月報『マラナタ』14号巻頭言(4/4)

2018年度標語の学び:
『主よ、祈りを教えてください』(続き)

5.第7の祈り「国と力と栄とは限りなく神のもの」

 「主の祈り」の最後の祈り「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン。」について御言葉に聞きます。

 この部分は、マタイとルカによる福音書で、イエス様が「こう祈りなさい」と言われた祈りの中には無い部分でありますが、「限りなく汝のものなればなり」と神様を賛美する頌栄的な言葉であります。

 これは、初代教会が後で付け加えたものと言われています。イエス様が、「祈るときには、こう祈りなさい」と言われた教えに対する初代教会としての〝応答の祈り〟だとも言われます。

(1)「国は、限りなく神様のもの」

 「国は、限りなくなんじ(神様)のものなればなり」についてです。

 私たちが「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、「御名を崇めさせたまえ」と祈る神様とは、どのような御方であるのでしょうか。

 ヨハネは福音書の中で言っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信ずる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

 また、ヨハネは手紙の中でもこのように言っています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:9~10)

 ここで言われている、独り子を世にお遣わしになって、私たちの罪を償ういけにえとされたということは、イエス様の十字架の出来事であります。

 私たちの信ずる神様は、私たち人間の罪を赦すために、独り子である御子イエス様を十字架の上に犠牲として献げて下さったのです。私たちは、御子イエス様の命を犠牲にしてまでも、神様から愛され、罪が赦されているのです。そして永遠の命を与えられているのです。このイエス様の十字架を通してこそ知らされる神様の御名と愛なのです。それゆえに私たちは十字架を通して神様の御名と愛をあがめるのです。これが第1の祈りの「み名をあがめさせたまえ」なのです。

 この神様の御名を崇めることは、第2の祈り、「御国を来たらせたまえ」の祈りへと結びつくのであります。

 「御国」とは、神様が御支配される国であります。神様の御心が行われる国であります。イエス様は「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17:21)と言われています。キリストを信ずる者たちの間に、神様の支配が始まっているのです。それはキリストの再臨によって完成する御国であります。

 第3の祈りでは、その神の御国・御支配(御心)「が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。

 ところで、皆さんは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを主日ごとに「主の祈り」として祈っています。教会のいろいろな集会や、また家庭でも祈っています。それは、神様の御心が天に行なわれるように、地上にも行われるようにとの祈りであります。

 しかし、地上の生活においては、神様の御心と思えない悲惨な出来事がたくさん起こっています。人間の歴史の二千年余りは、造り主である神様を信じない人間が権力を持ったり、神様の御名を建前にして権力を振るう悲惨な出来事の歴史でもあります。

 これでも神様がおられるのだろうか、神様の御国はいつ来るのだろうかと思われる歴史であります。そうした歴史の一部分を生きるキリスト者たちは、十字架につけられたイエス様をキリストと信じて、十字架につけられて三日目に復活されたイエス様こそが御国を支配する真の王、王の中の王と信じて、「御国を来たらせたまえ」「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続けて来たのであります。

 ところが、イエス・キリストが御国の真の王であるということは、地上の支配者たちには邪魔な考え方なのです。

 1549年、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に初めて伝えました(イゴヨク栄えたキリスト教と覚える)。キリストの福音は、今では考えられない勢いで広まり、キリシタン大名まで生まれ、京都には神学校もできたようです。

 しかし、この教えが国を支配するには邪魔な教えとして気づいたのが豊臣秀吉です。キリスト教の禁制を命じ、信徒たちを捕らえ迫害し始めたのです。それが徳川時代には徹底していったのです。長崎にキリシタン27聖人の殉教記念館があります。

 また、74年前までの日本帝国憲法時代には、天皇は現人神として君臨し、天皇の名の下で日本のアジア侵略が始まり、太平洋戦争が起こりました。その時、〝天皇の神とキリストの神とどちらが偉いか〟とキリスト者たちは踏み絵のように尋問されたのです。キリストの神が偉いというと、即刻、逮捕され牢獄に入れられ、拷問などを受け、殉教した牧師もいます。大宮教会が韓国の憂忘(マンウ)教会と交流した時、李聖実(イソンシル)牧師の部屋に、50人ほどの顔写真が載っている掛け軸がありました。日本に支配されている時、神社参拝を拒否して殉教した牧師たちと聞いて心が痛みました。

 私が福井神明教会に仕えた時、付属栄冠幼稚園75周年史を編集しました。その時に聞いた話です。戦時中、栄冠幼稚園の園長を務めた牛山敦子園長の所に、憲兵が来て〝天皇の神とキリスト教の神のどちらが偉いか〟と問うたそうです。すると園長は、「めっそうもない、天皇の神様とキリストの神様とを比べるなんて、恐れ多くてできるものではありません。そんな恐れ多いことをおっしゃらないでください。」と言ったら、黙って帰ってしまったそうです。

 今は、キリストの神様こそ、世界の造り主として一番偉い方ですと平気で言え、天皇も人間の一人として神様に造られた者ですと平気で言えますが、74年前までは、そんなこと言うと即刻逮捕されたのです。初代教会以来、キリスト教が宣べ伝え始められた所では、日本のようなことが繰り返し起こってきているのです。

