主題:
『イエス様の教会を建て上げるために(1)』
説教:
『霊によって新たに生まれた者』
2020年6月28日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:エゼキエル書37章9節、
ヨハネによる福音書3章1-8節

本庄市見福にあるプロテスタント教会です
説教:
『霊によって新たに生まれた者』
2020年6月28日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:エゼキエル書37章9節、
ヨハネによる福音書3章1-8節

今、こうして教会堂に集まって礼拝を献げて、もう4回目になろうとしています。更に会堂での礼拝がずっと続くと、この前の2ヶ月間、家庭で礼拝を献げていたことが、忘れ去られてしまうのではないかと思うのです。
しかし、皆さんのお手元にある「マラナタ」6月号を見ると、4月12日のイースターから5月31日のペンテコステまでの8回の日曜日、ライブ中継を通して家庭で礼拝を献げられた皆さんの思いが記録されています。最後の頁には、ライブ中継中の礼拝堂の様子の写真も載っています。本当に礼拝堂がガランとしていますね。
そうした中で、司会者、説教者、奏楽者やヒムプレーヤ―の担当者たちは、画面を通して礼拝を献げる各家庭の皆さんを想起しながら語ったり、伴奏したりしなければなりませんでした。
こうして、皆さんのお顔を拝見しながら語ったり、賛美したりするのと違って本当に緊張しました。できるだけ画面を通して皆さんに顔を向けて語ることが出来るようにと、パソコンのカメラの方を向いて語る
のに苦心しました。
コロナウイルス感染対策として、密集・密接・密閉を配慮したライブ中継でしたが、この期間を通し、たとえ離れていても〝イエス様を通してつながっている神の家族であること〟また〝「みなさん」と呼び合うことのできる神の家族であること〟を実感させられたことは、皆さんの共通認識かと思われます。
このコロナウイルス危機を通して改めて認識した、神の家族としての実感を、私たちの信仰生活のいろいろな面でも更に共有できる教会を建て上げて行きたいと願い、祈ります。
*
前回、私は、「イエス様の教会を建てる」と言うことに視点を合わせて御言葉を取り次ぎたいとお話ししました。
イエス様は、弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたことに対して、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。するとイエス様は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われたのです。(マタイによる福音書16:13~19)
私は、伝道者として教会に遣わされて以来、ずっと教会に教師(牧師・伝道師)として仕えるとはどんなことなのか、何を目指して行けばよいのかと神様に問い続けつつ歩んで来ました。
教会担任教師になると、教会の信徒の皆さんと共に歩まねばなりません。教会の教師にとって、一番大変なのは、信徒の皆さんと人間関係を、どのようにして共に歩むかということです。教会も人の集まりですから、そこに起きる人間関係のトラブルは世間と全く変わりません。信仰者の集まりだから、何の問題もないかのように思われますが、全く変わらないのです。
私も勝子牧師も、伝道者として応えるために神学校に行っていた頃は、自殺予防を目指しての「東京いのちの電話」が設立された頃でした。私たちは、電話カウンセラーとしてのカウンセリング訓練を2年間受けました。私は第2期生、勝子牧師は第3期生です。東京で5~6年電話カウンセラーとして担当しました。それから福井市の福井神明教会に遣わされました。この電話カウンセラーの訓練と電話カウンセリングの経験が、教会担任教師となってから、大変役に立ちました。今は、牧会カウンセリングと言って、教師や信徒たちと一緒に学ぶカウンセリング講座も開催されています。
教会においては、イエス・キリストを信じる者として人間関係をどう生きるかと言うことになります。その人間関係の現れ方を通して、いろいろな形の教会が現れるのです。
どうしたらキリストの体としての教会を建て上げることが出来るのか、これが、ずっと私の課題であり祈りであります。教会論についてのいろんな本も勉強しました。
ある時、ハッと示されたことがありました。今から20年ほど前です。マタイによる福音書16章13~19節の、ペトロの信仰告白に対して、イエス様の言われた言葉であります。イエス様は、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われています。イエス様が、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われている〝わたしの教会を建てる〟という御言葉にハッとしたのです。
今まで、私は自分として、キリストの体としての教会を建てるために一生懸命に学び、一生懸命祈り努めて来たと思っていたのです。しかし、イエス様は、「わたしは・・・・わたしの教会を建てる」と言われているのです。イエス様の教会を建てるのは、イエス様御自身なのです。牧師が教会を建てるのではないのです。役員や長老が教会を建てるのではないのです。人が教会を建てるのではなく、イエス様御自身が教会を建てると言われているのです。
このことに気づいてから、教会の捉え方、見方が変わって来ました。
〝この教会は、イエス様が建てられる、イエス様の教会となっているかな〟と見るようになったのです。そして〝イエス様の教会〟となっていないなら、何が妨げているのかな。〝イエス様の教会〟となることを妨げているのは、牧師かな、役員・長老かな、信徒の誰かなのかな、それとも伝統なのかな、などと見るようになりました。
それで、いろいろな教会に招かれたりして、何か話してくださいと言われると、〝イエス様は、「わたしの教会を建てる」と言われています。イエス様が建てられるイエス様の教会になっているかよく自己吟味してくださいね〟と言っているのです。
これから、イエス様の教会となるために、いろいろと教会の姿の断片を語ったりしますが、本庄教会のことを言っているのではありません。もちろん、本庄教会も〝イエス様の教会となる〟ことを願って語っていますから、指摘が当たっているところがあったら、互いに改善して、〝イエス様の教会〟により近づいて行きたいと願います。
*
イエス様が建てられる教会と言う「教会」は、ギリシア語で「エクレシア」と言い、「信徒の群れ」を意味します。教会は信徒の群れなのです。どのようにして信徒を建て上げると、「わたしの教会」と言われるイエス様の教会になるのかということです。そこでイエス様が建て上げに用いられる「信徒」とは、どんな人なのかを、今日の御言葉から学びたいと思います。
ユダヤのファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員であるニコデモが、ある夜、イエス様を訪ねて来た時の対話が今日の出来事です。
最初に、ニコデモと言う人は、どんな人だったのかについて話します。
(1)ファリサイ派に属する人です。
ファリサイ派の信者と言うと、聖書には批判的に書かれていますので、悪い人間で偽善者と思われがちです。実は、当時のイスラエルにおいて、ファリサイ派の人は、ユダヤ教の中で正統的な信仰を持っており、旧約聖書の権威を信じて、実践している立派な人たちというのが一般的イメージでした。当時、6千人ほどいて、その多くは人々から尊敬を受けていたそうです。ニコデモは、そのようなファリサイ派に属していたのです。
(2)ユダヤ人の議員でありました。
ユダヤ人議会と言うのは、ユダヤ人の政治的議会だけでなく、ユダヤ教の最高の議会でもありました。全国から選ばれた、70人の祭司、長老、学者から成る最高議決機関でした。「サンヘドリン」(70人議会)と呼ばれていました。ニコデモは、ユダヤ人議会の議員で有力な指導者の一人であったのです。
