2020年10月の生花

***

講壇こうだんのお花(#123)
20.10.25-flower-no.123resized

2020年10月25日の聖書せいしょから

「しかし、イエスはわれた。『どもたちをさせなさい。わたしのところにるのをさまたげてはならない。てんくにはこのようなものたちのものである。』」

(せいしょ:マタイによるふくいんしょ)
19しょう14せつ

***

講壇こうだんのお花(#122)
20.10.18-flower-no.122resized

2020年10月18日の聖書せいしょから

「わたしは、キリストとともじゅうにつけられています。きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちきておられるのです。」

(せいしょ:ガラテヤのしんへのがみ)
2しょう19せつこうはん~20せつぜんはん

***

講壇こうだんのお花(#121)
20.10.11-flower-no.121resized

2020年10月11日の聖書せいしょから

すずめいちアサリオンでられているではないか。だが、そのいちさえ、あなたがたのちちのおゆるしがなければ、ちることはない。あなたがたのかみまでもいっぽんのこらずかぞえられている。だから、おそれるな。あなたがたは、たくさんのすずめよりもはるかにまさっている。」

(せいしょ:マタイによるふくいんしょ)
10しょう29-31せつ

***

講壇こうだんのお花(#120)
20.10.4-flower-no.120resized

2020年10月4日の聖書せいしょから

ファリサイひとびとが、かみくにはいつるのかとたずねたので、イエスはこたえてわれた。「かみくには、えるかたちではない。『ここにある。』『あそこにある。』とえるものでもない。じつかみくにはあなたがたのあいだにあるのだ。」

(せいしょ:ルカによるふくいんしょ)
17しょう20-21せつ

**

▲表紙のページに戻る

null top

日本キリスト教団本庄教会
〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1
TEL 0495(22)2785

***

2020年9月の生花

***

講壇こうだんのお花(#119)
20.9.27-flower-no.119resized

2020年9月27日の聖書せいしょから

ひとは、たとえぜんかいれても、ぶんいのちしなったら、なんとくがあろうか。ぶんいのちもどすのに、どんなだいはらえようか。」

(せいしょ:マタイによるふくいんしょ)
16しょう26せつ

***

講壇こうだんのお花(#118)
20.9.20-flower-no.118resized

2020年9月20日の聖書せいしょから

「イエスはそのしょると、うえげてわれた。『ザアカイ、いそいでりてなさい。きょは、ぜひあなたのいえまりたい。』ザアカイはいそいでりてて、よろこんでイエスをむかえた。」

(せいしょ:ルカによるふくいんしょ)
19しょう5-6せつ

***

講壇こうだんのお花(#117)
20.9.13-flower-no.117resized

2020年9月13日の聖書せいしょから

「わたしにけ、ヤコブのいえよ、イスラエルのいえのこりのものよ、ともに。あなたたちはまれたときからわれ、たいときからになわれてきた。おなじように、わたしはあなたたちのいるまで、はくはつになるまで、ってこう。わたしはあなたたちをつくった。わたしがにない、い、すくす。」

(せいしょ:イザヤしょ)
46しょう3-4せつ

***

講壇こうだんのお花(#116)
20.9.6-flower-no.116resized

2020年9月6日の聖書せいしょから

「…ひとつのれいによって、わたしたちは、ユダヤじんであろうとギリシアじんであろうと、れいであろうと、ゆうぶんものであろうと、みなひとつのからだとなるためにせんれいけ、みなひとつのれいをのませてもらったのです。」

(せいしょ:コリントのしんへのがみいち)
12しょう13せつ

**

▲表紙のページに戻る

null top

日本キリスト教団本庄教会
〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1
TEL 0495(22)2785


**

マラナタ29号編集後記

本庄教会月報第29号をお届けします。

asagao

今月は、後半に本庄教会墓地の歴史と変遷を考察しました。墓地を併設する教会は少ないかと思います。参考にお読みください。
まだまだ、新型コロナウイルスの終息は遠い道のりのようです。引き続きご自愛ください。
在 主

