月報『マラナタ』4号巻頭言

「互いに仕え合う妻と夫」







2018年7月1日(日)
礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:創世記2:18~25、
エフェソの信徒への手紙 5:21~33


1、「互いに仕え合いなさい」

 「互いに仕え合う妻と夫」という説教題を見て、ある方が、この説教は結婚していない人は聞けないのですかと質問をしてきました。決してそうではなく、これから結婚を求め祈る方にも、是非、聞いてもらいたく願います。

 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(6:21)という言葉は、「妻と夫」(5:21~33)「子と親」(6:1~4)「奴隷と主人」(6:5~9)の全部にかかる御言葉であります。

 最初に、神様が造られた人間、男と女との関係、その在り方を御言葉から聞きます。次に、男と女が結婚した夫婦の在り方を御言葉から聞きます。ここから、聖書が示す結婚の有り様が示されてきます。

2、人間を男と女に造られた神様

 神がなぜ人間を男と女とに造られたのかと言うと、創世記2:18に、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者(口語訳、ふさわしい助け手)を作ろう。」と言われています。

  この「彼に合う助ける者」とか「ふさわしい助け手」という意味は、〝顔と顔とを向き合わせて尋ね合う者〟の意味です。互いに「わたし」「あなた」と呼び合って、対話をする関係です。

 結婚への出会いは、お見合いであれ、恋愛であったとしても、出合いの最初は、皆同じように、顔と顔とを向き合わせて、お互いを知ろうとして、相手のことを聞き合ったのではないでしょうか。そして、この人と結婚しようと決心したのではないでしょうか。ある人は、私たちは親が結婚を決めてしまったので結婚しましたと言いました。そうであったとしても、結婚を決められて、お互いに相手を知ろうとされたと思います。

 神様は、人は独りでいるのは良くないと言われて、尋ね合う、対話の相手として、男に対して女を造られたのです。

聖書によると最初、神が造られたいろいろな生き物に、人は名前を付けたが、自分に合う助ける者を見出すことができなかったのです。

そこで神は、男を深いねむりに落とされて、男のあばら骨の一部を抜き取り、その抜き取ったあばら骨から女を造られたと記されています。男のあばら骨を抜き取って女を造られたとは、とてもグロテスクな、奇怪な表現です。これは何を意味するかと言うと、あばら骨の所に心臓があり、そこに人間の心があると考えられていました。神が男のあばら骨から女を造ったと言うことは、男の心を分け合う存在として女を造られたと言うことなのです。男と女とは、互いに心を分け合う者として存在しているのです。
だから「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」と言っています。

私の小さいころ、「骨まで愛す」という流行歌があり、どんなことだろうと驚きましたが、今、それが分かるようになりました。

「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」神は、男と女とが結ばれて、裸の関係を祝福されているのです。
 
以上のことから、次のことが問われます。
人間、男と女との関係は、尋ね合う関係であって、それは生涯続くと言うことです。男にとって女は、女にとって男は、知り尽くすことのできない未知なる存在であると言うことです。

妻と私は、私が20歳の時に出会って以来、もう55年間、向き合っている関係です。大体のことは分かったと思っていますが、まだまだ分からないことのある存在なのです。だから、尋ね合うのです。夫婦は、死ぬまでお互いを発見し合う存在なのです。それゆえ、どんなに歳をとっても新鮮な思いで向き合えるのです。

しかし、どうでしょうか。多くの人は、結婚して数年経つと、お互いがもう何もかも分かったように錯覚してしまいます。尋ね合うことを辞めて、新たに他の人との関係を求めて行き、結婚生活の破綻が起きてしまいます。

男女が尋ね合う関係の原点は、人間は「神のかたち」として造られて、神と向き合い、尋ね合う関係に造られていることです。男女がそれぞれ神と向き合い尋ね合う関係、それが礼拝なのです。礼拝を通して神と向き合う人は、夫婦同志の関係も、向き合い、尋ね合う関係ができるのです。

たとえ、夫婦の片方が信仰者でなくても、信仰者の神と向き合うことが、夫婦の尋ね合う関係にも活かされていくのです。

3、カナの婚礼の祝福の意味

 新約聖書のヨハネによる福音書2章で、主イエスは、ぶどう酒が無くなったカナの婚礼の時、召し使いたちに水がめに水を満たさせ、その水をぶどう酒に代える奇跡をもって結婚を祝福されました。この出来事の鍵は、母のマリアが、召し使たちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言われたことです。人生のどんなピンチのときでも、主イエスの御言葉に従う時に、ピンチがチャンスとなって、思いを超えた主の恵みに与かって祝福されると言うことです。 

4、「夫は妻の頭」とは?

 パウロは、結婚が祝福されるために、キリストと教会の関係を土台にしています。

「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」
 
今日、妻は夫に仕え、夫は妻の頭であるという言葉は、女性にとって、とても屈辱的な言葉として、結婚式の式文から削除されています。

30年余り前、福井神明教会に仕えていた時、ウィメンズカレッジの英語講師として勤めていた、ジェイ・トーマスという青年が、教会の青年会で、この個所を学んでいる時、「皆さん、ここはこの通りに信じますか」と聞くと、日本の青年たちは、「聖書にそう勧められているから信じるよ」と言うと、ジェイさんは、「アメリカでは、多くの人は信じていません。アメリカでは妻が夫の頭ですよ」と言って驚いていたのを思い出します。彼は、聖書の御言葉を神の言葉と信じる青年たちと交わり、学び、そしてやがて私の手から洗礼を受けました。

 今日、ある立場の人は、この言葉を嫌い、用いないようにしています。しかし、このパウロの勧めには、結婚の奥義が込められているのです。
「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」

この「キリストが教会を愛し」とは、キリストが十字架の上に命を犠牲にして、教会の信徒たちを愛されたと言うことです。
「キリストが教会を愛したように、妻を愛しなさい」とは、夫となるべき者は自分の命を犠牲にしてまでも妻を愛しなさいと言うことです。