(3)ギリシアの教育を受けた人でした。
ニコデモと言う名はギリシア式の名前で、「民の征服者」と言う意味です。当時、ユダヤ人でありながら、このようなギリシア名を持つ人は、上流階級で、ギリシアの教育を受けていた人でした。
このように、ニコデモは、当時、ファリサイ派の人として尊敬を受け、ユダヤ人議会の有力な人で、ギリシアの教育を受けた上流階級の人で、ユダヤ教の熱心な指導者でありました。
このニコデモが、「ある夜」イエス様を訪ねて来たのです。なぜ、ニコデモは、夜に訪ねて来たのでしょうか。ニコデモは、ユダヤ人の指導者として年配者だったと思われます。一方、イエス様は30歳でメシアとしての公の生涯を歩みだされましたから、年若いのです。
ユダヤ人の有力な指導者である年配のニコデモは、まだ年若い、当時のユダヤ教では受け入れられていないイエス様のもとへ人目を避けて、夜、訪ねて来たのです。
しかも、年配のニコデモは、年若いイエス様に対して「ラビ」(先生)と呼びかけています。ここにニコデモの強い求道心があったとも言えます。
ニコデモは、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言っています。ニコデモは、イエス様のなされたしるし・奇跡を見て、神様が共におられると受け止めて、イエス様にお会いしたかったのです。
イエス様は答えて言われました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
この「はっきり言っておく」は、原語では「アーメン」なのです。イエス様が真実にかけて約束される時は、アーメンと最初に言われるのです。口語訳では「よくよくあなたに言っておく」、新共同訳の新しい訳では「よくよく言っておく」と訳されています。
「新しく生まれる」の「新しい」とは、〝上から〟〝天から〟という意味でもあるのです。これは、神様によって生まれる誕生を意味します。ですから、“神によって生まれなければ、神の国を見ることはできない”となるのです。
しかし、ニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えています。イエス様は、神様のこと、霊的な話をされたのに、ニコデモは、霊的なことを全く理解できませんでした。「生まれる」と聞くと、赤ちゃんとして生まれて来る肉体の誕生を考え、人間的な肉的な視点からしか聞くことが出来ませんでした。
イエス様は更に言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と。
「水と霊によって生まれる」の「水」はバプテスマの水を指し、「霊」は聖霊のバプテスマを指すと考えて良いのです。すなわち、聖霊によって「イエス様は救い主」と告白し、罪を洗い清めるバプテスマを受けて聖霊の支配に与ることによって、神の国に入るということなのです。
皆さんが、イエス・キリストを信じて洗礼を受けたあの時のことなのです。
「神の国を見る」「神の国に入る」と言う「神の国」は、3章16節に言われている「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言われている「永遠の命を得る」と同じことを意味しています。
イエス様は、水と霊の洗礼を受けて霊的に生まれ変わる者が神の国に入る、即ち永遠の命を得ることになると言われたのです。
イエス様は「風は思いのままに吹く」と言って、霊によって新しく生まれることを風の動きにたとえて説明しています。
「風」はギリシア語で「プニューマ」と言いますが、「霊」の意味も持ちます。
風が吹いても、見えないのでどこから来て、どこに行くのか分かりません。だだ、風が吹いて来た結果、現象として音が聞こえ、煙や雲をたなびかせるのを見ることができます。それと同じように、神の霊によって生まれる時も、人間の目で霊の働きを直接見ることはできませんが、霊がその人を生まれさせて下さると、キリストを信じて生きるその人の生き方が変わるので、誰の目にもよくわかるのです。結果として分かるということです。
以上から分かるように、イエス様がイエス様の教会として建てるために用いられる信徒は、水と霊によって生まれた人、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた信徒なのです。
当時、世間ではファリサイ派の人として尊敬を受け、ユダヤ人議会の有力な人で、ギリシアの教育を受けた上流階級で、ユダヤ教の熱心な指導者であったニコデモが、霊的な誕生を理解できなかったように、霊的なことが理解できない人がいるのです。
イエス様は、この世でどんなに評価を受けているかどうかで用いられるのではないのです。新しく、水と霊によって生まれて、神の国に入ることのできた人々を用いられるのです。
このように言うと、皆さんは、「私は新しく生まれているのだろうか」と不安になるかと思います。ご安心ください。イエス様は次のように言われています。
ヨハネ福音書1章12~13節、
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
「言」は、御子イエス様のことです。「資格」は、特権、権能とかにも訳されています。
御子イエス様は、御自分を受け入れ、「イエス様は神の子・キリストである」と信じてバプテスマを受けた人々に、神の子となる資格(特権、権能)を与えられるのです。キリストを信じる人々は、神様が生まれ変わらせて下さったのであって、決して人間の血のつながりや身分や地位によってではなく、人間の願望や意志によるのでもありません。ただ神様が御心によって生まれ変わらせて下さるのです。
イエス様が御自分の教会を建てるために用いられる人とは、イエス・キリストを信じて新しく霊的に生まれた信徒たちなのです。キリストを信じて、神様の御言葉を聞いて、神様と共に歩もうと礼拝を献げている皆さんを、イエス様は用いて下さっているのです。そのことを信じて感謝いたしましょう。
*
父なる神様、
会堂で共に集まって礼拝を献げることを再開して、4回目の礼拝を守ることができて心より感謝いたします。ライブ礼拝によって献げられた家庭礼拝を通して、キリストに結び付いた神の家族であることを実感できたことを感謝いたします。
今日は、教会は人が建てるのではなく、イエス様が御自身の教会を建てられることを、改めて御言葉から聞きました。そして、イエス様が教会を建てるのに用いられる人々は、新しく水と霊によって生まれて、神の国に入れられた人たちであることも確認しました。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けている私たちは、神の子としての資格が与えられ、あなたの御体である教会を建て上げるのに用いられていることを感謝いたします。
どうか、私たちが用いられて、本庄教会がイエス様の教会として建て上げられ、キリストの恵みをこの町の人々に証しできますように、聖霊の御助けをお願いいたします。
コロナウイルスの感染は、まだまだ拡大しています。世界中の人々が、感染で病んで苦しんでいます。多くの方々が亡くなっています。医療の最前線にある方々の働きを支えて下さい。第二次、第三次感染が来ると心配されていますが、良い薬が一日も早く開発されて、人々が助けられ、コロナウイルスが終息しますように、神様の憐れみと御助けをお願いいたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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*講壇のお花(#110)

2020年7月26日の聖書から
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(聖書:ヨハネによる福音書)
3章16-17節
*講壇のお花(#109)

