月報『マラナタ』17号巻頭言(2)

説教:
かわひとびとは、さいわいである』

2019年8月11日の説教から

せっきょうしゃひきよし 牧師ぼくし
せいしょしょへん51ぺん8〜14せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう6せつ

19.8.maranatha 義也牧師

1、悲しみの歴史を繰り返さないために

 先週は、平和聖日の礼拝をお捧げしました。8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下を覚えて、また8月15日には終戦(又は、敗戦記念日)であることを覚えて、再びその悲しみの歴史を繰り返さないように祈りました。

 そのためにも、本日の礼拝の中では、関東教区が作成した、戦時中の日本基督教団のキリスト者が犯した過ちについて覚えて、関東教区「日本基督教団罪責告白」を共に告白いたしました。

 十字架を通してキリストの平和を与えられている私たちは、その恵みによって平和を祈り願い、神の御力によって造りだす、キリストに遣わされる使者とされていることを共に覚えたいと思います。

2、山上の説教・幸いシリーズ

 さて、先日の平和聖日には、疋田國磨呂牧師から、マタイによる福音書5章のイエス様が山上でなさった説教の「幸い」の箇所(5:3~12)の中の、9節の「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」についての御言葉に聞き、共にその恵みを頂きました。

 今回は、少し前に戻って、6節、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」の御言葉に共に聞きたいと思います。来週は、引き続き、4節「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」によって疋田勝子牧師が御言葉を取り次ぎますので、来週もぜひ期待して、礼拝に集っていただければと思います。

 本日与えられているマタイによる福音書5章6節は、イエス様が山上でなさった説教です。マタイ4章では、イエス様がガリラヤ湖でペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネという4人の漁師を弟子にお招きになり、彼らと一緒にガリラヤ地方を巡りながら、各地の会堂で神様の国である天国の恵みが到来したと、人々にお告げになり、病気や悪霊に苦しみ悩む人々を癒し、また解放してくださったことが語り伝えられています。そして、その評判がシリア一帯に広まり、各地から人々がイエス様を求めてやってきたのです。大勢の群衆を御覧になって、イエス様は彼らに語るために、山に上り、大勢の人に説教をお話しになりました。

 新共同訳聖書には見出しがついていますが、5章3節から12節には「幸い」という見出しがついています。実は、英語圏ではここの箇所には特別な名前があり、the Beatitudes(ザ・ビアティテューズ)と呼ばれています。難しい単語ですが、「最高の祝福」を意味するラテン語から来ているとのことです。

 つまり「幸いである」…というのは、その幸いが神様から頂いたもの、「神様がその最高の祝福を下さったのだ」という信仰に立って、受け取られるべき言葉なのです。ですから、英語訳の聖書では、「幸いである」となっている箇所を全て、 「Blessed(祝福されている)」と受身形で翻訳しているのです。ですから本日の聖書箇所である5章6節の「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」というのは、つまり、「義に飢え渇く人々は、祝福されている、その人たちは満たされる」とも言えるのです。

3、神の義について

「義」に対して、「飢え渇いている」とはどういうことなのでしょうか。

 「義」と言うと、世間では、道徳的・倫理的な正しさ、裁きの公平性ということが連想されると思います。また「正義」ということで理解される場合、「何が正義で、何がその正しさの基準となるか」は人それぞれです。むしろ、お互いの思い描いている正義がぶつかり合って、争いが起こり、巻き込まれた人々が理不尽にも傷つけられ、虐げられてしまっているのが現状ではないでしょうか。

 これらに対して、ここでイエス様がお語りになっている義というのは、これらの倫理や裁きといったこととは全く無関係ではありませんが、実は旧約聖書の時代から既にある「義」、つまり「神の義」という、具体的なことを、お語りになっているのです。これまでも、説教の中で触れさせていただいたことがありましたが、「神の義」というのは、神様から与えられた掟、十戒を中心とする律法が人に求めていることを行うことです。何が義なのかというのは、この律法が物差しであり、判断基準となってきたのです。

 しかし、旧約聖書の時代のこの律法による「義」というものは、神様が人にただ命じて従わせるというだけの一方的なものではありません。ここには、大切な前提があります。その前提は、出エジプト記や申命記に記されている「十戒」の言葉に出てきます。出エジプト記20章2節。十戒の第一戒の前書きのようにして伝えられている箇所ですが、こうあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

 また、5節以降には、こうもあります。
「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」

 つまり、イスラエルという具体的な民族と、主なる神様との間において、神様はイスラエルがエジプトで奴隷とされ苦しんでいた時、彼らをその苦役から救い出し、彼らの主、彼らの神となってくださったのです。

 救い主であられる神様との関係性の中で、救われた彼らは、主なる神様の掟を重んじ、従う中で、神様から祝福を受けます。また、反対に、掟に逆らうのであれば、神様の祝福を受けられず、不幸となるというのです。

 この救い主と救われた者たちとの関係の中で示されるのが、神の義なのです。その関係が崩れそうになるときには、主は裁きと懲らしめをもって、彼らを導き、正しい義の関係へと引き戻そうとされるのでした。そして、主の掟に背いてしまった罪を赦して頂いて関係性を修復する為に、主なる神様は律法を通じてエルサレムの神殿で、日ごとに動物の犠牲を献げるように定めていたのです。出エジプト記29章42節以降にはこうあります。

 「これは代々にわたって、臨在の幕屋(つまり神様がおられる場所)の入り口で主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う。そこは、わたしの栄光によって聖別される。わたしは臨在の幕屋と祭壇を聖別し、またアロンとその子らをわたしに仕える祭司として聖別する。また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。」と、繰り返し、神様が彼らの神となったことを強調し、そのことを理解し、味わわせるための礼拝が、イスラエルの民の生活の中心として定められていたのです。

 この意味では、「義」というのは、本来あるべき、神様と人との信頼関係であるとも、言えます。

 ある牧師は、この神様との義の関係を糸電話にたとえていました。糸電話とは二つの紙コップの様なものの底を糸で繋いだものです。もし、この二つのコップを結ぶ糸がたるんでいたら、声は反対側に届きません。同じように、神様の声を聞いて、神様の御心を知れるようになるためには、この神様と私たちの間の義の関係がたるんでいてはなりません。義の関係が真っすぐに張っていてこそ、私たちは、神様と向き合い、神様に従って歩むことができるのです。

 このように、旧約聖書においては、この神の義が、神様からの一方的な恵みとして与えられ、イスラエルは神様との祝福の関係の中に生かされていたことが分かります。申命記7章7節以下にも、イスラエルについて、はっきりと言われています。

 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを...」と言われているのです。イスラエルは義であられる神様によって絶えず、救われ、助けられてきたのです。

 これまでは、イスラエルを救い出し、彼らに律法を与え、神様との義の関係の中に置いて、彼らを導き、生かしてくださった神様のお話をしてきました。しかし、それでは、今日を生きる私たちにとって、その「神の義」はどのような意味を持つのか、ということになると思います。実は、旧約聖書に語り伝えられるイスラエルの歴史を見ていくと、律法によって導かれてきた神様との祝福の関係が、崩れていく様子が語られています。それは、ひとえに人間が神様を信頼できず、従いきれない、人の罪によって生じた不従順によるものでした。いつの間にか、律法が求めている「神の義」というものが、自分たちの力で成し遂げるもの、自分たちの力で満たす目標のように掲げられていきます。いつの間にか、自分たちで何が正しくて、何が義であるかを見分けることが出来るかのような、驕りが生じたのでした。

4、義に飢え渇くとは

 しかし、本日の6節の箇所は、それとは異なる、神様の恵みの真理を、私たちに示しているのです。「義に飢え渇くものは」とあります。ここでは「義を行うものは」とは言われていないのです。「飢え渇く」と言われているのです。しかも、「義に飢え渇く人々が…」神様によって「満たされる」ということが言われているのです。
 
 先週の國磨呂牧師の説教の中で、「平和を実現する」、「平和を造る」ということは、私たちの力で成し遂げられることではなく、神様の救いの力によって与えられる平和、しかも主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みによって成し遂げられる平和だと言われていました。ここでも、同様のことが言えます。古くは、旧約聖書において、十戒や律法を通じてイスラエルと主なる神様の間で保たれてきた義の関係が、今ではイエス様の十字架の贖いを通じて、イスラエル民族とは直接関係のない、異邦人のわたしたちにも、差し出されているのです。旧約のイスラエルの民は、律法を通じて、神の義を与えられてきましたが、わたしたちはイエス様を通じて神の義、つまり神様との本来あるべき、祝福された関係に加えて頂けるのです。

 「飢え渇く」というのは、わたしたちに足りないものを、必死に、神様に求めているということです。本日読まれた旧約聖書の詩編51編の言葉は、神様の前に自らの罪を悔い改め、神様に祈り願っています。

 「神よ、わたしを憐れんでください。…あなたに背いたことをわたしは知っています。…あなたの裁きに誤りはありません。…あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように…神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」

