月報『マラナタ』12号巻頭言

2018年度標語の学び(2)
『主よ、祈りを教えてください』

2019年2月3日、
24日、3月3日の礼拝説教より
ひきくに磨呂まろ 牧師ぼくし
聖書せいしょへん145しょう1-21せつ
ルカによる福音書ふくいんしょ11しょう1-13せつ
マタイによる福音書ふくいんしょ6しょう5-15せつ

1、「主の祈り」の構造と内容

 キリスト教の祈りの形は一般に、①初めに神様を「父なる神様」と呼びかけます。②祈りの内容(感謝・願い・懺悔など)は自由です。③終わりに「イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と言えれば、キリスト教の祈りなのです。

 この形はイエス様の教えられた「主の祈り」に基づいたものです。そこで「主の祈り」の構造と内容(週報の裏面を参考)について学びます。

「主の祈り」の構造と内容ですが、
呼びかけ:「天にまします我らの父よ」
第1の祈り:「ねがわくは御名をあがめさせたまえ。」
第2の祈り:「み国を来らせたまえ。」
第3の祈り:「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。」
 この第1~第3の祈りは、御名、御国、御心と神様に関する垂直関係の祈りです。

第4の祈り:「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」
第5の祈り:「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」
第6の祈り:「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」
 この第4~第6の祈りは、私たち人間に関する水平関係の祈りです。

最後の祈り:「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり。アーメン」
 この最後の祈りは、頌栄と呼ばれる神様の御業をほめたたえ賛美する祈りです。

2、神様への呼びかけ

 神様への呼びかけの「天にまします我らの父よ」は、マタイによる福音書では「天におられる私たちの父よ」となっており、ルカによる福音書では「父よ」となっています。おそらくルカの方が原型に近いのではないかと言われています。

 「天にまします」は、天におられるお方という意味で、十戒で「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」と言われているユダヤ人は、神様の名を唱える代わりに〝天におられるお方〟と呼んだのです。

神様への呼びかけは、イエス様が十字架につけられる前にゲッセマネの園で汗が血の滴るように祈られた時「アッバ、父よ」と祈られたように「父よ」と祈れば良いのです。

 「アッバ」と言うのはアラム語で、ユダヤ人の家では幼子が父親を呼ぶときに用いられた言葉です。日本でいうと「お父ちゃん」「パパ」という幼児語です。ユダヤ教の祈祷文には例のない実に親密な呼びかけなのです。

 イエス様が、目に見えず畏れ多くて近づきがたいと思われていた神様を初めて「アッバ、お父ちゃん」と呼ばれたのです。そしてイエス様は、キリストを信じる者に「アッバ、お父ちゃん」と呼んで祈るように教えられたのです。小さい子供が「パパ」「ママ」と何の疑いもなく、全幅の信頼を持って親にしがみついてくるように、私たちは神様を「天におられる私たちのお父さん」と呼びかけることができるのです。

 天におられるお父さんと呼びかけることによって、天の神様と地上の私たちとの垂直(縦)の関係がつながるのです。これが「天にまします我らの父よ」の意味と恵みです。

3.「御名を崇めさせたまえ」

 第1の祈りの「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」は、聖書ではマタイによる福音書もルカによる福音書も「御名があがめられますように」となっています。この第1の祈りは、願いではなく、賛美なのです。

 「崇める」(キリシア語でハギアゾー)とは、聖なるものとすること。人間のものから区別して神様のものとして扱うことの意味です。

 例えば、キリストを信じる者が聖なる者とされたということは、この世の人間の支配から神様の支配の中に置かれるということなのです。キリスト者は、もはや自分自身のものではなく、神様に支配された神様のものなのです。

 パウロは言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたものです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントの信徒への手紙一6:19、20)

 私たちは、神様が十字架によってキリストの命の代価を払って買い取られた、神様のものとされた者です。だから聖なる者として神様の栄光を現すことができるのです。

 ところで、御名を崇めるということは、どんなことなのでしょうか。神の御名について、モーセが神様から「モーセよ、モーセよ」とホレブ山で呼びかけられた出来事があります。神様から「今、行きなさい。わたしはあなたをエジプトのファラオのもとへ遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ。」とイスラエルの出エジプトの使命を与えられた時のことです(出エジプト記3:1~15)。モーセは、イスラエルの民たちから、その名は何と言うかと聞かれた時、何と答えますかと神様に尋ねました。神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました。「わたしはある」と言うことは、〝過去も現在も未来も変わることなくおられる〟と言うことです。以来、神様の御名は「『わたしはある』という方」と呼ばれるようになりました。