2020年7月19日の聖書から
「『あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう…』」
(聖書:マタイによる福音書)
5章13節
*講壇のお花(#108)

2020年7月12日の聖書から
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
(聖書:マタイによる福音書)
4章4節
*講壇のお花(#107)

2020年7月5日の聖書から
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
(聖書:ヨハネによる福音書)
3章14-15節

*
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2020年5月31日ペンテコステ礼拝より
(ライブ中継による)
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:詩編71編14-24節、
使徒言行録2章1-13節

「皆様、ペンテコステおめでとうございます!」新型コロナウィルス感染の緊急事態宣言は解かれましたが、依然として感染予防の為に、換気や密集を避けるといった注意を要する状況が続いています。本庄教会では大事をとって、6月7日から会堂での礼拝を再開することになりました。本当でしたら、教会にとって大切なこの聖霊降臨日礼拝・ペンテコステ礼拝から再開できればよかったのですが、このように離れていても、ネット配信のパソコン等の画面を通じて、また受話器を通じて礼拝で共に主に賛美をささげ、祈りをささげ、御言葉に共に聴く主の日が与えられていることに感謝したいと思います。
クリスマスには「主の御降誕をおめでとうございます!」と言って、わたしたちの救い主であられるイエス様がお生まれになった日をお祝いします。また、イースターには「主のご復活をおめでとうございます!」と十字架で命をお献げなさったイエス様が、3日目に復活されたことをお祝いします。そして、この聖霊降臨日(ペンテコステ)には、「おめでとうございます!」と言って、天に昇られたイエス様のもとから、天から聖霊が私たち主イエス・キリストを信じる者に降って聖霊なる神様の力が与えられたことをお祝いするのです。この出来事は、「教会の誕生日」とも言われているは、聖霊なる神様こそが、教会にとって命であり、私たちに主イエス・キリストを信じ、また神様に祈り・賛美をささげ・礼拝する力を授けてくださる御方だからです。
先週の主日礼拝では、疋田國磨呂牧師の説教によって、イエス様が天に昇られた、昇天の出来事を通じて、私たちは共に御言葉を頂きました。主イエス・キリストが天に昇られたのは、私たちのために天に住む場所を用意し、私たちを天国に迎え入れるための備えをしてくださるためであったこと、そしてもう一つが、天から私たちに聖霊を送るために天に昇られたのだということを示されました。
本日の使徒言行録2章1節以降の箇所では、イエス様が約束なさった通り、弟子たちに聖霊なる神様が降ってこられました。この聖霊降臨の出来事を通じて、共に主の御言葉を聴いていきましょう。
*
今日の新約聖書の使徒言行録2章1節は、「五旬祭の日が来て」と始まっています。私たち、クリスチャンにとって、「五旬祭」とは、「ペンテコステ」・「聖霊が降った日」ですが、その起源はユダヤ教のお祭りにあります。
先日、水曜日に、教会員の皆様に、役員の方々と分担して、今日の為の週報をご自宅にお届けしました。私は國磨呂牧師と共に車で信徒の方々のご自宅を回ったのですが、その道中で、道路の脇に麦畑が広がっていました。國磨呂牧師は、実家が造園業と農業を兼業しているので、農業についても詳しいようで、春麦はこれからが刈り入れ時で、二毛作をしている農家は、麦を刈り入れた後で、水を張って水田にして田植えをしていくと話していたのがとても印象的でした。
毎年お伝えしているかもしれませんが、「ペンテコステ」というのはギリシャ語で「50日目」という意味なのです。それは過越祭から数えて50日目とのことですが、過越祭の週の安息日の翌日には、大麦の初穂を主の祭壇に献げたようです。そして、それから7週間後、7×7=49日間です。そして50日目には、小麦の収穫を主なる神様に感謝して、パンを焼いて、羊、牛、山羊といった家畜と一緒に神様の御前にささげる「刈り入れの祭り」が祝われたのです。「7週の祭り」(ペンテコステの祭り)とも呼ばれていたのです。しかし、後代になってから、この五旬祭というのが、シナイ山でモーセが十戒の掟を授けられたことを記念する日としても、ユダヤ教で理解されるようになり、大切な意味が与えられていったようです。
*
さて、私たちクリスチャンにとっては、このペンテコステ(50日目)というのは、私たちの救い主であられるイエス様との関わりの中でその出来事の恵みが示されます。この50日目(ペンテコステ)とは、イエス・キリストが十字架で命をお献げくださってから数えて、50日目に聖霊が与えられたということになります。ヨハネ福音書では、ご自身を地に落ちた一粒の麦に譬えて、主が十字架で遂げられる死を通じて、多くの者が主を信じて罪を赦されて永遠の命に与り、信仰の実が豊かに実ることをお示しになっています。
先の復活節には、十字架の死から三日目に復活されたイエス様が、弟子たちの前に、そして弟子の一人であったトマスの前にも現れて下さった出来事をヨハネ福音書から共に聴きましたが、その時は、当時の宗教指導者からの迫害を逃れるために、弟子たちが家の扉に鍵をかけて、恐怖の中でひっそりと集まっていた様子が語られていたと思います。しかし、今日の使徒言行録2章冒頭で語られている弟子たちの集いというのは、状況が全く異なっています。
そこでは、120人を超えるイエス様の弟子たちが「一つになって集まっていた」と言われています。これは「思いを一つにしていた」と訳すこともできます。そして、集まっていた場所というのは、使徒言行録1章では宿泊していたおそらくペトロの家に集まって祈っていました。その様子が1章の14節に書かれていて、イエス様に従う兄弟姉妹たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。彼らは、熱心に心を合わせて祈りながら、イエス様が送ってくださると約束した聖霊が来ることを待っていたのです。しかしながら、ここでは5節以降にエルサレム神殿を訪れてきた人々が入ってくることとの繋がりで理解するのであれば、民家ではなくて、エルサレム神殿で、彼らは祈りを合わせていたことになります。
2節の聖霊降臨の箇所では激しい風の音が「家中に響いた」とありますが、これは神の家である神殿のことを語っているのです。使徒言行録5章12節にも、弟子たち「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」とあります。ソロモンの回廊とは、エルサレム神殿の異邦人の庭の東側にあった柱廊で大勢が集まるスペースがあったようです。
さて、聖霊を送って下さるというイエス様の約束については、ヨハネ福音書14章16節と26節の言葉が有名です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」 使徒言行録1章4節にも約束されています。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」また、同じくルカによる福音書11章では、イエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えられた時に、その流れの中で、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9節)と言われた後に、13節後半で「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と既に、約束されていたのでした。そこで、弟子たちは、エルサレムの都にとどまり。約束された聖霊を祈り求めていたのです。
すると、イエス様の十字架の恵みとして復活から数えて50日目に、イエス様の約束の言葉を信じ、聖霊なる神様の助けを祈り求める群れの上に、主は激しい風の音と、そして炎の舌を伴って、一同全員に、聖霊が満たされたのでした。本日は、國磨呂牧師も、私も、勝子牧師もそうですが、胸には炎の舌の模様が描かれたバッジを付けています。本庄教会では、ペンテコステにはこの聖霊降臨を象徴するバッジを胸に付けて、主が聖霊を送ってくださったことの恵みを覚えています。バッジの模様は、本当によくできていて、炎の舌が表現されています。なぜ、風と炎なのかという事については色々な解釈がありますが、新約聖書が書かれた言語であるギリシャ語では、聖霊は「プネウマ」となっていて、「風」と同義語の言葉なのです。また火ということについては、福音書で洗礼者ヨハネがイエス様は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と伝えていたのです。私たちを救うために、自らの御子を十字架に遣わすこともいとわない、燃えるような神様の意志と愛を表すといってもよいかもしれません。いずれにしても、神様ははっきりと弟子たち自身が分かる形で、彼らに聖霊なる神様の助けと力が注がれたことをお示しになったのです。
