日の次の日ですから、今日の私たちにとっては日曜日ということになります。日曜日の夜に1回目、ところが弟子のトマスはその場所にいなかったと24節にあります。そこでイエス様は十字架の死から三日目に甦られた最初の復活日から8日目、つまり最初のイースターを1日目として1週間後に、弟子たちと一緒にいたトマスと出会ってくださったのです。本日も復活節第二主日、イースターから1週間後ですから、まさに今の時期に、トマスは復活の主に会ったのです。

 今日は説教題として「見ないで信じる人は、幸いである」とトマスとイエス様との再会の箇所を掲げましたが、まずはトマスよりも先に復活の主に再会した弟子たちの様子を見てゆきたいと思います。

3、おびえて鍵をかけていた弟子たち

 さて、弟子たちが1回目にイエス様にあった時も、2回目にイエス様に会った時も、彼らは集っていた家の戸に鍵を掛けていました。私たちは、危険や恐怖を感じている時に、戸に鍵を掛けると思います。以前の日本では、ご近所との付き合いの中で、信頼関係が築けていたら、あえて戸に鍵はかけなかったという話も聞きます。これに対して、今日の聖書の箇所では、危険な存在を締め出すために、戸に鍵を掛けていたということが分かります。彼らは何を恐れていたのでしょうか。

 イエス様の十字架の出来事を振り返ってみると、そこにはイエス様を「十字架につけろ!」と処刑所へと追いやった群衆の姿があります。これを扇動した当時の祭司長、ファリサイ派といった宗教指導者たちにより、自分たちも十字架刑に処せられるのではないかという恐怖があったのです。実際に、ペトロはイエス様が逮捕され連れていかれる中で、その後を恐る恐るついて行き、大祭司の中庭でイエス様が裁かれる様子をそっとのぞいている時に、イエス様の仲間だとの指摘を受けると、呪いの言葉を口にしてまでも、イエス様を知らないと、三度も関わりを否定したのです。

 さて、ここで深く思わされるのは、この弟子たちが単に悪意を持った人間、つまり“人”を恐れていたのかということです。確かに、「ユダヤ人を恐れて」(9節)とは、祭司長たちのことです。しかし、ペトロもそうですが、弟子たちはみな、イエス様を裏切り、イエス様を見捨ててしまっていたのです。そのイエス様が復活されたことは、彼らにとって何を意味するのでしょうか。〝イエス様は私をどう思っていらっしゃるのだろうか。イエス様を見捨ててしまった罪人である私は、神様の前でどうなってしまうのだろうか。〟と言ったように、人間だけではなくて、神様への畏れもあったのではないかと思うのです。なぜなら、今回のイエス様の登場に先立って、イエス様のご復活後の目撃証言があったのです。

 先週のイースター礼拝では、疋田國磨呂牧師の説教によって、マグダラのマリアが復活のイエス様に出会うという喜びの出来事を共に聞きました。ヨハネによる福音書でも同様に、イエス様が墓場で、マグダラのマリアに出会って下さったことが語り伝えられています。また、空っぽの墓を見たマリアから連絡を受けた、弟子のペトロと、イエス様の愛弟子と呼ばれているヨハネも既にイエス様の墓が空っぽになっていたことを目撃していたのです。時は既にイエス様の復活日の夕方になっていましたから、マグダラのマリアから、またペトロとヨハネからも、イエス様の復活について話を聞かされていたはずなのです。
 
 特にマリアは「わたしは主を見ました」と、明確に証言しているのです。何度聞かされても信じられない、意味が分からないということはあると思います。特に、主のご復活については、私たち人間の知恵や論理では到底つかめない話です。しかし、それ以上に弟子たちは、今は復活され生きておられるイエス様ではなくて、十字架で処刑されて死んでしまったイエス様への負い目を感じて、罪の意識の中で苦しんでいたのではないでしょうか。これはまさに、罪を負って苦しんでいる、罪人である人間の姿なのです。

4、「平和があるように」

 その罪の“暗闇”と言ってよいほどの悩みと悲しみの中に、イエス様は突如として復活されたお姿を現してくださいました。扉に鍵が掛けられていたにもかかわらず、その扉を通り抜けて、彼らの真ん中に立ってくださったのです。

