主題:
『イエス様の教会を建て上げるために(1)』
説教:
『霊によって新たに生まれた者』
2020年6月28日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:エゼキエル書37章9節、
ヨハネによる福音書3章1-8節
1、ライブ中継での家庭礼拝を顧みて
今、こうして教会堂に集まって礼拝を献げて、もう4回目になろうとしています。更に会堂での礼拝がずっと続くと、この前の2ヶ月間、家庭で礼拝を献げていたことが、忘れ去られてしまうのではないかと思うのです。
しかし、皆さんのお手元にある「マラナタ」6月号を見ると、4月12日のイースターから5月31日のペンテコステまでの8回の日曜日、ライブ中継を通して家庭で礼拝を献げられた皆さんの思いが記録されています。最後の頁には、ライブ中継中の礼拝堂の様子の写真も載っています。本当に礼拝堂がガランとしていますね。
そうした中で、司会者、説教者、奏楽者やヒムプレーヤ―の担当者たちは、画面を通して礼拝を献げる各家庭の皆さんを想起しながら語ったり、伴奏したりしなければなりませんでした。
こうして、皆さんのお顔を拝見しながら語ったり、賛美したりするのと違って本当に緊張しました。できるだけ画面を通して皆さんに顔を向けて語ることが出来るようにと、パソコンのカメラの方を向いて語る
のに苦心しました。
コロナウイルス感染対策として、密集・密接・密閉を配慮したライブ中継でしたが、この期間を通し、たとえ離れていても〝イエス様を通してつながっている神の家族であること〟また〝「みなさん」と呼び合うことのできる神の家族であること〟を実感させられたことは、皆さんの共通認識かと思われます。
このコロナウイルス危機を通して改めて認識した、神の家族としての実感を、私たちの信仰生活のいろいろな面でも更に共有できる教会を建て上げて行きたいと願い、祈ります。
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2、イエス様が、イエス様の教会を建てる
前回、私は、「イエス様の教会を建てる」と言うことに視点を合わせて御言葉を取り次ぎたいとお話ししました。
イエス様は、弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたことに対して、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。するとイエス様は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われたのです。(マタイによる福音書16:13~19)
私は、伝道者として教会に遣わされて以来、ずっと教会に教師(牧師・伝道師)として仕えるとはどんなことなのか、何を目指して行けばよいのかと神様に問い続けつつ歩んで来ました。
教会担任教師になると、教会の信徒の皆さんと共に歩まねばなりません。教会の教師にとって、一番大変なのは、信徒の皆さんと人間関係を、どのようにして共に歩むかということです。教会も人の集まりですから、そこに起きる人間関係のトラブルは世間と全く変わりません。信仰者の集まりだから、何の問題もないかのように思われますが、全く変わらないのです。
私も勝子牧師も、伝道者として応えるために神学校に行っていた頃は、自殺予防を目指しての「東京いのちの電話」が設立された頃でした。私たちは、電話カウンセラーとしてのカウンセリング訓練を2年間受けました。私は第2期生、勝子牧師は第3期生です。東京で5~6年電話カウンセラーとして担当しました。それから福井市の福井神明教会に遣わされました。この電話カウンセラーの訓練と電話カウンセリングの経験が、教会担任教師となってから、大変役に立ちました。今は、牧会カウンセリングと言って、教師や信徒たちと一緒に学ぶカウンセリング講座も開催されています。
教会においては、イエス・キリストを信じる者として人間関係をどう生きるかと言うことになります。その人間関係の現れ方を通して、いろいろな形の教会が現れるのです。
どうしたらキリストの体としての教会を建て上げることが出来るのか、これが、ずっと私の課題であり祈りであります。教会論についてのいろんな本も勉強しました。
ある時、ハッと示されたことがありました。今から20年ほど前です。マタイによる福音書16章13~19節の、ペトロの信仰告白に対して、イエス様の言われた言葉であります。イエス様は、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われています。イエス様が、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われている〝わたしの教会を建てる〟という御言葉にハッとしたのです。
今まで、私は自分として、キリストの体としての教会を建てるために一生懸命に学び、一生懸命祈り努めて来たと思っていたのです。しかし、イエス様は、「わたしは・・・・わたしの教会を建てる」と言われているのです。イエス様の教会を建てるのは、イエス様御自身なのです。牧師が教会を建てるのではないのです。役員や長老が教会を建てるのではないのです。人が教会を建てるのではなく、イエス様御自身が教会を建てると言われているのです。