**

**
**


***

null
null

月報『マラナタ』29号 巻頭言

説教:
『あなたがたにへいがあるように』
2020年8月2日へいせいじつれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい2しょう7せつ
ヨハネによるふくいんしょ20しょう19-23せつ

國磨呂牧師講壇

1、戦後75年を振り返り

今日は、日本基督教団では「平和聖日」として礼拝をささげています。

今から75年前の8月6日広島に、9日長崎に、人類初めて戦争のために原子爆弾が投下されました。この衝撃で、太平洋戦争を始めた日本が、ようやく、14日に連合軍によるポツダム宣言を受諾し、15日正午、天皇によるラジオ放送で、日本が無条件降伏したことが国民に知らされました。こうして、第二次世界大戦が日本の敗戦として終結したのです。内務省の記録によると、戦死者約213万人、空襲による死者約23万人と言われています。

週報の解説にあるように、この平和聖日は、原子爆弾の被爆を受けた西中国教区の教師・信徒たちが広島原爆投下の日を覚えて「平和聖日」として守るように教団に要請したとあります。広島・長崎の世界で初めての原子爆弾の被爆の悲惨な体験から、再び原子爆弾は使われてはならないと言う願いが、平和を祈る聖日を守る要請になったと思われます。

この願いと祈りは、今や世界中の人々によって国際連合における核兵器軍縮会議から「核兵器禁止条約」の成立となり、日本はその批准を求められています。しかし、私たちが忘れてはならないのは、太平洋戦争を始めたのは日本国で、日本国はアジア諸国の加害者であったということです。朝鮮、中国、フィリピン、インドネシア、タイなどの東南アジア諸国に侵略し、その戦いで一般人を入れて約二千万人の死者を出しているのです。

75年も経つと、太平洋戦争と言うと、広島・長崎の被爆だけが残って、日本が戦争を始めた加害者であることを忘れ去りがちなのではないでしょうか。私は77歳で、戦争が終わった時は、まだ3歳です。ほとんど戦争中の記憶はありません。私よりも年上の方々は、まだまだ、戦争中の記憶がおありなのではないかと思います。戦争の悲惨さを忘れないで、平和を造り出す者として立つために何ができるのでしょうか。

2、戦争はなぜ起きるのでしょうか

戦争は、自分の価値観や自分の国の利益を優先すると言う、人間の自己中心から起きます。自分の考えや利益を第一とするから、人と人との喧嘩、国と国の戦争が起きるのです。

私たち人間は、神様から共に生きるように造られたにもかかわらず、その神様を見失い、神様を信じないために自分中心になってしまいます。その根本は、神様を第一として神様と向き合おうとしない、神様に背いている人間の「罪」なのです。

その人間の罪を赦して、神様と共に生きるように道を開いてくださったのがキリストの十字架の死なのです。皆さん一人ひとりにとって、キリストは〝この私の罪を赦すために〟身代わりとして十字架の上に死んでくださったのです。神様は、御子キリストの命を犠牲にしてまでも神様に背いていた〝罪人のこの私を愛して〟くださっているのです。これが十字架の愛なのです。3日目に死から復活されたキリストは、罪赦されて神様と共に生きる私たちを励まし、導いてくださるのです。

イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と言われています。

3、復活のキリストによる平和

人間の本当の平和は、神様と共に生きることなのです。そのことを、いつも礼拝の終わりの派遣の言葉としてお読みしているヨハネによる福音書20章21節の御言葉から聴きたいと願います。

週の初めの日の夕方、イエス様が復活された日曜日の夕方です。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家に鍵を掛けて隠れていたのです。イエス様を十字架に架けたユダヤ人たちが、その仲間である自分たちをも捕らえるのではないかと恐れて、鍵を閉めて隠れていたのです。

そこへ、復活されたイエス様が来られて真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。そしてイエス様は、御自分の手とわき腹をお見せになりました。それは、十字架に釘付けにされた手の傷跡、槍で刺されたわき腹の傷跡でした。弟子たちは、死んだはずのイエス様であることを見て喜んだのです。
するとイエス様は重ねて言われました。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言われてから、彼らに息を吹きかけて言われました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

