説教:
『わたしたちを担ってくださる神様』
2020年9月13日
恵老の日主日礼拝より
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:イザヤ書46章1-4節、
ルカによる福音書15章1-7節

1、恵老の日を覚えて
*本庄教会では9月の第2週目を「恵老の日」礼拝としておささげしています。この後、8名の80歳以上の兄姉を覚えて、健康と歩みが神様によって祝福されますようお祈りをいたします。さて、本庄教会では「けいろう」という言葉を、「恵み」に「老い」と表記していますが、ここには「老い」ということへの一つの信仰的な姿勢が表わされていると思います。本庄教会で、本日「恵老の日」をお祝いするということは、恵老祝福を受けられる兄姉方のこれからの歩みに主の祝福とお支えを祈り願うと同時に、これまで兄姉が本庄教会に仕え、それぞれが信仰の歩みを証しする者とされた主の恵みに感謝する時でもあるのです。
*兄姉、お一人お一人に命を造り与えて下さった主なる神様。そして、命の誕生から今日にいたるまで、それぞれに出会い、導き、救い出して、今まで共に寄り添い、共に歩んでくださったイエス様の恵みを思い起こし、感謝をおささげしたいと思います。また、私たちも恵老の兄姉と本庄教会で出会い、礼拝の交わりを通じて、共に主の救いの恵みに連なり、神の家族とされているこれまでの歩みを主に感謝し、恵老の兄姉が生涯を通じて証ししてきた主の救いの御名を、私たちも共に心から賛美したいと願います。
*
2、バビロン捕囚の地での不安と嘆き
*イザヤ書46章1節から4節を共にお読みしました。そこでは、40章から始まる、主なる神様の神の民への預言が語りかけられているのです。特に、この46章の箇所には「背負う」という言葉が繰り返し登場します。まず1節~2節には人間によって重荷として担がれる偶像について語られます。ベルとネボと呼ばれる二つの名前が出てきますが、これらは紀元前6世紀の初めにイスラエルを侵略し、イスラエルの民を捕虜として連れ去ったバビロン帝国において、ベルは別名マルドゥークとして知られていたバビロニアの守護神、ネボは文学と農耕の神として崇められていた、偶像の神々の名前です。さて、これらのベルとネボは、別々の神殿で崇められていたそうなのですが、新年を迎えるごとにネボの神殿とベル(マルドゥーク)の神殿との間で行進行列が行われていたそうです。その儀式の中で、これらの像が家畜や船に乗せられて行きかうということがあったようです。
*こうした、様々な偶像が祭り上げられているバビロンの文化の中で、そこに捕虜として連れてこられたイスラエルの人々の心の内はどのような状態だったのでしょうか。捕囚の民とされていたイスラエルの嘆きは、旧約聖書の哀歌にその嘆きの歌が語られています。また、詩編の137編には、バビロンでイスラエルの人々が覚えた嘆きがストレートに歌われています。
「バビロンの流れのほとりに座り、シオン(つまりエルサレム神殿の丘)を思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして、『歌って、聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で。」(詩編137:1~4)。
*天地万物を創造された真の神を礼拝していた民が、彼らの礼拝所であったエルサレム神殿から引き離され、異国の地に捕囚の民としての生活を余儀なくされてしまったのです。
*自分たちの心が主から離れてしまったから、民の中の弱きものを顧みず、富や名声に溺れて不正を行い、神様よりも政治的な権力や近隣諸国との軍事的な同盟を頼りとしてしまったから、主なる神様はそのような過った歩みを徹底的に裁かれているのだと、感じていたかもしれません。しかし、その裁きの先に、神様が再び彼らを憐れんで、顧みてくださるのかということが大きな問いであったのです。
*先ほどの哀歌でも、嘆きの中で祈りを閉じています。
「なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか。主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました。」(哀歌5:20~22)
*遠くバビロンで捕囚とされてしまった彼らの内側には、喜びや希望はすっかり消えてしまっていたのです。もし、このままこの地で主なる神様からの助けの手がなければ、わたしたちはバビロンの民と一緒に、このべルとネボを担ぎ上げるものとされてしまうのだろうか。真の神様であられる主の御名を忘れないようにと自らに言い聞かせながらも、いつかはベルとネボを拝むものになってしまうのではないか…そのような不安が彼らの心の内にあったかもしれません。
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3、担い、背負い、救ってくださる神様
