本庄教会月報第16号をお届けします。
本庄教会月報第16号をお届けします。
暑さが戻ってきました。信仰の炎も負けずに熱く燃やしたいものです。
みなさまの健康が守られますように。
在 主
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
本庄教会月報第16号をお届けします。
暑さが戻ってきました。信仰の炎も負けずに熱く燃やしたいものです。
みなさまの健康が守られますように。
在 主
*講壇のお花(#64)*
2019年7月28日聖書
ローマの信徒への手紙12章14-16節が掲載されていました。
*講壇のお花(#63)*
2019年7月21日聖書
マルコによる福音書2章3-5節が掲載されていました。
*講壇のお花(#62)*
2019年7月14日聖書
使徒言行録9章15-19節が掲載されていました。
*講壇のお花(#61)*
2019年7月7日聖書
ローマの信徒への手紙12章3-5節が掲載されていました。
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ヨナ書講解は本号で終了します。みなさんの感想をお寄せください。
7月になりました。梅雨の合間に台風が出現するようになりました。大きな災害に結び付かないよう祈ります。
在 主
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2019年6月2日説教
疋田國磨呂 牧師
聖書:詩編128編1-6節、
マルコによる福音書3章31-35節
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私たちは、今年の年主題を「わたしたちは神の家族」といたしました。
教会を現わすのに、パウロは「教会はキリストの体である」と表現し、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一12:27)と言っています。私たちの日本基督教団の信仰告白にも「教会は主キリストの体にして、恵みによって召されたる者の集いなり」と告白しております。
パウロは、教会が「キリストの体である」と言うのと同時に、「神の家族である」(エフェソの信徒への手紙2:19)とも言っております。
エフェソへの信徒の手紙2章1節からは、こう言われているのです。以前は、神様の選ばれたイスラエル人の立場から見ると、イスラエル人以外の諸国の人々は皆異邦人なのです。異邦人は、選びのしるしである割礼を受けていない者であり、神様の約束や契約とは無関係な者であり、この世の中で希望も持たず、神様を知らず、神様から遠い者として生きてきました。
しかし今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの十字架の血による罪の赦しによって、異邦人たちは神様に近い者になったのです。キリストは、十字架を通して、イスラエル人と異邦人の両者を一つの体として神様と和解させ、十字架によってお互いの対立や敵意を滅ぼされたのです。キリストが来られて、神様から遠く離れている者も、近くにいる人々にも、平和の福音が告
げ知らされたのです。
「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でもなく寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」(エフェソの信徒への手紙2・18~20)
イスラエル人以外のどんな国々の人々も、キリストを信ずることによって、「聖なる民に属する者、神の家族であり」ますと言われるのです。
そこで、この一年間、教会に連なる私たちが「神の家族」であるとは、どういうことなのかを御言葉に学びたいと思います。そして、学ぶだけではなく、神様の御心に適うような「神の家族」としての在り方、交わりを実践して行きたいと願います。
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教会は神の家族であるということを考える時、一番初めに、イエス様がどのように家族ということを考えておられたかを知ることが大事であります。そのことが一番よく示されているのが、今日のマルコによる福音書3:31~35節のところです。
イエス様が大勢の人々に囲まれてお話をしておられました。そこへ、イエス様の母と兄弟たちが来て外に立っておられたのです。「外に立ち」とありますから、イエス様は誰かの家で人々に囲まれてお話をされていたのでしょう。兄弟たちが人をやってイエス様を呼ばせました。
取り次ぎの人は「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らせたのです。
ここでいう「母上と兄弟姉妹がた」とは、母上はマリアであり、兄弟姉妹はマリアとヨセフの間で生まれたヤコブをはじめとする血のつながった肉親、兄弟姉妹を指しています。今では、公と私の公私混同をしないようになっていますが、時には肉親が訪ねて来た時、仕事中でもちょっと時間を割いて対応することがままありました。
ましてイエス様のお母様も一緒に捜しておられるということですから、イエス様はお話の途中でも、「ちょっと待ってください」と話を中断してでも、お母様や兄弟姉妹たちに対応するものと、取り次いだ者も、お話を聞いていた人々も思ったのではないでしょうか。
ところがそうではありませんでした。
イエス様は、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えられたのです。
そして、周りに座っている人々を見回して言われたのです。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ。」と言われたのです。
イエス様を訪ねて来たのは、イエス様の肉親の家族でありました。ところが、イエス様は、神様のお話を聞いている人々を見回して、その人々をさして「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃったのです。
そして、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ」と言われたのです。
「神の御心を行う人」という言葉は、マタイによる福音書では「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12:49~50)と言われています。
ルカによる福音書では、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」(8:21)と言われています。
このように、イエス様のおっしゃる神の家族は、「天の父である神の御心を行う人」たちであり、「神の言葉を聞いて行う人」たちのことであります。
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本庄教会の皆さんは、疋田牧師が来て、葉書カードの聖書日課表を作って「ディボーション」という何か新しいことを始めたと思っておられたかと思います。
聖書は、日曜日に教会に来て開けばよいと思っていたのに、毎日、聖書を開いて読むようにと言われて、面倒なことだと思われたかも知れません。