 わたしたちの救いの為に、イエス様が十字架に掛かってくださったことを信じ、その恵みを告白し、洗礼を受けたわたしたち一人一人は、イエス様の十字架の血によって罪を洗い清めて頂いた、その恵みを、身を持って体験していると思います。また、これから洗礼を受けられる方々も、イエス様が命をもって与えられている、神の義によって、罪を清め、新しく神様に信頼して歩む道を、神様が確かに備えていてくださっています。

5、義を満たしてくださるイエス様

 さて、「義」という話になると、どうしても「罪が清められる」、「清められる」という点だけが強調されてゆきますが。しかし、今日の箇所では、「義」を乞い求める人々を、神様が「満たされる」ということです。確かに、神様の掟である律法が人に求めている義務や要求を、イエス様が私たちに「代わって満たして下さった」ことが「義」であると、一つは言えるかもしれません。しかし、私たち自身の体も、魂も、その存在自体も、神様はしっかりと満たして下さいます。しかも適当な粗悪なもので満たすのではなくて、魂に命を与える良いもので満たしてくださるのです。

 義に飢え渇いている私たち。それは、言い換えるならば、神様の存在を見失って、希望を失っていた私たちです。スカスカに乾ききったスポンジが、水をぐっと吸い上げて満たされて、ふわっと膨らんでいくかのように、罪の暗闇と痛みと破れの中にあった私たちが、そこに寄り添い救い出してくださるイエス様によって、命の水を頂いて、永遠の命の希望を与えられるのです。イエス様の恵みを喜ぶ私たちの中から、恵みは溢れ出て、わたしたちは、地の塩、世の光として、自然とその恵みを家族へ友人へと証し、伝える歩みへと押し出されて行くのです。

 言葉で直接伝えられなかったとしても、この場所にも神様が共に居てくださるということを聖霊なる神様の導きのもとに信じて歩んだ時に、既にその場所には神様が共にいて、神様の愛と恵みで満たして下さっています。

 今日のこの「幸い」の箇所の5章10節にはこうあります。
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」

 「義」と「天国(神の国)」とは深い繋がりがあります。なぜなら、天国(神の国)にこそ神様がおられ、そしてその場所を正しく裁いてくださるからです。或いは、真の義によってその場所を治め導いて下さる神様が、私たちと共に宿って、臨在してくださるからこそ、私たちは召される前から天国(神の国)の恵みを先取りするかたちで、礼拝で、聖餐式で、また交わりを通じて、この地上にあって神様の国を、味わうことを許されています。しかし、それは現状として悩みが全くないということでもないのです。むしろ、周囲からの無理解もあれば、試練もあり、悲しみもあります。しかし、その先に、イエス様が再び来られる時に、全てを満たしてくださる神様の愛があることを信じたいと思います。

 私たちには、喜びもあれば、悲しみもあり、満たされる時もあれば、不足の中で苦しむときもあります。しかし、全てにおいて、その先に主がおられ、現在進行形で、「わたしたちの罪を赦して義としてくださり」、「満たしてくださっている」主がおられることを信頼し、歩んでいきたいと願います。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)とイエス様は私たちに語り掛けられます。憂いの中で、神様を見失いそうになるとき、“主よ、どうか私の内に、また私たちのただ中に来てください、そして全てを治め導いてください。”と謙虚な思いで祈り願いつつ、神様を私たちの心にお迎えいたしましょう。

 祈り 

天の父なる神様、
 今日はイエス様の「義に飢え渇く人々は幸いである、彼らは満たされる」という御言葉から共に聞きました。大切な御子イエス・キリストを十字架へと遣わしてくださり、イエス様の贖いの恵みによって、私たちは、いついかなる時も、神様によって義とされ、神様との祝福の関係の中に置かれていることに感謝します。
 これまで、罪の力によって、霊的に渇き、満ち足りることを知らず、希望を持っていなかった私たちを、イエス様は十字架の義と、永遠の命の希望で満たし、様々な不安と不満の中にある私たちを解き放ってくださいました。この恵みを覚えて、今週も歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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月報『マラナタ』17号巻頭言(1)

説教:
へいつくひとびとさいわいである』

2019年8月4日の説教より

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょ:イザヤしょ26しょう1-13せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう9せつ

19.8.maranatha 國磨呂牧師

1、平和聖日を覚えて

 今朝は、日本基督教団は平和を覚える聖日として礼拝を献げています。
 
 8月は、私たちの日本においては、第二次世界大戦、又は太平洋戦争とも言いますが、6日に広島に、9日に長崎にと原爆が投下され、15日に敗戦の受諾宣言をして戦争が終わった月であります。
 
 今年で戦後74年が経ちました。74歳以下の戦後生まれた方々は、この太平洋戦争のことは直接何も体験していなく、何も知らない方々であります。私は、昭和18年生まれで76歳です。終戦の時は3歳で、石川県の羽咋という田舎で育ちましたから、戦争のことはほとんど覚えていません。ただ辛うじて、富山県境の山の向こうの空が真っ赤だったこと、飛行機が飛んでいたことが、かすかな記憶として残っているのです。それは富山市が空襲を受けた時の様子であったと教えられました。

 私のようにまだ3歳であっても、東京や広島・長崎などのように、直接、空襲や原爆投下を受けた地域に住んでいた方々は、忘れられない恐ろしい戦争体験として記憶に残っているかと思います。 

 74年間に渡る平和な日本に生活する者にとって、第二次世界大戦の出来事は遠い過去のこととなりつつあります。日本は戦争をしないという戦争放棄をうたう現平和憲法に守られてきたのですが、その憲法を変えようとする政治の動きがあります。

2、関東教区「日本基督教団罪責告白」

 このような状況の中に在って7年前、この第二次世界大戦を太平洋戦争としてアジア諸国を侵略して行った日本に対して、私たち日本のキリスト教徒はその戦争推進に加担して行った経緯を確認し、それを悔い改めた告白が、関東教区「日本基督教団罪責告白」であります。

 私が関東教区総会議長の任を負った2007年5月~2011年5月の2期4年間、戦争責任告白検討委員会を設けて、副議長経験者の村田元先生を中心に、教区議長経験者の石橋秀雄先生、三浦修先生、秋山徹先生をはじめとする10人余りの先生方で、歴史的資料に学びつつ、キリスト者としての罪責告白作成の検討をしました。教区議長交代の2011年5月の第62回総会に議案として挙げ、2012年5月第63回総会で秋山徹教区議長のもとで、関東教区「日本基督教団罪責告白」を可決致しました。

 この先生方は、私とほぼ同じ年代の方々で、今、このことと取り組まなければとの決意と祈りの中で検討し作成した「日本基督教団罪責告白」であります。今日の礼拝後の役員会で承認を得た後、次週の11日の主日礼拝の中で、関東教区「日本基督教団罪責告白・リタニー」を皆さんで告白できたらと願っております。

3、「平和」とは何か

「教会婦人」8月号に、関東教区の書記を務めておられる東新潟教会の小池正造先生の説教「平和のあるところ」が掲載されています。その最初の所に、小学校3年生のお嬢さんに、「平和」とは何だと思うかと聞いたら次の3つを答えたと記されています。
・戦争がないこと。
・食べることができること。たくさん美味しい物が食べられると幸せ・平和と感じるから。
・環境が守られること。人間だけが幸せだったら良いのではなく、動物たちも幸せに生きるためには、人間は環境を壊してはいけないのだ。

 小池先生は、小学校三年生にしては意外にしっかりした答えが返ってきたと驚かれています。

 私たちは、平和を、政治的、国家権力的争いという視点でとらえがちですが、小池先生のお嬢さんは、食べられること、環境が守られること等と日常生活の身近な視点でとらえておられることにハッとしました。

 戦争が起こって平和でなくなると、食べる物も食べられないし、人間も動物たちも不幸になってしまいます。このことを、日本の私たちは、テレビや新聞が報道するアフリカや中近東の出来事と思って見ていますが、74年前、私たち日本でもそんな状態だったのです。

4、神様が授けてくださる「平和」

 ユダヤ人たちにとって「平和」は人間の最高の幸福を作り出す全てのものと理解されていました。「平和」は、ヘブル語で「シャローム」と言います。イスラエル旅行をすると挨拶の言葉として「シャローム」と言います。それは、「平和がありますように」と言う祝福の言葉で、キリスト教徒の間でも、「シャローム」という言葉は、挨拶の言葉になっています。私がよく行っている韓国でも、また数回行ったアメリカでも「シャローム」と言うと、笑顔で「シャローム」と挨拶が返ってき、抱擁して再開や出会いを喜び合いました。

 イザヤ書26:12に「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです。」と言われているように、ユダヤ人たちは、平和は神様がお授けになるものだと考え「主よ、わたしたちに平和をお授けください」と祈り求めています。

 聖書は、神様に造られた人間が神様を信じて、神様の御心に従って共に歩むことが平和の根源であると教えています。その神様に従わないで歩むことを聖書は「罪」と教えています。神様に逆らって生きる罪の歩みには、平和はありません。