今日のこの出来事から、幾つかのことを学び聴くことができます。

2、戦争はなぜ起きるのでしょうか

(1)復活のイエス様による「平和」

復活のイエス様は、人々を恐れ、鍵を堅く締めて隠れている弟子たちの中に入って来られて、「平和があるように」と言われたのです。

私たちキリストを信じている者も、日々の生活の中に、人間関係、病気、仕事、老齢化などのさまざまな恐れと不安の中に置かれています。しかし、イエス様は、そうした私たちに対して「平和があるように」と声をかけて一緒にいてくださる方なのです。「平和」と言うのは、ギリシャ語で「エイレイネ」と言い、ヘブル語では「シャローム」と言います。「平和がありますように」とは、当時は、挨拶の言葉になっていました。しかし、イエス様が言われた「平和」は単なる挨拶ではなかったのです。

ヨハネによる福音書14章27節に
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。」と言われています。

マタイによる福音書の28章19~20節で、復活されたイエス様が、ガリラヤの山の上で、弟子たちと会って、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と宣教命令を述べられた最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されておられます。

イエス様が与えて下さる「平和」は、争いや戦争がないという平和ではなく、世の終わりまで、どんな争いの時でも、どんな困難や病気の時でもご一緒にいてくださるという「平和」なのです。

がん哲学カフェの提唱者の樋野興夫医師は、「がんという病気があっても、病人でないように生きる」と言っておられます。復活のイエス様が、どんな時でもいつも一緒にいてくださると思うから、病気であっても病人でないように生きることができるのです。

私は、2007年以来、腎臓がんで右腎臓の摘出、腎臓がんの再発、前立腺がんと、この13年間、ずっとがんと共に歩んでいます。しかし、復活のイエス様が全てをご存じでご一緒だと思うと、心が平和な生活ができ、主の御業に仕えていくことができているのです。本庄に来てから、がんの方々と集まる「本庄がん哲学カフェ」で〝がん友〟の交わりも許されています。

(2)「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」

父なる神様が、御子イエス様をキリストとしてこの世に遣わしてくださったお陰で
私たちは神様に対する背きの罪が赦され、神様と共に歩む「平和」を与えられているのです。

このキリストによる平和を知った者が、人間の根本的な平和はイエス・キリストのもとにあることを周りの方々に伝え分かち合うために、私たちは遣わされるのです。

(3)「聖霊を受けなさい」

イエス様は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのです。

息を吹きかけてと言うことで、創世記2章7節の神様が人を最初に造られた時のことを思い起こします。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

このことから分かることは、恐怖におののいて、死んだようになっていた弟子たちに新しい命の息・聖霊を吹き入れることによって、この時、弟子たちは再創造されて、神様と共に生きる者とされたということです。

私たちも、聖霊の導きにより、イエス・キリストを信じた時に聖霊を受けて、新しく再創造された者となったのです。見失っていた「神のかたち」を回復することができ、御言葉に聴き、神様を「アッバ、父よ」と呼んで祈り、神様と共に歩む者とされたのです。

この聖霊を受けて新しく生きる者とされた信仰者たちに与えられている特権は、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言う「罪の赦しの務め」であります。

人間は誰もが心の平和を求めています。本人が自覚していないのですが、平和を妨げている罪の赦しを求めているのです。「あなたがたが赦せば」と言われているように、あなたがたとは教会の群れなのです。

教会の務めの第一は、罪の赦しなのです。自分たちがキリストの十字架の贖いによって罪が赦されたように、キリストの十字架は全ての人々の罪の赦しのために立てられているのです。人の罪を赦すということは、その人の存在を愛することなのです。

ですから、イエス様は「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われるのです。

私たち人間は、たとえキリストを信じていても、教師であっても、信徒であっても、罪深い行いをしてしまいます。しかし、どんな罪深いことでもキリストが赦してくださったように、互いに赦し合い、愛し合うのが教会なのです。教会という群れは、赦し合う者の歩みなのです。