実は、これは、イエス様が言われたことなのです。イエス様が、「神の家族とは、天の父なる神様の御言葉に聞いて、神様の御心を行う人たちのことである」と言われているのです。
聖書日課に従って、毎日、聖書を開いて、神様の御言葉を聞いて、神様が私に何を語りかけておられるのか、神様の御心を知ることが「ディボーション」なのです。
「ディボーション」という言葉を使うから何か特別なことのように思われるのかも知れません。「黙想」と言いかえても良いのです。聖書を開いて、神様は私に何を語りかけておられるのか、神様の御心を静かに黙想するのです。そして、御心が示されたら御心に従うように生活するのです。これが神の家族なのです。
御心に従うと言うと、「従う」と言う言葉に何か抵抗を感じると言う人がおられます。「御心に添う」ようにと言いかえても良いのです。いずれの言葉を使っても、神の家族とは、神様の御心に適うように生きる家族なのです。
しかし、私たちは神様の御心を知らされても、なかなかそのように十分に生きることができないのです。だからこそ、日曜日ごとに礼拝に来て、御心に添えなかったことの赦しと励ましを頂いて、また新しい週を神の家族として生きるのであります。この繰り返しを通して、だんだん神の家族となっていくのであります。
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4月24日の祈り会に、私が大宮教会で一緒に信仰生活をした、台湾の林素卿姉と、同じく台湾出身で日本人と結婚されている柿沼文子姉が一緒に本庄教会まで私たちを訪ねて来て、祈り会を共に守りました。その後、外で食事を共にした時、台湾では肉親の兄弟が誕生日を迎えると台湾に帰ったり、台湾から兄弟が日本に来たりして誕生日を祝い合う話を聞きました。肉親の兄弟・家族は日本でも誕生日を祝い合います。
私は神の家族である教会も、誕生日を祝い合う事の大切さを思い、大宮教会で実施してきました。キリストを信じる私たちは、神様が祝福をもって全ての人間一人一人の命を誕生させてくださったことを知っております。神様は、祝福して造られた人間を、キリストの命を犠牲にしてまでも愛して救われましたが、聖霊のお導きによって神様を「アッバ、父よ」と呼んで霊的な交わりを回復できるようにと、救ってくださったのです。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマの信徒への手紙8:14~17)と約束されています。
このように聖霊のお導きによって神様を「天のお父さん」と呼んで神様の子供、神様の家族とされた者は、イエス様と共に御国を受け継ぐ相続人ともされているのです。神様から祝福されて与えられた私たちの命は、このように御国を受け継ぐ栄光にも与かることができるのです。
このように神様が祝福して造ってくださった素晴らしい命の誕生日を、「わたしたちは神の家族」として互いに覚えて祝い合いたいと願い5月の役員会に提案しました。6月から実施するということで、今日の週報に「6月にお誕生日を迎える兄弟姉妹」が掲載されています。
今日の礼拝の終わりに、この兄弟姉妹たちを共に祝って祝福の祈りをいたしたいと思います。又、互いにお祝いの言葉などを交わし合っていただけたらと願います。
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天の父なる神様、私たちは今年度、「わたしたちは神の家族」との主題の基に励んでいこうとしています。
イエス様は、神の家族とは、天の父なる神様の御言葉に聞いて、御心を行う者であると言われました。
そのような家族となることができるように、本庄教会に連なる私たちをもお導き下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
**過去の学びについてはこちら**
神様は、私たちが、喜びと感謝に満ちた生活をするようにと願い導いて下さっています。しかし、いつも喜びと感謝に満ちた生活ができるわけではありません。戸惑い、苦しみ、悲しむ出来事に遭遇します。そういう時を「試練」と言います。「我らを試みにあわせず」という「試み」は、善い意味で〝訓練〟ともなり、悪い意味で〝誘惑〟ともなります。
私たちは、或る出来事を通して試みられた結果、強くなり、前よりも精神的に向上できるならば、それは神様による試練であり訓練であります。しかし、試みに負けて悪に陥るきっかけとなるならば、それは誘惑であります。
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神様が私たちを訓練するために試練を与えることがヘブライ人への手紙12:5~11に記されています。
「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
このように、神様は霊の父として、私たちが神様の神聖にあずかることができるように鍛えて、鍛錬・訓練をされるのです。
この試練で、聖書における最大の試練は、アブラハムのイサクの奉献でした。
アブラハムは75歳の時、祝福の源となるようにと神様から召しだされ、天の星のようにあなたの子孫を与えると約束されました。しかし、なかなか子供が与えられませんでした。25年経って100歳にして約束の子としてイサクが誕生しました。ところが神様はアブラハムを試みられたのです。
神様は、アブラハムに、愛する独り子イサクをモリヤの山に連れて行って、焼き尽くす献げものとして献げなさいと命じられたのです。100歳にしてやっと授けられた、愛する独り子を焼き尽くす献げものとして献げなさいと命じられたアブラハムの心境はいかばかりであったでしょうか。しかし、次の朝早く、アブラハムはロバに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神様が命じられた所に向かって行きました。
山に着くと、イサクは父アブラハムに言いました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」するとアブラハムは答えました。
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
二人は一緒に歩いて行き、神様が命じられた場所に着くと、アブラハムは祭壇を築き、薪を並べて、そして息子のイサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、イサクを殺そうとしました。
「そのとき、天から主の御使いが『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』 アブラハムは目を凝らして見まわしました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
アブラハムは、その場所をヤーウエ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。そこで人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』」言っている。」(創世記22:11~14)
