月報『マラナタ』3号巻頭言

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「思い悩むな」

2018年6月10日(日)
子どもの日・花の日礼拝より
疋田勝子 牧師
聖書:詩編55:23、
マタイによる福音書 6:25~34


1、子どもの日・花の日

 今日の礼拝は、子どもの日、花の日を覚えての礼拝です。

 最初に、そのいわれについて少しお話します。1859年、アメリカのマサチューセッツ州の第1ユニパーサリスト教会の牧師、チャールズ・H・レオナードという牧師が、教会生活における子どもの位置の重要性を指摘して、6月第2主日に特別礼拝を行い、献児式、幼児祝福式を執行すると共に、両親や教師に対して子どもの養育責任を再確認するように訴えたのが最初と言われています。

 この趣旨に多くの人たちが賛同して、後に各教派で教会行事として取り入れました。そして、この日には、礼拝堂を美しい花で飾りました。それで「花の日」とも呼ばれるようになりました。

 礼拝では、よくマルコによる福音書10章14節が読まれます。主イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われています。

2、思い悩む原因

 さて、今日の「思い悩むな」、空の鳥を見よ、野の花を見よと言われていることを語るためには、6章19~24節を語らないと成り立たないのです。小見出しに、「天に富を積みなさい」(19~21)、「体のともし火は目」(22~23)、「神と富」(24)とあります。

  今日の25節の「だから、言っておく。」とは、これらの前の文章を受けています。私たちが、イエス・キリストを信じて救われていると言うことは、思い悩みのない生活の中に招き入れられていることです。しかし、どうしてか、なんと思い悩むことが多いのでしょうか。いったい、何が思い悩みの原因となっているのでしょうか。

 信仰のあるなしに関係なく、その人の性格でいつも思い悩んでいるタイプと、逆に、何が起きてもケロッとしているタイプの人がいます。でも人間である以上、たいていの人は思い悩むのです。ところが、信仰を持つと、その信仰が働いて、思い悩みから解放される人も多くいます。

 思い悩みの原因には、まず、病気の悩みがあります。昔は人生50年と言われた時代がありましたが、今は高齢化社会になって平均年齢80歳を超えていますから、病気が一つ、二つあるのは当たり前であるわけです。今は、二人に一人は、ガンがあると言われています。

 また、仕事上の人間関係で、心の病気が発症して長期入院となり、仕事を辞めざるを得なくなった人、また、仕事の成績が良くなくて辞めざるを得なくなった営業マンの人もいます。

 今、大変な問題は、施設に入所するには多くのお金がかかることです。かと言って寝たきりになってしまったら、家族だけではなかなか介護ができません。無理すると、家族も病気になってしまいます。今の時代は、家族だけでなく皆で看る時代なのです。

 私たちが抱えている問題は、内容は違いますが、信仰があるならば、それらの問題を自分一人で抱え込むのではなく、祈りながら、御言葉に聞きつつ、信仰の友に執り成していただいて共に歩むと、どんなに荷が軽くなることでしょうか。

3、神様を信頼する

 こう言う状況で、一番、私たちに求められることは、まず、私たちが神さまにどれだけ信頼を寄せているかということであります。信仰とは、読んで字のごとく、神を仰ぎ見て信じると書きます。本当に神さまを信じていれば、思い悩みから解放され、思い悩まないで生きられるように招き入れられていることを教えているのが今朝の説教のテーマなのです。

 では一体、どうしたら主イエスさまが教えて下さっているように「思い悩まないで」生活ができるのでしょうか。どうも、私たちの思いを根本的に変えてしまわないと、ここから脱却できないのではないかと思います。

 まず、いつも悩む傾向の人は、悩みを言ったお陰で落ち着いていることもあります。しかし、一時的に落ち着いても信仰的に神さまに結びつかないと解決しないのです。

神さまに結びつくと、目の前の問題を抱えながらも感謝と喜びの応答ができてきます。もしも、感謝の応答が少ないならば、信仰生活に喜びがなくなります。

 これは、今、今の事ではなくて、昔、昔から主イエスさまがこの世に生きておられた時から神さまに対して感謝の応答が少なくないのです。

 弟子たちに対して、6章25節を見てください。「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか 何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と言われています。