 ルカ福音書では、この通り抜けたということについて、亡霊を見ているのではと弟子たちが驚いた様子が伝えられていますが、その時も、イエス様はご自身の手や足をお見せになって、「まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ24:39)とお伝えになっています。ここでは、どのようにイエス様が家にお入りになったのかよりも、むしろイエス様が弟子たちにお語りになった言葉に注目したいと思います。

 「あなたがたに平和があるように」(20:19)とイエス様は開口一番におっしゃいました。イエス様と弟子たちが当時アラム語でお話しになっていたことを考えると、「シャラーム(平和)」とアラム語で言ったのかもしれません。ここでは、神様の平和が「あなたがたに…あるように」とイエス様がはっきりとお伝えになっています。さらに、ここに続くトマスとイエス様の再開の場所を含めると、三回も、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに繰り返しお語りになっているのです。

5、十字架の傷跡を残されたままの復活

 イエス様は十字架で釘打たれた手と、槍で刺された脇腹とを弟子たちにお見せになりました。このことは、後にトマスが「指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と発言することに繋がります。

 ただ、ここで私たちには、一つのことが示されます。それは、イエス様が、十字架の傷跡を残したまま復活されたということです。もし、傷跡も十字架に掛けられた形跡もなくなっていれば、十字架の出来事は、弟子たちの記憶の中からは忘れ去られてしまったかもしれません。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざがありますが、そうならないように、つまり、十字架で苦しまれたイエス様の御苦しみが、私たち人間の罪が赦されるためだったことを心に刻むためであったのです。

 十字架の恵みを、復活された主に出会う時にも忘れることがないようにと、ここにイエス様の十字架の傷跡が示されているのです。そして、復活されたイエス様が、主なる神様の平和を告げながら、手と脇腹の傷を示されたことによって、弟子たちは初めて分かったのです。あのイエス様の十字架とは、私たちの罪の現実を示しながらも、私たちを死へと裁くためではなくて、私たちの罪を赦し、私たちを生かして下さる神様の愛の真実を知るためだったのです。イエス様の十字架の死は、永遠の命を与えて下さる神様への道を示して、私たちに救いの恵みを与えるためであったのです。

6、聖霊を授与される復活の主

 また、今日の箇所では、イエス様が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と聖霊をお与えになっています。使徒言行録では、聖霊降臨は、イースターからさらに50日目の五旬祭(ペンテコステ)で起こった出来事として証言されています。しかし、主の復活を伝えたヨハネ福音書では、あえて、ここでイエス様が弟子たちの集まり、つまり教会に聖霊をお与えになったことを強調しているのです。また併せて、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される…」と罪の赦しの力を、教会にお委ねになっています。
 
 「あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という後半もここにありますが、しかしながらこの「聖霊」と「罪の赦し」を教会に与えたというのは、教会を形成してゆく弟子たち自身がまず主イエス・キリストの復活に出会い、そしてイエス様の御体の十字架の傷を通じて、十字架の恵みに結び合わされて、罪を赦された者として立つことが教会の基礎とされているのです。パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(第一コリント12:3)と言っているように、聖霊の助けによって、主の十字架と復活による救いの出来事が、教会の語り伝えるべき唯一の福音(良い知らせ)とされ、私たちはこの世へと遣わされているのです。

 イエス様ご自身も既に、弟子たちに、神の子であるご自身が天の父なる神様から与えられていた役割について、お語りになっていました。
「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネによる福音書6:39)

7、トマスの信仰告白

 さて、今日の新約聖書の箇所の後半部分には、“疑い深い”として有名なトマスが登場します。「わたしたちは主を見た」という証言を信じないで、「指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったことに対し、イエス様より「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたことにより、“疑い深いトマス”と称されるようになったのだと思います。しかし、トマスだけが、特段に不信仰であると、イエス様から叱られていると取る必要はありません。この箇所をよく見てみると、復活日にイエス様に出会った弟子たちは、再び家にこもって扉には鍵が掛けられていたのです。やはり当時の宗教指導者たちに怯えていたのでしょうか。それとも、イエス様が「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃった言葉にまだ応える時ではなかったのでしょうか。