このアブラハムにおける出来事は、神様がアブラハムの信仰を試された「試み」です。神様はアブラハムの信仰を確認して、全人類の祝福の源として用いられたのです。
その神様は、今日も、信仰者の私たちを試みて信仰を確かめて、その信仰に応じて用いられるのです。信ずる者が、神様から試みられていると思う時、大事なことは、神様は必ずその先に備えていて下さるお方であるということです。「主の山には備えあり」と言うことです。そう信じる時、私たちはどんな試練にも耐え忍ぶことができるのです。
今から7年近く前ですが、私は2012年9月、大宮の赤十字病院で、腎臓がんの再発と両肺への転移と診断され、余命1年と言われました。その時、聖書日課で、「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、先祖の列に加えられ、朽ち果てました。」と使徒言行録13:36の御言葉を与えられたのです。私は、その時、ダビデが神様の計画に仕えた後、眠りについたように、私も神様の御計画に仕えた後に眠りにつくのだと平安な気持ちになれたのです。
神様は、良きセカンドオピニオンの医師と良き治療を与えて下さり、多くの教会員の皆様に祈られて、癒しの恵みを頂きました。大宮教会で神様の御計画が終わりかと思っていたら、本庄教会に遣わされ、いまだに神様の御計画に仕えております。過ぎし1年は、本庄教会の皆様の祈りに支えられ、伊勢崎教会の代務者をも務めることができました。今私の体のがんは、寛解状態で、がんはまだ無くなっていないのですが、がんはおとなしくなって、私の働きを妨げることがないのです。がんと共に生きる私ですが、神様の御計画がある限り、仕えてまいりたいと願っています。
私はがんになったために、がんの人々の心と通じ、牧師として10数名の方々をイエス様の御許にお連れし、弟子としていただきました。〝がんも恵みです!〟と言っています。
本庄がん哲学カフェが始まりました。どなたのがん生活にも、がんを通して見出だす恵みがあるのです。そんな互いの恵みを分かち合って、互いに喜び生きる本庄がん哲学カフェとして行きたいものです。
皆様が試練を受けていると思われる時、神様の与えられる試みには、必ず、備えがあると言うことです。「主の山に備えあり」を忘れないでください。
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私たちが受ける試練は、悪魔が働く時でもあるということです。
ペトロの手紙一5:8~11に言われています。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」
私たちが受ける試みは、悪魔・サタンの試みの時でもあるのです。
悪魔の働きの目的は、人々を神様から引き離すことなのです。ですから、不信仰な者はほっといても神様から離れるからと安心して余り働きません。しかし、信仰的に生きようと、礼拝を大切にし、聖書日課を通して毎日御言葉に聞こうとしたり、お祈りを大切にして生きようとする人々には、絶えず悪魔は働きかけて来るのです。
その悪魔の策略に対抗して立つためには、神の武具を身に着けることなのです。
エフェソの信徒への手紙6:10~20にそのことが書かれています。そこで、言われていることの一番大事なことは、私たちの戦いは、血肉(人)を相手にするのではなく、その人の背後に働く悪魔を相手にするのだと言うことです。
神の武具とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる履物、信仰の盾、救いの兜などを身に着け、霊の剣、即ち神の言葉を取りなさいと言われています。日々、聖書日課を通して聞き従う神様の御言葉ほど強い武具はないのです。
また、どのような時にも、聖霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気強く祈り続けなさいと勧められています。
水曜日に守られる「祈り会」は、聖霊に助けられて御言葉に聞き、聖霊に助けられて全ての兄弟姉妹のために、根気強く祈り続ける場なのです。その祈りに支えられて私たち信仰者の生活が守られているのです。是非、この祈りの場に加わってください。
聖書は、悪魔が絶えず信仰的に生きようとするものを襲ってくることを告げていますが、しかし、同時に、イエス様がご自身の代わりとして送られた聖霊は、私たちの弁護者・助け主として常に働いていて下さるのです。この聖霊は、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエス様が約束してくださっています。聖霊なる神様がいつもいて下さるという信仰が有るならば、何も恐れることはないのです。
しかし、愚かで、弱い私たちは、その聖霊なる神様の助けを忘れて、自分の力で何事もできると、しばしば思ってしまうのです。気が付くと、悪魔の誘惑に陥って神様から離れてしまうことがあるのです。
だから、そのようなことがないように、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。
イエス様は、「二人または三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいる。」(マタイ18:20)と約束されています。私たちは一人でいると悪魔に誘惑されやすいのです。だから信仰のある兄弟姉妹の交わりが大切なのです。互いに助け合い、祈り合って神の家族としての歩みを新年度も進めてまいりましょう。
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**過去の学びについてはこちら**
「主の祈り」の最後の祈り「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン。」について御言葉に聞きます。
この部分は、マタイとルカによる福音書で、イエス様が「こう祈りなさい」と言われた祈りの中には無い部分でありますが、「限りなく汝のものなればなり」と神様を賛美する頌栄的な言葉であります。
これは、初代教会が後で付け加えたものと言われています。イエス様が、「祈るときには、こう祈りなさい」と言われた教えに対する初代教会としての〝応答の祈り〟だとも言われます。
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「国は、限りなくなんじ(神様)のものなればなり」についてです。
私たちが「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、「御名を崇めさせたまえ」と祈る神様とは、どのような御方であるのでしょうか。
ヨハネは福音書の中で言っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信ずる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
また、ヨハネは手紙の中でもこのように言っています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:9~10)
ここで言われている、独り子を世にお遣わしになって、私たちの罪を償ういけにえとされたということは、イエス様の十字架の出来事であります。
