月報『マラナタ』14号巻頭言(2/4)

2018年度標語の学び:
『主よ、祈りを教えてください』(続き)

3.第5の祈り「我らの罪をもゆるしたまえ」

 「主の祈り」の第5の祈り、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」について御言葉から学びたいと願います。

 今、私たちは受難節と言って、イエス・キリストが人間の罪を赦すために十字架への道を歩まれたことを、自分のこととして思い起こす40日間の歩みをしています。

 今日の学びは、この時にふさわしいことかと思います。

(1)人間の罪とは

 人間の罪と言う時、私がいつも思い起こすことがあります。
私が青年時代に信仰生活をした、東京の渋谷にある中渋谷教会での出来事です。渋谷から吉祥寺までの井の頭線で、3つ目が東大駒場駅です。東京大学の一・二年生が通う教養課程の校舎があります。その東大駒場の東大生たちが時々礼拝に来ました。礼拝後、新来者を歓迎する青年会の場で、一人の東大生がこう言ったのです。

 「何で教会は、罪、罪というのですか。人を罪人呼ばわりすることは気にいらない。自分は小さい時から、父親に厳格に育てられて来たから、人に後ろ指をさされるようなことは何もしないで今日まで生活して来ました。それなのに罪人呼ばわりをするとは失敬です。一言文句言いたくて残ったのですが、こんな教会にはもう2度と来たくないです。」

 これは、この東大生だけでなく、一般の多くの方々も、初めて教会に来られると「罪人」という言葉に引っ掛かるのではないでしょうか。

 一般に、罪人と言うのは、刑法を犯した犯罪人のことを指します。盗みをしたり、殺人を犯したり、禁じられている麻薬などを常用して、逮捕された人たちを指します。警察の厄介になっている人たちを罪人として、あの人は悪いことをした人だと後ろ指をさすのです。人と人との横の関係の中で、禁じられていることを犯した人が罪人なのです。この刑法に問題があります。その行いが誰かに見つかって訴えられなければ、罪にならないのです。最近も、ある俳優が、麻薬常習罪で逮捕されましたが、20代から行っていて、見つからなかったので、罪にならなかったのです。

 しかし、聖書でいう罪は、世界の造り主である神様と人間の縦の関係の中で言われることです。私たち人間の命の造り主である神様を認めない生き方、神様の御心に背いた生き方をする人を罪人と言います。しかも、神様の目からは逃れることはできません。聖書は、人間の罪の根本は、すべての人間を造られた神様の愛と御心を信じないで、自分を中心に生きることから生じると言うのであります。

 私が大宮教会に着任して間もなく、まだ聖学院女子短期大学があった時、2年ほど保育課の学生にキリスト教概論を教えたことがあります。その授業で罪の問題を話す時、「皆さんは、人を殺したことはありませんか」と聞いたのです。するとある女子学生は、「先生は、ひどいことを言う。人を殺していたら、私たちはこうして大学になんか来ることはできていません。」と言いました。

 私は、「いや、ごめんなさい。失礼なことを問いかけまして。」とお詫びをしました。

 そして、マタイによる福音書5章21~24節を開いてもらいました。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したら、その供え物を祭壇の前に置き、まず兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」

 聖書では、殺人を犯した人は、殺された人の身内から命を奪われることを許しています。しかし、過失で人が死んだ場合、加害者は「逃れの町」に逃れれば、被害者の身内からの復讐を免れます。それを町の門のそばにいる長老が判断をするのです。
しかし、イエス様は言われるのです。

 兄弟に腹を立てる者は、誰でも人を殺した人が門の長老の前に裁きを受けるように、裁きを受けるのです。兄弟に「馬鹿」という者は最高法院(いわゆる最高裁判所に)に引き渡されるのです。更に「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる、いわゆる死刑を受けると、言われるのです。

 これはどういうことかと言いますと、私たちは最初に人の振る舞いに対して腹を立てます。そしてその人を馬鹿者だとなじったりします。それでも怒りの心が納まらないと「あの愚か者が、死んでしまったらよい」と言って、無視します。無視するということは、その人がそこに居るのに、存在しないかのように扱うことなのです。人は、無視されると一番悲しいのです。「愚か者、あんな人なんかいない方がよい」と無視することは、自分の心の中でその人の存在を殺すことなのです。

 イエス様はここで、実際に手を下して人を殺さないでも、心の中で人の存在を殺して無視していくことは、殺人と同じだと言われているのです。

 私は学生に「皆さんは、今まで、心の中であんな人なんかいない方がよいと思ったことはありませんか。そんな人が何人かいるのではないですか。」と問いかけると、「いる。いる。」とみんなが言うのです。

 イエス様は、人の目に見える形で罪の行動を犯していなくても、その心の中で罪の行動に至る動機を見ておられるのです。その後、姦淫の罪に対しても言われています。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」と。

 イエス様は、人間の行動に現れない、心の中の罪についても指摘しておられるのです。罪の赦しとは、そうした私たち人間の心の奥底にある罪までも問われることなのです。

 最初に話した東大生のように、人に迷惑をかけず、後ろ指をさされるようなことのない生き方をしていても、私たちの心の内面では、憤り、怒り、気に入らない人々を無視し、心の中で抹殺していくことから免れないのではないでしょうか。

(2)祈りとは神様と直面すること

 私は大宮教会にいる時、半年ほど夜間の日本聖書神学校で礼拝学を学んだことがあります。そこで、「主の祈り」は、元々、洗礼式や聖餐式のように、ミステリオン(秘儀)として、信仰をもっていない人には閉ざされていた祈りだと学んだことがあります。

 例えば、「御国を来たらせたまえ」と言う祈りは、地上での神様の御支配を求めるだけでなく、神の国の完成という終末的な祈りでもあります。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、単なる日用の食べ物だけでなく、神の国の食卓、天的な食事の意味も含んでいて、御国の完成と言う終末的な祈りにもつながるのです。