さて、聖霊が降った弟子たちには何が起こったのでしょうか。彼らは、「国々の言葉で話しだした。」とあります。そして、当時、先ほど紹介した五旬節の祭りで、主に収穫の感謝のために、地中海沿岸の様々な国から集まっていたユダヤ人たちも、風の音を聞いて、何が起こったのかを確かめに、イエス様の弟子たちのもとへと集まってきたのです。そこで、主の弟子たちが聖霊を注がれて、彼らの母国語で主の御言葉が語られているのを目の当たりにするのでした。パルティア、メディアに始まって、ローマに至るまで、地中海沿岸の諸国から遠く、東西南北、至る所から人々が集まっていた様子が語られています。当時はまだキリスト者やクリスチャンという呼び名もなく、イエス様の弟子たちは、イエス様を教師としてあがめるユダヤ教の分派だと思われていました。確かに、ユダヤ人の中から、最初のキリスト者たちが生まれ、そして教会が建てられていったのです。しかし、地中海沿岸で生活するようになったユダヤ人には、アラム語を話すユダヤ人もいれば、ヘブライ語やアラム語を話せない人々もいたのです。新約聖書が旧約聖書と同じヘブライ語で書かれたのではなくて、当時の文化では公用語であったギリシャ語で記されたのも、多くの人々に主イエス・キリストの福音を伝えるためであったと言えます。国の数だけ、言語の種類や方言もあったと思いますが、聖霊が弟子たちに降った時、彼らは言葉の壁を乗り越えて、イスラエル・パレスチナの地域を超えて、全世界へと語りだしたのです。今日の箇所では、まずはユダヤ人の人々に向けてですが、この後に異邦人に向けて、ペトロが、そしてパウロがイエス・キリストを伝えていくことになります。そして、全世界への宣教の働きがなされて、日本にもイエス・キリストの福音が伝えられました。この世界への宣教の業が、先取りされて、今日の箇所でも語り伝えられているのです。
*
イエス様が聖霊を送る約束をされた時、その聖霊なる神様が弟子たちにどのような働きをなさるかについても、あわせて話しておられました。使徒言行録1章8節で、主はこう弟子たちに約束されています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」これと同じように、ルカによる福音書24章の45節以降にもこうあります。
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカによる福音書24:45-49)
聖霊は、様々な困難や壁を乗り越えて、イエス・キリストの救いの恵みを証しする者へと私たちを変えてくださるのです。後にイエス・キリストを信じて宣べ伝える者へと変えられたパウロも、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリントの信徒への手紙一12:3)と言っているように、聖霊なる神様は私たちと主イエス・キリストとを深く結び合わせ、そして主の十字架と復活をが、私を救う恵みでることを身近に感じ、生きる喜びであり望みであることを心に深く示してくださるのです。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネによる福音書14:26)と主が約束してくださっています。
イエス様の十字架と復活の恵みが私たちにとって身近なものとなることは、私たちにとってだけではなくて、私たちが主の証し人とされることによって、私たちの周りの人々にも救いの恵みとしての輝きを放つことになるのです。聖霊に満たされて、様々な国の言葉で主の救いの恵みを語った弟子たちに対して、中には「新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける人々もいたのですが、もう一方では彼らが語っている言葉に驚き、そして聞き入った人々もいたのです。11節で「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」と語っていた人々です。「人々は驚き怪しんで言った。」とありますが、これは必ずしも否定的にとる必要はありません。彼らは、自分たちの理解を超えた奇跡に出会って、驚いているのです。
ここで注目したいのは、聖霊を受けた弟子たちが、「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」と、周りの人々も受け取ったことです。彼らにとって身近な言語で主イエス・キリストの恵みを聞いたのでした。しかも「神の偉大な業を語っている」と言っているのです。まだイエス様の弟子とされていない人々も、神様の救いの業がここに起こっていることを感じ取ったのです。「偉大な」というのは、証し者の話し方や言葉が優れていたというのではないのです。むしろ、彼らの背後に彼らを支え生かしてくださっている偉大な神様が共におられることを感じ取ったのでした。聖霊なる神様は、主イエス・キリストの恵みと私たちを結びつけてくださるだけではなくて、私たちキリスト者と周りに共に生きている人々との心も結んでくださるのです。
*
主イエス・キリストを証しすると言うと、人によっては何か難しく考えてしまう方もいるかもしれません。本庄教会でも、受難週祈祷会には信徒の方々に証ししていただいたり、また以前書かれた証し集を読ませていただいたこともあります。しかし、私たちに寄り添って、私たちを助け、生かしてくださる、主なる神様の恵みを感じて生きる時には、その証しは私たちの日常においても、既に起こっているのです。
先週の木曜日の教団の聖書日課では、ローマの信徒への手紙8章1節以降が読まれました。そこには14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」とあり、聖霊が私たちを神の子供たちとし、「アッバ父よ」と天の父なる神様に祈る力が与えられていることが言われていました。本日読まれた詩編71編にも、そのように神の子供たち、ここでは神の民として、主の助けを祈り求めて、主により頼んで生きる者の歩みが語られています。71編1節~3節は読みませんでしたが、この詩編の歌い手が主なる神様の御手に助けを求めることから始まっているのです。
「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。」
そして本日の18節では「神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。」そして20節~22節で「あなたは多くの災いと苦しみをわたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から、再び引き上げてくださるでしょう。ひるがえって、わたしを力づけ、すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。わたしもまた、わたしの神よ、琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。」と神様に祈り願っているのです。
詩編71編を通じて示されることは、主に結ばれた者は、様々な困難や、健康や精神的な弱さの中にあって、その弱い私たちが身を寄せる時に助けて下さる主を証ししているのです。主に助けていただいて、そして主に私たちの弱さを受け止め、支えていただくときにこそ、私たちの信仰の歩みを通じて、主の恵みが私たちの生活を通じて、周りの人に伝わっていくのです。
これは「イエス様に助けを求めましょう!救って頂きましょう!」と人々に伝えることでもあります。そして、主の助けと救いの恵みが与えられる教会へとお連れすることでもあります。國磨呂牧師も、勝子牧師も説教の中で度々お伝えしていると思いますが、日曜日、教会に友人家族をお連れすることも、主が私たちを通じてなさる偉大な御業なのです。
ヨハネ福音書16章で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている」(33節)と言われたイエス様から送られた聖霊なる神様が私たちと共におられ、私たちを神の子、また神の家族として主の平安のもとにおいてくださっています。私たちの日々を歩みに聖霊なる神様が生きて働いてくださっていることを信じ、今週も歩ませて頂きましょう。
*
父なる神様、新型コロナウイルスの感染からお互いの命を守る中にも、自分たちの家庭で、ペンテコステを覚えての礼拝を献げることのできることを感謝いたします。
この日聖霊がキリストを信じる者たちの上に降り、神の偉大な救いの御業を各国の言葉で世界中の人々に弟子たちが語り始め、教会の誕生日と言われています。
そして二千年後、今日、日本の私たちも聖霊を受けてキリストの偉大な救いの恵みを語り、証できることを感謝いたします。聖霊なる神様が生きて働いて、私たちをもあなたの御業のためにお用い下さい。どうか、家族や友人たちを教会に連れてくることができるように力とお導きを下さい。
神様、世界中の人々を憐れんでください。新型コロナウイルスの感染が一日も早く終息できるようにお助け下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
**