*しかし、主なる神様は決して神の民をお見捨てにはならないことをはっきりとお示しになるのです。本日読まれたイザヤ書46章では、真の神様とは、ベルとネボのように、担ぎ上げられるものではなくて、命を創造して与えた者を慈しみ、苦難のなかで心身共に疲れて嘆く彼らを背負ってくださる御方なのです。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
(イザヤ46:3-4)
*このイスラエルと同じく、私たちも神様を信じるものとされ、この主日の礼拝へと招かれています。御子イエス・キリストの十字架の恵みによって神様の民に連なるものとされた私たちは、イスラエルの民と同じく、胎を出た乳児の時から、齢を重ねて白髪となるときまで、すべての歩みが神様によって支え導かれているのです。
*この3節は、聖書の翻訳によっては、「生まれる前から神様によって背負われてきた」と翻訳しているものもあります。これは、イザヤ書44章2節で「あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主」と言われていることから来ている解釈だと思われます。私たちは目に見える、形のあるものに信頼して、心を寄せる傾向があります。しかし、神様は私たちが形づくられる前から、私たちに命を与え、そして今日この日まで、生きるものとし、神を信じるものとなるように、導き、救い出してくださっているのです。
*「生まれる前」から主に選ばれ、担われていたのですから、私たちが地上の歩みを終えて、神様の御もとに向かうときにも、「わたしが担い、背負い、救い出す」と約束してくださるのです。神様は、現在の私たちの在り方に関わらず、神様に背いていると思う時も、心がかたくなにされ主を離れてしまったと思う時も、ただ神様の一方的な恵みの中で、私たちを主の近くへと招き、救い出して下さるのです。私たち、一人一人にはすでに神様から大切な命が与えられています。しかし、その命は神様の憐れみの中で、私たちを助け、担ってくださる主の御手の中で、初めて命の輝きを与えられ、神様の恵みに結ばれて生きることの喜びと平安が与えられるのです。この命の輝きは、私たちの地上での生涯だけで終わってしまう輝きではありません。地上の肉体の死を迎えるときも、やがて私たちの体が甦らされ神の国へと招き入れられる時の輝きでもあるのです。
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4、失われた一匹を捜し出すイエス様の愛
*私たちの体の死によっても終わることのない、命の輝きを、神様は主イエス・キリストを通じて示してくださいました。私たちの救い主であられるイエス様も、天地万物を造られた父なる神様と共に、私たちを担い、背負い、救い出してくださいます。ルカによる福音書15章には、見失った羊のたとえが語られています。この物語の中では、羊飼いが神様で、迷い出た羊が罪人である私たち人間を指し示しています。
*さて、このたとえ話の中で、この羊飼いは一匹を見失ったことが分かると、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回」(ルカ15:4)るのです。この「野原」というのは「荒れ野」という意味です。本来、羊たちはお互いの背後にくっつくようにして群れをなして行動します。ですから、群れをなしていれば、これ以上逸れていく羊はないからと判断したのでしょうか。しかしながら、荒れ野には野獣など様々な危険が潜んでいます。その中に99匹を残してまでも、失われた一匹を捜し出そうとするのは、神様の徹底的な憐れみと、救い出そうとする神様の愛の力強さがここで語られているのです。失われた一匹を見つけ出すと、「喜んでその羊を担いで」(ルカ15:5)友達や近所の人と祝うのでした。
*このたとえ話は7節に、このように纏められています。「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
*このたとえ話は、決して、私たちを「九十九匹」の羊か、または「一匹」の羊かと仕分けることを目的としているのではありません。むしろ、私たちの誰もがこの〝一匹の迷い出た羊のように、罪によって迷い出てしまった存在〟なのです。ところが、イエス様はその「一匹」である私たちをも憐れみ、私たちの長所や賜物、秀でたところだけではなくて、むしろ私たちの弱いところ、罪の部分をも含めて、私たちの存在すべてを担っていてくださるのです。