 この「我らの罪をも赦したまえ」という祈りも、「裁き」「火の地獄」と言う言葉から終末的な祈りにもつながるのです。

 私たちが「天にまします我らの父よ」と祈る時、それは天におられる神様と直面する事なのです。私たちは、祈る時、単に自分の思いを独り言として言っているのではないのです。目の前におられるが如くに、神様に語り掛けているのです。神様と直面しているのです。この神様との直面は、この世の終わり・御国の完成との直面であり、人生の終わり・永遠の命との直面であります。

 キリスト者は、一般の人と違って、いつも自分が死んでこの世を去って、神様の御国に入れられることを待ち望む者です。その意味で、神様に祈る時、いつも自分の死を見つめつつ神様と直面しているのです。

 ペトロの手紙一4章7~11節にこう書かれています。
「万物の終わりが迫っています。思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれの賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」

 先日、3月24日の午後には、本庄がん哲学カフェの発足の講演会で樋野興夫先生からガンについてのお話を伺いました。今、日本では、二人に一人はがんになると言われています。誰もが、がんを通して死に直面する時代になっています。死と直面することは、聖書では神様と直面することだと言っているのです。

 ペトロの手紙は、万物の終わりが近づいていますから、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」とよく祈ることを勧めております。そして祈りに基づく行為として「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。」と勧めています。

 「愛は多くの罪を覆うからです」と言われています。赦しの愛によって生かされること、それが終末に直面するキリスト者の在り方なのです。

(3)人を赦すことの難しさ

 この「我らの罪をもゆるしたまえ」の祈りは、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と言う言葉が伴うのです。自分に罪を犯した者を赦しますから、自分の罪を赦してください。と言う祈りなのです。

 人が自分に犯した罪を赦すことは本当に難しいものです。「赦してください」と言われて、「いいよ、赦すよ」と言いながらも、心の内では赦していないことがどんなに多いことでしょうか。どうしたら人の罪が赦せるのでしょうか。「主の祈り」のこの部分に来ると祈ることができないという姉妹の具体的な事例を聞かされたことがあります。

 私は、キリスト入門の会で「主の祈り」を学ぶとき、赦しについては、いつもマタイによる福音書18章21~35節の「仲間を赦さない家来のたとえ」を学びます。

 ペトロがイエス様に「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」と聞きました。7回と言うのは、完全数で、全部赦す意味です。ところがイエス様は「7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」と言われたのです。7の70倍とは、490回赦しなさいと言われたのです。限りなく赦しなさいと言うことです。

 そして、天国における赦しを、家来の借金の決済にたとえて話をしました。一万タラントンの借金をしている家来が借金を返済できなかったので、主君は、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じました。」当時、借金のために自分や妻や子も奴隷として売ることが行われていたのです。家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」と〝しきりに願った〟のです。この〝しきりに願う〟ことが祈りの姿勢であることを先に学びました。
 
 主君は、憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやったのです。帳消しと言うのは借金がなかったようにゼロにすることです。

 ところが、帳消しにされた家来は、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め「借金を返せ」と言いました。その仲間は、帳消しにされた家来と同じようにひれ伏して「どうか待ってください。返しますから」と〝しきりに頼んだ〟のです。しかし、承知せず、その仲間を、借金を返すまでと牢に入れてしまったのです。

 他の仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛めて、主君にこのことを残らず告げました。すると、主君は、その帳消しにされた家来を呼びつけて言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」と、そして主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡してしまいました。

 タラントン、デナリオンというお金の価値を知ると、この出来事をより分かり易くなります。

 1デナリオンは、1日分の賃金に相当します。
1タラントンは、6000デナリオンです。1年の実働を300日として割ると、20年になります。1タラントンは、20年分の賃金に相当する金額です。 家来の借金は、1万タラントンですから、20万年分の賃金に相当する、天文学的な数値です。

 この家来が、仲間に貸した借金は、100デナリオンでした。100日分の賃金に相当します。1ヶ月25日の労働とすると、4ヶ月で稼げる金額です。

 主君に帳消しされた家来の借金は、20万年間、働かなければならない天文学的金額でした。その家来が貸していた借金は、わずか4カ月働けば得ることのできる金額でした。

 ここでイエス様が言われていることは、私たち人間が神様に赦される罪は、本人も気付いていないのですが、1万タラントンに相当する大きな大きな罪の帳消しであるということです。それなのに、100デナリオンの無きに等しい、小さい、小さい罪を赦すことのできない人間の姿を指摘しているのです。

 イエス様は、私たち人間が持っている1万タラントン相当の大きな罪を、帳消しにするために、十字架につけられて、「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」と祈られ、御自身の命を私たちの身代わりとして献げられたのです。

 本来、「天の父よ」と呼んで祈ることのできないほどの大きな罪の負債を負っている人間を神様は赦してくださるのです。その大きな赦しの愛、その大きな恵みによって私たちは包まれているのであります。私たちはその大いなる赦しの愛の中で祈るようにさせられているのです。私たちが頂くことのできる1万タラントンの負債の帳消しの赦しの愛は、イエス様がご自身の全生涯をかけて実現されたアガぺーの愛なのです。

 イエス様が十字架で命を献げてまでも、この私の罪を赦し、愛して下さっていることを信じることができた時、私たちは初めて、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ることができるのです。

 イエス様は、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)と言われました。「わたしがあなたがたを愛したように」とは、御自身の命を犠牲にしてまでも愛してくださったと言うことです。それゆえに、私たちも互いにイエス様の犠牲愛を受けた者として愛し合うように命じられているのです。

**
**
**
**
null
null

月報『マラナタ』14号巻頭言(1/4)