 しかし、ここに再び、復活された主イエスが、彼らの集いの中央に立ってくださいます。「あなたがたに平和があるように」と三度目におっしゃいました。まだ、恐れている彼らを受け入れ、彼らが罪を赦されて、主の平安の中にあることを再び示されたのです。そして、イエス様は、他の弟子たちと同様、トマスを責め立てることもなく、彼の求めを受け入れてご自身の十字架の傷に触れさせるのでした。その時に、「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」と彼を信仰へと導くのです。すると、トマスは信仰の告白によってイエス様に応答しました。
「わたしの主、わたしの神よ」(28節)

 トマスは、一度は疑いましたが、イエス様に出会って、イエス様の十字架の恵みを知り、イエス様を救い主として受け入れたのです。イエス・キリストへの信仰によって、新しい命、永遠の命が与えられ、救いに入れられたのです。復活されたイエス様との出会いを1週間先取りした弟子たちの口にも、まだこのようなはっきりとした信仰の告白はありませんでした。しかし、彼らも主の復活を喜んだのです。救い主を喜び祝う教会である弟子たちの群れの中で、トマスは信仰へと至り、罪を赦され、永遠の命の恵みを頂くこととなったのです。主の十字架と復活を、私たちの罪の赦しと神様の平安の中にあるという救いの恵みを喜ぶという信仰の群れの中で、トマスは主に出会って、信じる者へと変えられたのです。

8、今日の私たちへの招き

 「信じる者になりなさい」という招きは、今も教会を通じて生きて働いてくださっている主イエス・キリストによって、私たちに語り掛けられ、さらには教会で共に礼拝を献げておられる兄弟姉妹の皆様の歩みを通じて、すべての人に語り掛けられています。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」との主の言葉はトマスと共に、現代を生きる私たちにも語り掛けられています。トマスは、復活から1週間後にイエス様に出会いましたが、私たちは、主が復活されてから約2000年以上も後になって、主に出会ったのです。しかも、実際に肉眼で見たり、主の肉声を聞いたりした訳ではありませんが、聖霊なる神様の助けによって、しかもイエス様によって救われた教会の群れのキリスト者の数々の証言によって紡がれた信仰が、私たちを復活の主へと導いたのです。

 ヨハネによる福音書では、イエス様が十字架へと向かわれる前、天の父なる神様にこのように祈っておられました。イエス様は弟子たちを「彼ら」と呼んでこのように祈られたのです。
「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。…わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネによる福音書17:19~21、23)

 イエス様の弟子たちも、また弟子たちの言葉を信じて後に続く私たちも、神様からの同じ一つの愛、主の十字架と復活の愛へと招かれています。主の愛によって、罪を赦され、聖霊の助けによって、主を信じる教会の群れとして建て上げられています。そのような私たちの言葉を通じて、私たちの歩みを通じて、トマスのように、信じるようにと招かれているこの世の人々がいます。イエス様が十字架と復活の愛によって招かれている全ての人々が信仰へと至り、罪を赦されて、神様と共に生きる群れ、教会へと加えられ、そして永遠の命が与えられますように、祈り求めて行きたいと願います。

 本日は読みませんでしたが、私たちの信じるべき言葉、そして教会としての使命が、20章の終わり31節にもはっきりと示されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」

祈り

 天の父なる神様、

 新型肺炎の蔓延する中に、インターネット中継や電話中継で共に礼拝をお献げできることを感謝します。

 鍵を掛けて隠れていた弟子たちの姿は、罪を負って苦しむ私たちの姿であることを示されました。しかし、そんな弟子たちにも「平和があるように」と三度も祝福して下さり、十字架の手と脇腹の傷を残されたまま復活されたことにより、十字架の痛みは罪の赦しの証であったことを知りました。 

 私たちも同じように神様からの御配慮をいただいていることを心から感謝いたします。イエス様の傷に触ってみなければ信じないと言ったトマスに会ってくださり、責めることなく、「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」と信仰へと導いて下さったように、信仰の弱い私たちをもお導き下さい。トマスのように永遠の命の約束を信じ、「わたしの主よ、わたしの神よ」と信仰告白をしつつ歩めますように聖霊の助けをお与え下さい。

 新型肺炎の蔓延する中に病んでいる多くの方々を癒やし、愛する者を失った人々を慰めて下さい。すべての人々を守り、1日も早く終焉するように憐れんでください。
 
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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