月報『マラナタ』11号巻頭言

『主よ、祈りを教えてください』

2019年1月6日(日)礼拝説教より
ひきくに磨呂まろ 牧師ぼくし
聖書せいしょ:イザヤしょ61しょう10せつ
ルカによる福音書ふくいんしょ11しょう1-13せつ
マタイによる福音書ふくいんしょ6しょう5-15せつ

1、「主の祈り」からの学び

 2018年度標語の「主よ、祈りを教えてください」は、主の弟子がイエス様に「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と言ったことを「主よ、祈りを教えてください」を短く表現したものです。

 私たちキリスト者は、キリスト者としてどのように祈るかを、弟子たちのようにイエス様から教えてもらわなければならないのです。

 私たちの祈りの多くは、信仰の先達たちの祈りの見様見真似で身に着けたものであります。私は神学校でも祈りの仕方について学びませんでした。

 そこで、本庄教会として「主よ、祈りを教えてください」とイエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」を通して共に祈りについて学びたいと願っています。私たちの祈っている「主の祈り」は文語調ですが、これに基づいて、一つ一つの祈りについて御言葉から聞きたいと考えました。ですから、次年度に入り込みますが、ご了承ください。

2、「主の祈り」をめぐる6つの教え

 「主の祈り」は、ルカによる福音書11:1~13のほかに、マタイによる福音書6:9~15でも記されています。

 ルカもマタイも「主の祈り」の本文に付随して、語られていることがあります。その御言葉を取り次ぎます。次回から本文を何回かに分けて取り次ぎます。私は「キリスト入門講座」でも「主の祈り」について取り扱っています。

 イエス様は「主の祈り」を教えられるに当たって、ルカ、マタイにおいてそれぞれ3つのことを言われています。

ルカ11・1~13では

(1)イエス様の直伝の祈り

 弟子の1人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったことに対して、イエス様は「祈るときには、こう言いなさい」と言って「主の祈り」を教えられています。イエス様は、朝早く起きて祈られ、夕方一人になって祈っておられる姿は聖書に記されています。また、十字架にかかる前に、ゲッセマネの園で、汗が血の滴るように苦しみ悶え、切に祈られた姿も(ルカ22:44)記されています。しかし、祈りの全体の形や内容は全く記されていません。

 イエス様は「主の祈り」を通して、初めて弟子たちに直接、祈りの形や内容を教えられているのです。以来、2000余年間、イエス様が「祈るときはこう言いなさい」と教えられたとおり、キリストを信じる者たちは世界中、自分の国の言葉で祈ってきているイエス様直伝の「主の祈り」なのです。

(2)祈りの姿勢

 イエス様は弟子たちに次の話をされました。「友達が真夜中に来て、『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』と言いました。すると友は『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』と言いました。

 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはしなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」

 祈りの姿勢は、「しつように頼む」ことです。しきりに頼む、切実に頼むとも訳されています。しつように求め、探し、門をたたくことなのです。

 イエス様は「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネ14:13、Ⅰ5:16、16:23)と約束されています。約束を信じて、あきらめないで、しつように頼み、求め、探し、門をたたくのです。

(3)求める者に与えられる聖霊

 「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さいる。」と言われています。

 イエス様はマタイ福音書で「あなたがたの天の父は求める者に良い物を下さるにちがいない」(マタイ7:11)と言われています。どうして「聖霊」は「良い物」なのでしょうか。

