月報『マラナタ』27号 巻頭言2

説教:
かみだいなわざをかたきょうかい

2020年5月31日ペンテコステれいはいより
(ライブ中継による)

せっきょうしゃひきよし 牧師ぼくし
せいしょしょへん71ぺん14-24せつ
使げんこうろく2しょう1-13せつ

義也牧師

1、ペンテコステを迎えて

 「皆様、ペンテコステおめでとうございます!」新型コロナウィルス感染の緊急事態宣言は解かれましたが、依然として感染予防の為に、換気や密集を避けるといった注意を要する状況が続いています。本庄教会では大事をとって、6月7日から会堂での礼拝を再開することになりました。本当でしたら、教会にとって大切なこの聖霊降臨日礼拝・ペンテコステ礼拝から再開できればよかったのですが、このように離れていても、ネット配信のパソコン等の画面を通じて、また受話器を通じて礼拝で共に主に賛美をささげ、祈りをささげ、御言葉に共に聴く主の日が与えられていることに感謝したいと思います。

 クリスマスには「主の御降誕をおめでとうございます!」と言って、わたしたちの救い主であられるイエス様がお生まれになった日をお祝いします。また、イースターには「主のご復活をおめでとうございます!」と十字架で命をお献げなさったイエス様が、3日目に復活されたことをお祝いします。そして、この聖霊降臨日(ペンテコステ)には、「おめでとうございます!」と言って、天に昇られたイエス様のもとから、天から聖霊が私たち主イエス・キリストを信じる者に降って聖霊なる神様の力が与えられたことをお祝いするのです。この出来事は、「教会の誕生日」とも言われているは、聖霊なる神様こそが、教会にとって命であり、私たちに主イエス・キリストを信じ、また神様に祈り・賛美をささげ・礼拝する力を授けてくださる御方だからです。

 先週の主日礼拝では、疋田國磨呂牧師の説教によって、イエス様が天に昇られた、昇天の出来事を通じて、私たちは共に御言葉を頂きました。主イエス・キリストが天に昇られたのは、私たちのために天に住む場所を用意し、私たちを天国に迎え入れるための備えをしてくださるためであったこと、そしてもう一つが、天から私たちに聖霊を送るために天に昇られたのだということを示されました。

 本日の使徒言行録2章1節以降の箇所では、イエス様が約束なさった通り、弟子たちに聖霊なる神様が降ってこられました。この聖霊降臨の出来事を通じて、共に主の御言葉を聴いていきましょう。

2、ペンテコステの期限

 今日の新約聖書の使徒言行録2章1節は、「五旬祭の日が来て」と始まっています。私たち、クリスチャンにとって、「五旬祭」とは、「ペンテコステ」・「聖霊が降った日」ですが、その起源はユダヤ教のお祭りにあります。

先日、水曜日に、教会員の皆様に、役員の方々と分担して、今日の為の週報をご自宅にお届けしました。私は國磨呂牧師と共に車で信徒の方々のご自宅を回ったのですが、その道中で、道路の脇に麦畑が広がっていました。國磨呂牧師は、実家が造園業と農業を兼業しているので、農業についても詳しいようで、春麦はこれからが刈り入れ時で、二毛作をしている農家は、麦を刈り入れた後で、水を張って水田にして田植えをしていくと話していたのがとても印象的でした。

 毎年お伝えしているかもしれませんが、「ペンテコステ」というのはギリシャ語で「50日目」という意味なのです。それは過越祭から数えて50日目とのことですが、過越祭の週の安息日の翌日には、大麦の初穂を主の祭壇に献げたようです。そして、それから7週間後、7×7=49日間です。そして50日目には、小麦の収穫を主なる神様に感謝して、パンを焼いて、羊、牛、山羊といった家畜と一緒に神様の御前にささげる「刈り入れの祭り」が祝われたのです。「7週の祭り」(ペンテコステの祭り)とも呼ばれていたのです。しかし、後代になってから、この五旬祭というのが、シナイ山でモーセが十戒の掟を授けられたことを記念する日としても、ユダヤ教で理解されるようになり、大切な意味が与えられていったようです。