 ある人は言っています。“罪とは、神様と戦争していることである”と。造り主である神様と戦争しても勝ち目はありません。しかし、私たちは神様に従うよりも、自分の思いのままに自分中心に生きようとするのです。自分の考えを一番にして生きようとすると、人の言うことも受け入れず、争いがおこります。自分の国を一番にして生きようとすると、国と国の争い、戦争が起こります。

 ですから、戦争の原因は何かと問うと、自分の立場、自分の考えを一番にすることから起こります。今、アメリカのトランプ大統領は、〝アメリカを第一に〟と主張しています。それで、今まで平和であった他国との関係が揺らぎ始めています。このことが国家間の大きな争いとならないようにと、願い祈ります。
神様は、神様が造られた人間は皆、共に仲良く、助け合って生きる平和を願っておられるのです。だが〝自分を一番に〟と主張する人たちは、神様を一番にしないから、神様からの平和をいただけないのです。

5、平和を実現する人々は幸いである

 マタイによる福音書5:9にイエス様は「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と言われています。この御言葉は、山上の説教と呼ばれる一節であります。

 口語訳聖書では「平和をつくり出す人たちは、幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」と訳されています。「平和を実現する人々」が「平和をつくり出す人々」となっています。昨年の秋出された、新共同訳の新しい訳は、「平和を造る人々」と口語訳と同じように訳されています。

 では「平和を造り出す人々」とは、どういうことなのでしょうか。

 平和は、私たち人間の力では造り出すことのできないものであって、神様が授けてくださるものであることをイザヤ書の御言葉から学びました。神様に逆らって生きる罪の人間には、平和は授けられないことも学びました。

 しかし、人間を造られた神様は、すべての人間が平和に生きることを願っておられるのです。人間が平和に生きるためには、人間の罪を解決しなければなりません。人間がどれだけ罪深く生きて、神様の平和をいただけなくなっているかを知らせるために、神様はクリスマスに神の御子・イエス様を誕生させられたのです。イエス様を通して神様はすべての人間が、神様を信じ、神様の御心に従って、神様を中心に平和に生きることを願っておられることを知ることができるのです。

 それだけでなく、神様はすべての人間の罪を赦すために、御子イエス様を十字架に犠牲の死として献げられたのです。十字架のイエス様の死こそが、自分の罪を赦す犠牲の死なのだと信じ、イエス様をキリストと信じる者は、神様の子供とされ、神様と共に生きる平和が与えられるのです。

 イエス・キリストこそが、罪ある人間に真の平和を造り出して下さるお方なのであります。

 コロサイの信徒への手紙1:19~22に次のように言われています。
「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめることのない者としてくださいました。」

平和を造り出し、平和を実現してくださるのは、神の御子、イエス・キリストなのです。

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2:14)と言われています。イエス・キリストを信じる者たちの間において、神様の平和が造り出され、神様の平和が実現するのであります。

 そこで、私は、「平和を造り出す人」または「平和を実現する人々」を「イエス・キリストを信じる人々」と置き換えることができると思います。

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と言う御言葉は“イエス・キリストを信じる人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。”と言うことができるのです。

 イエス・キリストを信じることこそが、平和を造り出すことであり、平和を実現する道なのです。

 イエス・キリストを信じることによって、神様から授けられる本当の平和の喜びを、この8月、まだ知らない人たちに知らせ、分かち合いたいと願います。

 祈り 

父なる神様、
 今日は平和聖日として礼拝を献げ、本当の平和とはどんなものであるかを御言葉に聞くことができ感謝いたします。平和は、造り主である神様がすべての人々に授けてくださるものであり、イエス・キリストを信じることこそが、平和を造り出し、平和を実現する道であることを確認できたことを感謝いたします。キリストを信じることによって与えられたこの真の平和の喜びを周りの人々と分かち合う8月とさせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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マラナタ17号報告

緑のカーテンについて

 7月24日(水)、礼拝堂南側に「緑のカーテン」を設置しました。昨年教会に頂いた宿根(しゅくこん)アサガオを地植えにして、南側ガラス戸全面に庇(ひさし)から張ったネットに誘引しました。
 宿根アサガオは、琉球アサガオ、ノアサガオとも呼ばれます。亜熱帯地域に自生するつる性の多年草で、ヒルガオ科サツマイモ属の植物です。
 開花期間は長く霜が降りる11月頃まで咲き続けます。一般のアサガオとは異なり、3~8個の花を房状につけ、夕方まで咲き続けます。
 10月上旬に花数が最も多くなるので、設立記念礼拝の頃が楽しみです。花の色は“オーシャン・ブルー”です。

アサガオカーテン (1)
7月24日
アサガオカーテン (2)
8月12日
アサガオカーテン (3)
8月25日


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月報『マラナタ』16号巻頭言

説教:
『神の家族となるために』

2019年6月30日、7月7日
の2回の説教から

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょへん1ぺん1-3せつ
ローマのしんへのがみ12しょう1-8せつ

19.6.30主日講壇
6月30日の第1回目の説教から

1、神の家族を証しする礼拝

(1-1)本庄教会の礼拝で

 今年度の教会の標語は「わたしたちは神の家族」であります。イエス様の言われる「神の家族」とは、血のつながっている肉親を指すのではありません。イエス様は、神様のお話を聞くために集まっている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ。」(マルコ3:34)と言われました。

 このことは、今日でいうと、こうして神様を礼拝し、神様のお話を聞こうとして本庄教会の礼拝に集まっている私たちを見回して、イエス様が、誰でも天の父である神様の御言葉を聞いて行う人を神の家族ですと言われていると思っていいのです。

 私たちが神の家族であることの一番の証しは、礼拝を共に献げるために集っているということなのです。礼拝は神の家族の基本であると言ってよいのです。

(1-2)訪問・交わりを通して実感する神の家族

 本庄教会で礼拝を献げている兄弟姉妹は、2018年度は平均26名でした。最近は30名前後の出席が度々あり、皆さんよく励んでおられると喜び感謝しています。

 でも、施設に入所されたり、病院に入院されたり、いろいろな事情で礼拝に出席できない兄弟姉妹もおられます。そういう方は、神の家族としてどうなるのでしょうか。

 6月9日(日)はペンテコステ礼拝でしたが、子どもの日・花の日と重なりました。持ち寄ったお花を飾って礼拝を献げ、礼拝に出席された80歳以上の兄弟姉妹には礼拝後花束を差し上げ、礼拝に出席できなかった兄弟姉妹には、牧師、役員と有志の兄弟姉妹で訪問し、花束を差し上げて、賛美し、お祈りをしました。その時の感想を2人の姉妹に書いていただき、「マラナタ」6月号の月報に掲載しました。二人の姉妹はこう書かれています。

「神の家族として、お互いを思い合いながら、祈りの内に覚えつつ歩みたいとの思いを強くしました。」

「お花をお届けする小さい業は、私にとって神の家族、神のもとにある兄弟姉妹を実感させられる、豊かな時となりました。」

 礼拝に出席される方々は、礼拝を通して神の家族の恵みを実感し、分かち合うことができるのです。出席できなかった方々は、礼拝を通して恵みと喜びを頂いた兄弟姉妹がお訪ねして交わる中に、お互いに神の家族であることを実感できるのです。

 花の日は年に一回ですが、敬老の日や、クリスマス、イースター、ペンテコステなどの祝日礼拝などにも覚え合ってお訪ねできると良いですね。何も、特別な礼拝の時でなくても、週報や月報「マラナタ」を届けがてらにお訪ねしてお交わりしても良いかと思います。

2、神の家族としての礼拝と献身

「ローマの信徒への手紙」12章を通して、神の家族としての生き方を共に学びたいと思います。この聖書の個所で、説教の準備のために御言葉を黙想する中で、12章を3回に分けて御言葉に聞くことを示されました。
(第1回)12:1~2  神の家族としての「礼拝と献身」
(第2回)12:3~8  神の家族として「互いに賜物を活かし合う」
(第3回)12:9~21 神の家族としての「愛の在り方」
今日は、神の家族としての礼拝と献身について1節から2節の御言葉に聞きます。

(2-1)自分の体をいけにえとして献げなさい

 1節には「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と言われています。

 この「こういうわけで」とは、1章~11章までに述べてきたことです。神様が人間を罪から救うために、キリストの十字架の贖いを信じる信仰によって救われる道を御計画されたこと。それはユダヤ人だけでなくローマの人々をはじめとする世界中の異邦人の救いに至る救いの御計画についての教えであります。

 パウロは、そのキリストの福音の教えを生活の中にどのように活かすかを神様の憐れみによって勧めますと言って、12章以下が展開するのであります。

 1節「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
ここでは、キリストによって救われた者たちが、神様の救いの恵みに応答することとして礼拝が語られています。

 私たちは、誰かからプレゼントを頂いたら、まず言葉で「ありがとうございます」とお礼を言って応答します。中には、その喜びの余りに心ばかりのプレゼントを返す人もいるでしょう。