2018年度標語の学び
(第3回、完結):
『主よ、祈りを教えてください』
2019年 3/24、4/7、5/5、5/26の説教より





説教者せっきょうしゃひきくに磨呂まろ 牧師ぼくし
聖書せいしょ箇所かしょ
しゅつエジプト16しょう9-16せつ
サムエル12しょう1-14せつ
しんめい6しょう16-19せつ
へん8ぺん2-10せつ
マタイによるふくいんしょ6しょう9-13せつ

※今回は数回分の説教となっている為、目次をご利用ください。
**目次**

**過去の学びについてはこちら**

1.「主の祈り」の構造の確認

 これまで学んできた第1~第3の祈りは、神様の御名、神様の御国、神様の御心と、神様のことを祈っています。

 これに対して、今回の第4~第6の祈りは、我らの日用の糧、我らの罪、我らの試みと、私たちのことを祈っています。

2. 第4の祈り「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」

(1)飽食の時代に生きる者にとって

 私はこの祈りについて考えるとき、いつも思うのです。私たちは毎日、食べ物のことで今日も与えて下さいと神様に祈っているだろうか。祈らなくても毎日何か食べ物を食べることができると思っているのではないでしょうか。

 なんで、イエス様は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るように教えられたのでしょうか。
イエス様の時代は、その日の食事も食べられないような人がいたことは確かですが、今の日本のように飽食の時代の中に生きる者は、この祈りをどう受け止めればよいのでしょうか。

 私は、キリスト入門講座で「主の祈り」を学ぶとき、私たち日本人は食べ物に何の不自由もないが、今も地球のどこかに、食べる物がなく飢えて、死んでいく人がいることを忘れないでください。そういう中で、
食べることのできることを感謝しましょう。と教えていました。

 出エジプト記の記事では、モーセに導かれて荒野を旅するイスラエル人が食べる物がなく、それだったらエジプトにいた方がましだったと不平を言っています。それに対して神様は「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。』と。」(16:12)と言っておられます。それで、神様は夕方にはうずらを与え、朝には露が蒸発した後にできる薄いウエハスのようなマナを与えて養われました。

 日本人は、第二次世界大戦に負けた後、極度の食糧難に遭い、食べることに窮した時代がありました。私の年代、75歳以上の人々は食糧難を経験していると思います。

 荒野のイスラエル人や日本の戦後の食糧難を経験している人には、「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、実感を込めて祈ることができますが、飽食の時代を生きる者には、どれほどの実感を持って祈ることができるのでしょうか。

(2)「大いなる明日の食べ物」

 今回、「主の祈り」について学ぶ中に、ハッとして目からうろこが落ちる経験をしました。

 新約学者のエレミアスは、「日用の糧」と訳されているギリシア語は「エピウーシオス」と言う言葉で、宗教改革者のマルチン・ルターは「日ごとに」と訳したことから、今日の主の祈りが定着したと言うのです。

 しかし、ウルガータと呼ばれるカトリック公認のラテン語訳聖書の翻訳者のヒエロニムス(343~420年)は、イエス様が用いられた言葉であるアラム語で書かれたナザレ人福音書には、「日用の糧」に当たる言葉は、「マハール」つまり「明日」と言う言葉が用いられ、「我らの明日の食物を今日も与えたまえ」となると言うのです。

 この「明日の食物」ついて、ヒエロニムスはこう言っています。「へブル人福音書=ナザレ人福音書の中で、私はマハール、即ち『明日の』という言葉を見つけた。それゆえ『私たちの明日、即ち将来の食物を今日もお与え下さい』と言う意味になる」と。

 それは、単に「明日の食物」と言うことではなく、「大いなる明日」つまり「終末における完成の食物」を意味するものと考えられていると言うのです。

 「大いなる明日」とは、来るべき神の国です。客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言われたことに対して、イエス様は「大宴会」(ルカ14:15~24、マタイ22:1~14)にたとえて話されました。「明日に食べる食物」は、神の国の食事なのであります。神の国の食物は、人間にとって「究極の食物」であります。

 この大いなる明日の食物、神の国の食卓にも備えられた食物とは何なのでしょうか。私たちは、イエス様が弟子たちと共にされた最後の晩餐を思い起こさねばなりません。

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(ルカ22:19~20)

 この最後の晩餐は、ただのパンではなく、ただの杯ではないのです。このパンと杯のただ中にキリストがおられるのです。キリストの命を犠牲とする愛に裏付けられた、アガペーの愛を含んだパンなのです。
イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と言われています。

 確かに、私たちは日毎のパンなしには生きることはできません。しかし、神様の口から出た御言葉の一つ一つを通して自分の存在と、生きる意味を見出すのです。

 「日ごとのパンを与えて下さい」という祈りは、〝人間を究極的に生かす神の国の食物を与えて下さい〟という祈りを指し示しているのです。神の国の食事を先取りして与えられているのが主の聖餐であります。
私たちは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る時、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言う御言葉と重ね合わせて、神の国の食事に与かっている恵みに感謝したいと思います。

(3)聖霊の結びついた食べ物の交わり

 神の国の食事は、人間を神様に祝福された者として究極的に生かす「命のパン」であります。
ルカによる福音書の主の祈りに付随する話に、真夜中にパンを借りに来た人の話があります。そして、祈りの姿勢として、「しつように頼めば」与えられる。「求めなさい…探しなさい…門をたたきなさい」と勧められています。ところが、与えられるのはパンではなく、「聖霊」が与えられると言っています。

 私は、前の説教で、この聖霊は私たちの祈り求める事に対して神様の答えが何であるかを諭し導くものとしてお話ししました。

 別の言い方をしますと、天の父が、良い物としてパンではなく、聖霊を与えられるということの意味は、人間が生きるのに良いものとして究極的に与えられる「命のパン」は「聖霊」であると言うことです。人間は祝福された者として生きるためには、聖霊を必要としているということです。