3、新約のペンテコステは聖霊降臨日

 さて、私たちクリスチャンにとっては、このペンテコステ(50日目)というのは、私たちの救い主であられるイエス様との関わりの中でその出来事の恵みが示されます。この50日目(ペンテコステ)とは、イエス・キリストが十字架で命をお献げくださってから数えて、50日目に聖霊が与えられたということになります。ヨハネ福音書では、ご自身を地に落ちた一粒の麦に譬えて、主が十字架で遂げられる死を通じて、多くの者が主を信じて罪を赦されて永遠の命に与り、信仰の実が豊かに実ることをお示しになっています。

 先の復活節には、十字架の死から三日目に復活されたイエス様が、弟子たちの前に、そして弟子の一人であったトマスの前にも現れて下さった出来事をヨハネ福音書から共に聴きましたが、その時は、当時の宗教指導者からの迫害を逃れるために、弟子たちが家の扉に鍵をかけて、恐怖の中でひっそりと集まっていた様子が語られていたと思います。しかし、今日の使徒言行録2章冒頭で語られている弟子たちの集いというのは、状況が全く異なっています。

 そこでは、120人を超えるイエス様の弟子たちが「一つになって集まっていた」と言われています。これは「思いを一つにしていた」と訳すこともできます。そして、集まっていた場所というのは、使徒言行録1章では宿泊していたおそらくペトロの家に集まって祈っていました。その様子が1章の14節に書かれていて、イエス様に従う兄弟姉妹たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。彼らは、熱心に心を合わせて祈りながら、イエス様が送ってくださると約束した聖霊が来ることを待っていたのです。しかしながら、ここでは5節以降にエルサレム神殿を訪れてきた人々が入ってくることとの繋がりで理解するのであれば、民家ではなくて、エルサレム神殿で、彼らは祈りを合わせていたことになります。

 2節の聖霊降臨の箇所では激しい風の音が「家中に響いた」とありますが、これは神の家である神殿のことを語っているのです。使徒言行録5章12節にも、弟子たち「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」とあります。ソロモンの回廊とは、エルサレム神殿の異邦人の庭の東側にあった柱廊で大勢が集まるスペースがあったようです。

 さて、聖霊を送って下さるというイエス様の約束については、ヨハネ福音書14章16節と26節の言葉が有名です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」 使徒言行録1章4節にも約束されています。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」また、同じくルカによる福音書11章では、イエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えられた時に、その流れの中で、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9節)と言われた後に、13節後半で「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と既に、約束されていたのでした。そこで、弟子たちは、エルサレムの都にとどまり。約束された聖霊を祈り求めていたのです。

 すると、イエス様の十字架の恵みとして復活から数えて50日目に、イエス様の約束の言葉を信じ、聖霊なる神様の助けを祈り求める群れの上に、主は激しい風の音と、そして炎の舌を伴って、一同全員に、聖霊が満たされたのでした。本日は、國磨呂牧師も、私も、勝子牧師もそうですが、胸には炎の舌の模様が描かれたバッジを付けています。本庄教会では、ペンテコステにはこの聖霊降臨を象徴するバッジを胸に付けて、主が聖霊を送ってくださったことの恵みを覚えています。バッジの模様は、本当によくできていて、炎の舌が表現されています。なぜ、風と炎なのかという事については色々な解釈がありますが、新約聖書が書かれた言語であるギリシャ語では、聖霊は「プネウマ」となっていて、「風」と同義語の言葉なのです。また火ということについては、福音書で洗礼者ヨハネがイエス様は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と伝えていたのです。私たちを救うために、自らの御子を十字架に遣わすこともいとわない、燃えるような神様の意志と愛を表すといってもよいかもしれません。いずれにしても、神様ははっきりと弟子たち自身が分かる形で、彼らに聖霊なる神様の助けと力が注がれたことをお示しになったのです。