私は、結婚ガイダンスでいつも、この聖書の個所を用います。教会で結婚式を挙げることは、キリストが命を犠牲にして愛したように、あなたは妻となる人のために自分の命を犠牲にする覚悟で愛することができますかと言うことが問われるのです。彼女のために、あなたは自分の命を犠牲にする覚悟で愛しますかと聞きます。

ほとんどの人は、「はい、その覚悟で愛します。」または「はい」とうなずきます。すると、彼女は、嬉しそうにっこりします。私は「彼は、自分の命を犠牲にする覚悟で愛すると言っています。あなたは彼を頭として仕えていきますか。」と聞くと、彼女は「はい、喜んで仕え、私も彼を愛して行きます。」と言います。

確かに、聖書は男性中心に書かれています。それは、神の御前に、まず男性は、命をかけて、妻や子供たちを愛して行く責任ある者としての姿として記されています。

「夫は妻の頭である」と言うことは、自分の命を犠牲にする覚悟で妻を愛すると言うことです。こんな大事なこと、すばらしい決意を結婚前の男女が確認することのできるこの個所を削除することは、残念です。私は削除しないで教えています。

5月に、大宮教会の姉妹の結婚式を司式しました。両親の結婚式、生まれた後の幼児洗礼、大きくなって高校生の時の信仰告白式と、全部、私がかかわったので、私に結婚の司式をしてほしいと、大宮教会の長老会の承認を経て、司式を申し込んできました。結婚ガイダンスをすることを条件で引き受けました。東京に住んでいる二人は、本庄まで来てガイダンスを受けました。彼に、「夫は妻の頭であることは、キリストのように自分の命を彼女に献げて愛することだが、その覚悟がありますか」と問いました。彼女の前に、「はい、自分の命を彼女のために献げます。」とはっきりと答えてくれました。

2人は、演劇の照明デザイナーの仕事をしていて、日曜日は、毎週休めません。日曜日が休日の時は、大宮教会の礼拝に出席することが、あなたがたの誓いを守り、互いに尋ね合う関係を支えることになりますよと勧めました。この間、二人は礼拝に来ていたと情報が入ってきました。
 
この「夫は妻の頭である」の御言葉が分かれば、26節以降の御言葉は素直に入って来ます。

「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものはなにひとつない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』 この神秘は偉大です。

わたしは、キリストと教会について述べているのです。
いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」

 キリストに対する畏れをもって互いに仕え合う妻と夫として、キリストにある喜びと感謝を表す歩みをしてまいりましょう。

祈り

 父なる神様、今日は、御言葉に基づいて、男と女の関係、また妻と夫との関係を見つめ、神様の御心を知ることができました。
イエス・キリストは御自身の命を犠牲にしてまで、私たちを愛し、救ってくださいました。その御愛に生きる者として、男と女との出会い、また、夫婦の関係を導いて祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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月報『マラナタ』1号巻頭言

「神のかたちを生きる」

2018年4月15日(日)本庄教会礼拝説教
疋田國磨呂 牧師
聖書:創世記1:27~31、 Ⅰコリント 6:19~20

1、2018年度の教会総会を覚えて

 2018年度の教会標語を「主よ、祈りを教えてください」と掲げています。
 この標語は、ルカによる福音書11章1節に、弟子の一人が祈っておられた主イエスに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったと記されています。それを縮めて「主よ、祈りを教えてください」としました。この標語は、主の弟子たちが主イエスに祈りを教えてくださいと願い求めたように、私たちもこの一年間、〝イエス様、本庄教会の私たちにも祈りを教えてください〟と願い求めて、祈りについて学ぶ1年にしたいと願っています。
 なぜ人間は祈らねばならないのかと言う根本について、御言葉から聞きたいと思います。

2、人間は「神のかたち」に造られた

 キリスト者は、天地万物を造り、人間の命を造られた方を神と信じています。「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあるように、神は人間を「神のかたち」に造られたのです。
 「神のかたち」とは何を意味するのでしょうか。創世記2:7に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。鼻に吹き込まれた「命の息」は「神の霊」とも訳すことができます。神に造られた人間が、神の霊を吹き込まれて生きる者となったということは、目に見えない神と向き合い霊的に対話ができるということであります。
 神は人間だけに神の霊を吹き込み、神と対話ができる者とされたのです。対話とは、人間に対する神の語り掛けを聞き、人間も神に語り掛けることができるということです。この霊的な対話を「祈り」と言うのです。
 日本人が神社仏閣で献げる祈りは、聖書で言う祈りと根本 的に違います。自分の願望を一方的に述べるのです。神仏に自分の願望を請求するだけですから、祈願と言うのです。

3、人間の罪

 神はすべての人間を「神のかたち」に造られたのですが、それを人間が失ってしまいました。それが、創世記3章で記されているアダムとエバの物語です。アダムとエバは、神から「善悪の知識の木から、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われたのに、サタンの化身である蛇が「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と唆し、女は「神のように善悪を知るもの」となりたいと思って食べてしまったのです。以来、人は神から顔を背け、まるで神のように善悪の基準を持ったかのように思ってしまい、神と向き合うことなく、神に聞かなくなってしまいました。これが聖書で言う「罪」なのです。

4、神の愛とご計画

 人は誰も、自分なりの善悪の基準を持ち、自分の基準が一番と思っています。夫婦であっても、価値基準がなかなか合わないのです。
 神は、「神のかたち」として造った人間が、自分の善悪の基準を一番にして行く結果、争ったり、人を殺したりしていく姿を大変悲しまれています。国と国との善悪の違いは戦争にまで発展していくのです。
 しかし、神は「神のかたち」として造られた人間を愛してくださっているのです。神は、何とかして人間に与えられている「神のかたち」を回復しようと計画を立てられました。最初は、イスラエルという民族を選び、十戒という律法を与え、それを守ることを通して「神のかたち」を回復させようとしました。しかし、人間は律法を守ることを通して神の御前に立ち帰ることができなかったのです。
 それで、神は、神の御子イエスを誕生させられました。御子イエスを通して神の御心と愛を地上の人々に知らしめ、最後は、すべての人間の罪を赦すために御子イエスの命を十字架の上に犠牲として献げられたのです。御子イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ22:34)と私たち人間の罪の赦しのために祈りつつ、命を献げて行かれたのです。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙4:10)と言われているとおりです。
 御子イエスは、死んで墓に葬られましたが、3日目に復活され、弟子たちの前に現れました。死んだら終わりではないのです。復活されたイエスは、今は、天の神様の右の座に着いて、私たちの場所を用意して下さっておられるのです。また、聖霊と共に呼び求める私たちの傍らに、また礼拝の中に来て御臨在くださるのです。