 しかし、十戒の第3戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」と命じられてから、人々はみだりに神様の御名を唱えることができなくなりました。それで「天におられるお方」と呼ばれるようになったのです。

 しかし、目に見ることのできない神様は、クリスマスの出来事を通して、御名を具体的にはっきりと私たちにお示しになりました。
 
 マリアが身ごもったことを知ったヨセフが、ひそかに縁を切ろうとしていた時、主の天使は夢に現れて、告げました(マタイによる福音書1:20~23)。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子の名をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 神様の御名は、御子イエス様を通して「その名はインマヌエルと呼ばれる」と示されたのです。「インマヌエル」とは、神様が過去も現在も未来もいつまでも私たちと共におられると言うことなのです。モーセに示された「わたしはある」という方が、イエス様を信じる者と共にインマヌエルのお方、永遠に共におられるお方として、御名を示されたのです。

 ところが神様がイエス様と共におられるということを信じることは、世の人々にはそんなにたやすいことではありません。

 イエス様は、誰も生まれたことのない馬小屋の中に馬の餌箱をベッドとして生まれ、その生涯は貧しいヨセフとマリアの家で育ち、最後は、十字架につけられて死なれたというように、誰もそのようなイエス様と共に神様がおられることを信じることができなかったのです。あの弟子たちも、イエス様を裏切り、否み、見捨てて逃げて行ってしまったのです。
 
 イエス様は、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23:34)と全ての人の罪の赦しを祈りつつ、死んで行かれました。三日目に、墓より復活されて弟子たちに現れ、神の御国のことについて教えられ、40日後に天の父なる神様の御許に引き揚げられました。
 
 弟子たち120人ほどが一つになって、心を合わせて熱心に祈っていたところに聖霊が降りました。一同は聖霊に満たされた時に、〝十字架につけられて死なれたが3日目に復活されたイエス様こそ全ての人々を救う救い主である。この十字架につけられたイエス様こそが神様の御名と愛を現されるお方である。〟と、ほかの国々の言葉で宣べ伝え始めたのです。
 
 ヨハネは言っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネによる福音書1:18)

 パウロは言っています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙5:8)

 十字架につけられた独り子である神・イエス様において神様の御名が示され、また神様の愛が示されたのです。

 神様は、イエス様の出来事に神様の御名と愛を示されたのです。しかし、当時の人々はそれを受け入れることができなかったのです。いや、当時だけでなく今も、受け入れられない人々が多いのです。ここに集う私たちは、聖霊のお導きによって、十字架に付けられて死なれ、復活されたイエス様にこそ、神の御名と愛が現わされていることを信じることができているのです。

 御名が崇められるようにとは、十字架につけられた神の子イエス様こそが、神様の御名と愛を現されたことを信じて、神様の御名を崇めますと賛美の祈りをするのです。

 ある人は、〝御名を崇めるということは、神様の御名を自分の前に大きくすることである。そうすると自分は小さくなります。神様の御前に自分を小さくすることが神をほめたたえ賛美することなのです。〟と言っています。小さい自分を見つめると、神様の恵みがどんなに大きいものであるか分かり、神様の御手の中に置かれて生きることの喜びと感謝があふれてくるのです。

4.「御国を来たらせたまえ」

 第2の祈り「み国を来たらせたまえ」は、ルカによる福音書もマタイによる福音書も「御国が来ますように」となっています。

 「御国」とは「神の王国」を意味します。これは、人間の王制度から取った表現でありますが、人間的な支配体制を超えた純然たる神様の支配、神様を王とする世界を意味します。「神の国」=「神の支配」と言ってよいのです。

 イエス様は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間(ただ中に)にあるのだ。」(ルカによる福音書17:20~21)と言われています。

 御自身が神の子として誕生されたことによって神の国は実現していることを教えられています。即ち、イエス様をキリストと信じる者は、今、神様の御支配の中に置かれているので、神の国を生きる者なのです。同時に、御国が完成される終末的な出来事として到来することも告げています。

 ですから、この祈りは、〝今日も、あなたの御支配の中に生きる者として下さい〟と言う祈りなのです。キリストを信じて神様の御支配の中に生きる私たちを通して地上の神の国・神の支配が広げられて行くのです。

5.「御心を地にもなさせたまえ」

 第3の祈り「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」は、ルカによる福音書にはなく、マタイによる福音書にだけあって、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」となっています。この第3の祈りは、第2の祈り「御国が来ますように」の説明であるとも言われています。