 こうした歴史のなかに「御国を来たらせたまえ」「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続けて来たキリスト者たちは、その祈りに応答して「御国はなんじのもの、神様のものです」と告白し、神様をほめたたえるのです。

 使徒言行録1:15に「120人ほどの人々が一つになっていた」とあります。その人たちが心を合わせて熱心に祈って一つになっていたところに、聖霊が降りました。すると聖霊を受けた弟子たちが、人々が十字架につけて殺したイエス様こそ、神様が救い主・メシアとして遣わされた方なのだと世界中に宣べ伝え始めたのです。

 あれから、二千年余り、今、キリストを信ずる者は世界の人口70億人の三分の一なのです。120人が23億人になっているのです。日本ではまだ人口の1%弱のキリスト者の数ですが、世界を見ると確実に「御国は、限りなく神様のものです」と告白し、ほめたたえることが出来るのです。

(2)「力は、限りなく神様のもの」

 使徒パウロは、手紙の中に「神の力」「キリストの力」と言うことを繰り返し言っています。

 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマの信徒への手紙2:1)

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとって愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントへの信徒への手紙一1:18)

 「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だからキリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリントの信徒への手紙二12:9~10)

 私は、神学校を卒業して、柿木坂教会2年11カ月、福井神明教会10年4ヶ月、大宮教会29年、それぞれに仕えて来ました。本庄教会は今年で3年目です。務めを終えた3つの教会を振り返って、パウロの言っている「神の力」「キリストの力」がどのように働いていただろうかと思うのです。

 私たちキリスト者の存在や教会の存在は、人間の能力や力・頑張りによって存在しているのではありません。人間の弱さの中にも働かれる「神の力」「キリストの力」によってその存在は確立され、保たれるのです。

 ですから、パウロはエフェソの信徒への手紙1章19節以降に祈っているのです。
「また、わたしたちの信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられる場です。」

 教会を教会たらしめている力は、私たち人間の力ではなく、キリストを死者の中から復活させられた神の力なのです。そして、教会に連なる一人一人は、この「神の力」を大なり小なり経験する者たちであります。

 人間の力や人間の主張の強い教会は、分裂に分裂を醸し出して行きます。

イエス様がフィリポ・カイザリアの地方に行った時、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と聞かれました。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに「エレミヤだ」とか「預言者の一人だ」と言う人もいますと答えました。そうしたらイエス様は「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれました(マタイ16:13~19)。

 その時、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。

するとイエス様は言われました。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 このように、「イエスはメシア、生ける神の子です」と信仰告白する群れが教会で、その信ずる者の信仰告白に対して天の国の鍵が授けられるのです。教会はキリストを死者の中から復活させられた神の力が宿るところで、死の世界と言われている陰府の力も対抗できないのです。

 私たちキリストの復活を信ずる者には、復活のキリストと共に死に打ち勝つ力が与えられているのです。ですから、私たちは「力は限りなくなんじのもの、神様のものです」とほめ歌うのです。

(3)栄は、限りなく神様のもの

 イエス様は、ヨハネによる福音書15:7~8でこう約束されています。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むもを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

 イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者は皆、イエス様の弟子なのです。弟子の目的は、父なる神様に栄光を帰することです。そのためには、イエス様につながることです。イエス様につながることは、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」と言われているように、いつもイエス様の御言葉を聞いて心にとどめて生きることです。御言葉に従って生きることなのです。そうするとどんな願いも叶えられ、豊かに実を結ぶのです。そうした弟子の生き方によって、父なる神様は栄光をお受けになると言われています。

 山形にカウンセリングを生かして教会形成をしている田中信生牧師の山形興譲教会に特伝講師として呼ばれました。その理由は、所属する教師が研修会で私と学んだ時、「疋田先生はいつも、神様は、イエス様はと、神様とイエス様を主語にして話をしておられるので、先生のお話を皆様に聞かせたかったのです。」と言われたのです。

 私は当たり前のように思っていたので、自分の考えや主張ではなく、神様がこう言われている、イエス様がこう言われているとの会話になっているのだと思います。それは、日々のディボーションによって培われたものなのです。皆様も、ディボーション生活を重ねるとそういう思いになって来るのです。

 最後に、いつも私が紹介する御言葉を読んで結びとします。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントの信徒への手紙一6:19~20)

 私たちは、滅ぶべき者でしたが、神様は御子イエス様の命を代価として払って、悪魔の支配、滅びに至らせる罪の力から解放して神様の子どもとして下さったのです。だから自分の体で神様の栄光を現すことができるのです。この信仰的事実をしっかりと受けとめて歩みたいものです。そして、私たちは、「栄光は限りなくなんじのもの、神様のものです」と絶えず神様をほめたたえたいと思います。

〈祈り〉

 父なる神様、イエス様が「祈るときには、こう言いなさい」と教えられた「主の祈り」について御言葉に聞き学ぶことができ感謝いたします。

 今回のシリーズでは、私たちの日用の糧、罪の赦し、試練において祈り求めるべきものは何かをあらためて教えられました。また、人間の横暴な力が圧倒するかに思える地上において、真の国、力、栄のすべては限りなく神様のものであることを教えられ、確信できたことを感謝いたします。

 どうか本庄教会の群れが「主の祈り」と共に喜び生きることができるように祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。             

アーメン。

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