5、「神のかたち」を回復して生きる

 イエスを救い主と信じて救われるということは、「神のかたち」を回復して生きることです。キリスト者は「神のかたち」を生きる人々です。目に見えない神を「天のお父さん」と呼んで、対話の祈りをする人々です。
 定家都志男牧師は著書で「あなたはどんなお祈りをしていますか」と問われていることは、〝あなたは、神と霊的な対話をしていますか〟という問いかけです。
 キリスト者は、イエス・キリストを信じて洗礼を受けると祈りを覚えて、祈りができるようになります。赤ん坊が、少しずつ言葉を覚えて成長するように、周りの信仰の先輩たちの祈り方を真似て、私たちも少しずつ祈りを身に着けるようになります。しかし、その祈りは神との対話になっているかと問われると、どちらかと言うと自分の願いが中心の祈りであります。 
 神との対話の祈りは、説教と日常の生活の中で聖書日課を通してのディボーションにより、自分への神からの語り掛けを聞く時にはじめて、対話の祈りができるのです。

6、私たちの体は聖霊が宿って下さる神殿

 ディボーションにおいて一番大事なことは、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」ということです。キリストを信じて洗礼を受けることは、その時から聖霊を受けることです。この聖霊は「イエスはキリストである」と信じるように導き、目に見えない神を「天の父なる神様」と呼んで祈るようにさせ、聖書の言葉を神の御言葉として聞くことができるようにしてくださるのです。
 「神のかたち」として生きることは、聖霊を宿して生きることでもあります。聖霊は「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:16)と約束されています。
 「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。自分の体で神の栄光を現しなさい。」と勧められています。私たちは、神が御子の命という代価を払って、罪の支配から、神の支配へと買い取ってくださった者なのです。私たちは神の御支配の中に生きる神のものなのです。「神のかたち」を生きるということは、聖霊なる神と共に生き、神の栄光を現すことであります。
 この一年間、「神のかたち」を回復して頂いた者として、対話の祈りをしつつ、この地域において、神の御業に仕えて、神様の栄光を現して行きたいと願います。

祈り

 父なる神様、あなたは人間を「神のかたち」としてお造り下さったにもかかわらず、そのかたちを失って、自分中心に生きて来ました。あなたは御子イエス・キリストの十字架の贖いを通して「神のかたち」を回復してくださいました。聖霊の宿る体として、この恵みの中に生活できるように、日々の聖書日課を通して神様と対話の祈りができるようにお導きください。
 聖霊なる神様、求めておられる方々の上に、イエス・キリストを信じて「神のかたち」を喜んで生き、神様の栄光を現すことができるようにお導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。

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マラナタ1号編集後記

本庄教会月報第1号をお届けします。

 表題の「マラナタ」は、コリントの信徒への手紙一16章22節に記されている『マラナ・タ(主よ、来てください)』に由来します。聖書には、この箇所にしか使われていません。ヨハネの黙示録の最後をしめくくる言葉も「主イェスよ、来てください」(22章20節)と記されています。
 本庄教会も主の再臨を信じて待ち続ける群れでありたいと思います。在主

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月報『マラナタ』2号巻頭言

「聖霊なる神を身近に」

2018年5月20日(日)聖霊降臨日説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:ヨシュア記1:9、使徒言行録 2:1~13

1、聖霊降臨日(ペンテコステ)

 今日は、聖霊降臨日を記念する礼拝です。この日をペンテコステとも言いますが、ペンテコステとは、ギリシア語で50を意味します。1節の「五旬祭」と言うのは50日目の祭りということです。

 旧約聖書では、「過越の祭り」が終わって50日目に、祝われたのが「刈り入れの祭り」で小麦の刈り入れが祝われたのです。この日はキリスト教では主イエスが復活されてから50日目に当たり、その日に聖霊が降ったのです。

 本庄近辺に住んでいると、今、麦畑が黄色く実り、刈り入れをしている畑もあります。キリストの復活から50日目頃は、春小麦が実り、刈り入れとなる頃なのです。

 私たちは、4月1日に主のご復活のイースターを迎えました。それから50日目のペンテコステ、聖霊降臨日は、旧約聖書で言う過越しの祭りの後50日目の小麦の刈り入れの祭りと重なることが、本庄の麦畑の実りの光景を見てよくわかります。

2、聖霊が降った所

 主イエスは、復活されて40日間、弟子たちに神の国について話され、そして、命じられました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と。こう話し終わると、主イエスは弟子たちの見ているうちに天に上げられて、雲に覆われて見えなくなってしまったのです(使徒1:8~9)。

 その10日後が、50日目の聖霊降臨となったのです。その日、「一同が一つになって集まっていると」(2:1)と記されています。

 1章の14、15節を見ると、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」のです。120人ほどの人々が一つになって、心を合わせて熱心に祈っていたのです。一同が一つとなって集まって、祈っている所に、聖霊が降ったのです。一同が聖霊に満たされた時、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉でイエス・キリストによる救いの喜びを伝えるようになったのです。これが教会の誕生した初めだったのです。

 ここで起こっていることは、聖霊降臨から二千年余り、いつの時代、どこの教会にも起きていることなのです。

 復活の主イエスが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と言われているように、私たちの信仰の力は自分の中から出てくるものではなく、聖霊に満たされて受ける力なのです。

 教会に力があるかないかは、どれだけの兄弟姉妹が集まって祈っているかで分かります。聖霊は一人一人の上に降りますが、一人ではなかなか力を現わせないのです。また、神は一人で何かをするワンマン・プレイを望まれないのです。イエス・キリストを信じる群れ、兄弟姉妹が集まり、心を合わせて祈っている所に聖霊は一番働かれるのです。