2020年5月24日礼拝より
(ライブ中継による)
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:イザヤ書66章1-2節、
ヨハネによる福音書1章6-11節

「皆さん、おはようございます。」 挨拶ができて、共に礼拝を献げることのできることは、神様のお恵みです。感謝します。
4月7日に緊急事態宣言が出されて、新型コロナウイルスの感染対策として1ヶ月の行動自粛が要請され、更に緊急事態宣言が5月末まで延長されました。
私たちキリスト教会も、神様から与えられた命を互いに守るために、教会堂に集まって礼拝することを自粛する中で、各教会は、主日の礼拝をどのように守り、献げるかが問われ、主日の礼拝のためにいろいろな工夫が取られています。
今まで、教会堂に集まって礼拝を献げ、互いに交わることが当たり前と思われていたことができなくなってしまったのです。感染を広げないために「スティホーム」と言われて、人々ができるだけ家に留まることが求められ、密集、密接、密封という三密をしないようにと要請されています。
そのために、私たち本庄教会も、教会堂に集まらないことにしました。幸いにしてインターネットを通して牧師たちが礼拝堂で献げる礼拝をライブ中継ができて、各家庭で一緒に礼拝を守ることができています。パソコンやスマートフォンを通して映像を共にしながら礼拝を献げるのですが、パソコンやスマートフォンのない方々もおられます。それで、電話で音声だけの中継で礼拝を守っておられる方が3名おられます。しかし、パソコンも電話もできない方が2人おられます。その方々には週明けに、録画したCDや説教原稿を届けたりしています。各家庭で心を合わせて礼拝が献げられるようにと牧師と信徒有志で水曜日から木曜日にかけて週報をお届けしています。
新型コロナウイルスは、私たちが、今まで当たり前だと思い、それが基本だと思っていた教会堂に集まっての礼拝や交わりができなくしてしまっています。しかし、そうした中で、キリスト教会はどのように礼拝を献げ、神の家族としての信仰と交わりを共にしていくかが問われています。
5月15日の新聞で、イタリアの作家、パオロ・ジョルダーノの言葉が紹介されていました。「パンデミック(感染症の世界的流行)が僕らの文明をレントゲンにかけているところだ。数々の真実が浮かび上がりつつあるが、そのいずれも流行の終りと共に消えてなくなることだろう。もしも、僕らが今すぐそれを記憶に留めぬ限りは。」
この新型コロナウイルス感染の流行を通して、私たちキリストの体としての教会もレントゲンにかけられているのです。どんなことが写し出され、見えて来たでしょうか。教会の在り方がいろいろと問われて来たと思われます。示されたことをしっかりと記憶に留めて、キリストの体が成るために、各自が示された課題を分ち合い負い合って行きたいと願います。
*
(1)イエス・キリストに結ばれて生きる神の家族
コロナウイルス感染の対策として、人と人との間に距離を置くように言われています。人と人との間に距離を置くことによって、人と人との心が離れるのではないかとの恐れがあります。
そうした恐れの中にも、私たちには聖書日課を通して神様の御言葉を聞く幸いを与えられています。今、「ローマの信徒への手紙」を通して御言葉に聞いています。昨日は、6章1~14節の御言葉でした。3節「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けたわたしたちが皆」、8節「わたしたちは、キリスト共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」、11節「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と言われています。
ここに「キリスト・イエスに結ばれて」と「キリストと共に」が繰り返し言われています。私たちキリスト者は、人と人との間に距離を置いたとしても、イエス・キリストに結ばれて、キリスト共に生きる者たちなのです。ですから、たとい数カ月、お互いにお会いできないとしても、イエス・キリストに結ばれて、互いにキリストと共に生きる神の家族なのです。その恵みを感謝したいと思います。
(2)復活のイエス様が40日間弟子たちに神の国について教える
このところ聖書日課は、旧約は「出エジプト記」、新約は「ローマの信徒への手紙」であったのに、5月21日は、突然、旧約は「列王記下」2:1~15、新約は「ヘブライ人への手紙」9:11~15になりました。それは、その日が「キリストの昇天日」だったのです。キリストが天に昇られてから10日後に、ペンテコステの聖霊降臨日になるのです。ですから、5月21日の10日後、5月31日の日曜日は、ペンテコステの聖霊降臨日の礼拝であります。
今日、共に聞く「使徒言行録」は、復活後のイエス様が弟子たちに大事な2つのことを示された様子が描かれています。
3節「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」と記されています。イエス様は十字架の苦しみを受けて死なれた後、復活されて、40日間、弟子たちに現れて、神の国について教えられたということです。
①大事なことの第1は、復活されたイエス様は、40日間、弟子たちに神の国について教えられたことです。
4~5節「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」とあります。
復活されたイエス様は、弟子たちと食事を共にしておられたのです。そして、言われたことは、エルサレムを離れないで、父の約束されたものを待ちなさいと命じられたのです。父の約束されたものとは、聖霊によるバプテスマを授けられることです。
➁大事なことの第2は、主の弟子たちは、父である神様が約束された聖霊を授けられることを待つことです。
このイエス様の教えを受けた弟子たちは、6節に、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねています。この問いは、弟子たちが、依然として、旧約聖書におけるイスラエル民族の独立による神の国の地上的実現を考えていたことを示しています。即ち、メシアが来ると、当時の支配者であったローマ帝国をイスラエルが打ち破って勝利し、神の国が実現すると言うようにユダヤ人たちは考えていたのです。
弟子たちもそのように考え、イエス・キリストの十字架の贖いと復活によって、全世界の人々に開かれた神の国の福音であることを十分に理解していなかったのです。
7節に、イエス様は言われました。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」
そして更に8節で言われています。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
ここでイエス様が言われていることは、父なる神様が神の国についてお定めになった時や時期は、私たち人間には知る余地がないということです。
