月報『マラナタ』7号巻頭言

「小さな群れよ、恐れるな。」

2018年10月7日(日)礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:イザヤ書60章19~22節、
ルカによる福音書12章22~34節


1.教会設立130周年記念の月を覚えて

 本庄教会は、今年、教会設立130周年を迎え、21日には、本庄教会出身の入治彦牧師を迎えて記念礼拝を献げます。そこで、私も設立130周年を覚えつつ、これからの本庄教会の歩み、目指すところを主の御言葉からお聞きしたいと願い祈っています。

 『本庄教会~設立100周年を記念して~』や『島村教会100年史』を読み返しました。

 島村教会は昨年、設立130周年記念を迎え、本庄教会は1年後の今年が130周年を迎えました。『島村教会100年史』を読んでいると、1886年(明治19年)7月10日島村教会で、スペンサー教師より本庄の雨森氏正兄が洗礼を受け、9月13日にマックレー宣教師より本庄の清水恒造兄が洗礼を受けています。 

 この二人の兄弟が、本庄での伝道の主体となって、本庄でのキリスト教講演会を開き、今の伝道所にあたる講義所を開くのでした。1888年(明治21年)7月14日の第4回四季会に於いて、本庄、島村の両教会の連合を解き、各自分離することが決議さ
れました。

 10月20日、本庄教会の献堂式が挙行され、この日を本庄教会の設立記念日とするようになったのであります。

 本庄教会の100年記念誌によると清水恒造兄と雨森氏正兄について次のように記しています。

 清水恒造兄は、養蚕業で、1886年(明治19年)頃、養蚕技術を学びに山口県の萩の士族授産施設に行った時、萩でキリスト教会の説教を聞き感銘を受けたのでした。病気になって萩を離れる時、聖書を買い求めて本庄に帰り、神様の話をしたけれども誰も理解する人がいなかったのです。

 雨森氏正兄は、時計の修理行商を営み、行商の途中、ふとしたことから、1886年5月4日、安中教会の献堂式に出席し、信徒の熱心さと、海老名弾正牧師の祈りに大いに感銘し、キリスト教を求道するようになりました。

 雨森兄は、本庄に帰り、清水恒造兄を訪ね、語り合う内にキリスト教伝道の必要性を確信し、二人は使命感をもって本庄の伝道を始めるようになったのです。

 設立130周年を迎え、島村教会、本庄教会の100年史を読んで見て思うことは、教会の始まりは、キリストの福音・教えに触れて感動した2人、3人から始まっていることです。イエス様が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と約束されているとおりです。

2.「神の国」と小さい、弱い者

 今日、「イザヤ書」と「ルカによる福音書」を読んでいただきましたが、その中でイザヤ書60章22節「最も小さいものも千人となり、最も弱いものも強大な国となる。」

 ルカによる福音書12章32節「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」の御言葉に注目したいのです。

 最初は小さく、弱い者であっても千人の強大な国になり、神様は小さな群れに喜んで「神の国」を下さると言うことです。これは神様、イエス様のお約束なのです。

 小さく、弱い者が、どのようにして「神の国」に与かることができるのかを確認したいと願います。

 「神の国」は、ギリシア語のバシレイアが用いられ、マタイは55回、マルコは20回、ルカは46回用いています。ヨハネは2回しか用いていないのですが、「神の国」は「永遠の命」という言葉で言い換えられています。

 王の国は、王様の権力や支配の及ぶところであるように、「神の国」の意味するところは、神様の権力、支配の及ぶところであります。神様が支配されているところが神の国なのです。神様が私たちの命を支配されるとヨハネが言うように「永遠の命」となるのです。

 私たちは、神様に「神のかたち」として造られ、祝福された人間であります。ところが、アダムとエバが神様に背いて以来、造り主である神様を認めない罪のために、神様からの祝福と恵みが分からなくなり、自分中心になって、人間同士争い、殺し合うような状態にまでなってしまいました。神様を認めず、神様から離れている人間の罪を赦して、「神のかたち」を回復させようとして、神様は御子イエス様を誕生させて下さったのです。

 イエス様は、人々に神様の愛と祝福を語り示し、最後には、人間の罪を赦すために自分の命を十字架の上に犠牲として献げられました。イエス様は十字架のうえで、「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ命を献げられたのです。このイエス様の祈りと犠牲の命は、私の罪のためであったと信じる時、イエス様は私のキリスト・救い主であるとの信仰が告白されるのです。

 キリストを信ずる時から、私たちの存在の全てが神様の愛と祝福の中に入れられ、神様の御支配をいただくことになるのです。
イエス様は言われました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にある。」(ルカ17:20~21)

 この御言葉は、〝今、あなたがたを支配されている神様が、ここにおられるのです。神の国がすでにキリストを信じているあなたがたの間に始まっているのです。〟と言っているのです。