 祈りの答えとして聖霊が与えられるとは、神様の御心は何処にあるのかを悟らせるためなのです。神様の祈りの答えには、4つのパターンがあると言われます。

①祈り願ったことが、そのまますぐ答えられることです。

②祈り願ったことが、内容を変えて答えられることです。

③祈り願ったことが、時間が経ってから答えられることです。

④祈り願ったことが、絶対駄目、叶えられないのではないかと思われる答えです。

 どの答えが自分に最も良い物として与えられているのか、その答えを悟り分からせて下さるのが聖霊なのです。

マタイ6:5~15では

次の三つのことが言われています。

(4)祈りの場所、密室の祈り

 祈りは、会堂や大通りの角に立って人に聞かせたり見せたりするのではなく、神様と一対一の祈りができることが基本です。イエス様は「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父は報いて下さる。」と言われています。神様は決して隠れてはおられるのではないのですが、私たちの隠れた所での祈りを聞いてくださる神様であるということです。〝密室の祈り〟と言います。

 或る兄弟は、私の密室は大宮駅から東京駅の電車の中だと言われました。始発の電車に着席して、小型の聖書で日課を読んで神様からの御言葉を黙想し、祈るのだそうです。小1時間、周りの人々のことが全く気にならず集中できるそうです。

(5)くどくどと述べて祈らない

 イエス様は「異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」と言われています。ある宗教ではお経を一万回唱えると御利益が与えられると言っています。
しかし、イエス様は彼らのまねをしてはならないと言われます。なぜならば、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」だからです。

 人間の親も、小さい子供の必要とするものや欲しがっているものを知っていて与えます。まして父なる神様は私たちの必要をすべてご存知なのです。だから異邦人のようにくどくど祈らないのです。「〇〇をお願いします」率直に願い求めるのです。

(6)人の過ちを赦すこと

 人の過ちを赦すことは、本当に難しいものです。イエス様は「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。と言われています。」私たちは、神様からキリストの十字架の贖いを通して赦しの恵みをいただくことによって、初めて人を赦すことができるのです。それであるのに、赦すことがなかなか難しいのです。人の過ちを赦すことは、祈りの最大の課題であります。

3、なぜイエス様に「祈りを教えてください」と頼むのか

 今日皆さんと考えたいことは、弟子たちはなぜ「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのかと言うことです。

 弟子たちはユダヤ人でありますから、1日に午前9時、正午、午後3時に、どこにいても祈るように決められていました。ですから弟子たちは誰も祈ることを知っていたはずです。イスラム教徒も1日に何度か祈る時間が決められていて、小さなじゅうたんを敷いて、メッカの方に向かって額をすりつけては祈っています。額に祈りだこができるのだそうです。

 私たち日本人も、神仏に祈っています。正月三が日に神社やお寺に初もうでに多くの人々が出かけていることが報じられています。この人々は、普段は、宗教と関係のないような生活をしていても、正月には神社仏閣に出かけて、新しい1年が幸いであるように祈り願っているのです。

 祈りと言うのは、世界中のどの国のどんな宗教でも見られる普遍的な宗教的営みであります。

 祈ることを知っている弟子たちが、なぜイエス様に祈ることを教えてくださいと願ったのでしょうか。

 ルカは、イエス様が神様に徹夜の祈りをして12人の弟子を選ばれたこと(ルカ6:12)を記しています。マルコは、12人を選んだのは「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(マルコ3:14~15)と記しています。

 12人の弟子たちは、イエス様のそばに置くために選ばれたのです。ですから、イエス様の祈る姿もよく見ていたのです。自分たちはユダヤ人として1日3回祈ることをしてきたが、イエス様の祈る姿に、自分たちと違った何かがあると感じ取ったのではないでしょうか。それは一体何なのでしょうか。

 ルカによる福音書の3:21や、9:29に、その何かを感じさせるものがあります。

・ルカ3:21~22(106頁)
 イエス様が洗礼を受けた時の出来事です。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

・ルカ9:29~30、35(123頁)
 イエス様が山の上で姿が変わった出来事です。
「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤであった。」
 この時も「すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえてきた。」とあります。

(1)初めて神様を「父よ」と呼んで祈ら
れた。

 イエス様は、人間として生まれ、人間の貧しさや弱さ、悲しみや苦しみなど全てをご覧になってお育ちになりました。罪なきお方でしたが、人間として「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)と言われて、悔い改めのバプテスマをヨハネから受けられました。その時、聖霊が鳩のように降って、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が天から聞こえたのです。