私たちの信ずる神様は、私たち人間の罪を赦すために、独り子である御子イエス様を十字架の上に犠牲として献げて下さったのです。私たちは、御子イエス様の命を犠牲にしてまでも、神様から愛され、罪が赦されているのです。そして永遠の命を与えられているのです。このイエス様の十字架を通してこそ知らされる神様の御名と愛なのです。それゆえに私たちは十字架を通して神様の御名と愛をあがめるのです。これが第1の祈りの「み名をあがめさせたまえ」なのです。
この神様の御名を崇めることは、第2の祈り、「御国を来たらせたまえ」の祈りへと結びつくのであります。
「御国」とは、神様が御支配される国であります。神様の御心が行われる国であります。イエス様は「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17:21)と言われています。キリストを信ずる者たちの間に、神様の支配が始まっているのです。それはキリストの再臨によって完成する御国であります。
第3の祈りでは、その神の御国・御支配(御心)「が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。
ところで、皆さんは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを主日ごとに「主の祈り」として祈っています。教会のいろいろな集会や、また家庭でも祈っています。それは、神様の御心が天に行なわれるように、地上にも行われるようにとの祈りであります。
しかし、地上の生活においては、神様の御心と思えない悲惨な出来事がたくさん起こっています。人間の歴史の二千年余りは、造り主である神様を信じない人間が権力を持ったり、神様の御名を建前にして権力を振るう悲惨な出来事の歴史でもあります。
これでも神様がおられるのだろうか、神様の御国はいつ来るのだろうかと思われる歴史であります。そうした歴史の一部分を生きるキリスト者たちは、十字架につけられたイエス様をキリストと信じて、十字架につけられて三日目に復活されたイエス様こそが御国を支配する真の王、王の中の王と信じて、「御国を来たらせたまえ」「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続けて来たのであります。
ところが、イエス・キリストが御国の真の王であるということは、地上の支配者たちには邪魔な考え方なのです。
1549年、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に初めて伝えました(イゴヨク栄えたキリスト教と覚える)。キリストの福音は、今では考えられない勢いで広まり、キリシタン大名まで生まれ、京都には神学校もできたようです。
しかし、この教えが国を支配するには邪魔な教えとして気づいたのが豊臣秀吉です。キリスト教の禁制を命じ、信徒たちを捕らえ迫害し始めたのです。それが徳川時代には徹底していったのです。長崎にキリシタン27聖人の殉教記念館があります。
また、74年前までの日本帝国憲法時代には、天皇は現人神として君臨し、天皇の名の下で日本のアジア侵略が始まり、太平洋戦争が起こりました。その時、〝天皇の神とキリストの神とどちらが偉いか〟とキリスト者たちは踏み絵のように尋問されたのです。キリストの神が偉いというと、即刻、逮捕され牢獄に入れられ、拷問などを受け、殉教した牧師もいます。大宮教会が韓国の憂忘(マンウ)教会と交流した時、李聖実(イソンシル)牧師の部屋に、50人ほどの顔写真が載っている掛け軸がありました。日本に支配されている時、神社参拝を拒否して殉教した牧師たちと聞いて心が痛みました。
私が福井神明教会に仕えた時、付属栄冠幼稚園75周年史を編集しました。その時に聞いた話です。戦時中、栄冠幼稚園の園長を務めた牛山敦子園長の所に、憲兵が来て〝天皇の神とキリスト教の神のどちらが偉いか〟と問うたそうです。すると園長は、「めっそうもない、天皇の神様とキリストの神様とを比べるなんて、恐れ多くてできるものではありません。そんな恐れ多いことをおっしゃらないでください。」と言ったら、黙って帰ってしまったそうです。
今は、キリストの神様こそ、世界の造り主として一番偉い方ですと平気で言え、天皇も人間の一人として神様に造られた者ですと平気で言えますが、74年前までは、そんなこと言うと即刻逮捕されたのです。初代教会以来、キリスト教が宣べ伝え始められた所では、日本のようなことが繰り返し起こってきているのです。
こうした歴史のなかに「御国を来たらせたまえ」「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続けて来たキリスト者たちは、その祈りに応答して「御国はなんじのもの、神様のものです」と告白し、神様をほめたたえるのです。
使徒言行録1:15に「120人ほどの人々が一つになっていた」とあります。その人たちが心を合わせて熱心に祈って一つになっていたところに、聖霊が降りました。すると聖霊を受けた弟子たちが、人々が十字架につけて殺したイエス様こそ、神様が救い主・メシアとして遣わされた方なのだと世界中に宣べ伝え始めたのです。
あれから、二千年余り、今、キリストを信ずる者は世界の人口70億人の三分の一なのです。120人が23億人になっているのです。日本ではまだ人口の1%弱のキリスト者の数ですが、世界を見ると確実に「御国は、限りなく神様のものです」と告白し、ほめたたえることが出来るのです。
*
使徒パウロは、手紙の中に「神の力」「キリストの力」と言うことを繰り返し言っています。
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマの信徒への手紙2:1)
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとって愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントへの信徒への手紙一1:18)
「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だからキリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリントの信徒への手紙二12:9~10)
私は、神学校を卒業して、柿木坂教会2年11カ月、福井神明教会10年4ヶ月、大宮教会29年、それぞれに仕えて来ました。本庄教会は今年で3年目です。務めを終えた3つの教会を振り返って、パウロの言っている「神の力」「キリストの力」がどのように働いていただろうかと思うのです。
私たちキリスト者の存在や教会の存在は、人間の能力や力・頑張りによって存在しているのではありません。人間の弱さの中にも働かれる「神の力」「キリストの力」によってその存在は確立され、保たれるのです。
ですから、パウロはエフェソの信徒への手紙1章19節以降に祈っているのです。
「また、わたしたちの信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられる場です。」
教会を教会たらしめている力は、私たち人間の力ではなく、キリストを死者の中から復活させられた神の力なのです。そして、教会に連なる一人一人は、この「神の力」を大なり小なり経験する者たちであります。
