月報『マラナタ』26号 巻頭言

説教:
『わたしのひつじいなさい』

2020年5月3日れいはいより

せっきょうしゃひきかつ 牧師ぼくし
せいしょしょ:イザヤしょ40しょう9-11せつ
ヨハネによるふくいんしょ21しょう15-19せつ

疋田勝子牧師

1、アマリリスの花

 今日、講壇の花は、アマリリスの花です。皆さんが教会で礼拝を献げておられた頃、まだ茎の芽を出し始めて10㎝程にしかなっていなかったのですが、こんなに伸びて、真っ赤な花を咲かせるようになったので、皆さんに見ていただきたくて、いつもの活花に代えてここに飾りました。

2、人間の心の癒しとは

 人間の心が本当に癒されるとは、どういうことなのでしょうか。

 私たちの体が病気になれば、目に見える形で、血液のデーターに出たり、レントゲンの検査の写真に出たり、心電図に現れたりします。しかし、心の傷は、はっきりと目で見える形で現れてはきません。この苦しみは、本人でないと中々分かりませんし、また、この苦しみがあると中々先に進めません。

 5月1日の朝日新聞に、ニューヨークの医師の自殺が記されていました。この方は緊急救命室の責任者として、新型コロナウイルスの治療の第一戦で全てを出し切り、疲れ果ててしまいました。PTSDと言われる
心的外傷でストレス障害と重度のうつ病になりました。また、本人もコロナウイルスに感染したそうです。49歳の女性医師であります。チェロをたしなみ、長距離走や、スノーボードが好きで、毎週教会に通う熱心なクリスチャンでした。高齢者施設でボランティアもしていました。

 しかし、この女性医師は疲れ果てて、心的障害を受け、自殺してしまったのです。今、コロナウイルスによる被害は、多くの人々の心にいろいろな形で悩み苦しみを負わせています。

3、ペトロの心の傷と癒し

 さて、これとは違いますが、今朝、与えられている御言葉によりますと、ペトロの心は重かったのです。
主イエスさまが裁判を受けている時に、ペトロはイエスさまのことを、3回も「そんな人は知らない」(マルコ14:71)と否んでしまったのは、ついこの間のことであります。激しく泣いたその涙は、まだ乾き切っていなく、心の傷は重くのしかかっていたと思われます。

 主イエスさまのために「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても」(マルコ14:31)と死を覚悟で誓ったペトロでありました。主イエスさまは、既にペトロの心を察しておられたと思われます。 

 今朝の個所は、そういうペトロの傷がどのように癒され、そして主の働き人に変えられていくのか、その過程を記したところであります。

 まず、イエスさまが弟子たちの知らない所で、彼らのために炭火をおこして、魚を焼き、パンも準備し、そして「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言って、弟子たちの空腹を満腹にさせた、その後の出来事でありました。

4、「魂の癒し」

 主イエスさまは、ペトロに近づき個人的に語り掛け始められました。

<第1回目>

まず第1回の問いかけがあります。
:15)「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

 
 まず、ここで、イエスさまは、ヨハネの子シモン! と呼びかけられたのです。何故、ここで、ペトロ! とは言われなかったのでしょうか。それは、ペトロとは「岩」という意味でありますが、そのように呼ばれるのに、ふさわしい人物になっていなかったからです。

 それで、イエスさまが、かつて「あなたはペトロ」と言って下さり、また、ペトロに対してもすごい約束をして下さっていました。だからこそ、イエスさまは、ペトロに対して「この人たち以上にわたしを愛しているか」とも問われるのは無理もないことであります。

その個所は、マタイによる福音書16:15~19にあります。
:15)イエスが言われた。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
:16)シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
:17)すると、イエスはお答えになった。
 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
:18)わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
:19)わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐこと(罪を裁く)は、天上でもつながれる。あなたが地上で解くこと(罪を赦す)は、天上でも解かれる。」

 以上、イエスさまは、ペトロにこんな重大なことまで、語っておられたのです。
また、ペトロ自身も最後の晩餐の後で、「主のために命も捨てます」とまで誓ったのです。だからこそ、イエスさまは、ペトロに個人的に「この人たち以上に、わたしを愛しているか」と、そこに一緒にいた弟子たち以上に御自身を愛しているかと問われたのです。この言葉は、第1回目だけです。

