月報『マラナタ』14号巻頭言(2/4)

2018年度標語の学び:
『主よ、祈りを教えてください』(続き)

3.第5の祈り「我らの罪をもゆるしたまえ」

 「主の祈り」の第5の祈り、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」について御言葉から学びたいと願います。

 今、私たちは受難節と言って、イエス・キリストが人間の罪を赦すために十字架への道を歩まれたことを、自分のこととして思い起こす40日間の歩みをしています。

 今日の学びは、この時にふさわしいことかと思います。

(1)人間の罪とは

 人間の罪と言う時、私がいつも思い起こすことがあります。
私が青年時代に信仰生活をした、東京の渋谷にある中渋谷教会での出来事です。渋谷から吉祥寺までの井の頭線で、3つ目が東大駒場駅です。東京大学の一・二年生が通う教養課程の校舎があります。その東大駒場の東大生たちが時々礼拝に来ました。礼拝後、新来者を歓迎する青年会の場で、一人の東大生がこう言ったのです。

 「何で教会は、罪、罪というのですか。人を罪人呼ばわりすることは気にいらない。自分は小さい時から、父親に厳格に育てられて来たから、人に後ろ指をさされるようなことは何もしないで今日まで生活して来ました。それなのに罪人呼ばわりをするとは失敬です。一言文句言いたくて残ったのですが、こんな教会にはもう2度と来たくないです。」

 これは、この東大生だけでなく、一般の多くの方々も、初めて教会に来られると「罪人」という言葉に引っ掛かるのではないでしょうか。

 一般に、罪人と言うのは、刑法を犯した犯罪人のことを指します。盗みをしたり、殺人を犯したり、禁じられている麻薬などを常用して、逮捕された人たちを指します。警察の厄介になっている人たちを罪人として、あの人は悪いことをした人だと後ろ指をさすのです。人と人との横の関係の中で、禁じられていることを犯した人が罪人なのです。この刑法に問題があります。その行いが誰かに見つかって訴えられなければ、罪にならないのです。最近も、ある俳優が、麻薬常習罪で逮捕されましたが、20代から行っていて、見つからなかったので、罪にならなかったのです。

 しかし、聖書でいう罪は、世界の造り主である神様と人間の縦の関係の中で言われることです。私たち人間の命の造り主である神様を認めない生き方、神様の御心に背いた生き方をする人を罪人と言います。しかも、神様の目からは逃れることはできません。聖書は、人間の罪の根本は、すべての人間を造られた神様の愛と御心を信じないで、自分を中心に生きることから生じると言うのであります。

 私が大宮教会に着任して間もなく、まだ聖学院女子短期大学があった時、2年ほど保育課の学生にキリスト教概論を教えたことがあります。その授業で罪の問題を話す時、「皆さんは、人を殺したことはありませんか」と聞いたのです。するとある女子学生は、「先生は、ひどいことを言う。人を殺していたら、私たちはこうして大学になんか来ることはできていません。」と言いました。

 私は、「いや、ごめんなさい。失礼なことを問いかけまして。」とお詫びをしました。

 そして、マタイによる福音書5章21~24節を開いてもらいました。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したら、その供え物を祭壇の前に置き、まず兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」

 聖書では、殺人を犯した人は、殺された人の身内から命を奪われることを許しています。しかし、過失で人が死んだ場合、加害者は「逃れの町」に逃れれば、被害者の身内からの復讐を免れます。それを町の門のそばにいる長老が判断をするのです。
しかし、イエス様は言われるのです。

 兄弟に腹を立てる者は、誰でも人を殺した人が門の長老の前に裁きを受けるように、裁きを受けるのです。兄弟に「馬鹿」という者は最高法院(いわゆる最高裁判所に)に引き渡されるのです。更に「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる、いわゆる死刑を受けると、言われるのです。

 これはどういうことかと言いますと、私たちは最初に人の振る舞いに対して腹を立てます。そしてその人を馬鹿者だとなじったりします。それでも怒りの心が納まらないと「あの愚か者が、死んでしまったらよい」と言って、無視します。無視するということは、その人がそこに居るのに、存在しないかのように扱うことなのです。人は、無視されると一番悲しいのです。「愚か者、あんな人なんかいない方がよい」と無視することは、自分の心の中でその人の存在を殺すことなのです。

 イエス様はここで、実際に手を下して人を殺さないでも、心の中で人の存在を殺して無視していくことは、殺人と同じだと言われているのです。

 私は学生に「皆さんは、今まで、心の中であんな人なんかいない方がよいと思ったことはありませんか。そんな人が何人かいるのではないですか。」と問いかけると、「いる。いる。」とみんなが言うのです。

 イエス様は、人の目に見える形で罪の行動を犯していなくても、その心の中で罪の行動に至る動機を見ておられるのです。その後、姦淫の罪に対しても言われています。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」と。

 イエス様は、人間の行動に現れない、心の中の罪についても指摘しておられるのです。罪の赦しとは、そうした私たち人間の心の奥底にある罪までも問われることなのです。

 最初に話した東大生のように、人に迷惑をかけず、後ろ指をさされるようなことのない生き方をしていても、私たちの心の内面では、憤り、怒り、気に入らない人々を無視し、心の中で抹殺していくことから免れないのではないでしょうか。

(2)祈りとは神様と直面すること

 私は大宮教会にいる時、半年ほど夜間の日本聖書神学校で礼拝学を学んだことがあります。そこで、「主の祈り」は、元々、洗礼式や聖餐式のように、ミステリオン(秘儀)として、信仰をもっていない人には閉ざされていた祈りだと学んだことがあります。