 なぜなら、私たち一人一人はとても弱い者で、思いがあってもなかなか行動ができないのです。神は、そんな弱い者たちの集まりの中に聖霊として働いて、力を下さり、神が各自に与えられた賜物を用いて、御業に仕えることができるようにして下さるのです。賜物とは、自分が神のために喜んでできること・能力なのです。

 だから、教会の「祈りの会」が大事なのです。主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と約束されています。それが「主日の礼拝」であり、週半ばの「祈りの会」「家庭集会」であります。本庄教会の皆が、主イエスの御名によって集まる所に、復活の主イエスがいてくださるだけでなく、聖霊の力が与えられ、各自の賜物が用いられるのです。

3、三位一体の神を身近に

 私たちは、神は、父、子、聖霊の三位一体の神として、同等の人格的存在であることを教えられています。ところが、「神様」、「イエス様」と素直に言えるのに、「聖霊様」とはなかなか言わないし、言い慣れていないのです。

 23年前に、大宮教会が韓国のソウルにある忘憂教会と教会交流を3年間しました。青年・婦人・壮年たち15人ほどがお互いに訪ね合い礼拝と交わりを共にしました。韓国の兄弟姉妹たちの大変熱いもてなしを受けました。主任牧師の李聖實(イソンシル)牧師は、その時教えてくださいました。「日本の信徒の皆様は、とてもよく聖書を勉強して知識がいっぱいあります。しかし、その教えが生活の中に現されていません。心が熱くされなければ、御言葉の知識は生活化されないのです。心を熱くして御言葉に生きるようになるためには、聖霊様の助けが必要なのです。日本の皆様は聖霊様の助けを頂くともっと喜びと感謝にあふれる生活ができると思いますよ。」と。

 韓国では、聖霊は、「神様」「イエス様」と呼ぶように「聖霊様」と呼んでいます。聖霊なる神をとても身近に感じて生活しているのです。私たち日本のキリスト者も、聖霊なる神をもっと身近に感じて生活するならば、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と(Ⅰテサロニケ5:16~18)いうことを自然と現わしていくことができるのです。

4、三位一体の神が主に働く時代

 皆さんに、図式をしたものが渡っていると思いますが、これによって、三位一体の神の構造と、なぜ、聖霊なる神が私たちに最も身近な神であるかをお話しします。

 キリスト教というか、聖書の世界観は、直線で表されます。天地創造の初めから世界が始まり、キリストの再臨によって御国が完成する終末の時までの一直線なのです。それが、ギリシア語で、アルファであり、オメガでありと言うのです。

 神は天地を創造された後、最初、律法によって人々を治めようとした旧約聖書における神の律法の時代です。しかし、神は、律法に従うことのできない人間を何とか救おうとして神の御子、イエスの誕生と十字架の贖い、墓からの復活の出来事を起こされました。それが地上の33年間、新約聖書のイエス・キリストの時代です。

 復活の主イエスが天に昇られて神の右の座に着かれてから、御自身の代わりとして別の助け主・弁護者としての聖霊が送られたのです。それがペンテコステから現代に至るまでの聖霊の時代であります。

 ですから、この図のように、神は私たち人間に対して一番最初に働くのは、聖霊なる神として働かれるのです。この聖霊なる神の導きと助けによって、二千年前のキリストの十字架と復活の出来事は自分を罪から救うためであることが分かり、イエスをキリストと信じて生きるキリスト者になるのです。主イエスを通して目に見えない神を造り主と信じ、「アッバ、父よ」と呼んで祈ることができるようになるのです。

 祈りにより神と対話し、御言葉に従うものとして「神のかたちを」回復するのです。

5、最も身近な聖霊なる神に親しくなろう

 聖霊なる神は、私たち人間に一番最初に働かれ、最も身近な存在なのであります。

 人は誰も、この聖霊なる神のお導きなくしては教会へ来ることも、聖書を理解することもできないのです。まだ洗礼を受けていない方を始め、主日礼拝に集っている私たちは皆、聖霊なる神の助けとお導きをいただいているのであります。

 ですから、いちばん私たちに身近な神として聖霊なる神に親しくなるように努めましょう。お家で、ディボーションをする時、「聖霊なる神様」、または「聖霊様」と呼びかけて祈ってみてください。神の真理を悟らせてくださいます(ヨハネ16:13)。

祈り

 天の父なる神様、ペンテコステの日、主イエス様を信じて集まって、心を一つにして祈っている兄弟姉妹の上に聖霊が降って初代教会が誕生しました。130年前、本庄に住んでいる兄弟姉妹たちの集まりの上に聖霊様が働いて本庄教会が誕生しました。今年は、本庄教会の創立130周年を祝う年です。聖霊様をより身近に感じて、その恵みに豊かにあずかり、本庄の人々に伝え分かち合う喜びと力をお与え下さい。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。

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月報『マラナタ』3号巻頭言

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「思い悩むな」

2018年6月10日(日)
子どもの日・花の日礼拝より
疋田勝子 牧師
聖書:詩編55:23、
マタイによる福音書 6:25~34


1、子どもの日・花の日

 今日の礼拝は、子どもの日、花の日を覚えての礼拝です。

 最初に、そのいわれについて少しお話します。1859年、アメリカのマサチューセッツ州の第1ユニパーサリスト教会の牧師、チャールズ・H・レオナードという牧師が、教会生活における子どもの位置の重要性を指摘して、6月第2主日に特別礼拝を行い、献児式、幼児祝福式を執行すると共に、両親や教師に対して子どもの養育責任を再確認するように訴えたのが最初と言われています。

 この趣旨に多くの人たちが賛同して、後に各教派で教会行事として取り入れました。そして、この日には、礼拝堂を美しい花で飾りました。それで「花の日」とも呼ばれるようになりました。

 礼拝では、よくマルコによる福音書10章14節が読まれます。主イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われています。