 私たちが日ごとに頂くパンの背後に聖霊があって、パンと結びついているのです。私たちは日ごとのパンを頂く中に、私たちを活かして下さる神様、主イエス様を知るようになるのです。

 神の国の食事は、単に腹を満たす食物ではなく、その食物の背後に聖霊があり、聖霊がもたらす実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)に包まれた食事による交わりであります。聖霊が伴うパンの食事は、聖霊による交わりを現すのであります。

 本庄教会でも、礼拝後に、簡単な食べ物をいただきながら交わりますが、ただ腹を満たすのではないのですね。その食べ物には聖霊が結びついているのです。だから、愛があり、喜びがあり、平和があり、聖霊の結ぶ実に満ちた交わりになるのであります。
 
 ある牧師はこう言っています。
「食事とは、本当は、神の国の盛大な晩餐会を幾分でも反映した、いわばお祭りの要素がなければならないのです。たとえば家庭が不和になると、そのお祭り的要素はなくなってしまいます。食事は〝物〟ではなく、〝出来事〟なのであります。」

 私は、今回、この点でも改めて、「そうなのだ」と思わされました。教会で兄弟姉妹と共にする食べ物は、聖霊が結びつき、聖霊の実による交わりの出来事なのだと再認識しました。

 私が伝道者として歩んできたこの44年間、柿ノ木坂教会、福井神明教会、大宮教会、どこに於いても、若者たちと本当に簡単な食べ物をいただきながら交わりの時を持ってきました。その中から、多くの若者たちがイエス様を信じて洗礼を受け、信仰者として育って行きました。その中から10数人が伝道者として献身して行きました。

 本庄教会でも、聖霊が結びついた食卓の交わりをして行きたいと願っています。
2019年度の宣教の標語は「わたしたちは神の家族」ということです。聖霊の結びついた食卓の原点は主の聖餐でありますが、日々の食卓でも聖霊が結びついていることを自覚して聖霊の実があふれる神の家族を現して行きたいと願い、祈っています。

**
**
**
**
null
null

月報『マラナタ』13号巻頭言

イースター礼拝説教:
『あの方は復活なさった』




2019年4月21日説教
ひきくに磨呂まろ 牧師ぼくし
聖書せいしょへん30ぺん1-6せつ
マルコによる福音書ふくいんしょ16しょう1-8せつ


1、2019年復活の朝

 「おはよう」、これが、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、イエス様が葬られた墓を訪ねたマグダラのマリアたちに、復活されたイエス様が最初に語り掛けられた挨拶でした(マタイ28:9)。ギリシア語でカィレエテ〝喜びなさい〟と言う意味で、日常の挨拶言葉となっていたのです。日本語では「おはよう」と訳されています。

 今朝は、午前6時から本庄早稲田駅の傍のマリーゴールドの丘公園で、イースター早天祈祷会を持ちました。そこでも、「おはようございます」と言って早天祈祷会を始めました。本庄市を見渡すことのできるマリーゴールドの丘の上で、主の弟子たちのように復活されたイエス様の御言葉を聞いて、本庄市に遣わされた本庄教会の御業と兄弟姉妹のため、4月から遣わされた伊勢崎教会の西谷祐司先生、桐生教会の長谷川直紀先生の働きのため祈りを合わせました。

2、イエス様の死と葬り

 今朝は、マルコによる福音書を通して、イエス様の復活の出来事を覚えたいと思います。

 「安息日」とは、今日の土曜日に当たります。西暦の暦では、1週間は日曜日から始まり、7日目の土曜日に終わります。土曜日が安息日です。ユダヤの律法によると、月曜から金曜日までの6日間働いたら、7日目の土曜日は、一切の仕事を休んで安息日として守りなさいと定められています(創世記2:2~3、出エジプト20:8~11)。
 
 イエス様が十字架につけられたのが金曜日の午前9時で、亡くなられたのが午後3時過ぎでありました。日が沈むと、安息日に入りますから、金曜日の日が沈む前に、急いでイエス様のご遺体を墓に葬らなければなりませんでした。アリマタヤ出身のヨセフが、勇気を出してピラトの所に行って、イエス様のご遺体を渡してくれるように願い出ました。ピラトは、イエス様がこんなに早く死なれることを不思議に思って、百人隊長にイエス様が死んでしまったのかを確かめさせたうえで、ご遺体をヨセフに引き渡しました。

 ヨセフは亜麻布を買い、イエス様を十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入口に石を転がしたと記されています。イエス様が息を引き取られてから日が沈むまでの2時間ほどの間にしなければならないので、大変、急いで行わねばなりませんでした。普通なら、遺体に香油を塗ったりするのですが、できなく、マグダラのマリアたちは、イエス様のご遺体を納めた場所を見つめているだけでした。

3.イエス様が復活された朝

 1節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。」とあります。土曜日の夕方日が沈むと、安息日が終わりますから、今でいうと、土曜日の夜に、香料を買いに行ったのです。

 2節「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」と記されています。「週の初めの日」とは、今日の日曜日のことです。日曜日の朝ごく早くに墓に行ったのです。マリアたちは、墓の入口の石を誰が転がしてくれるかと心配して墓に行きました。ところが、目を上げて墓を見ると、非常に大きかった石が既にわきに転がしてあったのです。

 マリアたちが、墓に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたのです。この若者は天使と言われています。若者がマリアたちに言ったのです。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
 