そして、イエス様が40日にわたって教えられた神の国の福音は、弟子たちが父の約束された聖霊を受けると、エルサレムから始まって、全世界の地の果てまでイエス様の証人となって宣べ伝えることができるようになるということです。
(3)イエス・キリストの昇天
イエス様が、このことを弟子たちに話し終わると、
9節「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」のです。これがイエス様の昇天の様子なのです。弟子たちが天に上げられるイエス様を見ていると、白い服を着た二人の人(天使)が来て言いました。
11節「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
これは、イエス様が再び来られる再臨のことを言っています。
*
(1)神の国の福音は、聖霊を受けてこそ世界に証しされ伝えられることです。
なぜ、イエス様は弟子たちに「父の約束を待ちなさい」と言われたのでしょうか。
もう25年も前になりますが、大宮教会と韓国のソウルにある忘憂(マンウ)教会と3年間相互訪問の交流をしました。その時、韓国の信徒たちの熱い祈りや積極的な伝道活動の様子に驚き、そこの主任牧師の李聖實(イ ソンシル)牧師に聞きました。「どうして韓国の教会の信徒たちは、こんなに熱心に喜んで伝道活動ができるのですか」と。すると李牧師はこう答えられました。「日本の信徒の皆様は、実に聖書をよく学び、聖書の知識を沢山持っています。ですが、それを生活の中に生かし現わし得ないのです。そのためには、聖霊を受けて心が熱くならなければなりません。聖霊様が御言葉を生活の中に生かしてくださるのです。」そこで私は、「どうしたら聖霊を受けることができるのでしょうか」と聞きました。そしたら、李牧師は、答えられました。「聖霊は、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた信徒たち皆に既に注がれているのです。その聖霊様のご臨在を信じ、聖霊様がいつも働いて下さっていることを信じることです。」
私は、ハッとしました。私自身が、どれだけ聖霊のご臨在を身近に感じて生活してきただろうかと深く反省させられました。また、李牧師は、聖霊のことを「聖霊様」「聖霊様」と親しく呼んでおられることにも心にいたく感じました。
聖書の神様は、父・子・聖霊としての三位一体の神様です。教団の多くの信徒たちは「神様」「イエス様」とお呼びしているのに聖霊だけは「聖霊」と呼んでいることに気づきました。
私は、帰国してから、大宮教会の皆さんに、聖霊は、三位一体の神様ですから、「聖霊なる神様」、または「聖霊様」と呼んで、イエス様に対するように聖霊を身近に感じるようにしましょうと呼びかけて来ました。それが具体的になったのが、聖霊様の導きの下に、毎日、聖書日課を通して神様や主イエス様の御言葉を聞くと言う、ディボーションなのです。
聖霊なる神様は、イエス様が天に上られた後、御自分に変わっての弁護者・助け主として父なる神様が送られた方なのです。私たちは、その聖霊様の助けなくしては、神の国の福音を証し、伝えることはできないのです。信仰生活において聖霊様の御臨在と御助けを第一に思わなければなりません。このために、ペンテコステの聖霊降臨の出来事が必要だったのです。
(2)復活のイエス様の昇天の意味
イエス様が死人の中から復活されたという出来事は、イエス様はもはや地上の肉の体ではなく、天的に栄化された霊の体を持っておられ、永遠の命の世界に属しておられることを意味しています。
昇天とは、ただ空間的にイエス様が天の上空に上げられて行くということではなく、正にキリストの勝利そのものの現われであり、神様の救いのご計画の完成を表わすものなのです。イザヤ書66章1~2節の御言葉の預言が実現し完成したのです。
そのことをイエス様が分かりやすく言われているところがあります。
「ヨハネによる福音書」14章1~4節です。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
イエス様は、私たちが父なる神様のところにイエス様と共に永遠に生きるために、場所を用意するために天に昇られたのです。
「ヨハネによる福音書」は、もう一つ、復活のイエス様が昇天される意味を語っています。
ヨハネによる福音書14章16~17節
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」
ヨハネによる福音書16章7節
「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
このように、イエス様が天に昇られたのは、私たちのために聖霊様を弁護者・助け主として送った下さるためだったのです。
以上のように、イエス様の昇天の意味は、私たちのために永遠の命に生きる場所を準備するためでした。また、イエス様が召天されたから、別の弁護者としての聖霊様が送られてきて永遠に一緒にいて下さるようになったのです。
*
父なる神様、共に礼拝を献げることのできることを心より感謝いたします。新型コロナウイルスのパンデミックは、私たちの在り方をレントゲンするものだとの言葉に考えさせられる中にも、実は、あなたは、私たちのすべてをいつもお見通しであることの自覚が薄かったことを思い深くお詫びします。
今日はイエス様の昇天の意味を、御言葉を通して教えられ、確認させられました。聖霊なる神様の助けを受けることなくしては、私たちは神の国の福音を証し伝えることができないことを改めて認識しました。既に、聖霊様が私たちの内に宿り、いつも一緒にいて下さることを豊かに味わうことのできる1週間とさせてください。イエス様が昇天して、神様の家に私たちの場所を用意して下さっていることを喜び、地上の生活をあなたの御国の福音のために献げることができるように聖霊様の助けをお与え下さい。
父なる神様、新型コロナウイルスから私たちを守って下さい。また、病んでいる方々を癒してください。この病気のために愛する者を亡くした多くの人々をお慰めください。今なお、治療の最前線に働いておられる医療関係者を守り支えて下さい。神様、地上の私たちを憐れみ、新型コロナウイルスの感染を1日も早く終息させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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礼拝をライブ中継し、家庭礼拝として守った8回の主日、イースター礼拝からペンテコステ礼拝までの記録をまとめています。
教会のあゆみの中で特記すべき事態であったと思います。再開された通常の礼拝が、今後途絶えることのないよう祈りつつ…。
在 主
※本庄教会では、6月7日(日)から会堂に集まっての礼拝を再開いたしました。
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*講壇のお花(#106)

2020年6月28日の聖書から
「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」
(聖書:ヨハネによる福音書)
3章3節
*講壇のお花(#105)