2、思い悩む原因

 さて、今日の「思い悩むな」、空の鳥を見よ、野の花を見よと言われていることを語るためには、6章19~24節を語らないと成り立たないのです。小見出しに、「天に富を積みなさい」(19~21)、「体のともし火は目」(22~23)、「神と富」(24)とあります。

  今日の25節の「だから、言っておく。」とは、これらの前の文章を受けています。私たちが、イエス・キリストを信じて救われていると言うことは、思い悩みのない生活の中に招き入れられていることです。しかし、どうしてか、なんと思い悩むことが多いのでしょうか。いったい、何が思い悩みの原因となっているのでしょうか。

 信仰のあるなしに関係なく、その人の性格でいつも思い悩んでいるタイプと、逆に、何が起きてもケロッとしているタイプの人がいます。でも人間である以上、たいていの人は思い悩むのです。ところが、信仰を持つと、その信仰が働いて、思い悩みから解放される人も多くいます。

 思い悩みの原因には、まず、病気の悩みがあります。昔は人生50年と言われた時代がありましたが、今は高齢化社会になって平均年齢80歳を超えていますから、病気が一つ、二つあるのは当たり前であるわけです。今は、二人に一人は、ガンがあると言われています。

 また、仕事上の人間関係で、心の病気が発症して長期入院となり、仕事を辞めざるを得なくなった人、また、仕事の成績が良くなくて辞めざるを得なくなった営業マンの人もいます。

 今、大変な問題は、施設に入所するには多くのお金がかかることです。かと言って寝たきりになってしまったら、家族だけではなかなか介護ができません。無理すると、家族も病気になってしまいます。今の時代は、家族だけでなく皆で看る時代なのです。

 私たちが抱えている問題は、内容は違いますが、信仰があるならば、それらの問題を自分一人で抱え込むのではなく、祈りながら、御言葉に聞きつつ、信仰の友に執り成していただいて共に歩むと、どんなに荷が軽くなることでしょうか。

3、神様を信頼する

 こう言う状況で、一番、私たちに求められることは、まず、私たちが神さまにどれだけ信頼を寄せているかということであります。信仰とは、読んで字のごとく、神を仰ぎ見て信じると書きます。本当に神さまを信じていれば、思い悩みから解放され、思い悩まないで生きられるように招き入れられていることを教えているのが今朝の説教のテーマなのです。

 では一体、どうしたら主イエスさまが教えて下さっているように「思い悩まないで」生活ができるのでしょうか。どうも、私たちの思いを根本的に変えてしまわないと、ここから脱却できないのではないかと思います。

 まず、いつも悩む傾向の人は、悩みを言ったお陰で落ち着いていることもあります。しかし、一時的に落ち着いても信仰的に神さまに結びつかないと解決しないのです。

神さまに結びつくと、目の前の問題を抱えながらも感謝と喜びの応答ができてきます。もしも、感謝の応答が少ないならば、信仰生活に喜びがなくなります。

 これは、今、今の事ではなくて、昔、昔から主イエスさまがこの世に生きておられた時から神さまに対して感謝の応答が少なくないのです。

 弟子たちに対して、6章25節を見てください。「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか 何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と言われています。

 ここの「だから言っておく」と言うことは、前節を受けていることで、以下に話します。

4、神と富、富は天に積む

 この世の人は、万事はお金次第と言います。確かに、人間の悩みはお金の悩みが多いのです。そのことを主イエスさまは分かっておられ、そのような問題を先取りして、24節に言われています。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで多方を愛するか、一方に親しんで多方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われています。

 主イエスさまは、私たちが神を選ぶのか、富の奴隷になるのかを選び取らなければならないことを示されました。金持ちであることが悪いのではありません。お金に執着しないで、必要な時、神さまのために用いればよいのですが、それが難しいのです。
だから、神と富に同時に、兼ね仕えることはできないと言われているのです。

 富という主人に仕えるということは、地上に宝を蓄えることであり、その心は地上のことばかりに束縛されて、神さまのことを考えることができなくなることです。

 そして、どこまでも〝私〟が主となり、私のために地上に宝を蓄えることとなり、富に対する執着心がますますつのり、神さまを思う心がなくなっていくのであります。

 これは、あの「愚かな金持ち」(ルカ12:13~20)のたとえ話に見ることができます。

 ある金持ちが一生食べて生活できるほどの穀物や財産を倉に貯めて、これから一生楽ができると安心して胸をなでおろしていた時に、神さまが現れて、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われました。そしてさらに大事な言葉を言われます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と。

 だから大事なことは、神の前に豊かになることです。そのために、26節に「富は、天に積みなさい」と言われているように、私たちは天に宝を蓄える者となることを決断しなければなりません。それは、神さまを主人とすることです。

5、体のともし火は目

 主はこのことを「目」にたとえております。目を向ける方向によって、私たちの関心のあり方が分かると言われています。
もしも、「目」が神さまの方に向けられているなら、その人の生き方は健全なのです。
反対に、目が地上の富に向けられているなら、その人の生き方は不健全であると言われました。それが、22節~23節なのです。
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身は暗い。」とあります。
ここで、私たちの目を、富という主人に向けているのか、また、神さまという主人に向けているのか、反省するように問いかけているのです。

6、「思い悩むな」

 しかし、経済生活の問題は私たちにとって身近な問題で、重要な問題であります。

 実際に富に頼ることをやめて、神さまに頼っていれば大丈夫なのかと言う疑問が起こってきます。そこで主イエスさまは、そのような問題を先取して、即ち、ある事態を予測して、19~24節を述べて、今日の25~34節を述べておられます。

 ここで主イエスさまが強調しておられるのは、「思い悩むな」と言うことです。これは心配するなと言うことです。この言葉が7回も用いられています。

「思い悩む」と言うのは、心がいろいろな方面に分かれて混乱することを意味します。

イエスさまは、マルタに言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ10:38~42)

 このように、ただ一つのことを大事にしていれば大丈夫なので、そうすれば外のことは満たされます。イエスさまが「思い悩むな」と言われたのは、全てを神さまが配慮して与えてくださるのであるから、神さまに信頼できる者は心が混乱しないで安心していることができると言うことを教えています。しかし逆に、神さまを信頼していない者は、ますます混乱してしまうのです。