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマの信徒への手紙5:20)と言われていますが、どんな罪も互いに赦し合う事が多ければ多いほど、恵みも増し、愛の豊かな教会になるのです。人目を気にしてピリピリするのではなく、互いに赦し合い、受け入れ合う愛の豊かな教会にしましょう。そのためには、「聖霊を受けている」ことを自覚し、聖霊のお導きを忘れないように歩んで行きましょう。

祈り

父なる神様、
平和聖日を覚えて、本当の平和はどこにあるのかを御言葉を通して思いを深めることができ感謝します。戦後75年の平和の中にある私たち、日本が戦争を仕掛けてアジア諸国を悲惨に陥れ敗戦になったことを忘れ去りがちであります。再び、戦争を起こすことがないようにお導きください。

イエス・キリストを通して神様を知り、罪赦されて神様と共に歩む平和を感謝いたします。イエス様が私たちに与えてくださる神様と共に歩む平和を、まだ知らない人々に知らせ、分かち合うことができるようお導きください。

また、日本の戦争によって悲しみや苦しみに遭ったアジアの諸国の人々と平和に歩むために私たちをお用いください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

**

**

null
null

2020年説教 前半(6~1月)

*教会の住所*地図
〒367-0044 埼玉県
本庄ほんじょう見福けんぷく 3-4-1
電話:0495 (22)2785
礼拝は毎日曜日
10:30~11:45頃
どなたも歓迎!

以下の♪音声再生ボタンをクリックする(押す)とページが開きます。その後、再生ボタン()を押して頂くと説教音声が始まります。

*音声再生時の巻き戻し方法*

パソコンの方:音声の再生中・停止中に「Shiftキー」を押しながら「十字キーの左(◂)」を押します。
スマートフォンの方:再生位置表示(シークバー)に示されている掴み(現在位置)を任意の時間(巻き戻しなら左)までずらしながら移動させ、離します。

ご留意事項とお願い

*各3~5MB程度の容量です。通信量にご注意ください。
*紙の擦れる音等、除ききれない雑音が入ることもあります。特にイヤフォンで聴かれる方は、音量にご注意下さい。
*Googleの仕様のためサインインを求められることがありますが、サインインの必要はありません。基本的にそのままで音声が聞けます。サインインを求められた場合、プライベートモード・シークレットモード等でブラウザを立ち上げて頂くと、サインインせずに利用できます。
*音声リンクの他ウェブサイトへの転載・埋め込みはお控えください。
*音声再生に際してエラーメッセージ(現在、このファイルを閲覧、ダウンロードできません…)やリンクの不備がある場合は、下記リンク先のフォームにて当該説教の日付をお知らせ頂けると幸いです。修正いたします。なお不具合報告フォームでの回答はメールアドレス等の情報を必要とせず、匿名で行われます

不具合報告


他の期間の説教音声

**
2020年6~1月
**
**
**
**

2020年説教音声 前半(6~1月)

**

他の期間の説教音声

**
2020年6~1月
**
**
**
**

◇◇◇メニュー◇◇◇
表紙
初めての方へ
私たちの教会
礼拝堂 内観
集会案内
牧師紹介
Q&A
➢説教音声
年度予定
報告・お知らせ

▲ページの始めに戻る

null
null

◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇

日本キリスト教団本庄教会

〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1  TEL 0495 (22) 2785

◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇◊◇

**

2020年8月の生花

***

講壇こうだんのお花(#115)
20.8.30 flower no.115(resized)

2020年8月30日の聖書せいしょから

「ここであなたがたにっておきたい。かみれいによってかたひとは、だれも『イエスはかみからてられよ』とはわないし、また、せいれいによらなければ、だれも『イエスはしゅである』とはえないのです。たまものにはいろいろありますが、それをおあたえになるのはおなれいです。つとめにはいろいろありますが、それをおあたえになるのはおなしゅです。」