 ここの「だから言っておく」と言うことは、前節を受けていることで、以下に話します。

4、神と富、富は天に積む

 この世の人は、万事はお金次第と言います。確かに、人間の悩みはお金の悩みが多いのです。そのことを主イエスさまは分かっておられ、そのような問題を先取りして、24節に言われています。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで多方を愛するか、一方に親しんで多方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われています。

 主イエスさまは、私たちが神を選ぶのか、富の奴隷になるのかを選び取らなければならないことを示されました。金持ちであることが悪いのではありません。お金に執着しないで、必要な時、神さまのために用いればよいのですが、それが難しいのです。
だから、神と富に同時に、兼ね仕えることはできないと言われているのです。

 富という主人に仕えるということは、地上に宝を蓄えることであり、その心は地上のことばかりに束縛されて、神さまのことを考えることができなくなることです。

 そして、どこまでも〝私〟が主となり、私のために地上に宝を蓄えることとなり、富に対する執着心がますますつのり、神さまを思う心がなくなっていくのであります。

 これは、あの「愚かな金持ち」(ルカ12:13~20)のたとえ話に見ることができます。

 ある金持ちが一生食べて生活できるほどの穀物や財産を倉に貯めて、これから一生楽ができると安心して胸をなでおろしていた時に、神さまが現れて、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われました。そしてさらに大事な言葉を言われます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と。

 だから大事なことは、神の前に豊かになることです。そのために、26節に「富は、天に積みなさい」と言われているように、私たちは天に宝を蓄える者となることを決断しなければなりません。それは、神さまを主人とすることです。

5、体のともし火は目

 主はこのことを「目」にたとえております。目を向ける方向によって、私たちの関心のあり方が分かると言われています。
もしも、「目」が神さまの方に向けられているなら、その人の生き方は健全なのです。
反対に、目が地上の富に向けられているなら、その人の生き方は不健全であると言われました。それが、22節~23節なのです。
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身は暗い。」とあります。
ここで、私たちの目を、富という主人に向けているのか、また、神さまという主人に向けているのか、反省するように問いかけているのです。

6、「思い悩むな」

 しかし、経済生活の問題は私たちにとって身近な問題で、重要な問題であります。

 実際に富に頼ることをやめて、神さまに頼っていれば大丈夫なのかと言う疑問が起こってきます。そこで主イエスさまは、そのような問題を先取して、即ち、ある事態を予測して、19~24節を述べて、今日の25~34節を述べておられます。

 ここで主イエスさまが強調しておられるのは、「思い悩むな」と言うことです。これは心配するなと言うことです。この言葉が7回も用いられています。

「思い悩む」と言うのは、心がいろいろな方面に分かれて混乱することを意味します。

イエスさまは、マルタに言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ10:38~42)

 このように、ただ一つのことを大事にしていれば大丈夫なので、そうすれば外のことは満たされます。イエスさまが「思い悩むな」と言われたのは、全てを神さまが配慮して与えてくださるのであるから、神さまに信頼できる者は心が混乱しないで安心していることができると言うことを教えています。しかし逆に、神さまを信頼していない者は、ますます混乱してしまうのです。

 私たちは、もう一度原点に立ち帰って、主イエスさまのお言葉に耳を傾ける必要があります。

 イエスさまは、本当にわかり易く、食物や衣服のような日常生活において必要な基本的な物の問題を取り上げて心配する必要がないと、4つことを諭(さと)しています。

(1)まず第一番目は、創造論に基づいて述べられています。

神さまはすべての造られたものを養ってくださると述べておられます。

25節「空の鳥をよく見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値がある者ではないか。」
28節「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、績もしない。」
29節「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」また、
30節「今日生えていて、明日炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」