 私たちは、もう一度原点に立ち帰って、主イエスさまのお言葉に耳を傾ける必要があります。

 イエスさまは、本当にわかり易く、食物や衣服のような日常生活において必要な基本的な物の問題を取り上げて心配する必要がないと、4つことを諭(さと)しています。

(1)まず第一番目は、創造論に基づいて述べられています。

神さまはすべての造られたものを養ってくださると述べておられます。

25節「空の鳥をよく見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値がある者ではないか。」
28節「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、績もしない。」
29節「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」また、
30節「今日生えていて、明日炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」

 ここでは、空の鳥と野の花と野の草の3つのことを見なさい!すなわち手本にしなさい!と言われました。

空の鳥は何も荷物を持っていません。財産もなしです。それらに比べ、人間は、あれも、これも握りしめていないと安心できない生き物です。鳥たちは、手ぶらで安心してスイスイと自由に旅行して楽しい生活をしています。何もなくても、守ってくださるお方に信頼していると言うことです。

 さて、この世の人たちは、どうして教会の礼拝に来るようになるのでしょうか。

意外と多いのは、例えば、会社にクリスチャンがいて、その人を見ていると、余り人目を気にしていないとか、人の顔色を気にしていない、あまり心配事がないように見えて、羨ましく思って教会に来たと言う人もいます。また、子供の母親同士で、クリスチャンはあまり物事を気にしないので、そうなりたいと思って教会に来たと言う人もいます。

要するに、私たちが本当にイエスさまを信じている者であるならば、思い悩みから解放されて生きることができるのです。そのクリスチャンの自由な生活を見て、周囲の人は、その生き方に感動して自分もそのような生き方をしたい!と思って教会に来るのではないでしょうか。

 私たちは、心のどこかに少し間違った考えを持っていたりします。

自分は頭が悪いから証ができないとか、何もできない者だからキリストの名を恥ずかしめるとか、きちん、きちんとしていないから駄目だとか、聖書のことを余り知らないから駄目だとか、私自身をも含めて、誤ったクリスチャン像を描き、クリスチャンコンプレックスを抱いているのではないかと言うことです。

 今朝の聖書の個所を見るならば、周囲の人たちがクリスチャンとは素晴らしい。自分も教会に行きたいと思うようになる、代表的な一つのことは、いろいろな思い悩みから解放されている人を見た時なのです。

 もしかしたら、クリスチャンのAさんは、大変な問題を抱えているかも知れません。

失業中で、その日暮らしで大変かも知れません、しかし、人間は1日を生きるのに、そんなに多くのものはいらないのです。空の鳥を見よ、野の草を見よ。明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神さまは装って下さいます。

 イエスさまが、ここで教えておられることは、今日一日のことです。今日一日で十分、この日を生きよ、と言うことです。

〝私たちは、今日生きたように死んでいくのです。〟今日が大事なのです。

今日を、不満タラタラと過ごすのか。それとも、今日を、感謝して生きるのか。選び取らなければなりません。

神さまを全く信頼して生きる。この一日一日の積み重ねが私たちの一生となっていくのです。そういう意味で、「一日一生」と言う本も出版されているのです。

 要は、大変な問題を抱えていたとしても、主に全く信頼して生活しているクリスチャンの姿を見て、周りの人は教会に来たいと思うようになるのではないでしょうか。

しかし、神さまは神に信頼できないでいる人を見て、35節「信仰の薄い者たちよ」と言われているのです。

 空の鳥、野の花、野の草が私たちの前に証として差し出されたのです。

イエスさまは、私たち人間を指して、「あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか」と、それら以上に〝より勝る〟者ではないか! と言われています。

取るに足りない空の鳥さえ、神さまは保護しているのだから、人間も自分の力で獲得しなければならないと言う傲慢な心を捨てて、素直に神さまの手に全てを委ねるべきだと言うことです。

 すなわち、人間は神の手によって創造された神の被造物です。自分の寿命も神さまの御手によって操縦されているのです。神さまは、鳥とか花とか草の被造物の隅ずみに心を留めてくださっているのです。

ましてや天の父は人間に必要な物はすべてご存じであると32節に言われています。私たちは、創造者である神さまを信頼して、与えられた時を生きるべきであることを教えられました。

この「与えられた時」とは、27節「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」と言われている寿命の時です。

讃美歌に「生きるも良し、死ぬるも良し」とありますが、その時を主にお任せしますと言う信仰です。

主イエスさまは、食物や衣服のような日常生活において基本的な問題を取り上げて心配する必要がないと諭しておられます。それは、「神さまは、すべての造られたものを養って下さる」と述べたように、創造論の故です。

(2)第2番目は、「心配しても問題は解決できない」と述べている点です。

私たちがいくら心配しても「自分の命を少しでも延ばすことはできない」と言うことです。

この他に病気のこととか、いろいろと思い悩むことがあります。むしろ心配することによって逆に寿命が縮んでしまうことになりかねません。このように、心配は問題の解決に少しも役立たないから、無駄な心労はやめて、神さまに委ねなさいと言うことです。詩編55編23節に言われています。

「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」

(3)第3番目は、一番大事なことは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と言うことです。

 神さまは、食べ物や衣服が私たちに必要であることを知っておられることを31~32節に述べておられます。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。」

だから大事なことは、心配することよりも、まず神さまを信じることが大切なのです。

33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

ここで言っている「神の国と神の義」とは、わかり易く言うならば、神と人との正しい関係です。すなわち、「神の国」とは、神の御支配を意味し、「神の義」とは、神と人との正しい関係を意味します。一言で言うならば、〝神の御支配に服従して神さまに全き信頼をおく関係〟のことです。

それは、私たちの行いが正しいからとか、行いが良いから、神さまが必用を満たしてくださるのではありません。ただ、ただ主イエスの十字架の恵みによって私たちと神さまとの正しい関係が回復していると言うことです。これが神の義なのです。