(せいしょ:コリントのしんへのがみいち)
12しょう3-5せつ

***

講壇こうだんのお花(#114)
20.8.23 flower no.114(resized)

2020年8月23日の聖書せいしょから

しゅはおこたえになった。『マルタ、マルタ、あなたはおおくのことにおもなやみ、こころみだしている。しかし、ひつようなことはただひとつだけである。マリアはほうえらんだ。それをげてはならない。』」

(せいしょ:ルカによるふくいんしょ)
10しょう41-42せつ

***

講壇こうだんのお花(#113)
20.8.16 flower no.113(resized)

2020年8月16日の聖書せいしょから

「そこで、わたしのこれらのこといておこなものみないわうえぶんいえてたかしこひとている。あめり、かわがあふれ、かぜいてそのいえおそっても、たおれなかった。いわだいとしていたからである。」

(せいしょ:マタイによるふくいんしょ)
7しょう24-25せつ

***

講壇こうだんのお花(#112)
20.8.9 flower no.112(resized)

2020年8月9日の聖書せいしょから

「…ところが、たびをしていたあるサマリアじんは、そばにると、そのひとあわれにおもい、ちかってきずあぶらとぶどうしゅそそぎ、ほうたいをして、ぶんのろばにせ、宿やどれてってかいほうした。」

(せいしょ:ルカによるふくいんしょ)
10しょう33-34せつ

***

講壇こうだんのお花(#111)
20.8.2 flower no.111(resized)

2020年8月2日の聖書せいしょから

「イエスはかさねてわれた。『あなたがたにへいがあるように。ちちがわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす。』そうってから、かれらにいききかけてわれた。『せいれいけなさい…』」

(せいしょ:ヨハネによるふくいんしょ)
20しょう21-22せつ

**

▲表紙のページに戻る

null top

日本キリスト教団本庄教会
〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1
TEL 0495(22)2785


**

マラナタ28号特集

**
本庄教会の敷地内の植物(花)を紹介します
**
〇サンパラソルジャイアント
サンパラソルジャイアントキョウチクトウ科
マンデビラ属
 教会の北側に置かれたプランターで咲く夏の花。
 暖地性の植物だが、これは、昨年の越冬株。
〇サルスベリ(百日紅)
サルスベリミソハギ科
サルスベリ属
 前原の教会の園庭から移植したもの。2015年に根元から枯れてしまったが、翌年切り株から発根し現在に至る。時間をかけて樹形を整え、以前の姿を取り戻したい。
〇キダチチョウセンアサガオ
(エンゼルストランペット)
ナス科キダチチョウセンアサガオ属
キダチョウセンアサガオ 田島姉のご自宅から分けていただいて3年目。
 冬地上部は枯れるが、春になると立ち上がってくる。
 昨年は二本、今年は三本に株が増えている。
〇リュウキュウアサガオ
(オーシャンブルー)
別名:ノアサガオ、
シュクコンアサガオヒルガオ科
サツマイモ属
昨年路地植えにし、緑のカーテンにするためにネットを設置して2年目。宿根なので、春になると根元からツルが再生してくる。今年は勢いが良く葉も大きい。
リュウキュウアサガオ
**


***

null
null

マラナタ28号編集後記

本庄教会月報第28号をお届けします。

十字架とエンゼルトランペット
▲ 本庄教会の十字架とエンゼルトランペットの花

 緊急事態宣言の解除、移動制限の解除と事態が好転したかと言うと、さらに難しい状況が続いています。ご自愛ください。

在 主

**
※本庄教会では、6月7日(日)から会堂に集まっての礼拝を再開しています。

**
**


***

null
null

月報『マラナタ』28号 巻頭言2

主題:
『イエスさまきょうかいげるために(2)』

説教:
じゅうのキリストをあおすくい』
2020年7月5日れいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょみんすう21しょう4-9せつ
ヨハネによるふくいんしょ3しょう9-15せつ