 ここでは、空の鳥と野の花と野の草の3つのことを見なさい!すなわち手本にしなさい!と言われました。

空の鳥は何も荷物を持っていません。財産もなしです。それらに比べ、人間は、あれも、これも握りしめていないと安心できない生き物です。鳥たちは、手ぶらで安心してスイスイと自由に旅行して楽しい生活をしています。何もなくても、守ってくださるお方に信頼していると言うことです。

 さて、この世の人たちは、どうして教会の礼拝に来るようになるのでしょうか。

意外と多いのは、例えば、会社にクリスチャンがいて、その人を見ていると、余り人目を気にしていないとか、人の顔色を気にしていない、あまり心配事がないように見えて、羨ましく思って教会に来たと言う人もいます。また、子供の母親同士で、クリスチャンはあまり物事を気にしないので、そうなりたいと思って教会に来たと言う人もいます。

要するに、私たちが本当にイエスさまを信じている者であるならば、思い悩みから解放されて生きることができるのです。そのクリスチャンの自由な生活を見て、周囲の人は、その生き方に感動して自分もそのような生き方をしたい!と思って教会に来るのではないでしょうか。

 私たちは、心のどこかに少し間違った考えを持っていたりします。

自分は頭が悪いから証ができないとか、何もできない者だからキリストの名を恥ずかしめるとか、きちん、きちんとしていないから駄目だとか、聖書のことを余り知らないから駄目だとか、私自身をも含めて、誤ったクリスチャン像を描き、クリスチャンコンプレックスを抱いているのではないかと言うことです。

 今朝の聖書の個所を見るならば、周囲の人たちがクリスチャンとは素晴らしい。自分も教会に行きたいと思うようになる、代表的な一つのことは、いろいろな思い悩みから解放されている人を見た時なのです。

 もしかしたら、クリスチャンのAさんは、大変な問題を抱えているかも知れません。

失業中で、その日暮らしで大変かも知れません、しかし、人間は1日を生きるのに、そんなに多くのものはいらないのです。空の鳥を見よ、野の草を見よ。明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神さまは装って下さいます。

 イエスさまが、ここで教えておられることは、今日一日のことです。今日一日で十分、この日を生きよ、と言うことです。

〝私たちは、今日生きたように死んでいくのです。〟今日が大事なのです。

今日を、不満タラタラと過ごすのか。それとも、今日を、感謝して生きるのか。選び取らなければなりません。

神さまを全く信頼して生きる。この一日一日の積み重ねが私たちの一生となっていくのです。そういう意味で、「一日一生」と言う本も出版されているのです。

 要は、大変な問題を抱えていたとしても、主に全く信頼して生活しているクリスチャンの姿を見て、周りの人は教会に来たいと思うようになるのではないでしょうか。

しかし、神さまは神に信頼できないでいる人を見て、35節「信仰の薄い者たちよ」と言われているのです。

 空の鳥、野の花、野の草が私たちの前に証として差し出されたのです。

イエスさまは、私たち人間を指して、「あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか」と、それら以上に〝より勝る〟者ではないか! と言われています。

取るに足りない空の鳥さえ、神さまは保護しているのだから、人間も自分の力で獲得しなければならないと言う傲慢な心を捨てて、素直に神さまの手に全てを委ねるべきだと言うことです。

 すなわち、人間は神の手によって創造された神の被造物です。自分の寿命も神さまの御手によって操縦されているのです。神さまは、鳥とか花とか草の被造物の隅ずみに心を留めてくださっているのです。

ましてや天の父は人間に必要な物はすべてご存じであると32節に言われています。私たちは、創造者である神さまを信頼して、与えられた時を生きるべきであることを教えられました。

この「与えられた時」とは、27節「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」と言われている寿命の時です。

讃美歌に「生きるも良し、死ぬるも良し」とありますが、その時を主にお任せしますと言う信仰です。

主イエスさまは、食物や衣服のような日常生活において基本的な問題を取り上げて心配する必要がないと諭しておられます。それは、「神さまは、すべての造られたものを養って下さる」と述べたように、創造論の故です。