*イエス様の生涯の働きを記した福音書の中で、イエス様はこうおっしゃっていました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23) こうおっしゃった時、イエス様はこれに合わせて、ご自身が十字架で遂げられる死と、そして三日目に復活されることもあわせて約束されていたのです。私たちが日々担うべき十字架は、すでにイエス・キリストによって、すでに担われているのです。そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負
い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28~30)と悔い改め、赦しの恵みを受け取るようにと、招いてくださっているのです。また、この恵みの福音を分かち合うものとして私たちは遣わされて行くのです。
*試練や困難の中にあっても、イエス様が私たちよりも先に、その重荷を担ってくださっていることを覚えたいと思います。キリストの霊によって導かれて、この本庄教会において、日々を共に耐え忍び、喜びを分かち合う神の家族とされていることに感謝しつつ、共に歩みたいと願います。
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祈り
慈愛に満ちたもう天の父なる神様。あなたの御名を賛美します。
*今日は共に「恵老の日」を覚えて礼拝をおささげしています。本庄教会の群れには、8名の80歳以上の兄姉が与えられています。兄姉は、これまで本庄教会に尽くし、信仰の継承のために仕えて下さいました。この恵みに感謝いたします。私たちもこの証しを受けて、主に結ばれて神の家族として歩むことの喜びを一人でも多く方にお伝えし、信仰を継承していくものとさせてください。
*それぞれの歩みにおける、喜びや悲しみ、課題や葛藤は異なりますが、あなたはその一つ一つの生涯を受け止め、キリストに共に結ばれる者とされている恵みに感謝します。私たちは生まれる前から、またこの世の生涯を閉じて天国に行くときにも、主がすべてを担っていてくださっています。この主と共に、主に信頼し喜びと平安の中を歩むことができますように。
*今コロナ禍で、特に施設に入所されている兄姉は、ご家族との面会ができず、つらい時期となっています。どうか主が慰めと平安を豊かにお与えください。また、会堂に共に集えず、インターネットを通して礼拝に参与されている方もおられます。どうか、そのお一人お一人に変わらぬ恵みと平安をお与えください。どうか、再びこの会堂で共に集い、主に礼拝をおささげすることができますよう、1日も早くコロナウイルスを終息させてください。
この感謝と願いを尊い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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説教:
『あなたがたに平和があるように』
2020年8月2日平和聖日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:創世記2章7節、
ヨハネによる福音書20章19-23節

1、戦後75年を振り返り
*今日は、日本基督教団では「平和聖日」として礼拝をささげています。
*今から75年前の8月6日広島に、9日長崎に、人類初めて戦争のために原子爆弾が投下されました。この衝撃で、太平洋戦争を始めた日本が、ようやく、14日に連合軍によるポツダム宣言を受諾し、15日正午、天皇によるラジオ放送で、日本が無条件降伏したことが国民に知らされました。こうして、第二次世界大戦が日本の敗戦として終結したのです。内務省の記録によると、戦死者約213万人、空襲による死者約23万人と言われています。
*週報の解説にあるように、この平和聖日は、原子爆弾の被爆を受けた西中国教区の教師・信徒たちが広島原爆投下の日を覚えて「平和聖日」として守るように教団に要請したとあります。広島・長崎の世界で初めての原子爆弾の被爆の悲惨な体験から、再び原子爆弾は使われてはならないと言う願いが、平和を祈る聖日を守る要請になったと思われます。
*この願いと祈りは、今や世界中の人々によって国際連合における核兵器軍縮会議から「核兵器禁止条約」の成立となり、日本はその批准を求められています。しかし、私たちが忘れてはならないのは、太平洋戦争を始めたのは日本国で、日本国はアジア諸国の加害者であったということです。朝鮮、中国、フィリピン、インドネシア、タイなどの東南アジア諸国に侵略し、その戦いで一般人を入れて約二千万人の死者を出しているのです。
*75年も経つと、太平洋戦争と言うと、広島・長崎の被爆だけが残って、日本が戦争を始めた加害者であることを忘れ去りがちなのではないでしょうか。私は77歳で、戦争が終わった時は、まだ3歳です。ほとんど戦争中の記憶はありません。私よりも年上の方々は、まだまだ、戦争中の記憶がおありなのではないかと思います。戦争の悲惨さを忘れないで、平和を造り出す者として立つために何ができるのでしょうか。