1、「神の国」が意味するものとは

 前回は、キリスト教会では、神の家族とはイエス様の建てられた教会の群れを意味するとお話ししました。その教会の群れに加えられる者は、「霊によって新たに生まれた者」なのです。

 霊によって新たに生まれるとは、イエス様は自分の罪から救い出してくださるキリストと信じて、バプテスマを受けることであります。そのことを「新生」とも言います。洗礼を受けてキリスト者として歩んでいる人は皆、この新生体験をしているのです。

 そこで、今日、考えたいのは、なぜ人は新しく水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできないのでしょうか。神の国とは何なのでしょうか。

 私たちの周りには、「新しく生まれる」とか、「神の国に入る」とか言わなくても、結構、楽しく充実した人生を生きている人々が多いように見えます。

 私たち日本人は、いろいろな宗教行事を楽しんでいます。正月には神社に初もうで、二月には節分で、その年決められた方を向いて恵方巻を食べ、三月にはお雛祭りをします。五月には端午の節句としてこいのぼりを上げ、夏、秋の神社の祭りで神輿を担ぎます。十二月にはサンタクロースのプレゼント、ケーキとクリスマスを楽しみます。子供の頃は七五三で神社に行き、青年になるとキリスト教式の結婚式、死んだら仏式の葬式などと、いろいろな宗教行事を生活の中に取り入れています。

 何も霊的に生まれ変わらなくてもいいのではないかと思われる日本人が多いかとも思います。こうした日本に住む私たちに「神の国」が意味するものは何なのでしょうか。

2、天地万物の造り主と「神のかたち」

 私たちが信じる神様は、どんなお方なのでしょうか。
 
 「神の国」とは、聖書では〝神の支配〟を意味します。神様を信じて、神様の御支配の中に生きることが、神の国に入るということなのです。

 その時に、キリスト者たちが信じる神様は、天地万物の造り主を神様とします。神様は、御自分に似せて人間を「神のかたち」として造られたのです。

 「神のかたち」とは、神様に「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)と記されているように、神の息、即ち「神の霊」を吹き込まれた存在なのです。

 ですから、最初に造られた人間は、神様と霊的に交流ができ、神様の御言葉に従い、神様の祝福の中に生きるように造られたのです。

3、人間の神への背信・罪

 しかし、アダムとエバが、蛇の誘惑によって神のように善悪を知る者となりたいと思い、神様が食べると必ず死ぬと言われていた禁断の木の実を食べて、神様に背き、神様から離れてしまったのです。これが罪の始まり、〝原罪〟と言います。

 しかしながら、神様は人間を祝福して「神のかたち」として造られたゆえに、やがて、アブラハムを選び出して命じました。
 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12:2~3)

 神様は、アブラハムを選んで、〝地上の氏族のすべての祝福の源〟とされようとしたのです。やがて、アブラハムの子・イサク、イサクの子・ヤコブから生まれた12人が、イスラエル民族となったのです。

 神様は、地上のすべての人々を祝福へと導くために、イスラエル民族を用いられたのです。モーセを用いて、エジプトの奴隷状態にあったイスラエル民族を救い出し、十戒を中心とする律法を与えて、全ての民族の祝福の源となることを願われたのです。

 しかし、この民は、今日読んで頂いた民数記にあるように、神様とモーセに逆らって「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と不平を言うのでした。このような繰り返しの中に、荒れ野を40年さまよい、約束の地・カナンに入り、12部族に土地が与えられます。

 ところが、イスラエルの民は、神様を信じるだけは物足りなくて、周囲の国々のように国を治める王を求めます。そして立てられたのが初代のサウル王、2代目のダビデ王でした。神様はダビデの子孫から世界を治める王、メシアを立てると約束されます(サムエル記下7:12~13)。

 ダビデ王の後、ソロモン王が立てられ、その後、王国は北イスラエルと南ユダに分裂します。十戒の第一戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト20:3~4)と命じられているにも関わらず、周囲の国々の偶像を崇拝するようになりました。その罪が神によって裁かれて、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされてしまいました。神様が祝福の源となるようにと用いようとしたイスラエル民族も、結局は、その期待に応えることができなかったのです。