 礼拝は、正に、御子イエス様の命を犠牲にしてまでも私たちを救って下さった神様の愛と言うプレゼントに対するお礼の応答の時であります。神の子・イエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、私たちの罪を赦すために御自身の命を、私たちの身代わりの犠牲として十字架に献げられました。そして、十字架による罪の赦しを信じる私たちは、神様を〝天のお父様〟と呼んで祈る神様の子供とされているのです。

 パウロは、礼拝とは、神様の子供とされた私たち自身の体をいけにえとして献げることだと言っているのです。この御言葉に自分の体をどのように献げるかについて三つのこと、(ア)「神に喜ばれる」(イ)「聖なる」(ウ)「生ける」が言われています。

(ア)「神に喜ばれる」体とは、どういうことでしょうか。

 どうしたら神様に喜ばれる体となるのでしょうか。
 
 皆さんは、自分の親に喜ばれることは何かと考える時、どうしますか。親の願っていることが何かを知って、それに応えることですね。

 これは神様に対しても同じことなのです。神様が何を願っておられるかを知って、それに応えることです。そのために、聖書を読んで、神様の御心を知ることです。

 今、本庄教会で聖書日課カードに従って聖書を読むということは、その日、神様は私に何を語りかけ、何を願っておられるのかと神様の御心を知ることが目的なのです。

 神様の御心が分かったら、それに従うのです。しかし、なかなか御心が分からなかったり、分かっても、なかなかその通りに従うことができないのです。でも、少しでも御言葉に聞いて従うことができると嬉しいですね。御言葉に従う喜びが分かってくると、私たちの生活も少しずつ変えられ、人間関係もだんだん変えられてゆきます。

 聖書日課の御言葉を読むだけでなく、そこに語られていることを通して、神様は私に何を教え、導こうとしているかを数分間、黙想してみて下さい。すると神様の御心が分かってきます。それをディボーションと言うのです。

 先日、小島明夫役員が、召されたお母様のものを整理していたら、御自分が大学時代に、学生の修養会をした時のプログラムが出て来たと持って来られました。そこに「ディボーション」と言う言葉が書かれているのです。そこでの「ディボーション」は、講師の先生のお話を振り返って黙想する時を意味していたのですが、「ディボーション」という言葉を40年以上も前、20歳頃に知らされていたのだと驚かれていました。

 私たちは、この時代に神様に喜ばれる体として献げるために、まず、ディボーションを通して神様の御心を知りましょう。そして従う喜びを頂きたいと願います。

(イ)「聖なる」体とは、どういうことなのでしょうか。

 聖い〟体と訳している聖書もあります。

 〝聖なる〟〝聖い〟とは、自分の力で品行方正で正しい善い行いをする者となることではありません。クリスチャンとして恥じることのない正しい人間になることでもありません。私たちは自分の力では、そう願ってもできないのです。

 〝聖なる〟〝聖い〟とは、神様のものとすることです。「私の命も生涯も、神様あなたのものです」と差し出すことなのです。罪を悔い改めて、洗礼を受けるということは、自分の命も生涯もあなたものですと差し出した印なのです。

 神様に差し出すと、神様は信じる私たちに聖霊をおくって私たちの内に住まわせてくださるのです。パウロは言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(Ⅰコリント6:19)

 聖なる体として献げると言うことは、神様のものとされている体であることを自覚して礼拝に望むと言うことです。すると、聖霊が働いて、ここに神様と復活のキリストが御臨在しておられることを信じることができ、御言葉を通して神様の御心を知ることができるのです。

(ウ)「生ける」体とは、どういうことなのでしょうか。

 旧約聖書時代、人々は神様に対する罪を赦していただくために、貧しい人は鳩2羽、中間くらいの人は子山羊か子羊の傷のないものを、豊かな人は子牛の傷のないものを、自分の身代わりとして神殿にいけにえとして献げたのです。死んだ動物や傷ついた動物はいけにえに用いることは禁じられていたのです(レビ記1章参照)。

 私たちの体を生ける体として献げると言うことは、あるがままの生きている自分を神様に献げることなのです。時々言われることなのですが、教会に来ている時の自分と家にいる時の自分を使い分けている人がいると。しかし、私は、「それは無理ですよ。使い分けは長く続かないし、自分が苦しくなります。神様がすべてを御存じなのですから。」と言います。

 ありのままの生ける自分を神様に差し出すということは、キリストの十字架の贖いの赦しを頂かねばならない罪だらけの自分を差し出すことなのです。すると神様は聖霊の助けによって、罪だらけの自分の罪の一つ一つを赦して、癒して、だんだん神様の子供として生きることができるようにして下さるのです。

 イエス様の贖いによる罪の赦しは、一万タラントンの借金の帳消しと言われています。それは20万年分の賃金に相当する額の帳消しですから、私たちの罪は自分でも自覚ができないくらい大きいものです。しかし、神様は、その大きな罪をキリストを信じることのゆえに、すべてを帳消しにして赦して下さるのです(マタイ18・21~36)。

 キリスト者は、自分の罪の赦しの恵みの大きさを、生涯をかけて、〝イエス様、これも赦して下さっているのですね。感謝します。〟と死ぬまで、自分の罪を数えて、その赦しの恵みを感謝して行くのだと思っています。

 それゆえ、1週間を振り返って、自分の罪深さ、御心に従えなかったこと、隣人を愛しえなかったこと等の全てを携えて、生きている自分のありのままを引っさげて神様の御前に出るのが主日の礼拝なのです。

 これが「生ける体」として神様に献げることなのです。この礼拝で、罪の赦しと神様の限りない憐れみの愛と力をいただいて、新しい1週間が始まるのです。

 以上のように「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とは、
・ディボーションを通して神様の御心を知り、神様に喜ばれるように献げることです。
・キリストを信じることによって神様のものとされている体として献げることです。
・一万タラントンの帳消しの赦しの恵みの中に生きている自分をありのままで神様の御前に出て礼拝を献げることです。

 神様に、自分の体をいけにえとして献げて生きる人は、詩編1編1~3節に言われているように幸いな人であり、豊かに実を結ぶ人となれるのです。

 「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

(2-2)生きる拠り所を変えていただきなさい

 私たちは、2節に言われているように礼拝を通し次のように変えられるのです。

 2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

心を新たにして自分を変えるとは、神の御心に基準をおくこと

 礼拝を通して自分を神様のものとされている体として献げることは、この世の価値基準に自分の生き方をおかないことです。聖書を通して神様が示される御心に基準をおいて生きることです。自分の生き方の拠り所を、この世の価値基準から神様の御心の基準に置き換えることが、「心を新たにして自分を変えていただく」ことです。自分の生き方の拠り所を神様の御心に置くと、私たちの生活自体が変えられてゆくのです。

 自分中心から神様中心に変えられるのです。すると、今まで、何かにつけて、不平不満で、周りの皆が悪いように思っていたことの1つ1つに感謝し、喜ぶと言う変化が起きてきます。

自分が変えられたしるしは「感謝ができるようになること」

 今まで、文句ばかり言っていた人が、「ありがとうございます」「神様に感謝します」と言えることは、大きな大きな変化なのです。神様によって変えられることの大きな証拠の一つは「感謝ができる」と言うことです。

 自分は果たして「心を新たにして自分を変えていただくこと」ができるのだろうかと深刻に考えないでください。神様と周りの人々に感謝ができれば、変えられているのです。

御心を知って世にたいして執り成しの祈りをする者として変えられる

 自分が変えられることのもう一つは、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神さまに喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる」ことです。

 不思議と、聖書を通して神様の御心が分かってくると、この世のすべてのことが透けて見えてくるのです。神様の御心ほど完全なものはないのです。

 ですから、神様の御心を知ると、現在の政治の姿や社会経済の姿に対して、もっとこうあると良いのにとの思いが与えられると共に、神様にその実現を祈り求めざるを得なくなってくるのです。

 私たちキリスト者は、この世のことを避けたり、無関心であってはならないのです。神様の御心を知ると、どうしても現在の政治経済に対してもっとこうあってほしいという願いが出て来るのです。そういう願いと共に執り成しの祈りが大切なのです。

 日本の人口の1パーセントのキリスト者では何もできないと思いがちですが、イエス様は「あなたがたは地の塩であり、世の光である」(マタイ5:13、14)と言われています。

 塩は、ほんの少しでも相手の味を引き出したり、悪い細菌から守ってくれます。私たちキリスト者は、いるかいないか分からなくても、日本の社会で「地の塩、世の光」としての役割を果たしているのです。絶望して暗闇の中にいる人々に、世の光として、私たちがいただいている神様の光を輝かすことができるのです。そして、希望のない人の人生に真の神様の光を照らすことができるのです。

救いの御業のためにキリスト者を用いる神様

 18歳の私は、生きる意味が分からず、自殺願望者でした。ルーテルアワーのラジオ放送を通して教会に招かれ、牧師から「疋田さん、あなたは神様が祝福されたから生まれたのです。」と言われました。それで人間を祝福する神様を求めて、たった3人で始まる礼拝がしばしばであった小さな羽咋教会でイエス様と出会い、イエス・キリストを信じて洗礼を受けました。その私が生涯をキリストに献げて58年、伝道者として44年の歩みをしています。