 ペトロは、過去において、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」(マルコ14:29)と言ったことがあるのです。しかし、ペトロは、鶏が二度鳴く前に、三度、イエスさまを知らないと否んでしまい、主が十字架につけられた時に逃げてしまったのです。このペトロの思い上がりに対応する問いかけでもあるのです。

 本来ならば、イエスさまの「この人たち以上に」の一言に対して、あの主を否んだ傷が痛み出し、「主よ、本当に申しわけありませんでした。自分は本当に弱い者で、あの時、恐ろしさの余り、ついイエスさまのことを知らないと言ってしまいました。申しわけありませんでした」と悔い改めの言葉でも出てくれば良いのではないかと思いますが、そうではありませんでした。彼は、次のように答えています。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。

 さて、イエスさまを愛しているとは、具体的に一体どういうことなのでしょうか。
私たちも「愛する天のお父さま」と言ってお祈りしています。本当に神さまを愛しているのでしょうか。
愛するとは、具体的に何を意味しているのでしょうか。

 イエスさまが、ペトロに求めた、「わたしを愛しているか」と問われた、この愛することの具体的内容は、「主に従う」と言うことなのです。それは、19節の最後の言葉でも分かります。:
  このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

<第2回目>

 第2回目の問いであります。
:16)二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

 ここで、第1回目と違うのは、第2回目にはイエスさまの問いかけに「この人たち以上に」はついていないことです。

 また、ペトロの答えは、1回目も、2回目も同じであります。しかし、イエスさまの言葉は違っています。
1回目は、「わたしの小羊を飼いなさい」でしたが、2回目は、「わたしの羊の世話をしなさい」に変わっています。

<第3回目>

3回目は、クライマックスになります。
:17)三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。

 「悲しくなった」と記されていますが、これがとても大事なのです。初めて、ペトロの感情に響いたように考えられます。

 2回目までは、ペトロは平然と答えていたように見受けられます。ペトロの3回目の返事は、
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
そこで、イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

 
 3度目になると、かなり内容が変わって来ました。主イエスさまの問いかけの「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」は同じなのですが、ペトロの様子が変わって来たのです。以前、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスさまが言われた言葉を思い出して、激しく泣いたのです(マルコ14:72)。

 ここで、ペトロ自身、イエスさまから三回同じ言葉で「わたしを愛しているか」と問われて、やっと気づかされていったのです。「三度」とは、忘れもしない、イエスさまを三度「知らない」と否んだ出来事に関係していたのです。

 このペトロの悲しみをよみがえらせることによって、主は、癒そうとしておられるのです。

 ここで、1回目、2回目には感じなかったことが、3回目に及んで、初めてペトロは悲しみを覚えたのであります。主に対して否むと言う罪を、そのまま、オブラートに包むままで、果たして、これから主の弟子として立てるのでしょうか。

 確かに、鶏が鳴いた後で、ペトロはイエスさまの言葉を思い出して、自分の罪に泣いたことがありました。イエスさまは、そのペトロの否みの罪を数え上げて、責めるようなことをせず、「わたしを愛するか」の問いかけの中で、気づかせ、癒されたのではないでしょうか。

 これは、少々痛いかも知れないけれど、その傷に触れて癒されたのです。この方法は、ある心療内科の医師は、これこそ「魂のリハビリ」だと言いました。例えば、足を骨折した時に、手術後、何カ月間かギブスをつけ、骨がしっかりくっついてから、リハビリをして歩けるように訓練して回復にもっていきます。そのためには、少々痛いリハビリも受けなければなりません。私たちの魂の回復のためにも、魂のリハビリが必要なのです。

 ボンヘッファーの著書に『交わりの生活』と言う本があります。そこに「告白」について記されています。私たちが、もし何かの罪を犯したり、悩みがあったなら、それを信仰を共にする兄弟に告白することによって、その荷が軽くなることが記されています。それを聞いた人は、その荷物を受け取ったのですから、そのことについて共に祈り、また祈り続けていくということです。もし、兄弟に告白しなかったら、その人の心に、いつまでも、その悩みが残っているということです。