人間の力や人間の主張の強い教会は、分裂に分裂を醸し出して行きます。
イエス様がフィリポ・カイザリアの地方に行った時、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と聞かれました。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに「エレミヤだ」とか「預言者の一人だ」と言う人もいますと答えました。そうしたらイエス様は「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれました(マタイ16:13~19)。
その時、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。
するとイエス様は言われました。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
このように、「イエスはメシア、生ける神の子です」と信仰告白する群れが教会で、その信ずる者の信仰告白に対して天の国の鍵が授けられるのです。教会はキリストを死者の中から復活させられた神の力が宿るところで、死の世界と言われている陰府の力も対抗できないのです。
私たちキリストの復活を信ずる者には、復活のキリストと共に死に打ち勝つ力が与えられているのです。ですから、私たちは「力は限りなくなんじのもの、神様のものです」とほめ歌うのです。
*
イエス様は、ヨハネによる福音書15:7~8でこう約束されています。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むもを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者は皆、イエス様の弟子なのです。弟子の目的は、父なる神様に栄光を帰することです。そのためには、イエス様につながることです。イエス様につながることは、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」と言われているように、いつもイエス様の御言葉を聞いて心にとどめて生きることです。御言葉に従って生きることなのです。そうするとどんな願いも叶えられ、豊かに実を結ぶのです。そうした弟子の生き方によって、父なる神様は栄光をお受けになると言われています。
山形にカウンセリングを生かして教会形成をしている田中信生牧師の山形興譲教会に特伝講師として呼ばれました。その理由は、所属する教師が研修会で私と学んだ時、「疋田先生はいつも、神様は、イエス様はと、神様とイエス様を主語にして話をしておられるので、先生のお話を皆様に聞かせたかったのです。」と言われたのです。
私は当たり前のように思っていたので、自分の考えや主張ではなく、神様がこう言われている、イエス様がこう言われているとの会話になっているのだと思います。それは、日々のディボーションによって培われたものなのです。皆様も、ディボーション生活を重ねるとそういう思いになって来るのです。
最後に、いつも私が紹介する御言葉を読んで結びとします。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントの信徒への手紙一6:19~20)
私たちは、滅ぶべき者でしたが、神様は御子イエス様の命を代価として払って、悪魔の支配、滅びに至らせる罪の力から解放して神様の子どもとして下さったのです。だから自分の体で神様の栄光を現すことができるのです。この信仰的事実をしっかりと受けとめて歩みたいものです。そして、私たちは、「栄光は限りなくなんじのもの、神様のものです」と絶えず神様をほめたたえたいと思います。
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父なる神様、イエス様が「祈るときには、こう言いなさい」と教えられた「主の祈り」について御言葉に聞き学ぶことができ感謝いたします。
今回のシリーズでは、私たちの日用の糧、罪の赦し、試練において祈り求めるべきものは何かをあらためて教えられました。また、人間の横暴な力が圧倒するかに思える地上において、真の国、力、栄のすべては限りなく神様のものであることを教えられ、確信できたことを感謝いたします。
どうか本庄教会の群れが「主の祈り」と共に喜び生きることができるように祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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**過去の学びについてはこちら**
「主の祈り」の第5の祈り、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」について御言葉から学びたいと願います。
今、私たちは受難節と言って、イエス・キリストが人間の罪を赦すために十字架への道を歩まれたことを、自分のこととして思い起こす40日間の歩みをしています。
今日の学びは、この時にふさわしいことかと思います。
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人間の罪と言う時、私がいつも思い起こすことがあります。
私が青年時代に信仰生活をした、東京の渋谷にある中渋谷教会での出来事です。渋谷から吉祥寺までの井の頭線で、3つ目が東大駒場駅です。東京大学の一・二年生が通う教養課程の校舎があります。その東大駒場の東大生たちが時々礼拝に来ました。礼拝後、新来者を歓迎する青年会の場で、一人の東大生がこう言ったのです。
「何で教会は、罪、罪というのですか。人を罪人呼ばわりすることは気にいらない。自分は小さい時から、父親に厳格に育てられて来たから、人に後ろ指をさされるようなことは何もしないで今日まで生活して来ました。それなのに罪人呼ばわりをするとは失敬です。一言文句言いたくて残ったのですが、こんな教会にはもう2度と来たくないです。」
これは、この東大生だけでなく、一般の多くの方々も、初めて教会に来られると「罪人」という言葉に引っ掛かるのではないでしょうか。
一般に、罪人と言うのは、刑法を犯した犯罪人のことを指します。盗みをしたり、殺人を犯したり、禁じられている麻薬などを常用して、逮捕された人たちを指します。警察の厄介になっている人たちを罪人として、あの人は悪いことをした人だと後ろ指をさすのです。人と人との横の関係の中で、禁じられていることを犯した人が罪人なのです。この刑法に問題があります。その行いが誰かに見つかって訴えられなければ、罪にならないのです。最近も、ある俳優が、麻薬常習罪で逮捕されましたが、20代から行っていて、見つからなかったので、罪にならなかったのです。
しかし、聖書でいう罪は、世界の造り主である神様と人間の縦の関係の中で言われることです。私たち人間の命の造り主である神様を認めない生き方、神様の御心に背いた生き方をする人を罪人と言います。しかも、神様の目からは逃れることはできません。聖書は、人間の罪の根本は、すべての人間を造られた神様の愛と御心を信じないで、自分を中心に生きることから生じると言うのであります。