主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださった。この恵みを信じて、感謝して祈るのです。

 さらに祈らなければならないもう一点は、衣服よりも神の国の到来のためです。

神の国と神の義の到来は、すでに主イエスさまを通して信じる者の間に実現しているのです。しかし、天におられるキリスト・イエスさまは、再び来られて神の国・その御支配を完成されるのです。それをキリストの再臨と言って待ち望むのです。だから「主の祈り」で「み国を来たらせたまえ」と祈るのです。「マラナ・タ」とは「主よ、来てください」(Ⅰコリント16章22節)という意味です。

一番大事なことを祈っていれば、神さまは人間の必要をすべてご存知なのだから、

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と約束されています。ですから、大切なことを第一として、それから自分の必要を祈りましょう。

 預言者エリヤは、紀元前9世紀頃、大変残忍で、バアル崇拝者のイスラエルの王アハブと、神さまの命令に従って戦いました(列王記上17章Ⅰ~16節)。しかし、エリヤは逃亡の生活を余儀なくされ、ヨルダン川の東にあるケリト川のほとりで身を隠し、烏がパンと肉を運んで来て養われました。更に、主はエリヤに臨んで言われました。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」と言われると、言われたままに行きます。このやもめは大変貧しい人で、薪を拾っていました。エリヤは声をかけ、「少し水をください。パンも一切れください」と言ったところ、彼女は「あなたの神、主は生きておられます。」と言った後、私にはパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油があるだけです。今、私と息子の食べ物を作り、これを食べたら、死ぬのを待つばかりですと言いました。

 そこでエリヤは言います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜなら、イスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」と。やもめはエリヤの言う通りにしました。こうして、エリヤも彼女も、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠くことはなかったのです。

 主がエリヤによって告げられた御言葉の通り、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかったのです。ここで大切な点は、まずわたしのために作ってくださいとエリヤが言ったことです。それは神の預言者のため、即ち、神さまに献げなさい。神さまのためにしなさい。それから自分のためにしなさいと言うことなのです。

(4)最後に、第4番目は、「明日のために心配はいらない」ことです。

34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 私たちの心配ごとは、大部分は未来に関することが多いと思います。老後のこと、死後のこと、等々。しかし、それだけではありません。過ぎ去った日々、昨日、おとといの悩みがあります。しかし、聖書では、イエスさまは、苦労はその日の苦労だけで十分であると言われました。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自ら思い悩む。」と言われています。

それでは、昨日あった あの重大な事はどうなるのだろうか、と思うことでしょう。

それは、昨日の内に、神さまに祈って、み言葉に聞いて、神さまと相談して行くことが大切なのです。その日の内に、罪を告白して、または、感謝して、その日を神さまの御前に誠実に生きることを聖書は教えています。

マタイの6章は、「主の祈り」のある箇所です。この中でも主イエスは6章11節で「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と祈るように教えられました。

旧約で、イスラエルの民が荒れ野で天から降って来るマナを食べて生きた時、欲張りの人は、神さまの言われたとおり、その日の分だけ拾わないで、2日分拾ってしまいましたが、2日目の分は腐ってしまいました。このことを通して、私たちは本当に神さまを信頼しているかが問われています。

今日と言う日を神さまに全力を注いで、精一杯、従って生きれば、神さまは喜びの生活を与えてくださいます。

 特に今回、気づかされたことは、28節のみ言葉です。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか。注意して見なさい。働きも績もしない。確かに栄華を極めたソロモンでさえ、この一つの花ほど美しい服を持っていたとは言えません。

 日本人は〝働かない者は食うべからず〟と言うことを思いがちです。しかし、人には、いろいろな事情や環境があります。

 ここで、主イエスさまの、「働きもせず」のお言葉に大変な慰めを得ました。「働きもせず」、しかし神さまは守り支え、きれいな花を咲かせてくださり、ソロモンの持つ服以上に美しいと言ってくださいます。

私たちは一般に、どうしてもdoing(行う)、人の行いばかり認めたがるのです。

ところが主イエスさまは、being(存在)、人の存在そのものを認めて大切にしてくださいます。どんな人でも、働いていようが、いまいが、その人の存在そのもの、そこに居ると言うその人を美しく装い、育ててくださる神さまに感謝したく思うのです。

 今日は、礼拝が終わってから、少し一服して、交わりをしてから、お花をもってお見舞いに行きます。美しいお花は、病人にとっては大変慰めになるでしょう。

 お花と言えば、幼稚園の運動会の日、私は宗教主事として子供たちに開会礼拝の話をしたことを思い出します。

 その内容は、「お花には、ひまわりのような大きな花や、矢車草のような小さな花があります。お花の色も、赤いバラとか、黄色いタンポポや白い百合とかがあります。どの花も、自分は小さいから大きい花のようになりたい、自分は白いから赤い花のようになりたいと思わないのです。自分は小さくても満足し、精いっぱい咲いて、みんなを楽しませています。白い花は白で充分、他の花の色を羨ましがらないで、精いっぱい喜んで咲いています。だから、みんなも、走るのが早い子も、遅い子もいるし、遊戯が上手な子も、そうでない子もいます。今日は、お花のように自分のできることを一生懸命に、精いっぱいガンバリましょう。そして、子どもも大人も楽しい運動会にしましょう。」と、メッセージをしたら、大変、喜ばれました。

 まず、幼稚園の先生たちが「ホッとしました。」と言いました。「運動会は、親たちが自分の子供と他の子供とを比較して見るので、最初に、あのようなメッセージを聞いたので、みんなリラックスして運動会を楽しめます。」と、大変喜ばれたわけです。

祈り

 主なる御神さま。御名を賛美致します。私たちはそれぞれ環境や状況は違って、人には話せない悩みや苦しみがあります。しかし、イエスさまの遺言は「あなたがたには悩みがある、しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というものでした。また、今日の話にあるように、私たちは神さまに委ねて、まず神の国と神の義を求めて歩むのであれば、神さまは本当に全て添えて与えてくださるという約束をなさっています。

 どうぞ神さま、本当に弱いものですから、聖霊なる神さまのお力を頂いて、この一週間もあなたを見上げて、安心して生活することができるように、一人一人をあなたが強めて下さい。特に病んでおられる方々の上に、あなたの癒しの御手を置いて下さい。また、看病しておられる方々や、色々な事情で教会に来ることのできない方々の上にも、あなたが豊かに望んで平安な心と、また勇気と、力を与えて下さい。必要なものをどうか満たして下さいますように、切にお願い致します。主イエスの御名によって祈ります。 アーメン。

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主の弟子訓練コンベンションの写真

2018年5月7日から9日にかけて主の弟子訓練コンベンションが大宮教会にて行われました。その様子を写真でご覧下さい。

会場は日本基督教団大宮教会でした。

日程表です!