 しかし、しかし、イエス様は言われています。
「財産のある者が、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだか針の穴を通る方がまだ易しい。」(ルカ18:24~25)

 財産がある金持ちは、財産やお金があることに安心してしまい、神様を求め、拠り頼むことは、らくだが針の穴を通るよりも、本当に難しい、と言われています。

 小さい、弱い、貧しい者は、誰かの助けをいつも必要としているのです。助けを神様に求めるから、神様は助けて下さるのです。イエス様は、いつも小さい者、弱い者、貧しい者の傍らに立って、この人々を憐れみ、彼らに信ずる心を与え、神様の祝福と恵みに与からせて下さるのです。

 萩の養蚕技術の授産施設に学んだ清水恒造兄は、教会で説教を聞き感銘して本庄に帰ってきましたが、誰も神様の話を理解しませんでした。一方、安中教会の献堂式に出席して感動した雨森氏正兄は、本庄に戻り、清水恒造兄を訪ねて、互いに受けた恵みを語り合いました。二人は、本庄でのキリスト伝道の必要性を確信して、使命をもって伝道をし始めるようになったのです。

 私たちは、いつも、自分の小さいこと、弱いこと、貧しいことを思うと、何のお役に立つのだろうかと身を引いてしまいがちです。でも神様は、どんなに小さい者にも、どんなに弱い者にも、どんなに貧しい者にも、御言葉を通して神様の祝福、神様からの恵みを感じ取らせて下さるのです。その感じ取った恵みを2、3人で分かち合うところに復活のイエス様が共にいて下さるのです。そして、互いに受けた恵みを2倍、3倍に大きくして、御用に用いて下さるのです。

3.『ただ、神の国を求める』とは神様を第1にすること

 私たちは、日々の生活で、どうしても、何を食べようか、何を着ようかと思い悩んでしまいます。美味しいものを食べて、きれいな衣服を身に着けても、その満しは一時的な満たしであります。もっと美味しいもの、もっときれいなものと、欲望がさらに増して行くだけで、心が満たされないのです。

 イエス様は、言われています。「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(ルカ12:29~31)

 「ただ、神の国を求めなさい」とは、神様の事を第一にすることです。

 神様の事を第一にすることは、神様の御言葉を第一にして聞くことです。そうすれば、神様は信ずる者の必要とする衣食住のことはすべてご存知ですから、必ず面倒を見て下さるのです。これはイエス様の約束です。

 私たちは財産やお金がいっぱいあると、神様の事を第一にすることが本当に難しいのです。幸いにして、私は財産やお金はないので、それは神様にお委ねして、神様の事を第一にして仕えて来ました。不思議と、神様はその時その時の必要を満たしてくださるのです。

 私たちは、日々の衣食住の事で思い悩んでしまう「信仰の薄い者たちよ」と言われてしまう小さな者です。イエス様は、そんな私たちに「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる。」と言って下さっています。

 私は、昨年の4月から本庄教会に遣わされて本当に感謝しています。29年間、大宮教会という現住陪餐会員250名余りになった教会にいて、見えてこなかったことを見させていただき、気づかなかったことを気づかせていただいております。それは「小さな群れよ」とイエス様が呼びかけておられる御言葉の意味です。

 前にも話したように、私が救われた時の羽咋教会は、牧師が司会兼説教者、奥様がオルガニスト、ベンチに座っているのが私というたった3人で礼拝が始まることがしばしばでした。しかし、そこに復活のキリスト、イエス様が御臨在くださり、自殺志願者の私を救い、牧師を辞めようとしていた牧師が「ここでもう一度牧師をやり直す」と決心をしたのです。キリストの御臨在のリアリィティ、キリストが共にいて下さる実感は小さな2、3人の群れの中で起きることを改めて再確認しました。

 「小さな群れよ」というイエス様の呼びかけは、群れの大きい、小さいと言うことではなく、「わたしがいつも共にいる小さな群れよ」という意味だと感じ取れるようになりました。どんなに大勢の教会であっても、イエス様の御臨在を確認できるのが、イエス様の御名によって集まり、御言葉からいただいた恵みを分かち合う2、3人の群れなのです。

 設立130周年を迎えた本庄教会のこれからは、誰もがイエス様の御臨在を絶えず確認でき、喜び合うことのできる神の家族としての教会を形成するために、御言葉を通していただく恵みを分かち合うことを目指して行きたいと願います。

<祈り>

 天の父なる神様、本庄教会は今月、教会設立130周年記念日を迎えます。その始まりは、教会で説教を聞いたり、祈りを聞いたりし、その恵みに感動した二人の分かち合いから、本庄でもキリストの福音を宣べ伝えたいと願い祈ったことでした。

 神様、本庄教会の私たちも神様からの恵みを絶えず分かち合うことのできる場を大切にし、その恵みと喜びを、更に本庄市の人々に伝え分かち合うことができるようにお導き下さい。
主イエスの聖名によって祈ります。  

アーメン。

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