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2、戦争はなぜ起きるのでしょうか
*戦争は、自分の価値観や自分の国の利益を優先すると言う、人間の自己中心から起きます。自分の考えや利益を第一とするから、人と人との喧嘩、国と国の戦争が起きるのです。
*私たち人間は、神様から共に生きるように造られたにもかかわらず、その神様を見失い、神様を信じないために自分中心になってしまいます。その根本は、神様を第一として神様と向き合おうとしない、神様に背いている人間の「罪」なのです。
*その人間の罪を赦して、神様と共に生きるように道を開いてくださったのがキリストの十字架の死なのです。皆さん一人ひとりにとって、キリストは〝この私の罪を赦すために〟身代わりとして十字架の上に死んでくださったのです。神様は、御子キリストの命を犠牲にしてまでも神様に背いていた〝罪人のこの私を愛して〟くださっているのです。これが十字架の愛なのです。3日目に死から復活されたキリストは、罪赦されて神様と共に生きる私たちを励まし、導いてくださるのです。
*イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と言われています。
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3、復活のキリストによる平和
*人間の本当の平和は、神様と共に生きることなのです。そのことを、いつも礼拝の終わりの派遣の言葉としてお読みしているヨハネによる福音書20章21節の御言葉から聴きたいと願います。
*週の初めの日の夕方、イエス様が復活された日曜日の夕方です。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家に鍵を掛けて隠れていたのです。イエス様を十字架に架けたユダヤ人たちが、その仲間である自分たちをも捕らえるのではないかと恐れて、鍵を閉めて隠れていたのです。
*そこへ、復活されたイエス様が来られて真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。そしてイエス様は、御自分の手とわき腹をお見せになりました。それは、十字架に釘付けにされた手の傷跡、槍で刺されたわき腹の傷跡でした。弟子たちは、死んだはずのイエス様であることを見て喜んだのです。
するとイエス様は重ねて言われました。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言われてから、彼らに息を吹きかけて言われました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
*今日のこの出来事から、幾つかのことを学び聴くことができます。
2、戦争はなぜ起きるのでしょうか
(1)復活のイエス様による「平和」
*復活のイエス様は、人々を恐れ、鍵を堅く締めて隠れている弟子たちの中に入って来られて、「平和があるように」と言われたのです。
*私たちキリストを信じている者も、日々の生活の中に、人間関係、病気、仕事、老齢化などのさまざまな恐れと不安の中に置かれています。しかし、イエス様は、そうした私たちに対して「平和があるように」と声をかけて一緒にいてくださる方なのです。「平和」と言うのは、ギリシャ語で「エイレイネ」と言い、ヘブル語では「シャローム」と言います。「平和がありますように」とは、当時は、挨拶の言葉になっていました。しかし、イエス様が言われた「平和」は単なる挨拶ではなかったのです。
*ヨハネによる福音書14章27節に
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。」と言われています。
*マタイによる福音書の28章19~20節で、復活されたイエス様が、ガリラヤの山の上で、弟子たちと会って、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と宣教命令を述べられた最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されておられます。
*イエス様が与えて下さる「平和」は、争いや戦争がないという平和ではなく、世の終わりまで、どんな争いの時でも、どんな困難や病気の時でもご一緒にいてくださるという「平和」なのです。
*がん哲学カフェの提唱者の樋野興夫医師は、「がんという病気があっても、病人でないように生きる」と言っておられます。復活のイエス様が、どんな時でもいつも一緒にいてくださると思うから、病気であっても病人でないように生きることができるのです。
*私は、2007年以来、腎臓がんで右腎臓の摘出、腎臓がんの再発、前立腺がんと、この13年間、ずっとがんと共に歩んでいます。しかし、復活のイエス様が全てをご存じでご一緒だと思うと、心が平和な生活ができ、主の御業に仕えていくことができているのです。本庄に来てから、がんの方々と集まる「本庄がん哲学カフェ」で〝がん友〟の交わりも許されています。