 しかし、神様は憐れみ深い御方です。バビロンに捕虜として連れ去られたユダ王国の人々は、約70年後、紀元前538年、ペルシアの王キュロスによって、解放されて故国に帰還することができました。そして更に、およそ500年後に神の御子・イエス様の誕生となるのです。神様に繰り返し背いたイスラエルの歴史でしたが、造り主である神様は、全ての人間が、神の祝福のもとに造られていることを知らしめるために、イスラエル民族から神の御子・イエス様を地上にお送り下さったのです。

4、青銅の蛇の出来事

 神様に繰り返し背いたイスラエルの民の姿は、私たち人間一人一人の姿であるのです。そう思って、民数記の出来事をもう一度見てみたいと思います。

 民たちは、神様とモーセに逆らい「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と不平を言っています。

 神様は、この不平を言って逆らう民を裁くために罰として「炎の蛇」を送ったので、蛇は人々をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。

 「炎の蛇」と言うのは、かまれると焼け付くような痛みと激しい毒のためにこう呼ばれているのです。また、その地方の蛇には赤い斑点があり、陽の光が当たるときらきらと輝くことからそう呼ばれたとも言われています。

 民たちは、モーセのもとに来て言っています。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」

 モーセは民のために主なる神様に祈りました。すると神様はモーセに言われました。
「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」と。
モーセは、命じられたとおりに、青銅で一つの蛇を形づくり、旗竿の先に掲げました。蛇にかまれた人たちが、青銅の蛇を仰ぐと命を得たのでした。

 ここで、注意して理解しなければならないのは、青銅の蛇自体に救う力があるのではないのです。「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」との、神様の約束を信じて仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れることができたということです。

 この旗竿の先に掲げられた青銅の蛇に対して3人の人の姿を考えてみました。

① ある人は考えました。「旗竿の上につけられた青銅の蛇を見ることによって救われるのだと、そんな非科学的な迷信みたいなことに惑わされるものか。自分の理性が許さない。」そしてその人は死んで行きました。理性的、科学的に考える人です。

② ある老人は思いました。「自分の長い人生経験の中で、そんなことはいまだかつて一度も見なかった。そんなバカげたことで人が救われるという知らせは、人を惑わす以外の何ものでもない。私は信じない。」そう言ってその老人も死んで行きました。体験・経験を重要視する人です。

③ しかし、しかし、苦しみの余り、藁にもすがる思いで、旗竿の見えるところまでやって来て、その上に掲げられていた青銅の蛇を見た人は救われたのです。神様の御言葉を信じる人です。

 ここで、ニコデモとイエス様とのやり取りを見てみます。

 イエス様が「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われました。するとニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。

 そこで、イエス様は答えられました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく(アーメン)。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」

 ニコデモは、イスラエルの教師で、律法を守ることを大事にし、人々から尊敬も受けている人でした。彼は、律法をどう守り、どのように行うかについて理性的に指導できる経験豊かな人でしたが、しかし、イエス様の話される霊的なことが受け入れられなかったのです。

 人間の理性や人間の経験からだけでは、神様の霊的なことは受け止められないのです。私たちでも同じです。幸い、イエス・キリストを信じる人々は、聖霊なる神様の助けと導きをいただくことができているから、霊的なことが分かるのです。しかし、今日のキリスト者も聖霊を受けていることの自覚が無いと言うくらい薄いのです。私も、韓国の教会と交流して、聖霊を受けていることの重大さに気づかされたのです。

 今日読んだヨハネによる福音書の14節に、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と御自分が高く上げられることについて、民数記の出来事に言及されています。ここで「人の子」と言うのは、イエス様御自身のことを指しておられ、「高く上げられる」とは、十字架に架けられることを指しておられます。