 この天からの声に答えて、聖霊に導かれて、イエス様はゲッセマネの園の祈りの最初にあるように、「父よ(アッバ)」という言葉を語られたのです。人間の歴史において初めて神様を「父よ」と呼ばれたのです。

 そして、イエス様の姿が変わることを通して、人としてお生まれになったイエス様が神の子であることが現わされたのです。
 
 弟子たちは、イエス様が神様を「父よ」と呼んで祈り、「これは私の愛する子」と天からの声が聞こえたりするこの神様とイエス様との親密な姿は自分たちの祈りにないことに気づいたのではないでしょうか。

 イエス様がバプテスマを受けられて聖霊が降った出来事は、すべての人々のバプテスマにおいて起きる祝福なのです。私たちも洗礼を受けると、天から聖霊が降って私たちの内に宿って下さり、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」とされて、「救いの衣」と「恵みの晴れ着」(イザヤ61:10)をまとった神の子供とされて歩むのです。

 そして、目に見えない神様をイエス様と同じように神の子供として「アッバ、父よ」「天の父よ」と呼んで祈ることができるのです。

(2)垂直次元の祈り

 ユダヤ人を始め世界の人々は祈りをしているのですが、天の神様に向かって「父よ」と祈るのはイエス・キリストを信じる者だけなのです。

 私たち人間は、「主の祈り」を通して、初めて神様を「父よ」と言って祈ることができるようになったのであります。

 ある人は、主の祈りがもたらした祈りは、人間の心を垂直次元の動きをもつ神様へとむけられた言葉であると言っています。

 イエス様が教えられる祈りは、神様を「父よ」と呼ぶことを通して神様と私たちという縦の関係、垂直次元の関係を成り立たせる祈りなのです。

 これに比べて、私たちの周りに見られる祈りは、自分を中心とした水平次元の祈りなのです。日本人の祈りは、神仏を動かして自分の願いを聞かせようとする祈りなのです。

 私たちは、神様を「天の父なる神様」と呼んで祈る祈りの中で、自分の願いを率直に訴え答えられる喜びを知ります。また、自分の思いが叶えられる喜び以上に、父なる神様の御心を知り、神様の御心に応えて従う喜びも知るのです。

 この1年、神様を「父よ」と呼んで、垂直次元に働く祈りの恵みを豊かに頂き、味わいたいと願います。

 キリスト者の中で、祈るとき、「神様」とだけ呼びかける祈りをする方もおられますが、是非、「父なる神様」と「父なる」をつけることをお勧めします。私は18歳になるまで罰や呪い、たたりを与える日本の神仏を恐怖の中で神様と呼んできました。しかし、イエス様を通して知らされた神様は人間を祝福し、救い、愛される神様なのです。イエス様が祈られたように、私たちも神様を「父よ」、「天のお父さん」とお呼びして、救いの衣と恵みの晴れ着をつけた神の子供として感謝と喜びを分かち合う生活をする2019年といたしましょう。

〈祈り〉

 天の父なる神様、
 2019年という新しい年を あなたの御子イエス様の誕生を祝う喜びと共に迎えることができました。「主よ、祈りを教えてください」と2018年度標語として掲げていますが、「主の祈り」を通して、私たちが心新たにして祈ることができるようにお導き下さい。

 イエス様は、神様を「父よ」と呼んで祈ることを教えてくださったので、私たちは天の神様が私たちに働きかけてくださる垂直次元の祈りの恵みに与かることができています。この神様を天の父と呼び、垂直次元の祈りの恵みに与かるのはキリスト者に与えられている特権です。この特別の祈りの恵みを新年も豊かに頂けるようにしてください。

 道を求めておられる方々が、この素晴らしい垂直次元の恵みに与かることができるように聖霊なる神様がお働き下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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