(2)「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」
*父なる神様が、御子イエス様をキリストとしてこの世に遣わしてくださったお陰で
私たちは神様に対する背きの罪が赦され、神様と共に歩む「平和」を与えられているのです。
*このキリストによる平和を知った者が、人間の根本的な平和はイエス・キリストのもとにあることを周りの方々に伝え分かち合うために、私たちは遣わされるのです。
(3)「聖霊を受けなさい」
*イエス様は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのです。
*息を吹きかけてと言うことで、創世記2章7節の神様が人を最初に造られた時のことを思い起こします。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
*このことから分かることは、恐怖におののいて、死んだようになっていた弟子たちに新しい命の息・聖霊を吹き入れることによって、この時、弟子たちは再創造されて、神様と共に生きる者とされたということです。
*私たちも、聖霊の導きにより、イエス・キリストを信じた時に聖霊を受けて、新しく再創造された者となったのです。見失っていた「神のかたち」を回復することができ、御言葉に聴き、神様を「アッバ、父よ」と呼んで祈り、神様と共に歩む者とされたのです。
*この聖霊を受けて新しく生きる者とされた信仰者たちに与えられている特権は、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言う「罪の赦しの務め」であります。
*人間は誰もが心の平和を求めています。本人が自覚していないのですが、平和を妨げている罪の赦しを求めているのです。「あなたがたが赦せば」と言われているように、あなたがたとは教会の群れなのです。
*教会の務めの第一は、罪の赦しなのです。自分たちがキリストの十字架の贖いによって罪が赦されたように、キリストの十字架は全ての人々の罪の赦しのために立てられているのです。人の罪を赦すということは、その人の存在を愛することなのです。
*ですから、イエス様は「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われるのです。
*私たち人間は、たとえキリストを信じていても、教師であっても、信徒であっても、罪深い行いをしてしまいます。しかし、どんな罪深いことでもキリストが赦してくださったように、互いに赦し合い、愛し合うのが教会なのです。教会という群れは、赦し合う者の歩みなのです。
*「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマの信徒への手紙5:20)と言われていますが、どんな罪も互いに赦し合う事が多ければ多いほど、恵みも増し、愛の豊かな教会になるのです。人目を気にしてピリピリするのではなく、互いに赦し合い、受け入れ合う愛の豊かな教会にしましょう。そのためには、「聖霊を受けている」ことを自覚し、聖霊のお導きを忘れないように歩んで行きましょう。
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祈り
父なる神様、
*平和聖日を覚えて、本当の平和はどこにあるのかを御言葉を通して思いを深めることができ感謝します。戦後75年の平和の中にある私たち、日本が戦争を仕掛けてアジア諸国を悲惨に陥れ敗戦になったことを忘れ去りがちであります。再び、戦争を起こすことがないようにお導きください。
*イエス・キリストを通して神様を知り、罪赦されて神様と共に歩む平和を感謝いたします。イエス様が私たちに与えてくださる神様と共に歩む平和を、まだ知らない人々に知らせ、分かち合うことができるようお導きください。
*また、日本の戦争によって悲しみや苦しみに遭ったアジアの諸国の人々と平和に歩むために私たちをお用いください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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主題:
『イエス様の教会を建て上げるために(2)』
説教:
『十字架のキリストを仰ぐ救い』
2020年7月5日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:民数記21章4-9節、
ヨハネによる福音書3章9-15節
1、「神の国」が意味するものとは