私が大宮教会に着任して間もなく、まだ聖学院女子短期大学があった時、2年ほど保育課の学生にキリスト教概論を教えたことがあります。その授業で罪の問題を話す時、「皆さんは、人を殺したことはありませんか」と聞いたのです。するとある女子学生は、「先生は、ひどいことを言う。人を殺していたら、私たちはこうして大学になんか来ることはできていません。」と言いました。
私は、「いや、ごめんなさい。失礼なことを問いかけまして。」とお詫びをしました。
そして、マタイによる福音書5章21~24節を開いてもらいました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したら、その供え物を祭壇の前に置き、まず兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」
聖書では、殺人を犯した人は、殺された人の身内から命を奪われることを許しています。しかし、過失で人が死んだ場合、加害者は「逃れの町」に逃れれば、被害者の身内からの復讐を免れます。それを町の門のそばにいる長老が判断をするのです。
しかし、イエス様は言われるのです。
兄弟に腹を立てる者は、誰でも人を殺した人が門の長老の前に裁きを受けるように、裁きを受けるのです。兄弟に「馬鹿」という者は最高法院(いわゆる最高裁判所に)に引き渡されるのです。更に「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる、いわゆる死刑を受けると、言われるのです。
これはどういうことかと言いますと、私たちは最初に人の振る舞いに対して腹を立てます。そしてその人を馬鹿者だとなじったりします。それでも怒りの心が納まらないと「あの愚か者が、死んでしまったらよい」と言って、無視します。無視するということは、その人がそこに居るのに、存在しないかのように扱うことなのです。人は、無視されると一番悲しいのです。「愚か者、あんな人なんかいない方がよい」と無視することは、自分の心の中でその人の存在を殺すことなのです。
イエス様はここで、実際に手を下して人を殺さないでも、心の中で人の存在を殺して無視していくことは、殺人と同じだと言われているのです。
私は学生に「皆さんは、今まで、心の中であんな人なんかいない方がよいと思ったことはありませんか。そんな人が何人かいるのではないですか。」と問いかけると、「いる。いる。」とみんなが言うのです。
イエス様は、人の目に見える形で罪の行動を犯していなくても、その心の中で罪の行動に至る動機を見ておられるのです。その後、姦淫の罪に対しても言われています。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」と。
イエス様は、人間の行動に現れない、心の中の罪についても指摘しておられるのです。罪の赦しとは、そうした私たち人間の心の奥底にある罪までも問われることなのです。
最初に話した東大生のように、人に迷惑をかけず、後ろ指をさされるようなことのない生き方をしていても、私たちの心の内面では、憤り、怒り、気に入らない人々を無視し、心の中で抹殺していくことから免れないのではないでしょうか。
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私は大宮教会にいる時、半年ほど夜間の日本聖書神学校で礼拝学を学んだことがあります。そこで、「主の祈り」は、元々、洗礼式や聖餐式のように、ミステリオン(秘儀)として、信仰をもっていない人には閉ざされていた祈りだと学んだことがあります。
例えば、「御国を来たらせたまえ」と言う祈りは、地上での神様の御支配を求めるだけでなく、神の国の完成という終末的な祈りでもあります。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、単なる日用の食べ物だけでなく、神の国の食卓、天的な食事の意味も含んでいて、御国の完成と言う終末的な祈りにもつながるのです。
この「我らの罪をも赦したまえ」という祈りも、「裁き」「火の地獄」と言う言葉から終末的な祈りにもつながるのです。
私たちが「天にまします我らの父よ」と祈る時、それは天におられる神様と直面する事なのです。私たちは、祈る時、単に自分の思いを独り言として言っているのではないのです。目の前におられるが如くに、神様に語り掛けているのです。神様と直面しているのです。この神様との直面は、この世の終わり・御国の完成との直面であり、人生の終わり・永遠の命との直面であります。
キリスト者は、一般の人と違って、いつも自分が死んでこの世を去って、神様の御国に入れられることを待ち望む者です。その意味で、神様に祈る時、いつも自分の死を見つめつつ神様と直面しているのです。
ペトロの手紙一4章7~11節にこう書かれています。
「万物の終わりが迫っています。思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれの賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」
先日、3月24日の午後には、本庄がん哲学カフェの発足の講演会で樋野興夫先生からガンについてのお話を伺いました。今、日本では、二人に一人はがんになると言われています。誰もが、がんを通して死に直面する時代になっています。死と直面することは、聖書では神様と直面することだと言っているのです。
ペトロの手紙は、万物の終わりが近づいていますから、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」とよく祈ることを勧めております。そして祈りに基づく行為として「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。」と勧めています。
「愛は多くの罪を覆うからです」と言われています。赦しの愛によって生かされること、それが終末に直面するキリスト者の在り方なのです。
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この「我らの罪をもゆるしたまえ」の祈りは、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と言う言葉が伴うのです。自分に罪を犯した者を赦しますから、自分の罪を赦してください。と言う祈りなのです。
人が自分に犯した罪を赦すことは本当に難しいものです。「赦してください」と言われて、「いいよ、赦すよ」と言いながらも、心の内では赦していないことがどんなに多いことでしょうか。どうしたら人の罪が赦せるのでしょうか。「主の祈り」のこの部分に来ると祈ることができないという姉妹の具体的な事例を聞かされたことがあります。
私は、キリスト入門の会で「主の祈り」を学ぶとき、赦しについては、いつもマタイによる福音書18章21~35節の「仲間を赦さない家来のたとえ」を学びます。
ペトロがイエス様に「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」と聞きました。7回と言うのは、完全数で、全部赦す意味です。ところがイエス様は「7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」と言われたのです。7の70倍とは、490回赦しなさいと言われたのです。限りなく赦しなさいと言うことです。