 マリアたちは墓を出て逃げ去ったのです。震え上がり、正気を失ったと記されています。恐ろしくなって、だれにも何も言わなかったとも記されています。
 
 イエス様のご遺体が納められた墓が、空っぽになって、そこにあるはずのイエス様のご遺体がなかったのです。そして墓の中にいた若者は、十字架につけられたナザレのイエス様は復活なさって、ここにおられないと告げたのです。しかし、マリアたちには受け止めることができなかったのです。マルコによる福音書は、復活の朝の出来事をここで区切り終わっています。

 十字架につけられて死んだイエス様が、3日目に復活されたということは、人間の常識や感覚では受け止めることのできないことであったということなのです。

4. 復活のイエス様との出会い

 9節に「週の初めの日、朝早く、イエス様が復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現わされた。」とあります。

 9節~20節はカッコにくくられていますが、後で、付け加えられた部分だと言われています。マタイ、ルカ、ヨハネの福音書に共通する出来事をまとめて、結びとしている記事です。

 9節で言われている事は、マタイによる福音書の復活の朝の出来事に出て来ます。マグダラのマリアたちが、天使から、十字架につけられたイエス様を捜しているのだろうが、ここにはおられない。かねて言われた通り復活なさったのだと言われました。そして急いで行って弟子たちに「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と告げなさいと言われました。

 そこでマリアたちは、恐れながらも大いに喜んで、弟子たちに知らせるために走って行ったのです。すると、復活されたイエス様が行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、マリアたちは近寄り、イエス様の足を抱き、その前にひれ伏したのです。その時、イエス様はマリアたちに言われました。
 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と。

 人間的に受け止めることができない主の復活は、復活されたイエス様御自身が、声をかけて、現れて下さったことによって信じて、受け入れられるようになるのです。

 12節のことは、ルカによる福音書24章13〜35節のエマオ途上の二人の弟子たちにイエス様が御自身を示された出来事として詳しく記されています。

 今日、復活のイエス様とお会いできるガリラヤとはどこなのでしょうか。それは復活の主を覚えて礼拝をする日曜日の主日礼拝です。今も、そこで復活のイエス様は人々を待っておられ、出会って下さるのです。

 今日では、イエス様が別の助け主(弁護者)として送って下さった聖霊なる神様の助けによって、イエス様の御声を聞き、イエス様との出会いを信じられるようになるのです。イエス様の十字架と復活の出来事は、信仰無くしては受け入れることのできないことであります。

5.地上でのイエス様の3つの約束

 今年の受難週は、イエス様が十字架への道を歩まれた1週間を聖書によって、過ごすことができるように、表を作って皆様にお渡ししました。しかし、教団の聖書日課では、月曜日から木曜日までヨハネによる福音書の14章から15章を読むようになっていました。

 受難週なのに、何でこのところを読むのだろうかと思いながら読みました。そして、ハッとさせられたのです。この2章に渡って語られていることは、イエス様がまだ地上に弟子たちと共におられた時、約束されている事柄なのです。

 14章は、小見出しの「イエスは父に至る道」では、イエス様は、2~3節でこう約束されています。
 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」イエス様を信じる者たちに、詩編30:4の賛美に応え、天の御国の場所を用意して下さる約束なのです。

 14章の「聖霊を与える約束」の所では、16~17節でこう約束されています。
 「わたしは父にお願いしょう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。この世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
 この聖霊が遣わされることによって、人々はイエス様をキリストと信じることができ、目に見えない神様を「アッバ、父」と呼んでお祈りをすることができ、また、聖書の言葉を神様・イエス様の御言葉として聞くことができるようになるという約束です。

 15章の「イエスはまことのぶどうの木」の所では7~8節にこう約束されています。
 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
 イエス様につながって、イエス様の御言葉にとどまるならば、願うものは何でもかなえられ、豊かな実を結ぶ弟子となって、父なる神様に栄光を帰することになるという約束です。

 このイエス様の3つの約束は、イエス様が復活されたからこそ、実現する約束なのです。人間の常識や感覚では受け止められないイエス様の復活の出来事は、信じる者には素晴らしい約束の実現への神様の御計画であったのです。

 イエス様が十字架につけられて死に、墓に葬られましたが、3日目に復活されて、天の神様の御許に行かれたからこそ、
(1)信じる者たちは、天の御国の予約席をいただくことができるのです。
(2)聖霊なる神様の助けをいただいてイエス様を救い主であると信じることができ、目に見えない神様を「天の父なる神様」と呼んで祈ることができるのです。
(3)イエス様の御言葉にとどまって豊かに実を結ぶ弟子となって、神様に栄光を帰することができるのです。

 この3つの約束の信仰的実現は、十字架につけられて死んだイエス様が復活されて、天の父なる神様の御許に行かれたから実現したのです。今、イエス・キリストを信じる者に与えられている信仰的現実なのです。今朝、このことを確認し、その約束の恵みを心から感謝し、喜んで信仰生活に励んで行きましょう。

〈祈り〉

 天の父なる神様、
 今朝、私たちの救い主イエス様の復活を覚える礼拝を献げることができ感謝いたします。死んだ者が復活するとは、人間の常識や感覚では受け止めることのできない出来事です。
 しかし、神様は、罪ある人間を陰府から引き上げ、天の御国へと救ってくださるために、イエス様の十字架と復活の出来事を御計画して下さったことを信じ、その恵みに生きることのできることを感謝いたします。
 聖霊のお助けをいただいて、この恵みの中に一人でも多くの方々が入ることができるようにお導き下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

**
**
**
null
null

マラナタ12号編集後記

本庄教会月報第12号をお届けします。

本庄教会月報第12号をお届けします。
タンポポ教会の庭にもタンポポや矢車草が可憐な花をつけ、春の訪れを告げています。気温の日格差が大きいこの時期、くれぐれもご自愛ください。        
  在 主