2020年6月21日の聖書から
「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った…そこでペトロは、『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか』と言った。」
(聖書:使徒言行録)
11章44、46節
*講壇のお花(#104)

2020年6月14日の聖書から
「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数は、およそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。」
(聖書:ヨハネによる福音書)
6章8-13節
*講壇のお花(#103)

2020年6月7日の聖書から
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』」
(聖書:マタイによる福音書)
16章15-18節

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2020年5月3日礼拝より
説教者:疋田勝子 牧師
聖書箇所:イザヤ書40章9-11節、
ヨハネによる福音書21章15-19節

今日、講壇の花は、アマリリスの花です。皆さんが教会で礼拝を献げておられた頃、まだ茎の芽を出し始めて10㎝程にしかなっていなかったのですが、こんなに伸びて、真っ赤な花を咲かせるようになったので、皆さんに見ていただきたくて、いつもの活花に代えてここに飾りました。
*
人間の心が本当に癒されるとは、どういうことなのでしょうか。
私たちの体が病気になれば、目に見える形で、血液のデーターに出たり、レントゲンの検査の写真に出たり、心電図に現れたりします。しかし、心の傷は、はっきりと目で見える形で現れてはきません。この苦しみは、本人でないと中々分かりませんし、また、この苦しみがあると中々先に進めません。
5月1日の朝日新聞に、ニューヨークの医師の自殺が記されていました。この方は緊急救命室の責任者として、新型コロナウイルスの治療の第一戦で全てを出し切り、疲れ果ててしまいました。PTSDと言われる
心的外傷でストレス障害と重度のうつ病になりました。また、本人もコロナウイルスに感染したそうです。49歳の女性医師であります。チェロをたしなみ、長距離走や、スノーボードが好きで、毎週教会に通う熱心なクリスチャンでした。高齢者施設でボランティアもしていました。
しかし、この女性医師は疲れ果てて、心的障害を受け、自殺してしまったのです。今、コロナウイルスによる被害は、多くの人々の心にいろいろな形で悩み苦しみを負わせています。
*
さて、これとは違いますが、今朝、与えられている御言葉によりますと、ペトロの心は重かったのです。
主イエスさまが裁判を受けている時に、ペトロはイエスさまのことを、3回も「そんな人は知らない」(マルコ14:71)と否んでしまったのは、ついこの間のことであります。激しく泣いたその涙は、まだ乾き切っていなく、心の傷は重くのしかかっていたと思われます。
主イエスさまのために「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても」(マルコ14:31)と死を覚悟で誓ったペトロでありました。主イエスさまは、既にペトロの心を察しておられたと思われます。
今朝の個所は、そういうペトロの傷がどのように癒され、そして主の働き人に変えられていくのか、その過程を記したところであります。
まず、イエスさまが弟子たちの知らない所で、彼らのために炭火をおこして、魚を焼き、パンも準備し、そして「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言って、弟子たちの空腹を満腹にさせた、その後の出来事でありました。
*
主イエスさまは、ペトロに近づき個人的に語り掛け始められました。
まず第1回の問いかけがあります。
:15)「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
まず、ここで、イエスさまは、ヨハネの子シモン! と呼びかけられたのです。何故、ここで、ペトロ! とは言われなかったのでしょうか。それは、ペトロとは「岩」という意味でありますが、そのように呼ばれるのに、ふさわしい人物になっていなかったからです。
それで、イエスさまが、かつて「あなたはペトロ」と言って下さり、また、ペトロに対してもすごい約束をして下さっていました。だからこそ、イエスさまは、ペトロに対して「この人たち以上にわたしを愛しているか」とも問われるのは無理もないことであります。
その個所は、マタイによる福音書16:15~19にあります。
:15)イエスが言われた。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
:16)シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
:17)すると、イエスはお答えになった。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
:18)わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
:19)わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐこと(罪を裁く)は、天上でもつながれる。あなたが地上で解くこと(罪を赦す)は、天上でも解かれる。」
以上、イエスさまは、ペトロにこんな重大なことまで、語っておられたのです。
また、ペトロ自身も最後の晩餐の後で、「主のために命も捨てます」とまで誓ったのです。だからこそ、イエスさまは、ペトロに個人的に「この人たち以上に、わたしを愛しているか」と、そこに一緒にいた弟子たち以上に御自身を愛しているかと問われたのです。この言葉は、第1回目だけです。
ペトロは、過去において、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」(マルコ14:29)と言ったことがあるのです。しかし、ペトロは、鶏が二度鳴く前に、三度、イエスさまを知らないと否んでしまい、主が十字架につけられた時に逃げてしまったのです。このペトロの思い上がりに対応する問いかけでもあるのです。
本来ならば、イエスさまの「この人たち以上に」の一言に対して、あの主を否んだ傷が痛み出し、「主よ、本当に申しわけありませんでした。自分は本当に弱い者で、あの時、恐ろしさの余り、ついイエスさまのことを知らないと言ってしまいました。申しわけありませんでした」と悔い改めの言葉でも出てくれば良いのではないかと思いますが、そうではありませんでした。彼は、次のように答えています。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。
さて、イエスさまを愛しているとは、具体的に一体どういうことなのでしょうか。
私たちも「愛する天のお父さま」と言ってお祈りしています。本当に神さまを愛しているのでしょうか。
愛するとは、具体的に何を意味しているのでしょうか。
イエスさまが、ペトロに求めた、「わたしを愛しているか」と問われた、この愛することの具体的内容は、「主に従う」と言うことなのです。それは、19節の最後の言葉でも分かります。:
このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
第2回目の問いであります。
:16)二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
ここで、第1回目と違うのは、第2回目にはイエスさまの問いかけに「この人たち以上に」はついていないことです。
また、ペトロの答えは、1回目も、2回目も同じであります。しかし、イエスさまの言葉は違っています。
1回目は、「わたしの小羊を飼いなさい」でしたが、2回目は、「わたしの羊の世話をしなさい」に変わっています。
3回目は、クライマックスになります。
:17)三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。
「悲しくなった」と記されていますが、これがとても大事なのです。初めて、ペトロの感情に響いたように考えられます。
2回目までは、ペトロは平然と答えていたように見受けられます。ペトロの3回目の返事は、
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
そこで、イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