(2)第2番目は、「心配しても問題は解決できない」と述べている点です。

私たちがいくら心配しても「自分の命を少しでも延ばすことはできない」と言うことです。

この他に病気のこととか、いろいろと思い悩むことがあります。むしろ心配することによって逆に寿命が縮んでしまうことになりかねません。このように、心配は問題の解決に少しも役立たないから、無駄な心労はやめて、神さまに委ねなさいと言うことです。詩編55編23節に言われています。

「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」

(3)第3番目は、一番大事なことは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と言うことです。

 神さまは、食べ物や衣服が私たちに必要であることを知っておられることを31~32節に述べておられます。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。」

だから大事なことは、心配することよりも、まず神さまを信じることが大切なのです。

33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

ここで言っている「神の国と神の義」とは、わかり易く言うならば、神と人との正しい関係です。すなわち、「神の国」とは、神の御支配を意味し、「神の義」とは、神と人との正しい関係を意味します。一言で言うならば、〝神の御支配に服従して神さまに全き信頼をおく関係〟のことです。

それは、私たちの行いが正しいからとか、行いが良いから、神さまが必用を満たしてくださるのではありません。ただ、ただ主イエスの十字架の恵みによって私たちと神さまとの正しい関係が回復していると言うことです。これが神の義なのです。

主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださった。この恵みを信じて、感謝して祈るのです。

 さらに祈らなければならないもう一点は、衣服よりも神の国の到来のためです。

神の国と神の義の到来は、すでに主イエスさまを通して信じる者の間に実現しているのです。しかし、天におられるキリスト・イエスさまは、再び来られて神の国・その御支配を完成されるのです。それをキリストの再臨と言って待ち望むのです。だから「主の祈り」で「み国を来たらせたまえ」と祈るのです。「マラナ・タ」とは「主よ、来てください」(Ⅰコリント16章22節)という意味です。

一番大事なことを祈っていれば、神さまは人間の必要をすべてご存知なのだから、

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と約束されています。ですから、大切なことを第一として、それから自分の必要を祈りましょう。

 預言者エリヤは、紀元前9世紀頃、大変残忍で、バアル崇拝者のイスラエルの王アハブと、神さまの命令に従って戦いました(列王記上17章Ⅰ~16節)。しかし、エリヤは逃亡の生活を余儀なくされ、ヨルダン川の東にあるケリト川のほとりで身を隠し、烏がパンと肉を運んで来て養われました。更に、主はエリヤに臨んで言われました。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」と言われると、言われたままに行きます。このやもめは大変貧しい人で、薪を拾っていました。エリヤは声をかけ、「少し水をください。パンも一切れください」と言ったところ、彼女は「あなたの神、主は生きておられます。」と言った後、私にはパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油があるだけです。今、私と息子の食べ物を作り、これを食べたら、死ぬのを待つばかりですと言いました。

 そこでエリヤは言います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜなら、イスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」と。やもめはエリヤの言う通りにしました。こうして、エリヤも彼女も、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠くことはなかったのです。

 主がエリヤによって告げられた御言葉の通り、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかったのです。ここで大切な点は、まずわたしのために作ってくださいとエリヤが言ったことです。それは神の預言者のため、即ち、神さまに献げなさい。神さまのためにしなさい。それから自分のためにしなさいと言うことなのです。

(4)最後に、第4番目は、「明日のために心配はいらない」ことです。

34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 私たちの心配ごとは、大部分は未来に関することが多いと思います。老後のこと、死後のこと、等々。しかし、それだけではありません。過ぎ去った日々、昨日、おとといの悩みがあります。しかし、聖書では、イエスさまは、苦労はその日の苦労だけで十分であると言われました。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自ら思い悩む。」と言われています。

それでは、昨日あった あの重大な事はどうなるのだろうか、と思うことでしょう。

それは、昨日の内に、神さまに祈って、み言葉に聞いて、神さまと相談して行くことが大切なのです。その日の内に、罪を告白して、または、感謝して、その日を神さまの御前に誠実に生きることを聖書は教えています。