前回は、キリスト教会では、神の家族とはイエス様の建てられた教会の群れを意味するとお話ししました。その教会の群れに加えられる者は、「霊によって新たに生まれた者」なのです。
霊によって新たに生まれるとは、イエス様は自分の罪から救い出してくださるキリストと信じて、バプテスマを受けることであります。そのことを「新生」とも言います。洗礼を受けてキリスト者として歩んでいる人は皆、この新生体験をしているのです。
そこで、今日、考えたいのは、なぜ人は新しく水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできないのでしょうか。神の国とは何なのでしょうか。
私たちの周りには、「新しく生まれる」とか、「神の国に入る」とか言わなくても、結構、楽しく充実した人生を生きている人々が多いように見えます。
私たち日本人は、いろいろな宗教行事を楽しんでいます。正月には神社に初もうで、二月には節分で、その年決められた方を向いて恵方巻を食べ、三月にはお雛祭りをします。五月には端午の節句としてこいのぼりを上げ、夏、秋の神社の祭りで神輿を担ぎます。十二月にはサンタクロースのプレゼント、ケーキとクリスマスを楽しみます。子供の頃は七五三で神社に行き、青年になるとキリスト教式の結婚式、死んだら仏式の葬式などと、いろいろな宗教行事を生活の中に取り入れています。
何も霊的に生まれ変わらなくてもいいのではないかと思われる日本人が多いかとも思います。こうした日本に住む私たちに「神の国」が意味するものは何なのでしょうか。
*
2、天地万物の造り主と「神のかたち」
私たちが信じる神様は、どんなお方なのでしょうか。
「神の国」とは、聖書では〝神の支配〟を意味します。神様を信じて、神様の御支配の中に生きることが、神の国に入るということなのです。
その時に、キリスト者たちが信じる神様は、天地万物の造り主を神様とします。神様は、御自分に似せて人間を「神のかたち」として造られたのです。
「神のかたち」とは、神様に「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)と記されているように、神の息、即ち「神の霊」を吹き込まれた存在なのです。
ですから、最初に造られた人間は、神様と霊的に交流ができ、神様の御言葉に従い、神様の祝福の中に生きるように造られたのです。
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3、人間の神への背信・罪
しかし、アダムとエバが、蛇の誘惑によって神のように善悪を知る者となりたいと思い、神様が食べると必ず死ぬと言われていた禁断の木の実を食べて、神様に背き、神様から離れてしまったのです。これが罪の始まり、〝原罪〟と言います。
しかしながら、神様は人間を祝福して「神のかたち」として造られたゆえに、やがて、アブラハムを選び出して命じました。
「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12:2~3)
神様は、アブラハムを選んで、〝地上の氏族のすべての祝福の源〟とされようとしたのです。やがて、アブラハムの子・イサク、イサクの子・ヤコブから生まれた12人が、イスラエル民族となったのです。
神様は、地上のすべての人々を祝福へと導くために、イスラエル民族を用いられたのです。モーセを用いて、エジプトの奴隷状態にあったイスラエル民族を救い出し、十戒を中心とする律法を与えて、全ての民族の祝福の源となることを願われたのです。
しかし、この民は、今日読んで頂いた民数記にあるように、神様とモーセに逆らって「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と不平を言うのでした。このような繰り返しの中に、荒れ野を40年さまよい、約束の地・カナンに入り、12部族に土地が与えられます。
ところが、イスラエルの民は、神様を信じるだけは物足りなくて、周囲の国々のように国を治める王を求めます。そして立てられたのが初代のサウル王、2代目のダビデ王でした。神様はダビデの子孫から世界を治める王、メシアを立てると約束されます(サムエル記下7:12~13)。
ダビデ王の後、ソロモン王が立てられ、その後、王国は北イスラエルと南ユダに分裂します。十戒の第一戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト20:3~4)と命じられているにも関わらず、周囲の国々の偶像を崇拝するようになりました。その罪が神によって裁かれて、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされてしまいました。神様が祝福の源となるようにと用いようとしたイスラエル民族も、結局は、その期待に応えることができなかったのです。