3度目になると、かなり内容が変わって来ました。主イエスさまの問いかけの「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」は同じなのですが、ペトロの様子が変わって来たのです。以前、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスさまが言われた言葉を思い出して、激しく泣いたのです(マルコ14:72)。
ここで、ペトロ自身、イエスさまから三回同じ言葉で「わたしを愛しているか」と問われて、やっと気づかされていったのです。「三度」とは、忘れもしない、イエスさまを三度「知らない」と否んだ出来事に関係していたのです。
このペトロの悲しみをよみがえらせることによって、主は、癒そうとしておられるのです。
ここで、1回目、2回目には感じなかったことが、3回目に及んで、初めてペトロは悲しみを覚えたのであります。主に対して否むと言う罪を、そのまま、オブラートに包むままで、果たして、これから主の弟子として立てるのでしょうか。
確かに、鶏が鳴いた後で、ペトロはイエスさまの言葉を思い出して、自分の罪に泣いたことがありました。イエスさまは、そのペトロの否みの罪を数え上げて、責めるようなことをせず、「わたしを愛するか」の問いかけの中で、気づかせ、癒されたのではないでしょうか。
これは、少々痛いかも知れないけれど、その傷に触れて癒されたのです。この方法は、ある心療内科の医師は、これこそ「魂のリハビリ」だと言いました。例えば、足を骨折した時に、手術後、何カ月間かギブスをつけ、骨がしっかりくっついてから、リハビリをして歩けるように訓練して回復にもっていきます。そのためには、少々痛いリハビリも受けなければなりません。私たちの魂の回復のためにも、魂のリハビリが必要なのです。
ボンヘッファーの著書に『交わりの生活』と言う本があります。そこに「告白」について記されています。私たちが、もし何かの罪を犯したり、悩みがあったなら、それを信仰を共にする兄弟に告白することによって、その荷が軽くなることが記されています。それを聞いた人は、その荷物を受け取ったのですから、そのことについて共に祈り、また祈り続けていくということです。もし、兄弟に告白しなかったら、その人の心に、いつまでも、その悩みが残っているということです。
この荷を負い合うのが交わりの生活であると言うわけであります。
交わりとは、楽しく話し合うばかりではなく、兄弟の荷を負い合うことの重要さを語っているのです。
以上、主イエスさまは、今、ペトロに、あの出来事を3度にわたって思い起こさせ、3度目にやっと悲しみがこみ上げて来て、やっと癒されていった様子を見ることができました。ここを通過しない限り、スッキリした気持ちで、重要な「羊を飼う」牧会の業にたずさわることができないのではないでしょうか。
*
ペテロは、イエス様から3回言われました。
1回目、「わたしの小羊を飼いなさい」。
2回目、「わたしの羊の世話をしなさい」。
3回目、「わたしの羊を飼いなさい」。
ここでは、羊とは、イエス・キリストを信じる人のことを言っているのです。実際の羊は、羊飼いに全く依存していて、方向音痴とも言われています。
聖書の中に、迷子になった1匹の羊の話が出て来ます。羊は、羊飼いによって、餌の草場や水辺に導かれるように、全く羊飼いに依存しています。そこで、イエスさまは、御自身のことを
「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と言っています。
そして、イエスさまは「わたしの羊を飼いなさい」と言われて、羊飼いの大事な任務をペトロに委ねられたのです。
ここで大事なことは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われている羊とは、私たち信仰者のことで、信仰者は、ペトロの羊ではなく、「わたしの羊」と言われて「イエスさまの羊である」ということです。ここが最も大事な点です。教会とは、イエスさまをキリストと信じる群れのことですから、教会は主イエスさまのものであるのです。
その務めをペトロは委ねられたのです。ペトロは、過去の罪を赦されただけでなく、信徒を羊のように育てお世話をする職を委ねられたのです。
考えてみると、この世では、ペトロのような失敗をしてしまうと、もはや受け入れてもらえなくなり、「あなたはもう必要ない」と言われるのがこの世の在り方です。
しかし、イエスさまは違います。失敗があっても「あなたは必要です」と言って、どこまでも手放さないのです。今朝の聖書の個所は、そういうところなのです。このことが分かると、人間は生きていくために一番必要なことは、「あなたは必要な人」と言われることです。逆に、「あなたは必要でない」と言われることこそ、夢も希望もなくなり、生きていけません。この言葉で自殺まで実行する人が多いのです。
イエスさまは、どこまでも「あなたは必要な人」であると言って下さる方です。たとえ、体が全く動かない病気であっても、どんな人でも、その人の存在そのものを必要である、大切な存在であることを、今日のペトロを通して教えられました。
ましてやペトロは、最初にイエスさまより、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と約束された人です。どんなに失敗をしようが何があろうが、イエスさまによって言われたことは、消えることがないのです。
ペトロのみならず、伝道者はもちろんのことですが、バプテスマを受けている人は皆イエスさまの弟子ですから、信仰者皆にも、「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われているのです。このことに感謝して、この主の御業を実践していきましょう。
具体的に、羊飼いは羊の様子を見て、食欲があるかないか、元気であるかないかと世話をします。
そのように、私たちは兄弟姉妹として互いに、御言葉の分かち合いをして励まし合い、祈り合いながら、礼拝を休みがちな方はどうしたのかな、一人暮らしの方の生活はどうかなどと、心配し、支え合って神の家族を目指していきましょう。
また、イエスさまが、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。」(ヨハネ10:16)と言われました。私たちは、そのことも委ねられているのです。みんなで思いを一つにして祈りながら励んでいきましょう。
*
主なる御神さま、ありがとうございます。私たちはイエスさまの弟子です。本当に、どんなことがあっても「あなたが必要です」と声をかけて下さいます。
聖なる神さま、今、世の中はコロナウイルスで大変な叫びを上げています。私たちを憐れんでください。あなたの弟子として、あなたの御言葉をたずさえて、この世の皆さんをイエスさまの御許にお連れする務めを果たすことができるようにお導き下さい。
コロナウイルスが1日も早く終息するように助けて下さい。病んでいるお一人お一人に癒しの御手がありますように。また、医療従事者の皆さんに感謝します。そのお働きと健康を守り、お支え下さい。
本庄教会に連なる皆さんの上に御癒しとお導きを下さるようにお願い致します。
主イエスさまの御名によって祈ります。
アーメン。
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緊急事態宣言の延長に伴い、5月も引き続き、礼拝をライブ中継に切り換え、家庭礼拝として守っています※。一日も早い終息を心より祈ります。くれぐれもご自愛くださいますように。
在 主
※本庄教会では、6月7日(日)から会堂に集まっての礼拝を再開いたしました。
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*講壇のお花(#102)

2020年5月31日の聖書から
「『どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』」
(聖書:使徒言行録)
2章8-11節
*講壇のお花(#101)

2020年5月24日の聖書から
「イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」
(聖書:使徒言行録)
1章6-11節
*講壇のお花(#100)

2020年5月17日の聖書から
「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」
(聖書:ローマの信徒への手紙)
4章24b-25節
*講壇のお花(#99)

2020年5月10日の聖書から
「…『主よ、どうかお助けください』と言った。イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」
(聖書:マタイによる福音書)
15章25-28節
*講壇のお花(#98)

2020年5月3日の聖書から
「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。…』」
(聖書:ヨハネによる福音書)
21章17節

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