**
**
**
null
null

『マラナタ』12号 報告

本庄がん哲学カフェ発足
「特別がん講演会」より

 3月24日(日)14時から、順天堂大学教授・医学博士で、NPO法人「がん哲学外来」理事長の樋野興夫先生を講師に招き、本庄教会を会場に講演会を開催しました。
樋野興夫先生(resize)
講演会後ホールに移動し、16時まで樋野先生を囲んで質疑を含め親しく交わりの時を持つことができました。
 
 出席者は49人で、近隣の熊谷教会や島村教会からも出席者がありました。本庄教会からは18人が出席し、会場準備から後片付けまで、当日の運営に協力してくださいました。

 4月から毎月、原則として第3金曜日14時から本庄教会ホールで「本庄がん哲学カフェ」を開催します。講演会出席者のアンケートからすでに4人の方が参加を希望されています。このことについてご理解とご協力とをお願いいたします。

**

タンポポ背景なし本庄教会では毎月第3金曜日14:00から哲学カフェ『のぞみ会』を行っています。
➢次回の本庄がん哲学カフェの詳細はこちらをクリック・タッチ


**

*樋野先生ご講演の音声・スライドを公開しました*

留意事項をご確認いただいた上で、どうぞご利用ください。

ご留意事項とお願い

*音声とスライドは約36MBの容量です。特にスマートフォンの携帯回線の方は、通信量にご注意ください。
*Googleの仕様のためサインインを求められることがありますが、サインインの必要はありません。基本的にはそのままでご利用いただけます。サインインを求められた場合、プライベートモード・シークレットモード等でブラウザを立ち上げて頂くと、サインインせずに利用できます。
*音声リンクの他ウェブサイトへの転載・埋め込みはお控えください。
*アクセスが集中しますと、エラーメッセージ(現在、このファイルを閲覧、ダウンロードできません…)と表示される場合があります。不具合・不備がある場合は、下記リンク先のフォームにてお知らせ頂けると幸いです。修正いたします。なお不具合報告フォームでの回答はメールアドレス等の情報を必要とせず、匿名で行われます

不具合報告

樋野興夫先生 resized 講師:樋野ひのおき医学博士
「種を蒔く人になりなさい
~楕円形のこころ:ガン哲学のエッセンス~」
(容量約36MB/音声約50分)
➢音声とスライドを視聴するにはクリック・タッチ

**
**
**
null
null

月報『マラナタ』12号巻頭言

2018年度標語の学び(2)
『主よ、祈りを教えてください』

2019年2月3日、
24日、3月3日の礼拝説教より
ひきくに磨呂まろ 牧師ぼくし
聖書せいしょへん145しょう1-21せつ
ルカによる福音書ふくいんしょ11しょう1-13せつ
マタイによる福音書ふくいんしょ6しょう5-15せつ

1、「主の祈り」の構造と内容

 キリスト教の祈りの形は一般に、①初めに神様を「父なる神様」と呼びかけます。②祈りの内容(感謝・願い・懺悔など)は自由です。③終わりに「イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と言えれば、キリスト教の祈りなのです。

 この形はイエス様の教えられた「主の祈り」に基づいたものです。そこで「主の祈り」の構造と内容(週報の裏面を参考)について学びます。

「主の祈り」の構造と内容ですが、
呼びかけ:「天にまします我らの父よ」
第1の祈り:「ねがわくは御名をあがめさせたまえ。」
第2の祈り:「み国を来らせたまえ。」
第3の祈り:「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。」
 この第1~第3の祈りは、御名、御国、御心と神様に関する垂直関係の祈りです。

第4の祈り:「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」
第5の祈り:「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」
第6の祈り:「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」
 この第4~第6の祈りは、私たち人間に関する水平関係の祈りです。

最後の祈り:「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり。アーメン」
 この最後の祈りは、頌栄と呼ばれる神様の御業をほめたたえ賛美する祈りです。

2、神様への呼びかけ

 神様への呼びかけの「天にまします我らの父よ」は、マタイによる福音書では「天におられる私たちの父よ」となっており、ルカによる福音書では「父よ」となっています。おそらくルカの方が原型に近いのではないかと言われています。

 「天にまします」は、天におられるお方という意味で、十戒で「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」と言われているユダヤ人は、神様の名を唱える代わりに〝天におられるお方〟と呼んだのです。

神様への呼びかけは、イエス様が十字架につけられる前にゲッセマネの園で汗が血の滴るように祈られた時「アッバ、父よ」と祈られたように「父よ」と祈れば良いのです。

 「アッバ」と言うのはアラム語で、ユダヤ人の家では幼子が父親を呼ぶときに用いられた言葉です。日本でいうと「お父ちゃん」「パパ」という幼児語です。ユダヤ教の祈祷文には例のない実に親密な呼びかけなのです。

 イエス様が、目に見えず畏れ多くて近づきがたいと思われていた神様を初めて「アッバ、お父ちゃん」と呼ばれたのです。そしてイエス様は、キリストを信じる者に「アッバ、お父ちゃん」と呼んで祈るように教えられたのです。小さい子供が「パパ」「ママ」と何の疑いもなく、全幅の信頼を持って親にしがみついてくるように、私たちは神様を「天におられる私たちのお父さん」と呼びかけることができるのです。

 天におられるお父さんと呼びかけることによって、天の神様と地上の私たちとの垂直(縦)の関係がつながるのです。これが「天にまします我らの父よ」の意味と恵みです。

3.「御名を崇めさせたまえ」

 第1の祈りの「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」は、聖書ではマタイによる福音書もルカによる福音書も「御名があがめられますように」となっています。この第1の祈りは、願いではなく、賛美なのです。

 「崇める」(キリシア語でハギアゾー)とは、聖なるものとすること。人間のものから区別して神様のものとして扱うことの意味です。

 例えば、キリストを信じる者が聖なる者とされたということは、この世の人間の支配から神様の支配の中に置かれるということなのです。キリスト者は、もはや自分自身のものではなく、神様に支配された神様のものなのです。