このことに気づいてから、教会の捉え方、見方が変わって来ました。
〝この教会は、イエス様が建てられる、イエス様の教会となっているかな〟と見るようになったのです。そして〝イエス様の教会〟となっていないなら、何が妨げているのかな。〝イエス様の教会〟となることを妨げているのは、牧師かな、役員・長老かな、信徒の誰かなのかな、それとも伝統なのかな、などと見るようになりました。
それで、いろいろな教会に招かれたりして、何か話してくださいと言われると、〝イエス様は、「わたしの教会を建てる」と言われています。イエス様が建てられるイエス様の教会になっているかよく自己吟味してくださいね〟と言っているのです。
これから、イエス様の教会となるために、いろいろと教会の姿の断片を語ったりしますが、本庄教会のことを言っているのではありません。もちろん、本庄教会も〝イエス様の教会となる〟ことを願って語っていますから、指摘が当たっているところがあったら、互いに改善して、〝イエス様の教会〟により近づいて行きたいと願います。
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3、主が用いられる信徒とは、霊によって新たに生まれた者
イエス様が建てられる教会と言う「教会」は、ギリシア語で「エクレシア」と言い、「信徒の群れ」を意味します。教会は信徒の群れなのです。どのようにして信徒を建て上げると、「わたしの教会」と言われるイエス様の教会になるのかということです。そこでイエス様が建て上げに用いられる「信徒」とは、どんな人なのかを、今日の御言葉から学びたいと思います。
ユダヤのファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員であるニコデモが、ある夜、イエス様を訪ねて来た時の対話が今日の出来事です。
最初に、ニコデモと言う人は、どんな人だったのかについて話します。
(1)ファリサイ派に属する人です。
ファリサイ派の信者と言うと、聖書には批判的に書かれていますので、悪い人間で偽善者と思われがちです。実は、当時のイスラエルにおいて、ファリサイ派の人は、ユダヤ教の中で正統的な信仰を持っており、旧約聖書の権威を信じて、実践している立派な人たちというのが一般的イメージでした。当時、6千人ほどいて、その多くは人々から尊敬を受けていたそうです。ニコデモは、そのようなファリサイ派に属していたのです。
(2)ユダヤ人の議員でありました。
ユダヤ人議会と言うのは、ユダヤ人の政治的議会だけでなく、ユダヤ教の最高の議会でもありました。全国から選ばれた、70人の祭司、長老、学者から成る最高議決機関でした。「サンヘドリン」(70人議会)と呼ばれていました。ニコデモは、ユダヤ人議会の議員で有力な指導者の一人であったのです。
(3)ギリシアの教育を受けた人でした。
ニコデモと言う名はギリシア式の名前で、「民の征服者」と言う意味です。当時、ユダヤ人でありながら、このようなギリシア名を持つ人は、上流階級で、ギリシアの教育を受けていた人でした。
このように、ニコデモは、当時、ファリサイ派の人として尊敬を受け、ユダヤ人議会の有力な人で、ギリシアの教育を受けた上流階級の人で、ユダヤ教の熱心な指導者でありました。
このニコデモが、「ある夜」イエス様を訪ねて来たのです。なぜ、ニコデモは、夜に訪ねて来たのでしょうか。ニコデモは、ユダヤ人の指導者として年配者だったと思われます。一方、イエス様は30歳でメシアとしての公の生涯を歩みだされましたから、年若いのです。
ユダヤ人の有力な指導者である年配のニコデモは、まだ年若い、当時のユダヤ教では受け入れられていないイエス様のもとへ人目を避けて、夜、訪ねて来たのです。
しかも、年配のニコデモは、年若いイエス様に対して「ラビ」(先生)と呼びかけています。ここにニコデモの強い求道心があったとも言えます。
ニコデモは、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言っています。ニコデモは、イエス様のなされたしるし・奇跡を見て、神様が共におられると受け止めて、イエス様にお会いしたかったのです。
イエス様は答えて言われました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
この「はっきり言っておく」は、原語では「アーメン」なのです。イエス様が真実にかけて約束される時は、アーメンと最初に言われるのです。口語訳では「よくよくあなたに言っておく」、新共同訳の新しい訳では「よくよく言っておく」と訳されています。
「新しく生まれる」の「新しい」とは、〝上から〟〝天から〟という意味でもあるのです。これは、神様によって生まれる誕生を意味します。ですから、“神によって生まれなければ、神の国を見ることはできない”となるのです。
しかし、ニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えています。イエス様は、神様のこと、霊的な話をされたのに、ニコデモは、霊的なことを全く理解できませんでした。「生まれる」と聞くと、赤ちゃんとして生まれて来る肉体の誕生を考え、人間的な肉的な視点からしか聞くことが出来ませんでした。