 大宮教会を辞める時、或る長老が「疋田先生は大宮教会で205名の方に洗礼を授けましたよ」と言われました。福井神明教会で50名でした。本庄教会で2名の受洗者が与えられました。自殺志願者の私がイエス・キリストを信じて、生涯をささげることによって、神様は257名の方々を神の家族に加えるために私を用いて下さったのです。しかし、人々が神の家族に加えられると言うことは、伝道者だけでできることではないのです。

 神様は「自分の体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げる」すべての人を用いて救いの御業をなされるのです。伝道者だから、用いられるのではないのです。

 伝道者以上にキリストを信ずる信徒一人一人を用いられるのです。なぜなら、救いを求める方々が、教会に導かれた時に一番感じ取るのは、そこに神様の救いの祝福をどのように喜び生きている信徒がいるかどうか、自分が来ることが歓迎されているのかどうか、だからです。

 信徒が用いられることについては、次の礼拝で取り次ぎたいと思います。

 祈り 

 天の父なる神様、
 雨の中にも私たちをこうして礼拝に招いて下さり感謝いたします。

 礼拝は、自分の体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げることであることを御言葉から示されました。

 罪深い弱い者を、キリストの救いを通して神様のものとして下さり、神様の御心を知って神様に喜ばれる生活を願い求めることのできることを感謝いたします。礼拝を通して神様の御心に生き方の拠り処をおいて生活する者に変えられるようにお導きください。小さい者ですが、何が神様の御心であり、何が善いことであり、何が神に喜ばれる完全なことであるかを求めて知ることのできるようにお導きください。

 どうか、日本に住んでいる方々が、神様の祝福にあずかるように本庄教会に連なる私たちを地の塩、世の光として働く神の家族としてお用い下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。


7月7日の第2回目の説教から

3.神の家族として互いに賜物を活かし合う

 神の家族として「互いに賜物を活かしあう」と言うことについて御言葉から学び合いたいと願います。

 ローマの信徒への手紙1章~11章までは、神様の御子イエス様を通しての神様の救いの御計画がどんなものであったのか、いわゆるキリスト教の救いの教理について語られています。そして12章から、イエス様をキリストと信じる者の生活は、具体的にどうあるべきかについて、信仰の実践論が語られています。

(3-1)与えられた恵み

3節「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」

 パウロは、「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」と言っています。

 「わたしに与えられた恵み」とは、パウロが、キリストを信じることによって救われて、回心したという神様からの恵みを指しています。その恵みの体験に基づいて一人一人に勧めると言っているのです。

 使徒言行録9章にパウロの回心が記されています。パウロは最初、主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のお墨付きをもらって、キリストの道に従う者を見つけ出して、エルサレムに連行するために、ダマスコに向かいました。

 パウロは、その途中で、突然、天からの光に照らされて地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との呼びかけを聞きました。

 回心前のパウロの名前はアラム語で「サウル」と呼ばれていたが、回心してから異邦人に伝道できるようにギリシア語で「パウロ」と呼ばれるようになったのです。

 パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」と復活のイエス様からの答えがありました。パウロは、地面から起き上がったが目が見えなくなっていました。仲間の者に手を引かれて、ダマスコに連れて行かれたが、3日間、目が見えず、食べも飲みもしませんでした。 

 一方、ダマスコのアナニアは、幻の中で主の声を聞いてパウロのもとに遣わされました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」と言いました。すると、たちまちパウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになったのです。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をとって元気を取り戻したのです。いわゆる、パウロのダマスコ途上の回心と言われている出来事なのです。

 パウロは、キリストを信じていないためにキリスト者を迫害する立場にありましたが、キリストを信じることによってキリストの救いの恵みを宣べ伝える者に変えられたのです。

 パウロの回心は、大変劇的に描かれていて、何かパウロだけの特別な出来事のように思われますが、決してそうではないのです。イエス様をキリストと信じることは、誰にとっても、信じない者から信じる者に変えられると言う特別な出来事なのです。

 「わたしに与えられた恵み」とは、キリストを信じない者から、キリストを信じる者に変えられたという恵みなのです。そして、その恵みに生きる者は、大なり小なり、イエス様を証し伝えて生きる者にされているのです。

 パウロは、キリストの救いの恵みを与えられた者として、キリストの恵の中に生きる一人一人に言いますと言っているのです。

(3-2)自分を慎み深く評価する

3節「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」

 ここに、自分を評価することについて、「過大に評価する」と「慎み深く評価する」と対照的に言われています。

 なぜ、パウロはこのようなことを言うのでしょうか。

 神の家族と言っても人間の集まりであります。パウロの時代は、キリストが宣べ伝えられて数10年しか経っていない教会の集まりで、いろいろな人がいました。特に、ユダヤ人からキリストを信じる者になった人から見ると、異邦人からキリストを信じる者になった人は割礼も受けていないし、律法の教えにも従っていないと見下す者もいたのです。ですから、自分はイエス様と同じユダヤ人で割礼も受け、律法をきちんと守っている、自分たちこそ真のキリスト者であると「自分を過大に評価する」者もいたのでしょう。

 そのような人たちに、パウロは「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」と言うのです。

 「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合い」と言われる「信仰の度合い」とは「信仰の量り」とも訳されていますが、どんな事でしょうか。

 コリントの信徒の手紙一7章17~20節にこう言われています。
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のまま歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。」

 ここに「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」と言われ、「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」とも言われています。

「神に召されたとき」と言うことは、神様がキリストと出会わせて、キリストの救いを与えて下さった時と言うことです。ここでは、割礼を受けている者が救いにあずかったことと、割礼を受けていない者が救いにあずかったこととが述べられ、どのような立場や身分で救いにあずかっても、その立場や身分を変える必要がないと言っています。

 そこで、私たち本庄教会と言う状況でこのことを考えてみたいと思います。

 ここで礼拝を献げている私たちが、イエス様と出会い、イエス様をキリストと信じて洗礼を受けた時の立場や身分はそれぞれ違います。神様は一人一人の立場や身分に応じて信仰による恵みを分け与えてくださったのです。

 私たちは、イエス・キリストを信じる者として〝同じ信仰の恵み・救い〟を与えられています。しかし、それは一人一人の立場や身分に応じて神様が与えられたのです。ですから、神様の救いの恵みに対する応答の仕方は、与えられた立場や身分によって違うのです。

 各自はその違いを認め合って慎み深く自分を評価すべきなのです。

(3-3)私たちはキリストの体の大切な一部分

(4~5節)「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」

 パウロは、神様が各自に恵みを分け与えてくださった働きの違いを、わたしたち人間の体とその部分にたとえています。体は一つですが、体には手や足、目や耳など、たくさんの部分があり、そしてその働きは皆違うのですが、体全体を活かしているのです。

 そのようにキリストを信じて結ばれている私たちも、一つのキリストの体を形づくっているのです。各自は部分で、その働きが違うのですが、キリストの体の大切な部分なのです。

 本庄教会も、ここに連なって礼拝をささげている皆さんはキリストの体の一部分なのです。どの一人の存在も、どの一人の働きも本庄教会としてのキリストの体を現わし、活かす大切な存在なのです。

 病気で施設や病院におられる方も、大切なキリストの体の部分なのです。私たちは病気したり、けがをした場合、その病気やけがをした部分を体の一部分ではないと切り捨てますか。決してそうではありません。かえって病気やけがが早く治るようにいたわり合います。

 このように違いのある一人一人の存在や働きを認め、受け入れ合って、神の家族として喜び励んで行きたいと願います。

(3-4)恵みとして与えられた異なる賜物を互いに活かし合う

(6~8節)「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれに異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

 パウロは、「わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている」と言っています。

 「異なった賜物」というのは、神様から与えられたそれぞれに固有な霊的才能・能力の事であります。それは、生まれつきの才能や能力ではなく、神様から与えられたもの(賜物)として受け止めるべきものであると言うのです。

 神様は、キリストを信じるすべての者に異なった賜物を与えて下さったのです。ですから、すべてのキリスト者は異なった賜物を互いに活かし合って仕え合うのであります。

パウロは、7つの賜物を挙げています。
① 「預言の賜物」;聖霊の導きによって神の御言葉を語ることです。
② 「奉仕の賜物」;神の民の共同体・教会の管理運営に仕えること、貧しい信徒たちに食事などの配慮をすることです。
③ 「教えの賜物」;キリストの福音と福音に基づく生活の仕方を教えることです。
④ 「勧めの賜物」;生きる気力を失ったり、信仰の弱さに悩んでいる人を慰め励ますことです。
⑤ 「施しの賜物」;福音の宣教と貧しい信徒のために経済的に援助・協力することです。
⑥ 「指導の賜物」;教会における営みを、霊的に、現実的に指導することです。
⑦ 「慈善の賜物」;貧しい人を助け、困っている人を援助する憐れみの行為をすることです。

 よく、「私には賜物なんか何もない」と言う人がいますが、決してそうではないのです。神様がキリストによる救いの恵みを分け与えてくださったということは、その人の賜物を用いて、キリストの体を築いて神の家族を証しようとされているから、必ず賜物が与えられているのです。