 パウロは言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたものです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントの信徒への手紙一6:19、20)

 私たちは、神様が十字架によってキリストの命の代価を払って買い取られた、神様のものとされた者です。だから聖なる者として神様の栄光を現すことができるのです。

 ところで、御名を崇めるということは、どんなことなのでしょうか。神の御名について、モーセが神様から「モーセよ、モーセよ」とホレブ山で呼びかけられた出来事があります。神様から「今、行きなさい。わたしはあなたをエジプトのファラオのもとへ遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ。」とイスラエルの出エジプトの使命を与えられた時のことです(出エジプト記3:1~15)。モーセは、イスラエルの民たちから、その名は何と言うかと聞かれた時、何と答えますかと神様に尋ねました。神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました。「わたしはある」と言うことは、〝過去も現在も未来も変わることなくおられる〟と言うことです。以来、神様の御名は「『わたしはある』という方」と呼ばれるようになりました。

 しかし、十戒の第3戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」と命じられてから、人々はみだりに神様の御名を唱えることができなくなりました。それで「天におられるお方」と呼ばれるようになったのです。

 しかし、目に見ることのできない神様は、クリスマスの出来事を通して、御名を具体的にはっきりと私たちにお示しになりました。
 
 マリアが身ごもったことを知ったヨセフが、ひそかに縁を切ろうとしていた時、主の天使は夢に現れて、告げました(マタイによる福音書1:20~23)。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子の名をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 神様の御名は、御子イエス様を通して「その名はインマヌエルと呼ばれる」と示されたのです。「インマヌエル」とは、神様が過去も現在も未来もいつまでも私たちと共におられると言うことなのです。モーセに示された「わたしはある」という方が、イエス様を信じる者と共にインマヌエルのお方、永遠に共におられるお方として、御名を示されたのです。

 ところが神様がイエス様と共におられるということを信じることは、世の人々にはそんなにたやすいことではありません。

 イエス様は、誰も生まれたことのない馬小屋の中に馬の餌箱をベッドとして生まれ、その生涯は貧しいヨセフとマリアの家で育ち、最後は、十字架につけられて死なれたというように、誰もそのようなイエス様と共に神様がおられることを信じることができなかったのです。あの弟子たちも、イエス様を裏切り、否み、見捨てて逃げて行ってしまったのです。
 
 イエス様は、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23:34)と全ての人の罪の赦しを祈りつつ、死んで行かれました。三日目に、墓より復活されて弟子たちに現れ、神の御国のことについて教えられ、40日後に天の父なる神様の御許に引き揚げられました。
 
 弟子たち120人ほどが一つになって、心を合わせて熱心に祈っていたところに聖霊が降りました。一同は聖霊に満たされた時に、〝十字架につけられて死なれたが3日目に復活されたイエス様こそ全ての人々を救う救い主である。この十字架につけられたイエス様こそが神様の御名と愛を現されるお方である。〟と、ほかの国々の言葉で宣べ伝え始めたのです。
 
 ヨハネは言っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネによる福音書1:18)

 パウロは言っています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙5:8)

 十字架につけられた独り子である神・イエス様において神様の御名が示され、また神様の愛が示されたのです。

 神様は、イエス様の出来事に神様の御名と愛を示されたのです。しかし、当時の人々はそれを受け入れることができなかったのです。いや、当時だけでなく今も、受け入れられない人々が多いのです。ここに集う私たちは、聖霊のお導きによって、十字架に付けられて死なれ、復活されたイエス様にこそ、神の御名と愛が現わされていることを信じることができているのです。

 御名が崇められるようにとは、十字架につけられた神の子イエス様こそが、神様の御名と愛を現されたことを信じて、神様の御名を崇めますと賛美の祈りをするのです。

 ある人は、〝御名を崇めるということは、神様の御名を自分の前に大きくすることである。そうすると自分は小さくなります。神様の御前に自分を小さくすることが神をほめたたえ賛美することなのです。〟と言っています。小さい自分を見つめると、神様の恵みがどんなに大きいものであるか分かり、神様の御手の中に置かれて生きることの喜びと感謝があふれてくるのです。

4.「御国を来たらせたまえ」

 第2の祈り「み国を来たらせたまえ」は、ルカによる福音書もマタイによる福音書も「御国が来ますように」となっています。

 「御国」とは「神の王国」を意味します。これは、人間の王制度から取った表現でありますが、人間的な支配体制を超えた純然たる神様の支配、神様を王とする世界を意味します。「神の国」=「神の支配」と言ってよいのです。

 イエス様は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間(ただ中に)にあるのだ。」(ルカによる福音書17:20~21)と言われています。

 御自身が神の子として誕生されたことによって神の国は実現していることを教えられています。即ち、イエス様をキリストと信じる者は、今、神様の御支配の中に置かれているので、神の国を生きる者なのです。同時に、御国が完成される終末的な出来事として到来することも告げています。

 ですから、この祈りは、〝今日も、あなたの御支配の中に生きる者として下さい〟と言う祈りなのです。キリストを信じて神様の御支配の中に生きる私たちを通して地上の神の国・神の支配が広げられて行くのです。

5.「御心を地にもなさせたまえ」

 第3の祈り「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」は、ルカによる福音書にはなく、マタイによる福音書にだけあって、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」となっています。この第3の祈りは、第2の祈り「御国が来ますように」の説明であるとも言われています。

 神様の御心が天で行われているように、この地上にも行われますようにとの祈りです。これは信仰者個人が神様の支配に生きるだけでなく、地上の人間の生活の全般に及ぶ祈りです。また、神の国の完成を願う終末的な祈りであります。