 さて、聖霊が降った弟子たちには何が起こったのでしょうか。彼らは、「国々の言葉で話しだした。」とあります。そして、当時、先ほど紹介した五旬節の祭りで、主に収穫の感謝のために、地中海沿岸の様々な国から集まっていたユダヤ人たちも、風の音を聞いて、何が起こったのかを確かめに、イエス様の弟子たちのもとへと集まってきたのです。そこで、主の弟子たちが聖霊を注がれて、彼らの母国語で主の御言葉が語られているのを目の当たりにするのでした。パルティア、メディアに始まって、ローマに至るまで、地中海沿岸の諸国から遠く、東西南北、至る所から人々が集まっていた様子が語られています。当時はまだキリスト者やクリスチャンという呼び名もなく、イエス様の弟子たちは、イエス様を教師としてあがめるユダヤ教の分派だと思われていました。確かに、ユダヤ人の中から、最初のキリスト者たちが生まれ、そして教会が建てられていったのです。しかし、地中海沿岸で生活するようになったユダヤ人には、アラム語を話すユダヤ人もいれば、ヘブライ語やアラム語を話せない人々もいたのです。新約聖書が旧約聖書と同じヘブライ語で書かれたのではなくて、当時の文化では公用語であったギリシャ語で記されたのも、多くの人々に主イエス・キリストの福音を伝えるためであったと言えます。国の数だけ、言語の種類や方言もあったと思いますが、聖霊が弟子たちに降った時、彼らは言葉の壁を乗り越えて、イスラエル・パレスチナの地域を超えて、全世界へと語りだしたのです。今日の箇所では、まずはユダヤ人の人々に向けてですが、この後に異邦人に向けて、ペトロが、そしてパウロがイエス・キリストを伝えていくことになります。そして、全世界への宣教の働きがなされて、日本にもイエス・キリストの福音が伝えられました。この世界への宣教の業が、先取りされて、今日の箇所でも語り伝えられているのです。

4、聖霊を受けた弟子たちは、国々の言葉で神の偉大なわざを語りだす

 イエス様が聖霊を送る約束をされた時、その聖霊なる神様が弟子たちにどのような働きをなさるかについても、あわせて話しておられました。使徒言行録1章8節で、主はこう弟子たちに約束されています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」これと同じように、ルカによる福音書24章の45節以降にもこうあります。

 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカによる福音書24:45-49)

 聖霊は、様々な困難や壁を乗り越えて、イエス・キリストの救いの恵みを証しする者へと私たちを変えてくださるのです。後にイエス・キリストを信じて宣べ伝える者へと変えられたパウロも、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリントの信徒への手紙一12:3)と言っているように、聖霊なる神様は私たちと主イエス・キリストとを深く結び合わせ、そして主の十字架と復活をが、私を救う恵みでることを身近に感じ、生きる喜びであり望みであることを心に深く示してくださるのです。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネによる福音書14:26)と主が約束してくださっています。

 イエス様の十字架と復活の恵みが私たちにとって身近なものとなることは、私たちにとってだけではなくて、私たちが主の証し人とされることによって、私たちの周りの人々にも救いの恵みとしての輝きを放つことになるのです。聖霊に満たされて、様々な国の言葉で主の救いの恵みを語った弟子たちに対して、中には「新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける人々もいたのですが、もう一方では彼らが語っている言葉に驚き、そして聞き入った人々もいたのです。11節で「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」と語っていた人々です。「人々は驚き怪しんで言った。」とありますが、これは必ずしも否定的にとる必要はありません。彼らは、自分たちの理解を超えた奇跡に出会って、驚いているのです。