イエス様は更に言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と。
「水と霊によって生まれる」の「水」はバプテスマの水を指し、「霊」は聖霊のバプテスマを指すと考えて良いのです。すなわち、聖霊によって「イエス様は救い主」と告白し、罪を洗い清めるバプテスマを受けて聖霊の支配に与ることによって、神の国に入るということなのです。
皆さんが、イエス・キリストを信じて洗礼を受けたあの時のことなのです。
「神の国を見る」「神の国に入る」と言う「神の国」は、3章16節に言われている「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言われている「永遠の命を得る」と同じことを意味しています。
イエス様は、水と霊の洗礼を受けて霊的に生まれ変わる者が神の国に入る、即ち永遠の命を得ることになると言われたのです。
イエス様は「風は思いのままに吹く」と言って、霊によって新しく生まれることを風の動きにたとえて説明しています。
「風」はギリシア語で「プニューマ」と言いますが、「霊」の意味も持ちます。
風が吹いても、見えないのでどこから来て、どこに行くのか分かりません。だだ、風が吹いて来た結果、現象として音が聞こえ、煙や雲をたなびかせるのを見ることができます。それと同じように、神の霊によって生まれる時も、人間の目で霊の働きを直接見ることはできませんが、霊がその人を生まれさせて下さると、キリストを信じて生きるその人の生き方が変わるので、誰の目にもよくわかるのです。結果として分かるということです。
以上から分かるように、イエス様がイエス様の教会として建てるために用いられる信徒は、水と霊によって生まれた人、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた信徒なのです。
当時、世間ではファリサイ派の人として尊敬を受け、ユダヤ人議会の有力な人で、ギリシアの教育を受けた上流階級で、ユダヤ教の熱心な指導者であったニコデモが、霊的な誕生を理解できなかったように、霊的なことが理解できない人がいるのです。
イエス様は、この世でどんなに評価を受けているかどうかで用いられるのではないのです。新しく、水と霊によって生まれて、神の国に入ることのできた人々を用いられるのです。
このように言うと、皆さんは、「私は新しく生まれているのだろうか」と不安になるかと思います。ご安心ください。イエス様は次のように言われています。
ヨハネ福音書1章12~13節、
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
「言」は、御子イエス様のことです。「資格」は、特権、権能とかにも訳されています。
御子イエス様は、御自分を受け入れ、「イエス様は神の子・キリストである」と信じてバプテスマを受けた人々に、神の子となる資格(特権、権能)を与えられるのです。キリストを信じる人々は、神様が生まれ変わらせて下さったのであって、決して人間の血のつながりや身分や地位によってではなく、人間の願望や意志によるのでもありません。ただ神様が御心によって生まれ変わらせて下さるのです。
イエス様が御自分の教会を建てるために用いられる人とは、イエス・キリストを信じて新しく霊的に生まれた信徒たちなのです。キリストを信じて、神様の御言葉を聞いて、神様と共に歩もうと礼拝を献げている皆さんを、イエス様は用いて下さっているのです。そのことを信じて感謝いたしましょう。
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祈り
父なる神様、
会堂で共に集まって礼拝を献げることを再開して、4回目の礼拝を守ることができて心より感謝いたします。ライブ礼拝によって献げられた家庭礼拝を通して、キリストに結び付いた神の家族であることを実感できたことを感謝いたします。
今日は、教会は人が建てるのではなく、イエス様が御自身の教会を建てられることを、改めて御言葉から聞きました。そして、イエス様が教会を建てるのに用いられる人々は、新しく水と霊によって生まれて、神の国に入れられた人たちであることも確認しました。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けている私たちは、神の子としての資格が与えられ、あなたの御体である教会を建て上げるのに用いられていることを感謝いたします。
どうか、私たちが用いられて、本庄教会がイエス様の教会として建て上げられ、キリストの恵みをこの町の人々に証しできますように、聖霊の御助けをお願いいたします。
コロナウイルスの感染は、まだまだ拡大しています。世界中の人々が、感染で病んで苦しんでいます。多くの方々が亡くなっています。医療の最前線にある方々の働きを支えて下さい。第二次、第三次感染が来ると心配されていますが、良い薬が一日も早く開発されて、人々が助けられ、コロナウイルスが終息しますように、神様の憐れみと御助けをお願いいたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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