マタイの6章は、「主の祈り」のある箇所です。この中でも主イエスは6章11節で「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と祈るように教えられました。

旧約で、イスラエルの民が荒れ野で天から降って来るマナを食べて生きた時、欲張りの人は、神さまの言われたとおり、その日の分だけ拾わないで、2日分拾ってしまいましたが、2日目の分は腐ってしまいました。このことを通して、私たちは本当に神さまを信頼しているかが問われています。

今日と言う日を神さまに全力を注いで、精一杯、従って生きれば、神さまは喜びの生活を与えてくださいます。

 特に今回、気づかされたことは、28節のみ言葉です。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか。注意して見なさい。働きも績もしない。確かに栄華を極めたソロモンでさえ、この一つの花ほど美しい服を持っていたとは言えません。

 日本人は〝働かない者は食うべからず〟と言うことを思いがちです。しかし、人には、いろいろな事情や環境があります。

 ここで、主イエスさまの、「働きもせず」のお言葉に大変な慰めを得ました。「働きもせず」、しかし神さまは守り支え、きれいな花を咲かせてくださり、ソロモンの持つ服以上に美しいと言ってくださいます。

私たちは一般に、どうしてもdoing(行う)、人の行いばかり認めたがるのです。

ところが主イエスさまは、being(存在)、人の存在そのものを認めて大切にしてくださいます。どんな人でも、働いていようが、いまいが、その人の存在そのもの、そこに居ると言うその人を美しく装い、育ててくださる神さまに感謝したく思うのです。

 今日は、礼拝が終わってから、少し一服して、交わりをしてから、お花をもってお見舞いに行きます。美しいお花は、病人にとっては大変慰めになるでしょう。

 お花と言えば、幼稚園の運動会の日、私は宗教主事として子供たちに開会礼拝の話をしたことを思い出します。

 その内容は、「お花には、ひまわりのような大きな花や、矢車草のような小さな花があります。お花の色も、赤いバラとか、黄色いタンポポや白い百合とかがあります。どの花も、自分は小さいから大きい花のようになりたい、自分は白いから赤い花のようになりたいと思わないのです。自分は小さくても満足し、精いっぱい咲いて、みんなを楽しませています。白い花は白で充分、他の花の色を羨ましがらないで、精いっぱい喜んで咲いています。だから、みんなも、走るのが早い子も、遅い子もいるし、遊戯が上手な子も、そうでない子もいます。今日は、お花のように自分のできることを一生懸命に、精いっぱいガンバリましょう。そして、子どもも大人も楽しい運動会にしましょう。」と、メッセージをしたら、大変、喜ばれました。

 まず、幼稚園の先生たちが「ホッとしました。」と言いました。「運動会は、親たちが自分の子供と他の子供とを比較して見るので、最初に、あのようなメッセージを聞いたので、みんなリラックスして運動会を楽しめます。」と、大変喜ばれたわけです。

祈り

 主なる御神さま。御名を賛美致します。私たちはそれぞれ環境や状況は違って、人には話せない悩みや苦しみがあります。しかし、イエスさまの遺言は「あなたがたには悩みがある、しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というものでした。また、今日の話にあるように、私たちは神さまに委ねて、まず神の国と神の義を求めて歩むのであれば、神さまは本当に全て添えて与えてくださるという約束をなさっています。

 どうぞ神さま、本当に弱いものですから、聖霊なる神さまのお力を頂いて、この一週間もあなたを見上げて、安心して生活することができるように、一人一人をあなたが強めて下さい。特に病んでおられる方々の上に、あなたの癒しの御手を置いて下さい。また、看病しておられる方々や、色々な事情で教会に来ることのできない方々の上にも、あなたが豊かに望んで平安な心と、また勇気と、力を与えて下さい。必要なものをどうか満たして下さいますように、切にお願い致します。主イエスの御名によって祈ります。 アーメン。

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