 この荷を負い合うのが交わりの生活であると言うわけであります。

 交わりとは、楽しく話し合うばかりではなく、兄弟の荷を負い合うことの重要さを語っているのです。
以上、主イエスさまは、今、ペトロに、あの出来事を3度にわたって思い起こさせ、3度目にやっと悲しみがこみ上げて来て、やっと癒されていった様子を見ることができました。ここを通過しない限り、スッキリした気持ちで、重要な「羊を飼う」牧会の業にたずさわることができないのではないでしょうか。

5、「牧会」について

 ペテロは、イエス様から3回言われました。
 1回目、「わたしの小羊を飼いなさい」。
 2回目、「わたしの羊の世話をしなさい」。
 3回目、「わたしの羊を飼いなさい」。

 ここでは、羊とは、イエス・キリストを信じる人のことを言っているのです。実際の羊は、羊飼いに全く依存していて、方向音痴とも言われています。

 聖書の中に、迷子になった1匹の羊の話が出て来ます。羊は、羊飼いによって、餌の草場や水辺に導かれるように、全く羊飼いに依存しています。そこで、イエスさまは、御自身のことを
「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と言っています。

 そして、イエスさまは「わたしの羊を飼いなさい」と言われて、羊飼いの大事な任務をペトロに委ねられたのです。

 ここで大事なことは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われている羊とは、私たち信仰者のことで、信仰者は、ペトロの羊ではなく、「わたしの羊」と言われて「イエスさまの羊である」ということです。ここが最も大事な点です。教会とは、イエスさまをキリストと信じる群れのことですから、教会は主イエスさまのものであるのです。

 その務めをペトロは委ねられたのです。ペトロは、過去の罪を赦されただけでなく、信徒を羊のように育てお世話をする職を委ねられたのです。

 考えてみると、この世では、ペトロのような失敗をしてしまうと、もはや受け入れてもらえなくなり、「あなたはもう必要ない」と言われるのがこの世の在り方です。
 
 しかし、イエスさまは違います。失敗があっても「あなたは必要です」と言って、どこまでも手放さないのです。今朝の聖書の個所は、そういうところなのです。このことが分かると、人間は生きていくために一番必要なことは、「あなたは必要な人」と言われることです。逆に、「あなたは必要でない」と言われることこそ、夢も希望もなくなり、生きていけません。この言葉で自殺まで実行する人が多いのです。

 イエスさまは、どこまでも「あなたは必要な人」であると言って下さる方です。たとえ、体が全く動かない病気であっても、どんな人でも、その人の存在そのものを必要である、大切な存在であることを、今日のペトロを通して教えられました。

 ましてやペトロは、最初にイエスさまより、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と約束された人です。どんなに失敗をしようが何があろうが、イエスさまによって言われたことは、消えることがないのです。

 ペトロのみならず、伝道者はもちろんのことですが、バプテスマを受けている人は皆イエスさまの弟子ですから、信仰者皆にも、「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われているのです。このことに感謝して、この主の御業を実践していきましょう。 

 具体的に、羊飼いは羊の様子を見て、食欲があるかないか、元気であるかないかと世話をします。

 そのように、私たちは兄弟姉妹として互いに、御言葉の分かち合いをして励まし合い、祈り合いながら、礼拝を休みがちな方はどうしたのかな、一人暮らしの方の生活はどうかなどと、心配し、支え合って神の家族を目指していきましょう。

 また、イエスさまが、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。」(ヨハネ10:16)と言われました。私たちは、そのことも委ねられているのです。みんなで思いを一つにして祈りながら励んでいきましょう。

祈り

 主なる御神さま、ありがとうございます。私たちはイエスさまの弟子です。本当に、どんなことがあっても「あなたが必要です」と声をかけて下さいます。

 聖なる神さま、今、世の中はコロナウイルスで大変な叫びを上げています。私たちを憐れんでください。あなたの弟子として、あなたの御言葉をたずさえて、この世の皆さんをイエスさまの御許にお連れする務めを果たすことができるようにお導き下さい。

 コロナウイルスが1日も早く終息するように助けて下さい。病んでいるお一人お一人に癒しの御手がありますように。また、医療従事者の皆さんに感謝します。そのお働きと健康を守り、お支え下さい。
 
 本庄教会に連なる皆さんの上に御癒しとお導きを下さるようにお願い致します。

 主イエスさまの御名によって祈ります。
 
 アーメン。

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