 ここで注目したいのは、聖霊を受けた弟子たちが、「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」と、周りの人々も受け取ったことです。彼らにとって身近な言語で主イエス・キリストの恵みを聞いたのでした。しかも「神の偉大な業を語っている」と言っているのです。まだイエス様の弟子とされていない人々も、神様の救いの業がここに起こっていることを感じ取ったのです。「偉大な」というのは、証し者の話し方や言葉が優れていたというのではないのです。むしろ、彼らの背後に彼らを支え生かしてくださっている偉大な神様が共におられることを感じ取ったのでした。聖霊なる神様は、主イエス・キリストの恵みと私たちを結びつけてくださるだけではなくて、私たちキリスト者と周りに共に生きている人々との心も結んでくださるのです。

5、主イエス・キリストに結ばれた者の証し

 主イエス・キリストを証しすると言うと、人によっては何か難しく考えてしまう方もいるかもしれません。本庄教会でも、受難週祈祷会には信徒の方々に証ししていただいたり、また以前書かれた証し集を読ませていただいたこともあります。しかし、私たちに寄り添って、私たちを助け、生かしてくださる、主なる神様の恵みを感じて生きる時には、その証しは私たちの日常においても、既に起こっているのです。

 先週の木曜日の教団の聖書日課では、ローマの信徒への手紙8章1節以降が読まれました。そこには14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」とあり、聖霊が私たちを神の子供たちとし、「アッバ父よ」と天の父なる神様に祈る力が与えられていることが言われていました。本日読まれた詩編71編にも、そのように神の子供たち、ここでは神の民として、主の助けを祈り求めて、主により頼んで生きる者の歩みが語られています。71編1節~3節は読みませんでしたが、この詩編の歌い手が主なる神様の御手に助けを求めることから始まっているのです。
「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。」

 そして本日の18節では「神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。」そして20節~22節で「あなたは多くの災いと苦しみをわたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から、再び引き上げてくださるでしょう。ひるがえって、わたしを力づけ、すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。わたしもまた、わたしの神よ、琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。」と神様に祈り願っているのです。

 詩編71編を通じて示されることは、主に結ばれた者は、様々な困難や、健康や精神的な弱さの中にあって、その弱い私たちが身を寄せる時に助けて下さる主を証ししているのです。主に助けていただいて、そして主に私たちの弱さを受け止め、支えていただくときにこそ、私たちの信仰の歩みを通じて、主の恵みが私たちの生活を通じて、周りの人に伝わっていくのです。

 これは「イエス様に助けを求めましょう!救って頂きましょう!」と人々に伝えることでもあります。そして、主の助けと救いの恵みが与えられる教会へとお連れすることでもあります。國磨呂牧師も、勝子牧師も説教の中で度々お伝えしていると思いますが、日曜日、教会に友人家族をお連れすることも、主が私たちを通じてなさる偉大な御業なのです。

 ヨハネ福音書16章で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている」(33節)と言われたイエス様から送られた聖霊なる神様が私たちと共におられ、私たちを神の子、また神の家族として主の平安のもとにおいてくださっています。私たちの日々を歩みに聖霊なる神様が生きて働いてくださっていることを信じ、今週も歩ませて頂きましょう。

祈り

 父なる神様、新型コロナウイルスの感染からお互いの命を守る中にも、自分たちの家庭で、ペンテコステを覚えての礼拝を献げることのできることを感謝いたします。
 この日聖霊がキリストを信じる者たちの上に降り、神の偉大な救いの御業を各国の言葉で世界中の人々に弟子たちが語り始め、教会の誕生日と言われています。
 そして二千年後、今日、日本の私たちも聖霊を受けてキリストの偉大な救いの恵みを語り、証できることを感謝いたします。聖霊なる神様が生きて働いて、私たちをもあなたの御業のためにお用い下さい。どうか、家族や友人たちを教会に連れてくることができるように力とお導きを下さい。
 神様、世界中の人々を憐れんでください。新型コロナウイルスの感染が一日も早く終息できるようにお助け下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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