しかし、神様は憐れみ深い御方です。バビロンに捕虜として連れ去られたユダ王国の人々は、約70年後、紀元前538年、ペルシアの王キュロスによって、解放されて故国に帰還することができました。そして更に、およそ500年後に神の御子・イエス様の誕生となるのです。神様に繰り返し背いたイスラエルの歴史でしたが、造り主である神様は、全ての人間が、神の祝福のもとに造られていることを知らしめるために、イスラエル民族から神の御子・イエス様を地上にお送り下さったのです。
*
4、青銅の蛇の出来事
神様に繰り返し背いたイスラエルの民の姿は、私たち人間一人一人の姿であるのです。そう思って、民数記の出来事をもう一度見てみたいと思います。
民たちは、神様とモーセに逆らい「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と不平を言っています。
神様は、この不平を言って逆らう民を裁くために罰として「炎の蛇」を送ったので、蛇は人々をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。
「炎の蛇」と言うのは、かまれると焼け付くような痛みと激しい毒のためにこう呼ばれているのです。また、その地方の蛇には赤い斑点があり、陽の光が当たるときらきらと輝くことからそう呼ばれたとも言われています。
民たちは、モーセのもとに来て言っています。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」
モーセは民のために主なる神様に祈りました。すると神様はモーセに言われました。
「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」と。
モーセは、命じられたとおりに、青銅で一つの蛇を形づくり、旗竿の先に掲げました。蛇にかまれた人たちが、青銅の蛇を仰ぐと命を得たのでした。
ここで、注意して理解しなければならないのは、青銅の蛇自体に救う力があるのではないのです。「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」との、神様の約束を信じて仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れることができたということです。
この旗竿の先に掲げられた青銅の蛇に対して3人の人の姿を考えてみました。
① ある人は考えました。「旗竿の上につけられた青銅の蛇を見ることによって救われるのだと、そんな非科学的な迷信みたいなことに惑わされるものか。自分の理性が許さない。」そしてその人は死んで行きました。理性的、科学的に考える人です。
② ある老人は思いました。「自分の長い人生経験の中で、そんなことはいまだかつて一度も見なかった。そんなバカげたことで人が救われるという知らせは、人を惑わす以外の何ものでもない。私は信じない。」そう言ってその老人も死んで行きました。体験・経験を重要視する人です。
③ しかし、しかし、苦しみの余り、藁にもすがる思いで、旗竿の見えるところまでやって来て、その上に掲げられていた青銅の蛇を見た人は救われたのです。神様の御言葉を信じる人です。
ここで、ニコデモとイエス様とのやり取りを見てみます。
イエス様が「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われました。するとニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。
そこで、イエス様は答えられました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく(アーメン)。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」
ニコデモは、イスラエルの教師で、律法を守ることを大事にし、人々から尊敬も受けている人でした。彼は、律法をどう守り、どのように行うかについて理性的に指導できる経験豊かな人でしたが、しかし、イエス様の話される霊的なことが受け入れられなかったのです。
人間の理性や人間の経験からだけでは、神様の霊的なことは受け止められないのです。私たちでも同じです。幸い、イエス・キリストを信じる人々は、聖霊なる神様の助けと導きをいただくことができているから、霊的なことが分かるのです。しかし、今日のキリスト者も聖霊を受けていることの自覚が無いと言うくらい薄いのです。私も、韓国の教会と交流して、聖霊を受けていることの重大さに気づかされたのです。
今日読んだヨハネによる福音書の14節に、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と御自分が高く上げられることについて、民数記の出来事に言及されています。ここで「人の子」と言うのは、イエス様御自身のことを指しておられ、「高く上げられる」とは、十字架に架けられることを指しておられます。