 この7つの賜物のどれかは、必ず皆さんに与えられているのです。神様からの賜物は、他の兄弟姉妹と比較するのではなく、誰に言われなくても自分から進んで喜んでできることが、その人の賜物だと私は見ています。

 例えば、お掃除の好きな人は、誰かに言われなくても自分から進んでお掃除をします。教会の掃除は、「奉仕の賜物」です。

 9月の1日研修会などで、自分にはどんな賜物があるのか、賜物チェクの学びをしても良いのではと思っています。

 もう一度、7つの賜物について言います。この賜物は、お互いに交わり、分かち合い、仕え合う中で神様からの賜物として活きてくるのです。どんな賜物も単独では活かすことができませんし、成り立ちません。

 自分が喜んでできる賜物は何かを考えてみて下さい。そして、本庄教会というキリストの御体のためにその賜物を互いに活かし合っていただきたいと願います。

 ここに集う皆様の賜物が、交わりの中に互いに活かし合うことができると、本庄教会の存在が際立って行くことでしょう。

 祈り 

 天の父なる神様、
 今日は、救われたときの立場や身分の違いのあることを教えられ、各自は異なった賜物を頂いていることを知りました。

 神様が各自に分けて与えてくださった信仰の度合いによって、どうかお互いの賜物の違いを認め合い、キリストの体の大切な一部分として互いに活かし合って神の家族を形づくって行く本庄教会としてお導き下さい。

 イエス様を求める方の上に、聖霊のお導きをお与え下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。         

 アーメン。

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マラナタ15号編集後記

本庄教会月報第15号をお届けします。

ヨナ書講解は本号で終了します。みなさんの感想をお寄せください。

アジサイ7月になりました。梅雨の合間に台風が出現するようになりました。大きな災害に結び付かないよう祈ります。
       
  在 主

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月報『マラナタ』15号巻頭言

説教:
『わたしたちは神の家族』




2019年6月2日説教
ひきくに磨呂まろ 牧師ぼくし
聖書せいしょへん128ぺん1-6せつ
マルコによる福音書ふくいんしょ3しょう31-35せつ


1、教会は「神の家族」であるとは

 私たちは、今年の年主題を「わたしたちは神の家族」といたしました。

 教会を現わすのに、パウロは「教会はキリストの体である」と表現し、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一12:27)と言っています。私たちの日本基督教団の信仰告白にも「教会は主キリストの体にして、恵みによって召されたる者の集いなり」と告白しております。

 パウロは、教会が「キリストの体である」と言うのと同時に、「神の家族である」(エフェソの信徒への手紙2:19)とも言っております。

エフェソへの信徒の手紙2章1節からは、こう言われているのです。以前は、神様の選ばれたイスラエル人の立場から見ると、イスラエル人以外の諸国の人々は皆異邦人なのです。異邦人は、選びのしるしである割礼を受けていない者であり、神様の約束や契約とは無関係な者であり、この世の中で希望も持たず、神様を知らず、神様から遠い者として生きてきました。

 しかし今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの十字架の血による罪の赦しによって、異邦人たちは神様に近い者になったのです。キリストは、十字架を通して、イスラエル人と異邦人の両者を一つの体として神様と和解させ、十字架によってお互いの対立や敵意を滅ぼされたのです。キリストが来られて、神様から遠く離れている者も、近くにいる人々にも、平和の福音が告
げ知らされたのです。

 「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でもなく寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」(エフェソの信徒への手紙2・18~20)

 イスラエル人以外のどんな国々の人々も、キリストを信ずることによって、「聖なる民に属する者、神の家族であり」ますと言われるのです。

 そこで、この一年間、教会に連なる私たちが「神の家族」であるとは、どういうことなのかを御言葉に学びたいと思います。そして、学ぶだけではなく、神様の御心に適うような「神の家族」としての在り方、交わりを実践して行きたいと願います。

2、神の家族とは、神の御心を行う者

 教会は神の家族であるということを考える時、一番初めに、イエス様がどのように家族ということを考えておられたかを知ることが大事であります。そのことが一番よく示されているのが、今日のマルコによる福音書3:31~35節のところです。

 イエス様が大勢の人々に囲まれてお話をしておられました。そこへ、イエス様の母と兄弟たちが来て外に立っておられたのです。「外に立ち」とありますから、イエス様は誰かの家で人々に囲まれてお話をされていたのでしょう。兄弟たちが人をやってイエス様を呼ばせました。

 取り次ぎの人は「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らせたのです。

 ここでいう「母上と兄弟姉妹がた」とは、母上はマリアであり、兄弟姉妹はマリアとヨセフの間で生まれたヤコブをはじめとする血のつながった肉親、兄弟姉妹を指しています。今では、公と私の公私混同をしないようになっていますが、時には肉親が訪ねて来た時、仕事中でもちょっと時間を割いて対応することがままありました。
 
 ましてイエス様のお母様も一緒に捜しておられるということですから、イエス様はお話の途中でも、「ちょっと待ってください」と話を中断してでも、お母様や兄弟姉妹たちに対応するものと、取り次いだ者も、お話を聞いていた人々も思ったのではないでしょうか。 

 ところがそうではありませんでした。
イエス様は、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えられたのです。

 そして、周りに座っている人々を見回して言われたのです。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ。」と言われたのです。

 イエス様を訪ねて来たのは、イエス様の肉親の家族でありました。ところが、イエス様は、神様のお話を聞いている人々を見回して、その人々をさして「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃったのです。

 そして、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ」と言われたのです。

 「神の御心を行う人」という言葉は、マタイによる福音書では「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12:49~50)と言われています。

 ルカによる福音書では、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」(8:21)と言われています。

 このように、イエス様のおっしゃる神の家族は、「天の父である神の御心を行う人」たちであり、「神の言葉を聞いて行う人」たちのことであります。

3.神の家族となるために

 本庄教会の皆さんは、疋田牧師が来て、葉書カードの聖書日課表を作って「ディボーション」という何か新しいことを始めたと思っておられたかと思います。

 聖書は、日曜日に教会に来て開けばよいと思っていたのに、毎日、聖書を開いて読むようにと言われて、面倒なことだと思われたかも知れません。

 実は、これは、イエス様が言われたことなのです。イエス様が、「神の家族とは、天の父なる神様の御言葉に聞いて、神様の御心を行う人たちのことである」と言われているのです。

 聖書日課に従って、毎日、聖書を開いて、神様の御言葉を聞いて、神様が私に何を語りかけておられるのか、神様の御心を知ることが「ディボーション」なのです。

 「ディボーション」という言葉を使うから何か特別なことのように思われるのかも知れません。「黙想」と言いかえても良いのです。聖書を開いて、神様は私に何を語りかけておられるのか、神様の御心を静かに黙想するのです。そして、御心が示されたら御心に従うように生活するのです。これが神の家族なのです。

 御心に従うと言うと、「従う」と言う言葉に何か抵抗を感じると言う人がおられます。「御心に添う」ようにと言いかえても良いのです。いずれの言葉を使っても、神の家族とは、神様の御心に適うように生きる家族なのです。

 しかし、私たちは神様の御心を知らされても、なかなかそのように十分に生きることができないのです。だからこそ、日曜日ごとに礼拝に来て、御心に添えなかったことの赦しと励ましを頂いて、また新しい週を神の家族として生きるのであります。この繰り返しを通して、だんだん神の家族となっていくのであります。

4. 誕生日を祝い合う

 4月24日の祈り会に、私が大宮教会で一緒に信仰生活をした、台湾の林素卿姉と、同じく台湾出身で日本人と結婚されている柿沼文子姉が一緒に本庄教会まで私たちを訪ねて来て、祈り会を共に守りました。その後、外で食事を共にした時、台湾では肉親の兄弟が誕生日を迎えると台湾に帰ったり、台湾から兄弟が日本に来たりして誕生日を祝い合う話を聞きました。肉親の兄弟・家族は日本でも誕生日を祝い合います。

 私は神の家族である教会も、誕生日を祝い合う事の大切さを思い、大宮教会で実施してきました。キリストを信じる私たちは、神様が祝福をもって全ての人間一人一人の命を誕生させてくださったことを知っております。神様は、祝福して造られた人間を、キリストの命を犠牲にしてまでも愛して救われましたが、聖霊のお導きによって神様を「アッバ、父よ」と呼んで霊的な交わりを回復できるようにと、救ってくださったのです。

 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマの信徒への手紙8:14~17)と約束されています。
 
 このように聖霊のお導きによって神様を「天のお父さん」と呼んで神様の子供、神様の家族とされた者は、イエス様と共に御国を受け継ぐ相続人ともされているのです。神様から祝福されて与えられた私たちの命は、このように御国を受け継ぐ栄光にも与かることができるのです。

 このように神様が祝福して造ってくださった素晴らしい命の誕生日を、「わたしたちは神の家族」として互いに覚えて祝い合いたいと願い5月の役員会に提案しました。6月から実施するということで、今日の週報に「6月にお誕生日を迎える兄弟姉妹」が掲載されています。