 例えば、「御国を来たらせたまえ」と言う祈りは、地上での神様の御支配を求めるだけでなく、神の国の完成という終末的な祈りでもあります。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、単なる日用の食べ物だけでなく、神の国の食卓、天的な食事の意味も含んでいて、御国の完成と言う終末的な祈りにもつながるのです。

 この「我らの罪をも赦したまえ」という祈りも、「裁き」「火の地獄」と言う言葉から終末的な祈りにもつながるのです。

 私たちが「天にまします我らの父よ」と祈る時、それは天におられる神様と直面する事なのです。私たちは、祈る時、単に自分の思いを独り言として言っているのではないのです。目の前におられるが如くに、神様に語り掛けているのです。神様と直面しているのです。この神様との直面は、この世の終わり・御国の完成との直面であり、人生の終わり・永遠の命との直面であります。

 キリスト者は、一般の人と違って、いつも自分が死んでこの世を去って、神様の御国に入れられることを待ち望む者です。その意味で、神様に祈る時、いつも自分の死を見つめつつ神様と直面しているのです。

 ペトロの手紙一4章7~11節にこう書かれています。
「万物の終わりが迫っています。思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれの賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」

 先日、3月24日の午後には、本庄がん哲学カフェの発足の講演会で樋野興夫先生からガンについてのお話を伺いました。今、日本では、二人に一人はがんになると言われています。誰もが、がんを通して死に直面する時代になっています。死と直面することは、聖書では神様と直面することだと言っているのです。

 ペトロの手紙は、万物の終わりが近づいていますから、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」とよく祈ることを勧めております。そして祈りに基づく行為として「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。」と勧めています。

 「愛は多くの罪を覆うからです」と言われています。赦しの愛によって生かされること、それが終末に直面するキリスト者の在り方なのです。

(3)人を赦すことの難しさ

 この「我らの罪をもゆるしたまえ」の祈りは、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と言う言葉が伴うのです。自分に罪を犯した者を赦しますから、自分の罪を赦してください。と言う祈りなのです。

 人が自分に犯した罪を赦すことは本当に難しいものです。「赦してください」と言われて、「いいよ、赦すよ」と言いながらも、心の内では赦していないことがどんなに多いことでしょうか。どうしたら人の罪が赦せるのでしょうか。「主の祈り」のこの部分に来ると祈ることができないという姉妹の具体的な事例を聞かされたことがあります。

 私は、キリスト入門の会で「主の祈り」を学ぶとき、赦しについては、いつもマタイによる福音書18章21~35節の「仲間を赦さない家来のたとえ」を学びます。

 ペトロがイエス様に「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」と聞きました。7回と言うのは、完全数で、全部赦す意味です。ところがイエス様は「7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」と言われたのです。7の70倍とは、490回赦しなさいと言われたのです。限りなく赦しなさいと言うことです。

 そして、天国における赦しを、家来の借金の決済にたとえて話をしました。一万タラントンの借金をしている家来が借金を返済できなかったので、主君は、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じました。」当時、借金のために自分や妻や子も奴隷として売ることが行われていたのです。家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」と〝しきりに願った〟のです。この〝しきりに願う〟ことが祈りの姿勢であることを先に学びました。
 
 主君は、憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやったのです。帳消しと言うのは借金がなかったようにゼロにすることです。

 ところが、帳消しにされた家来は、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め「借金を返せ」と言いました。その仲間は、帳消しにされた家来と同じようにひれ伏して「どうか待ってください。返しますから」と〝しきりに頼んだ〟のです。しかし、承知せず、その仲間を、借金を返すまでと牢に入れてしまったのです。

 他の仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛めて、主君にこのことを残らず告げました。すると、主君は、その帳消しにされた家来を呼びつけて言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」と、そして主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡してしまいました。

 タラントン、デナリオンというお金の価値を知ると、この出来事をより分かり易くなります。

 1デナリオンは、1日分の賃金に相当します。
1タラントンは、6000デナリオンです。1年の実働を300日として割ると、20年になります。1タラントンは、20年分の賃金に相当する金額です。 家来の借金は、1万タラントンですから、20万年分の賃金に相当する、天文学的な数値です。

 この家来が、仲間に貸した借金は、100デナリオンでした。100日分の賃金に相当します。1ヶ月25日の労働とすると、4ヶ月で稼げる金額です。

 主君に帳消しされた家来の借金は、20万年間、働かなければならない天文学的金額でした。その家来が貸していた借金は、わずか4カ月働けば得ることのできる金額でした。

 ここでイエス様が言われていることは、私たち人間が神様に赦される罪は、本人も気付いていないのですが、1万タラントンに相当する大きな大きな罪の帳消しであるということです。それなのに、100デナリオンの無きに等しい、小さい、小さい罪を赦すことのできない人間の姿を指摘しているのです。

 イエス様は、私たち人間が持っている1万タラントン相当の大きな罪を、帳消しにするために、十字架につけられて、「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」と祈られ、御自身の命を私たちの身代わりとして献げられたのです。

 本来、「天の父よ」と呼んで祈ることのできないほどの大きな罪の負債を負っている人間を神様は赦してくださるのです。その大きな赦しの愛、その大きな恵みによって私たちは包まれているのであります。私たちはその大いなる赦しの愛の中で祈るようにさせられているのです。私たちが頂くことのできる1万タラントンの負債の帳消しの赦しの愛は、イエス様がご自身の全生涯をかけて実現されたアガぺーの愛なのです。

 イエス様が十字架で命を献げてまでも、この私の罪を赦し、愛して下さっていることを信じることができた時、私たちは初めて、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ることができるのです。

 イエス様は、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)と言われました。「わたしがあなたがたを愛したように」とは、御自身の命を犠牲にしてまでも愛してくださったと言うことです。それゆえに、私たちも互いにイエス様の犠牲愛を受けた者として愛し合うように命じられているのです。

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