賛美と礼拝の様子です。

講義の様子です。

グループに分かれ、一緒に聖書を読み、分かち合いをする機会もありました。

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『マラナタ』第1~9号

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月報『マラナタ』第9号
(2018年12月号)

「巻頭言」、「イヴ・礼拝 説教」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼

**内容(全10ページ)**

◇巻頭言:説教「クリスマス、よろこびの躍動やくどう疋田義也 牧師

◇特集:2018年度クリスマス
・クリスマス・イヴ礼拝説教:「すべてのひとらすまことひかり疋田國磨呂 牧師・クリスマス愛餐会・祝会(12/23礼拝後~14:00ごろ)の様子を写真で報告
◇11月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記

月報『マラナタ』第8号
(2018年11月号)

「巻頭言」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼

**内容(全8ページ)**

◇巻頭言:説教「一杯のカップチーノから」入 治彦 牧師

◇特集:設立130周年記念感謝の集いから
・「本庄教会設立130周年記念の祝いによせて」・・・東野ひかり 牧師
・「開会の祈り」・・・本庄教会員 澁澤久兄
・「本庄教会設立130周年に寄せて」・・・新保雄三兄
◇10月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記

月報『マラナタ』第7号
(2018年10月号)

「巻頭言」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼

**内容(全6ページ)**

◇巻頭言:説教「小さな群れよ、恐れるな。」疋田國磨呂 牧師

◇特集:「ヨナ書」講解説(3)ヨナ書2章1-7節・・・疋田義也 牧師
◇9月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記

月報『マラナタ』第6号
(2018年9月号)

「巻頭言」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼

**内容(全6ページ)**

◇巻頭言:説教「神の霊の導きの下に」疋田國磨呂 牧師

◇特集:「ヨナ書」講解説(2)ヨナ書1章10-16節・・・疋田義也 牧師
◇8月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記

月報『マラナタ』第5号
(2018年8月号)

「巻頭言」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼

**内容(全6ページ)**

◇巻頭言:説教「神の武具を身に着けなさい」疋田國磨呂 牧師

◇特集:洗礼を受けて・・・洗礼を受けられた2名の方の証し文
◇7月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記

月報『マラナタ』第4号
(2018年7月号)

「巻頭言」、「報告」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼

**内容(全4ページ)**

◇巻頭言:説教「互いに仕え合う妻と夫」疋田國磨呂 牧師

◇報告:高校生・青年会バーベキューの集い
◇6月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記

月報『マラナタ』第3号
(2018年6月号)

「巻頭言」と「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼

**内容(全10ページ)**

◇巻頭言:説教「思い悩むな」疋田勝子 牧師

◇特集:「ヨナ書」講解(1)***疋田義也 牧師
◇5月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記

月報『マラナタ』第2号
(2018年5月号)

「巻頭言」と「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼

**内容(全10ページ)**

◇巻頭言:説教「聖霊なる神を身近に」疋田國磨呂 牧師

◇特集:主の弟子訓練コンベンション(2018年5月7日~9日)の報告***参加者2名が報告
◇4月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記

月報『マラナタ』第1号
(2018年4月号)

「巻頭言」と「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼

**内容(全8ページ)**

◇巻頭言:説教「神のかたちを生きる」疋田國磨呂 牧師

◇特集:「受難週祈祷会より」***兄姉三名の証し文
◇3月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記

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日本キリスト教団本庄教会

〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1  TEL 0495 (22) 2785

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2018年4月の生花

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講壇こうだんのお花(#5)*
18.4.29生花no.5-2(resized)

2018年4月29日聖書せいしょ

ルカによる福音書24章36節後半-39節前半が掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2018年4月29日礼拝
 (復活節第5主日)

『まさしくわたしだ』
♪音声再生(4MB:34分)

説教者:疋田義也牧師


聖書箇所:詩編18編、
ルカによる福音書24章36-49節
***

講壇こうだんのお花(#4)*
18.4.22生花no.4-2(resized)

2018年4月22日の聖書せいしょ

ローマの信徒への手紙書5章8節が掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2018年4月22日礼拝
 (復活節第4主日)

『キリストによってかみよろこぶ』
♪音声再生(5MB:44分)

説教者:疋田國磨呂牧師


聖書箇所:詩編119章103節、
ローマの信徒への手紙5章1-11節
***

講壇こうだんのお花(#3)*
18.4.15 生花no.3 (resized)

2018年4月15日聖書せいしょ

創世記1章27節が掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2018年4月15日礼拝
 (復活節第3主日)

かみのかたちをきる』
♪音声再生(3MB:27分)

説教者:疋田國磨呂牧師


聖書箇所:創世記1章27節-2章4節前半、
コリントの信徒への手紙一6章19-20節
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講壇こうだんのお花(#2)*
18.4.8 生花no.2 (resized)

2018年4月8日の聖書せいしょ

ヨハネによる福音書21章4節が掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2018年4月8日礼拝
 (復活節第2主日)

岸辺きしべっておられたしゅ
♪音声再生(5MB:46分)

説教者:疋田勝子牧師


聖書箇所:詩編131編2-3節、
ヨハネによる福音書21章1-14節
***

講壇こうだんのお花(#1)*
18.4.1 生花no.1 (resized)

2018年4月1日の聖書せいしょ

マタイによる福音書28章7節が掲載されていました。

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日本キリスト教団本庄教会
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