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5、十字架を仰ぎ見る者の証し
イエス様は、旗竿の上に掲げられた青銅の蛇のように、神様に繰り返し背いて来た私たち人間の罪を裁きから救うために、私たちの身代わりとなって十字架にかかって下さったのです。その十字架のキリストを仰ぎ、救い主だと信じる者が罪の裁きから救われるのです。
神様から「神のかたち」として祝福されて造られた人間は、あのアダムとエバが蛇に誘惑されて以来、今日に至るまで、蛇の誘惑によって、罪に陥れられ、その罪のために死ななければならない運命に置かれています。それは、ちょうどイスラエルの民が荒れ野で神様につぶやき背いて、毒蛇にかまれた時の状態のようなものです。
憐れみ深い神様は、モーセに命じて青銅の蛇を旗竿の上に上げさせて、「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」との約束を信じて仰ぎ見た者は救われたように、御子イエス・キリストが人間の罪の贖いの犠牲として架けられた十字架を仰ぎ見る者を救われるのです。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と約束されているのです。
罪なき神の御子イエス様が、神様に背いて「神のかたち」を失っていた人間のために、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈りつつ、罪人の身代わりの死を遂げて下さったのです。その十字架のキリストを仰ぎ、自分の罪の赦しのために死んでくださった救い主と信じる者が罪を赦されるのです。そして見失っていた「神のかたち」を回復し、神様を「アッバ、父よ」と呼びかけて祈り、霊的な交わりができるようになったのです。御子イエス様が復活して天に昇られた後、御自分に代わる助け主・弁護者として聖霊を私たちに遣わし、信じる者と永遠に一緒にいるようにして下さったのです。
私たちが今、〝天の父なる神様〟と呼んでお祈りができるということは、「神のかたち」を回復したからです。神のかたちを回復したということは、神様と霊的な交わりができるようになり、神様の御心が分かり、神様に喜んで従い、共に生きることです。聖霊なる神様が永遠に共にいて下さることは、私たちは永遠に造り主である神様と共に生きることです。
今、この地上に生きる時も、また、地上の生活を死によって閉じて天に行った時も、神様と共に生きることができるのです。これが永遠の命であり、「神の御国に入る」ということなのです。
キリストの福音と言うのは、十字架のキリストを仰ぐ者として罪が赦されたと言うことにとどまらず、「神のかたち」を回復して生きるということです。
罪のために滅ぶべきものであった者が、「神のかたち」として神様と霊的に交わって生きることができるのですから、「キリストの十字架を仰ぐ救い」は、嬉しい、喜びの知らせなのです。十字架のキリストを信じる者は皆、「神のかたち」を回復し、永遠の命を得ることができるのです。
今日、この後に与るパンと杯の聖餐式は、ここに集まる者たちが「神のかたち」を回復して生きていることの具体的なしるしであります。感謝と喜びを持って聖餐に与りましょう。
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祈り
父なる神様、
新型コロナウイルス感染の心配の中にも私たちの健康を守り、礼拝を共にささげることのできることを感謝いたします。
私たちは神様の祝福のもと霊的に生きるようにと「神のかたち」に造られたにもかかわらず、背きの罪の中を歩み、滅ぶべき者でした。しかし、聖霊なる神様のお助けによって十字架のイエス様を仰いで、罪が赦され「神のかたち」を回復して生かされていることを感謝いたします。
あなたは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことを願っておられます。
神様が、独り子であるイエス様を十字架に架けてまでも、人間一人ひとりを救おうとして愛してくださってるこの御愛を心から感謝して、まだ知らない人々に分かち合うことができるようにお導き下さい。
「神のかたち」を回復して、神様と共に霊的に生かされている具体的なしるしとして、感謝と喜びを持って聖餐に与らせてください。
世界中の人々が、新型コロナウイルス感染の恐怖の中に置かれています。この病気の収束の上にあなたの憐れみをお与え下さい。
この時、人々が十字架のキリストを仰いで救いを得ることができるように、あなたの憐れみとお導きを祈ります。
主イエス・キリストの御名によって、
アーメン。
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