 神様の御心が天で行われているように、この地上にも行われますようにとの祈りです。これは信仰者個人が神様の支配に生きるだけでなく、地上の人間の生活の全般に及ぶ祈りです。また、神の国の完成を願う終末的な祈りであります。

 私たちは、神様の御心が地上に実現しますようにと、第2の祈り「御国を来たらせたまえ」と祈ります。しかし、この二千年間、イエス・キリストを通して「御名が崇められますように」と祈りつつ、神様の御名が崇められることの困難を覚えるように、「御国が来ますように」と祈る祈りの実現の困難をも覚えます。何故なのでしょうか。

 今回、この学びを準備していて気づかされたことは、実は「御国が来ますように」という祈りは、ユダヤ人たちの切実な祈りであったことです。

 旧約聖書では、神様が天と地とを創造され、世界を支配されていること(詩編19:1~5)、イスラエルの王として民たちを支配されること(イザヤ書44:6)、やがてメシアが来て王国を確立することの待望(イザヤ書9:5~6、11:1~5、ゼカリヤ書9:9~10)が告げられています。

 しかし、ユダヤ人たちの神の国を待ち望む祈りは、繰り返し繰り返し、民族的エゴイズムによって妨げられて実現しませんでした。自己の民族的願望と神の国の実現とが混同されていると指摘されています。

 エゴイズム・自己中心の願望が、神の国の実現を妨げ、イエス・キリストにおける神の御名を崇めることをできなくしてしまっているのです。エゴイズム・自己中心は神中心の反対語で、それが聖書の言う罪なのです。神様を中心にして、神様の御心を尋ね聞かないで、自分の願望や考えに基づくことがエゴイズム、罪の生き方なのです。

 私たちキリスト者も、「御国が来ますように」と祈りつつも、エゴイズム・自己中心によって御国の進展を妨げている可能性があるのです。だから、なかなか神の国が実現しないように思われるのではないでしょうか。〝人間の自己実現〟と「神の国の実現」を混同してはならないのです。

「御国を来たらせたまえ」という祈りにつきまといやすいエゴイズムを洗い落すために、第3の祈り「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。この第3の祈りを、実際に生き抜かれたのが御子イエス様なのです。

 私たちは、イエス様が十字架に架けられる前にゲッセマネの園で祈られた祈りを思い起こしたいと思います。イエス様は、ひざまずいて次のように祈られました。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください。」(ルカによる福音書22:41~42)

 イエス様は自分の願いを捨てて、神様の御心のままに従って、全ての人間の罪を赦すために、御自身の命を十字架の上に献げられたのです。これは神様の私たちに対する犠牲愛(アガペー)なのです。この犠牲愛によって救われた信仰者は、自分の生活の中に神様の御心が行われますようにと祈り求めつつ歩むのです。

 御心とは神様の御計画なのです。神様は私たち一人一人に御計画を持って導いておられるのです。その神様からの御心・御計画が自分の生活を通して現わすことができるような生き方をして行きたいと祈り願いつつ「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのですが、この第3の祈りは、イエス様のゲッセマネでの祈り「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」という祈りと一体化させられることなくしては祈ることはできないし、また実現しないのです。

 私たちは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りつつ、神様の御心を何とか実現したいと願いながらも、お互いの思いが一つにならなかったり、病気や災いが起こったりして、なかなか物事が進まない場合が多くあります。

 創世記(45:4~8)のヨセフ物語でヨセフの言葉があります。
「わたしは、あなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・・わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」

 このように、神様の御心は人間の憎しみや恐れを超えて実現されるのです。

 また、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8:28)との御言葉があります。この御言葉にしっかりととどまり、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」と主イエス様の祈りに併せて祈りつつ歩んで行きましょう。
 
また、主日ごとに「わたしの王よ、神よ、あなたをあがめ世々限りなく御名をたたえます。」(詩編145:1)と神様を礼拝する生活に励んで行きましょう。

〈祈り〉

父なる神様、あなたの御名を賛美いたします。

クリスマスにお生まれになった神の御子・イエス様を通して、私たちは「天のお父さん」とあなたの御名を呼びかけることができることを感謝いたします。

十字架につけられ復活されたイエス様こそ、あなたの御名と御愛を現されたお方、インマヌエルと呼べるお方であることを知ることができ感謝し、御名を崇めます。

「御国を来たらせたまえ」と祈りつつも、その御国の進展を妨げているエゴイズムの罪のあることを、また自己願望の実現と御国の実現を混同しがちなことも知らされました。それゆえに、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ることのできる者であることを感謝します。

御言葉を通してあなたの御心に聞き従いますが、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」とのイエス様の祈りを自分の祈りに併せて歩む者とならせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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