そして、天国における赦しを、家来の借金の決済にたとえて話をしました。一万タラントンの借金をしている家来が借金を返済できなかったので、主君は、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じました。」当時、借金のために自分や妻や子も奴隷として売ることが行われていたのです。家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」と〝しきりに願った〟のです。この〝しきりに願う〟ことが祈りの姿勢であることを先に学びました。
主君は、憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやったのです。帳消しと言うのは借金がなかったようにゼロにすることです。
ところが、帳消しにされた家来は、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め「借金を返せ」と言いました。その仲間は、帳消しにされた家来と同じようにひれ伏して「どうか待ってください。返しますから」と〝しきりに頼んだ〟のです。しかし、承知せず、その仲間を、借金を返すまでと牢に入れてしまったのです。
他の仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛めて、主君にこのことを残らず告げました。すると、主君は、その帳消しにされた家来を呼びつけて言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」と、そして主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡してしまいました。
タラントン、デナリオンというお金の価値を知ると、この出来事をより分かり易くなります。
1デナリオンは、1日分の賃金に相当します。
1タラントンは、6000デナリオンです。1年の実働を300日として割ると、20年になります。1タラントンは、20年分の賃金に相当する金額です。 家来の借金は、1万タラントンですから、20万年分の賃金に相当する、天文学的な数値です。
この家来が、仲間に貸した借金は、100デナリオンでした。100日分の賃金に相当します。1ヶ月25日の労働とすると、4ヶ月で稼げる金額です。
主君に帳消しされた家来の借金は、20万年間、働かなければならない天文学的金額でした。その家来が貸していた借金は、わずか4カ月働けば得ることのできる金額でした。
ここでイエス様が言われていることは、私たち人間が神様に赦される罪は、本人も気付いていないのですが、1万タラントンに相当する大きな大きな罪の帳消しであるということです。それなのに、100デナリオンの無きに等しい、小さい、小さい罪を赦すことのできない人間の姿を指摘しているのです。
イエス様は、私たち人間が持っている1万タラントン相当の大きな罪を、帳消しにするために、十字架につけられて、「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」と祈られ、御自身の命を私たちの身代わりとして献げられたのです。
本来、「天の父よ」と呼んで祈ることのできないほどの大きな罪の負債を負っている人間を神様は赦してくださるのです。その大きな赦しの愛、その大きな恵みによって私たちは包まれているのであります。私たちはその大いなる赦しの愛の中で祈るようにさせられているのです。私たちが頂くことのできる1万タラントンの負債の帳消しの赦しの愛は、イエス様がご自身の全生涯をかけて実現されたアガぺーの愛なのです。
イエス様が十字架で命を献げてまでも、この私の罪を赦し、愛して下さっていることを信じることができた時、私たちは初めて、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ることができるのです。
イエス様は、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)と言われました。「わたしがあなたがたを愛したように」とは、御自身の命を犠牲にしてまでも愛してくださったと言うことです。それゆえに、私たちも互いにイエス様の犠牲愛を受けた者として愛し合うように命じられているのです。
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説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:
出エジプト16章9-16節、
サムエル記下12章1-14節、
申命記6章16-19節、
詩編8編2-10節、
マタイによる福音書6章9-13節
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**過去の学びについてはこちら**
これまで学んできた第1~第3の祈りは、神様の御名、神様の御国、神様の御心と、神様のことを祈っています。
これに対して、今回の第4~第6の祈りは、我らの日用の糧、我らの罪、我らの試みと、私たちのことを祈っています。
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私はこの祈りについて考えるとき、いつも思うのです。私たちは毎日、食べ物のことで今日も与えて下さいと神様に祈っているだろうか。祈らなくても毎日何か食べ物を食べることができると思っているのではないでしょうか。
なんで、イエス様は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るように教えられたのでしょうか。
イエス様の時代は、その日の食事も食べられないような人がいたことは確かですが、今の日本のように飽食の時代の中に生きる者は、この祈りをどう受け止めればよいのでしょうか。
私は、キリスト入門講座で「主の祈り」を学ぶとき、私たち日本人は食べ物に何の不自由もないが、今も地球のどこかに、食べる物がなく飢えて、死んでいく人がいることを忘れないでください。そういう中で、
食べることのできることを感謝しましょう。と教えていました。
出エジプト記の記事では、モーセに導かれて荒野を旅するイスラエル人が食べる物がなく、それだったらエジプトにいた方がましだったと不平を言っています。それに対して神様は「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。』と。」(16:12)と言っておられます。それで、神様は夕方にはうずらを与え、朝には露が蒸発した後にできる薄いウエハスのようなマナを与えて養われました。
日本人は、第二次世界大戦に負けた後、極度の食糧難に遭い、食べることに窮した時代がありました。私の年代、75歳以上の人々は食糧難を経験していると思います。
荒野のイスラエル人や日本の戦後の食糧難を経験している人には、「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、実感を込めて祈ることができますが、飽食の時代を生きる者には、どれほどの実感を持って祈ることができるのでしょうか。