 今日の礼拝の終わりに、この兄弟姉妹たちを共に祝って祝福の祈りをいたしたいと思います。又、互いにお祝いの言葉などを交わし合っていただけたらと願います。

〈祈り〉

 天の父なる神様、私たちは今年度、「わたしたちは神の家族」との主題の基に励んでいこうとしています。

 イエス様は、神の家族とは、天の父なる神様の御言葉に聞いて、御心を行う者であると言われました。

 そのような家族となることができるように、本庄教会に連なる私たちをもお導き下さい。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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月報『マラナタ』14号巻頭言(3/4)

2018年度標語の学び:
『主よ、祈りを教えてください』(続き)

※今回は数回分の説教となっている為、目次をご利用ください。
**目次**

**過去の学びについてはこちら**

4.第6の祈り「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」

 神様は、私たちが、喜びと感謝に満ちた生活をするようにと願い導いて下さっています。しかし、いつも喜びと感謝に満ちた生活ができるわけではありません。戸惑い、苦しみ、悲しむ出来事に遭遇します。そういう時を「試練」と言います。「我らを試みにあわせず」という「試み」は、善い意味で〝訓練〟ともなり、悪い意味で〝誘惑〟ともなります。

 私たちは、或る出来事を通して試みられた結果、強くなり、前よりも精神的に向上できるならば、それは神様による試練であり訓練であります。しかし、試みに負けて悪に陥るきっかけとなるならば、それは誘惑であります。

(1)主の試みには備えがある

 神様が私たちを訓練するために試練を与えることがヘブライ人への手紙12:5~11に記されています。

 「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」

 このように、神様は霊の父として、私たちが神様の神聖にあずかることができるように鍛えて、鍛錬・訓練をされるのです。
この試練で、聖書における最大の試練は、アブラハムのイサクの奉献でした。

 アブラハムは75歳の時、祝福の源となるようにと神様から召しだされ、天の星のようにあなたの子孫を与えると約束されました。しかし、なかなか子供が与えられませんでした。25年経って100歳にして約束の子としてイサクが誕生しました。ところが神様はアブラハムを試みられたのです。

 神様は、アブラハムに、愛する独り子イサクをモリヤの山に連れて行って、焼き尽くす献げものとして献げなさいと命じられたのです。100歳にしてやっと授けられた、愛する独り子を焼き尽くす献げものとして献げなさいと命じられたアブラハムの心境はいかばかりであったでしょうか。しかし、次の朝早く、アブラハムはロバに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神様が命じられた所に向かって行きました。

 山に着くと、イサクは父アブラハムに言いました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」するとアブラハムは答えました。
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」

 二人は一緒に歩いて行き、神様が命じられた場所に着くと、アブラハムは祭壇を築き、薪を並べて、そして息子のイサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、イサクを殺そうとしました。

「そのとき、天から主の御使いが『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』  アブラハムは目を凝らして見まわしました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
アブラハムは、その場所をヤーウエ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。そこで人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』」言っている。」(創世記22:11~14)

 このアブラハムにおける出来事は、神様がアブラハムの信仰を試された「試み」です。神様はアブラハムの信仰を確認して、全人類の祝福の源として用いられたのです。

 その神様は、今日も、信仰者の私たちを試みて信仰を確かめて、その信仰に応じて用いられるのです。信ずる者が、神様から試みられていると思う時、大事なことは、神様は必ずその先に備えていて下さるお方であるということです。「主の山には備えあり」と言うことです。そう信じる時、私たちはどんな試練にも耐え忍ぶことができるのです。

 今から7年近く前ですが、私は2012年9月、大宮の赤十字病院で、腎臓がんの再発と両肺への転移と診断され、余命1年と言われました。その時、聖書日課で、「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、先祖の列に加えられ、朽ち果てました。」と使徒言行録13:36の御言葉を与えられたのです。私は、その時、ダビデが神様の計画に仕えた後、眠りについたように、私も神様の御計画に仕えた後に眠りにつくのだと平安な気持ちになれたのです。

 神様は、良きセカンドオピニオンの医師と良き治療を与えて下さり、多くの教会員の皆様に祈られて、癒しの恵みを頂きました。大宮教会で神様の御計画が終わりかと思っていたら、本庄教会に遣わされ、いまだに神様の御計画に仕えております。過ぎし1年は、本庄教会の皆様の祈りに支えられ、伊勢崎教会の代務者をも務めることができました。今私の体のがんは、寛解状態で、がんはまだ無くなっていないのですが、がんはおとなしくなって、私の働きを妨げることがないのです。がんと共に生きる私ですが、神様の御計画がある限り、仕えてまいりたいと願っています。

 私はがんになったために、がんの人々の心と通じ、牧師として10数名の方々をイエス様の御許にお連れし、弟子としていただきました。〝がんも恵みです!〟と言っています。

 本庄がん哲学カフェが始まりました。どなたのがん生活にも、がんを通して見出だす恵みがあるのです。そんな互いの恵みを分かち合って、互いに喜び生きる本庄がん哲学カフェとして行きたいものです。

 皆様が試練を受けていると思われる時、神様の与えられる試みには、必ず、備えがあると言うことです。「主の山に備えあり」を忘れないでください。

(2)試みは、悪魔・サタンの試みの時

 私たちが受ける試練は、悪魔が働く時でもあるということです。

 ペトロの手紙一5:8~11に言われています。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」

 私たちが受ける試みは、悪魔・サタンの試みの時でもあるのです。

 悪魔の働きの目的は、人々を神様から引き離すことなのです。ですから、不信仰な者はほっといても神様から離れるからと安心して余り働きません。しかし、信仰的に生きようと、礼拝を大切にし、聖書日課を通して毎日御言葉に聞こうとしたり、お祈りを大切にして生きようとする人々には、絶えず悪魔は働きかけて来るのです。

 その悪魔の策略に対抗して立つためには、神の武具を身に着けることなのです。

 エフェソの信徒への手紙6:10~20にそのことが書かれています。そこで、言われていることの一番大事なことは、私たちの戦いは、血肉(人)を相手にするのではなく、その人の背後に働く悪魔を相手にするのだと言うことです。

 神の武具とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる履物、信仰の盾、救いの兜などを身に着け、霊の剣、即ち神の言葉を取りなさいと言われています。日々、聖書日課を通して聞き従う神様の御言葉ほど強い武具はないのです。

 また、どのような時にも、聖霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気強く祈り続けなさいと勧められています。

 水曜日に守られる「祈り会」は、聖霊に助けられて御言葉に聞き、聖霊に助けられて全ての兄弟姉妹のために、根気強く祈り続ける場なのです。その祈りに支えられて私たち信仰者の生活が守られているのです。是非、この祈りの場に加わってください。

 聖書は、悪魔が絶えず信仰的に生きようとするものを襲ってくることを告げていますが、しかし、同時に、イエス様がご自身の代わりとして送られた聖霊は、私たちの弁護者・助け主として常に働いていて下さるのです。この聖霊は、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエス様が約束してくださっています。聖霊なる神様がいつもいて下さるという信仰が有るならば、何も恐れることはないのです。

 しかし、愚かで、弱い私たちは、その聖霊なる神様の助けを忘れて、自分の力で何事もできると、しばしば思ってしまうのです。気が付くと、悪魔の誘惑に陥って神様から離れてしまうことがあるのです。

 だから、そのようなことがないように、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。

 イエス様は、「二人または三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいる。」(マタイ18:20)と約束されています。私たちは一人でいると悪魔に誘惑されやすいのです。だから信仰のある兄弟姉妹の交わりが大切なのです。互いに助け合い、祈り合って神の家族としての歩みを新年度も進めてまいりましょう。

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月報『マラナタ』14号巻頭言(4/4)

2018年度標語の学び:
『主よ、祈りを教えてください』(続き)

5.第7の祈り「国と力と栄とは限りなく神のもの」

 「主の祈り」の最後の祈り「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン。」について御言葉に聞きます。

 この部分は、マタイとルカによる福音書で、イエス様が「こう祈りなさい」と言われた祈りの中には無い部分でありますが、「限りなく汝のものなればなり」と神様を賛美する頌栄的な言葉であります。

 これは、初代教会が後で付け加えたものと言われています。イエス様が、「祈るときには、こう祈りなさい」と言われた教えに対する初代教会としての〝応答の祈り〟だとも言われます。

(1)「国は、限りなく神様のもの」

 「国は、限りなくなんじ(神様)のものなればなり」についてです。

 私たちが「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、「御名を崇めさせたまえ」と祈る神様とは、どのような御方であるのでしょうか。

 ヨハネは福音書の中で言っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信ずる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

 また、ヨハネは手紙の中でもこのように言っています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:9~10)