 私たちは、神様の御心が地上に実現しますようにと、第2の祈り「御国を来たらせたまえ」と祈ります。しかし、この二千年間、イエス・キリストを通して「御名が崇められますように」と祈りつつ、神様の御名が崇められることの困難を覚えるように、「御国が来ますように」と祈る祈りの実現の困難をも覚えます。何故なのでしょうか。

 今回、この学びを準備していて気づかされたことは、実は「御国が来ますように」という祈りは、ユダヤ人たちの切実な祈りであったことです。

 旧約聖書では、神様が天と地とを創造され、世界を支配されていること(詩編19:1~5)、イスラエルの王として民たちを支配されること(イザヤ書44:6)、やがてメシアが来て王国を確立することの待望(イザヤ書9:5~6、11:1~5、ゼカリヤ書9:9~10)が告げられています。

 しかし、ユダヤ人たちの神の国を待ち望む祈りは、繰り返し繰り返し、民族的エゴイズムによって妨げられて実現しませんでした。自己の民族的願望と神の国の実現とが混同されていると指摘されています。

 エゴイズム・自己中心の願望が、神の国の実現を妨げ、イエス・キリストにおける神の御名を崇めることをできなくしてしまっているのです。エゴイズム・自己中心は神中心の反対語で、それが聖書の言う罪なのです。神様を中心にして、神様の御心を尋ね聞かないで、自分の願望や考えに基づくことがエゴイズム、罪の生き方なのです。

 私たちキリスト者も、「御国が来ますように」と祈りつつも、エゴイズム・自己中心によって御国の進展を妨げている可能性があるのです。だから、なかなか神の国が実現しないように思われるのではないでしょうか。〝人間の自己実現〟と「神の国の実現」を混同してはならないのです。

「御国を来たらせたまえ」という祈りにつきまといやすいエゴイズムを洗い落すために、第3の祈り「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。この第3の祈りを、実際に生き抜かれたのが御子イエス様なのです。

 私たちは、イエス様が十字架に架けられる前にゲッセマネの園で祈られた祈りを思い起こしたいと思います。イエス様は、ひざまずいて次のように祈られました。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください。」(ルカによる福音書22:41~42)

 イエス様は自分の願いを捨てて、神様の御心のままに従って、全ての人間の罪を赦すために、御自身の命を十字架の上に献げられたのです。これは神様の私たちに対する犠牲愛(アガペー)なのです。この犠牲愛によって救われた信仰者は、自分の生活の中に神様の御心が行われますようにと祈り求めつつ歩むのです。

 御心とは神様の御計画なのです。神様は私たち一人一人に御計画を持って導いておられるのです。その神様からの御心・御計画が自分の生活を通して現わすことができるような生き方をして行きたいと祈り願いつつ「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのですが、この第3の祈りは、イエス様のゲッセマネでの祈り「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」という祈りと一体化させられることなくしては祈ることはできないし、また実現しないのです。

 私たちは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りつつ、神様の御心を何とか実現したいと願いながらも、お互いの思いが一つにならなかったり、病気や災いが起こったりして、なかなか物事が進まない場合が多くあります。

 創世記(45:4~8)のヨセフ物語でヨセフの言葉があります。
「わたしは、あなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・・わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」

 このように、神様の御心は人間の憎しみや恐れを超えて実現されるのです。

 また、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8:28)との御言葉があります。この御言葉にしっかりととどまり、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」と主イエス様の祈りに併せて祈りつつ歩んで行きましょう。
 
また、主日ごとに「わたしの王よ、神よ、あなたをあがめ世々限りなく御名をたたえます。」(詩編145:1)と神様を礼拝する生活に励んで行きましょう。

〈祈り〉

父なる神様、あなたの御名を賛美いたします。

クリスマスにお生まれになった神の御子・イエス様を通して、私たちは「天のお父さん」とあなたの御名を呼びかけることができることを感謝いたします。

十字架につけられ復活されたイエス様こそ、あなたの御名と御愛を現されたお方、インマヌエルと呼べるお方であることを知ることができ感謝し、御名を崇めます。

「御国を来たらせたまえ」と祈りつつも、その御国の進展を妨げているエゴイズムの罪のあることを、また自己願望の実現と御国の実現を混同しがちなことも知らされました。それゆえに、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ることのできる者であることを感謝します。

御言葉を通してあなたの御心に聞き従いますが、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」とのイエス様の祈りを自分の祈りに併せて歩む者とならせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

**
**
**
**
null
null

『マラナタ』11号 報告

埼玉地区講壇交換より

 本年度の講壇交換は、鴻巣教会との間で1月27日(日)に行われました。現、埼玉地区長の鴻巣教会牧師 川染三郎 先生においでいただき、以下の聖書箇所に基づき「新しい契約に生きる」との説教題で、御言葉を取り次いでいただきました。

 エレミヤ書31:31~34
 テサロニケの信徒への手紙一 2: 1~ 8

 川染先生は、鴻巣教会付属英和幼稚園の園長もされており、幼稚園児とのふれあいについてもお話しくださいました。

 「神に愛されている希望」、「子どものようにありのままに神の愛を受け入れること」、「教会の中にキリストが形作られていく確信を持つこと」、「キリストの愛を分かち合う信仰生活」の大切さを、力強く語ってくださいました。特に印象的だったのは、「神は決して見放さない。神には憐れみがあり赦しがある。神様の方から我々を追い求めてくださる。」とのメッセージでした。

 礼拝後、教会ホールで川染先生を囲んで茶話会(カレー会食)を持ちました。

 礼拝出席者26名中17名が参加し、説教で語られた御言葉を受けて、それぞれが感想を述べ合い、御言葉を分かち合う機会を得ました。恵まれた時に感謝いたします。

**
**
**
null
null