5、十字架を仰ぎ見る者の証し

 イエス様は、旗竿の上に掲げられた青銅の蛇のように、神様に繰り返し背いて来た私たち人間の罪を裁きから救うために、私たちの身代わりとなって十字架にかかって下さったのです。その十字架のキリストを仰ぎ、救い主だと信じる者が罪の裁きから救われるのです。

 神様から「神のかたち」として祝福されて造られた人間は、あのアダムとエバが蛇に誘惑されて以来、今日に至るまで、蛇の誘惑によって、罪に陥れられ、その罪のために死ななければならない運命に置かれています。それは、ちょうどイスラエルの民が荒れ野で神様につぶやき背いて、毒蛇にかまれた時の状態のようなものです。

 憐れみ深い神様は、モーセに命じて青銅の蛇を旗竿の上に上げさせて、「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」との約束を信じて仰ぎ見た者は救われたように、御子イエス・キリストが人間の罪の贖いの犠牲として架けられた十字架を仰ぎ見る者を救われるのです。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と約束されているのです。

 罪なき神の御子イエス様が、神様に背いて「神のかたち」を失っていた人間のために、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈りつつ、罪人の身代わりの死を遂げて下さったのです。その十字架のキリストを仰ぎ、自分の罪の赦しのために死んでくださった救い主と信じる者が罪を赦されるのです。そして見失っていた「神のかたち」を回復し、神様を「アッバ、父よ」と呼びかけて祈り、霊的な交わりができるようになったのです。御子イエス様が復活して天に昇られた後、御自分に代わる助け主・弁護者として聖霊を私たちに遣わし、信じる者と永遠に一緒にいるようにして下さったのです。

 私たちが今、〝天の父なる神様〟と呼んでお祈りができるということは、「神のかたち」を回復したからです。神のかたちを回復したということは、神様と霊的な交わりができるようになり、神様の御心が分かり、神様に喜んで従い、共に生きることです。聖霊なる神様が永遠に共にいて下さることは、私たちは永遠に造り主である神様と共に生きることです。

 今、この地上に生きる時も、また、地上の生活を死によって閉じて天に行った時も、神様と共に生きることができるのです。これが永遠の命であり、「神の御国に入る」ということなのです。
キリストの福音と言うのは、十字架のキリストを仰ぐ者として罪が赦されたと言うことにとどまらず、「神のかたち」を回復して生きるということです。

 罪のために滅ぶべきものであった者が、「神のかたち」として神様と霊的に交わって生きることができるのですから、「キリストの十字架を仰ぐ救い」は、嬉しい、喜びの知らせなのです。十字架のキリストを信じる者は皆、「神のかたち」を回復し、永遠の命を得ることができるのです。

 今日、この後に与るパンと杯の聖餐式は、ここに集まる者たちが「神のかたち」を回復して生きていることの具体的なしるしであります。感謝と喜びを持って聖餐に与りましょう。

祈り

 父なる神様、
 新型コロナウイルス感染の心配の中にも私たちの健康を守り、礼拝を共にささげることのできることを感謝いたします。
 私たちは神様の祝福のもと霊的に生きるようにと「神のかたち」に造られたにもかかわらず、背きの罪の中を歩み、滅ぶべき者でした。しかし、聖霊なる神様のお助けによって十字架のイエス様を仰いで、罪が赦され「神のかたち」を回復して生かされていることを感謝いたします。
 あなたは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことを願っておられます。
 神様が、独り子であるイエス様を十字架に架けてまでも、人間一人ひとりを救おうとして愛してくださってるこの御愛を心から感謝して、まだ知らない人々に分かち合うことができるようにお導き下さい。
 「神のかたち」を回復して、神様と共に霊的に生かされている具体的なしるしとして、感謝と喜びを持って聖餐に与らせてください。
 世界中の人々が、新型コロナウイルス感染の恐怖の中に置かれています。この病気の収束の上にあなたの憐れみをお与え下さい。
 この時、人々が十字架のキリストを仰いで救いを得ることができるように、あなたの憐れみとお導きを祈ります。
主イエス・キリストの御名によって、
 アーメン。

**

**

null
null