 ここで言われている、独り子を世にお遣わしになって、私たちの罪を償ういけにえとされたということは、イエス様の十字架の出来事であります。

 私たちの信ずる神様は、私たち人間の罪を赦すために、独り子である御子イエス様を十字架の上に犠牲として献げて下さったのです。私たちは、御子イエス様の命を犠牲にしてまでも、神様から愛され、罪が赦されているのです。そして永遠の命を与えられているのです。このイエス様の十字架を通してこそ知らされる神様の御名と愛なのです。それゆえに私たちは十字架を通して神様の御名と愛をあがめるのです。これが第1の祈りの「み名をあがめさせたまえ」なのです。

 この神様の御名を崇めることは、第2の祈り、「御国を来たらせたまえ」の祈りへと結びつくのであります。

 「御国」とは、神様が御支配される国であります。神様の御心が行われる国であります。イエス様は「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17:21)と言われています。キリストを信ずる者たちの間に、神様の支配が始まっているのです。それはキリストの再臨によって完成する御国であります。

 第3の祈りでは、その神の御国・御支配(御心)「が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。

 ところで、皆さんは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを主日ごとに「主の祈り」として祈っています。教会のいろいろな集会や、また家庭でも祈っています。それは、神様の御心が天に行なわれるように、地上にも行われるようにとの祈りであります。

 しかし、地上の生活においては、神様の御心と思えない悲惨な出来事がたくさん起こっています。人間の歴史の二千年余りは、造り主である神様を信じない人間が権力を持ったり、神様の御名を建前にして権力を振るう悲惨な出来事の歴史でもあります。

 これでも神様がおられるのだろうか、神様の御国はいつ来るのだろうかと思われる歴史であります。そうした歴史の一部分を生きるキリスト者たちは、十字架につけられたイエス様をキリストと信じて、十字架につけられて三日目に復活されたイエス様こそが御国を支配する真の王、王の中の王と信じて、「御国を来たらせたまえ」「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続けて来たのであります。

 ところが、イエス・キリストが御国の真の王であるということは、地上の支配者たちには邪魔な考え方なのです。

 1549年、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に初めて伝えました(イゴヨク栄えたキリスト教と覚える)。キリストの福音は、今では考えられない勢いで広まり、キリシタン大名まで生まれ、京都には神学校もできたようです。

 しかし、この教えが国を支配するには邪魔な教えとして気づいたのが豊臣秀吉です。キリスト教の禁制を命じ、信徒たちを捕らえ迫害し始めたのです。それが徳川時代には徹底していったのです。長崎にキリシタン27聖人の殉教記念館があります。

 また、74年前までの日本帝国憲法時代には、天皇は現人神として君臨し、天皇の名の下で日本のアジア侵略が始まり、太平洋戦争が起こりました。その時、〝天皇の神とキリストの神とどちらが偉いか〟とキリスト者たちは踏み絵のように尋問されたのです。キリストの神が偉いというと、即刻、逮捕され牢獄に入れられ、拷問などを受け、殉教した牧師もいます。大宮教会が韓国の憂忘(マンウ)教会と交流した時、李聖実(イソンシル)牧師の部屋に、50人ほどの顔写真が載っている掛け軸がありました。日本に支配されている時、神社参拝を拒否して殉教した牧師たちと聞いて心が痛みました。

 私が福井神明教会に仕えた時、付属栄冠幼稚園75周年史を編集しました。その時に聞いた話です。戦時中、栄冠幼稚園の園長を務めた牛山敦子園長の所に、憲兵が来て〝天皇の神とキリスト教の神のどちらが偉いか〟と問うたそうです。すると園長は、「めっそうもない、天皇の神様とキリストの神様とを比べるなんて、恐れ多くてできるものではありません。そんな恐れ多いことをおっしゃらないでください。」と言ったら、黙って帰ってしまったそうです。

 今は、キリストの神様こそ、世界の造り主として一番偉い方ですと平気で言え、天皇も人間の一人として神様に造られた者ですと平気で言えますが、74年前までは、そんなこと言うと即刻逮捕されたのです。初代教会以来、キリスト教が宣べ伝え始められた所では、日本のようなことが繰り返し起こってきているのです。

 こうした歴史のなかに「御国を来たらせたまえ」「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続けて来たキリスト者たちは、その祈りに応答して「御国はなんじのもの、神様のものです」と告白し、神様をほめたたえるのです。

 使徒言行録1:15に「120人ほどの人々が一つになっていた」とあります。その人たちが心を合わせて熱心に祈って一つになっていたところに、聖霊が降りました。すると聖霊を受けた弟子たちが、人々が十字架につけて殺したイエス様こそ、神様が救い主・メシアとして遣わされた方なのだと世界中に宣べ伝え始めたのです。

 あれから、二千年余り、今、キリストを信ずる者は世界の人口70億人の三分の一なのです。120人が23億人になっているのです。日本ではまだ人口の1%弱のキリスト者の数ですが、世界を見ると確実に「御国は、限りなく神様のものです」と告白し、ほめたたえることが出来るのです。

(2)「力は、限りなく神様のもの」

 使徒パウロは、手紙の中に「神の力」「キリストの力」と言うことを繰り返し言っています。

 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマの信徒への手紙2:1)

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとって愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントへの信徒への手紙一1:18)

 「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だからキリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリントの信徒への手紙二12:9~10)

 私は、神学校を卒業して、柿木坂教会2年11カ月、福井神明教会10年4ヶ月、大宮教会29年、それぞれに仕えて来ました。本庄教会は今年で3年目です。務めを終えた3つの教会を振り返って、パウロの言っている「神の力」「キリストの力」がどのように働いていただろうかと思うのです。

 私たちキリスト者の存在や教会の存在は、人間の能力や力・頑張りによって存在しているのではありません。人間の弱さの中にも働かれる「神の力」「キリストの力」によってその存在は確立され、保たれるのです。

 ですから、パウロはエフェソの信徒への手紙1章19節以降に祈っているのです。
「また、わたしたちの信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられる場です。」

 教会を教会たらしめている力は、私たち人間の力ではなく、キリストを死者の中から復活させられた神の力なのです。そして、教会に連なる一人一人は、この「神の力」を大なり小なり経験する者たちであります。

 人間の力や人間の主張の強い教会は、分裂に分裂を醸し出して行きます。

イエス様がフィリポ・カイザリアの地方に行った時、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と聞かれました。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに「エレミヤだ」とか「預言者の一人だ」と言う人もいますと答えました。そうしたらイエス様は「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれました(マタイ16:13~19)。

 その時、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。

するとイエス様は言われました。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 このように、「イエスはメシア、生ける神の子です」と信仰告白する群れが教会で、その信ずる者の信仰告白に対して天の国の鍵が授けられるのです。教会はキリストを死者の中から復活させられた神の力が宿るところで、死の世界と言われている陰府の力も対抗できないのです。

 私たちキリストの復活を信ずる者には、復活のキリストと共に死に打ち勝つ力が与えられているのです。ですから、私たちは「力は限りなくなんじのもの、神様のものです」とほめ歌うのです。

(3)栄は、限りなく神様のもの

 イエス様は、ヨハネによる福音書15:7~8でこう約束されています。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むもを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

 イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者は皆、イエス様の弟子なのです。弟子の目的は、父なる神様に栄光を帰することです。そのためには、イエス様につながることです。イエス様につながることは、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」と言われているように、いつもイエス様の御言葉を聞いて心にとどめて生きることです。御言葉に従って生きることなのです。そうするとどんな願いも叶えられ、豊かに実を結ぶのです。そうした弟子の生き方によって、父なる神様は栄光をお受けになると言われています。

 山形にカウンセリングを生かして教会形成をしている田中信生牧師の山形興譲教会に特伝講師として呼ばれました。その理由は、所属する教師が研修会で私と学んだ時、「疋田先生はいつも、神様は、イエス様はと、神様とイエス様を主語にして話をしておられるので、先生のお話を皆様に聞かせたかったのです。」と言われたのです。

 私は当たり前のように思っていたので、自分の考えや主張ではなく、神様がこう言われている、イエス様がこう言われているとの会話になっているのだと思います。それは、日々のディボーションによって培われたものなのです。皆様も、ディボーション生活を重ねるとそういう思いになって来るのです。

 最後に、いつも私が紹介する御言葉を読んで結びとします。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントの信徒への手紙一6:19~20)

 私たちは、滅ぶべき者でしたが、神様は御子イエス様の命を代価として払って、悪魔の支配、滅びに至らせる罪の力から解放して神様の子どもとして下さったのです。だから自分の体で神様の栄光を現すことができるのです。この信仰的事実をしっかりと受けとめて歩みたいものです。そして、私たちは、「栄光は限りなくなんじのもの、神様のものです」と絶えず神様をほめたたえたいと思います。

〈祈り〉

 父なる神様、イエス様が「祈るときには、こう言いなさい」と教えられた「主の祈り」について御言葉に聞き学ぶことができ感謝いたします。

 今回のシリーズでは、私たちの日用の糧、罪の赦し、試練において祈り求めるべきものは何かをあらためて教えられました。また、人間の横暴な力が圧倒するかに思える地上において、真の国、力、栄のすべては限りなく神様のものであることを教えられ、確信できたことを感謝いたします。

 どうか本庄教会の群れが「主の祈り」と共に喜び生きることができるように祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。             

アーメン。

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