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今回、「主の祈り」について学ぶ中に、ハッとして目からうろこが落ちる経験をしました。
新約学者のエレミアスは、「日用の糧」と訳されているギリシア語は「エピウーシオス」と言う言葉で、宗教改革者のマルチン・ルターは「日ごとに」と訳したことから、今日の主の祈りが定着したと言うのです。
しかし、ウルガータと呼ばれるカトリック公認のラテン語訳聖書の翻訳者のヒエロニムス(343~420年)は、イエス様が用いられた言葉であるアラム語で書かれたナザレ人福音書には、「日用の糧」に当たる言葉は、「マハール」つまり「明日」と言う言葉が用いられ、「我らの明日の食物を今日も与えたまえ」となると言うのです。
この「明日の食物」ついて、ヒエロニムスはこう言っています。「へブル人福音書=ナザレ人福音書の中で、私はマハール、即ち『明日の』という言葉を見つけた。それゆえ『私たちの明日、即ち将来の食物を今日もお与え下さい』と言う意味になる」と。
それは、単に「明日の食物」と言うことではなく、「大いなる明日」つまり「終末における完成の食物」を意味するものと考えられていると言うのです。
「大いなる明日」とは、来るべき神の国です。客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言われたことに対して、イエス様は「大宴会」(ルカ14:15~24、マタイ22:1~14)にたとえて話されました。「明日に食べる食物」は、神の国の食事なのであります。神の国の食物は、人間にとって「究極の食物」であります。
この大いなる明日の食物、神の国の食卓にも備えられた食物とは何なのでしょうか。私たちは、イエス様が弟子たちと共にされた最後の晩餐を思い起こさねばなりません。
「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(ルカ22:19~20)
この最後の晩餐は、ただのパンではなく、ただの杯ではないのです。このパンと杯のただ中にキリストがおられるのです。キリストの命を犠牲とする愛に裏付けられた、アガペーの愛を含んだパンなのです。
イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と言われています。
確かに、私たちは日毎のパンなしには生きることはできません。しかし、神様の口から出た御言葉の一つ一つを通して自分の存在と、生きる意味を見出すのです。
「日ごとのパンを与えて下さい」という祈りは、〝人間を究極的に生かす神の国の食物を与えて下さい〟という祈りを指し示しているのです。神の国の食事を先取りして与えられているのが主の聖餐であります。
私たちは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る時、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言う御言葉と重ね合わせて、神の国の食事に与かっている恵みに感謝したいと思います。
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神の国の食事は、人間を神様に祝福された者として究極的に生かす「命のパン」であります。
ルカによる福音書の主の祈りに付随する話に、真夜中にパンを借りに来た人の話があります。そして、祈りの姿勢として、「しつように頼めば」与えられる。「求めなさい…探しなさい…門をたたきなさい」と勧められています。ところが、与えられるのはパンではなく、「聖霊」が与えられると言っています。
私は、前の説教で、この聖霊は私たちの祈り求める事に対して神様の答えが何であるかを諭し導くものとしてお話ししました。
別の言い方をしますと、天の父が、良い物としてパンではなく、聖霊を与えられるということの意味は、人間が生きるのに良いものとして究極的に与えられる「命のパン」は「聖霊」であると言うことです。人間は祝福された者として生きるためには、聖霊を必要としているということです。
私たちが日ごとに頂くパンの背後に聖霊があって、パンと結びついているのです。私たちは日ごとのパンを頂く中に、私たちを活かして下さる神様、主イエス様を知るようになるのです。
神の国の食事は、単に腹を満たす食物ではなく、その食物の背後に聖霊があり、聖霊がもたらす実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)に包まれた食事による交わりであります。聖霊が伴うパンの食事は、聖霊による交わりを現すのであります。
本庄教会でも、礼拝後に、簡単な食べ物をいただきながら交わりますが、ただ腹を満たすのではないのですね。その食べ物には聖霊が結びついているのです。だから、愛があり、喜びがあり、平和があり、聖霊の結ぶ実に満ちた交わりになるのであります。
ある牧師はこう言っています。
「食事とは、本当は、神の国の盛大な晩餐会を幾分でも反映した、いわばお祭りの要素がなければならないのです。たとえば家庭が不和になると、そのお祭り的要素はなくなってしまいます。食事は〝物〟ではなく、〝出来事〟なのであります。」
私は、今回、この点でも改めて、「そうなのだ」と思わされました。教会で兄弟姉妹と共にする食べ物は、聖霊が結びつき、聖霊の実による交わりの出来事なのだと再認識しました。
私が伝道者として歩んできたこの44年間、柿ノ木坂教会、福井神明教会、大宮教会、どこに於いても、若者たちと本当に簡単な食べ物をいただきながら交わりの時を持ってきました。その中から、多くの若者たちがイエス様を信じて洗礼を受け、信仰者として育って行きました。その中から10数人が伝道者として献身して行きました。
本庄教会でも、聖霊が結びついた食卓の交わりをして行きたいと願っています。
2019年度の宣教の標語は「わたしたちは神の家族」ということです。聖霊の結びついた食卓の原点は主の聖餐でありますが、日々の食卓でも聖霊が結びついていることを自覚して聖霊の実があふれる神の家族を現して行きたいと願い、祈っています。
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*講壇のお花(#60)*
2019年6月30日聖書
ローマの信徒への手紙12章1-2節が掲載されていました。
*講壇のお花(#59)*
2019年6月23日聖書
使徒言行録4章10-12節が掲載されていました。
*講壇のお花(#58)*
2019年6月16日聖書
使徒言行録3章6-8節が掲載されていました。
*講壇のお花(#57)*
2019年6月9日聖書
使徒言行録2章38-39節が掲載されていました。
*講壇のお花(#56)*
2019年6月2日聖書
マルコによる福音書3章33-35節が掲載されていました。
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5月は月末に、関東教区総会があり、発行が第2週となりました。
いよいよ本格的な暑さと、梅雨の時季が始まります。
みなさんの健康が守られますように。
在 主