月報『マラナタ』4号巻頭言

「互いに仕え合う妻と夫」







2018年7月1日(日)
礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:創世記2:18~25、
エフェソの信徒への手紙 5:21~33


1、「互いに仕え合いなさい」

 「互いに仕え合う妻と夫」という説教題を見て、ある方が、この説教は結婚していない人は聞けないのですかと質問をしてきました。決してそうではなく、これから結婚を求め祈る方にも、是非、聞いてもらいたく願います。

 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(6:21)という言葉は、「妻と夫」(5:21~33)「子と親」(6:1~4)「奴隷と主人」(6:5~9)の全部にかかる御言葉であります。

 最初に、神様が造られた人間、男と女との関係、その在り方を御言葉から聞きます。次に、男と女が結婚した夫婦の在り方を御言葉から聞きます。ここから、聖書が示す結婚の有り様が示されてきます。

2、人間を男と女に造られた神様

 神がなぜ人間を男と女とに造られたのかと言うと、創世記2:18に、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者(口語訳、ふさわしい助け手)を作ろう。」と言われています。

  この「彼に合う助ける者」とか「ふさわしい助け手」という意味は、〝顔と顔とを向き合わせて尋ね合う者〟の意味です。互いに「わたし」「あなた」と呼び合って、対話をする関係です。

 結婚への出会いは、お見合いであれ、恋愛であったとしても、出合いの最初は、皆同じように、顔と顔とを向き合わせて、お互いを知ろうとして、相手のことを聞き合ったのではないでしょうか。そして、この人と結婚しようと決心したのではないでしょうか。ある人は、私たちは親が結婚を決めてしまったので結婚しましたと言いました。そうであったとしても、結婚を決められて、お互いに相手を知ろうとされたと思います。

 神様は、人は独りでいるのは良くないと言われて、尋ね合う、対話の相手として、男に対して女を造られたのです。

聖書によると最初、神が造られたいろいろな生き物に、人は名前を付けたが、自分に合う助ける者を見出すことができなかったのです。

そこで神は、男を深いねむりに落とされて、男のあばら骨の一部を抜き取り、その抜き取ったあばら骨から女を造られたと記されています。男のあばら骨を抜き取って女を造られたとは、とてもグロテスクな、奇怪な表現です。これは何を意味するかと言うと、あばら骨の所に心臓があり、そこに人間の心があると考えられていました。神が男のあばら骨から女を造ったと言うことは、男の心を分け合う存在として女を造られたと言うことなのです。男と女とは、互いに心を分け合う者として存在しているのです。
だから「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」と言っています。

私の小さいころ、「骨まで愛す」という流行歌があり、どんなことだろうと驚きましたが、今、それが分かるようになりました。

「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」神は、男と女とが結ばれて、裸の関係を祝福されているのです。
 
以上のことから、次のことが問われます。
人間、男と女との関係は、尋ね合う関係であって、それは生涯続くと言うことです。男にとって女は、女にとって男は、知り尽くすことのできない未知なる存在であると言うことです。

妻と私は、私が20歳の時に出会って以来、もう55年間、向き合っている関係です。大体のことは分かったと思っていますが、まだまだ分からないことのある存在なのです。だから、尋ね合うのです。夫婦は、死ぬまでお互いを発見し合う存在なのです。それゆえ、どんなに歳をとっても新鮮な思いで向き合えるのです。

しかし、どうでしょうか。多くの人は、結婚して数年経つと、お互いがもう何もかも分かったように錯覚してしまいます。尋ね合うことを辞めて、新たに他の人との関係を求めて行き、結婚生活の破綻が起きてしまいます。

男女が尋ね合う関係の原点は、人間は「神のかたち」として造られて、神と向き合い、尋ね合う関係に造られていることです。男女がそれぞれ神と向き合い尋ね合う関係、それが礼拝なのです。礼拝を通して神と向き合う人は、夫婦同志の関係も、向き合い、尋ね合う関係ができるのです。

たとえ、夫婦の片方が信仰者でなくても、信仰者の神と向き合うことが、夫婦の尋ね合う関係にも活かされていくのです。

3、カナの婚礼の祝福の意味

 新約聖書のヨハネによる福音書2章で、主イエスは、ぶどう酒が無くなったカナの婚礼の時、召し使いたちに水がめに水を満たさせ、その水をぶどう酒に代える奇跡をもって結婚を祝福されました。この出来事の鍵は、母のマリアが、召し使たちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言われたことです。人生のどんなピンチのときでも、主イエスの御言葉に従う時に、ピンチがチャンスとなって、思いを超えた主の恵みに与かって祝福されると言うことです。 

4、「夫は妻の頭」とは?

 パウロは、結婚が祝福されるために、キリストと教会の関係を土台にしています。

「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」
 
今日、妻は夫に仕え、夫は妻の頭であるという言葉は、女性にとって、とても屈辱的な言葉として、結婚式の式文から削除されています。

30年余り前、福井神明教会に仕えていた時、ウィメンズカレッジの英語講師として勤めていた、ジェイ・トーマスという青年が、教会の青年会で、この個所を学んでいる時、「皆さん、ここはこの通りに信じますか」と聞くと、日本の青年たちは、「聖書にそう勧められているから信じるよ」と言うと、ジェイさんは、「アメリカでは、多くの人は信じていません。アメリカでは妻が夫の頭ですよ」と言って驚いていたのを思い出します。彼は、聖書の御言葉を神の言葉と信じる青年たちと交わり、学び、そしてやがて私の手から洗礼を受けました。

 今日、ある立場の人は、この言葉を嫌い、用いないようにしています。しかし、このパウロの勧めには、結婚の奥義が込められているのです。
「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」

この「キリストが教会を愛し」とは、キリストが十字架の上に命を犠牲にして、教会の信徒たちを愛されたと言うことです。
「キリストが教会を愛したように、妻を愛しなさい」とは、夫となるべき者は自分の命を犠牲にしてまでも妻を愛しなさいと言うことです。

私は、結婚ガイダンスでいつも、この聖書の個所を用います。教会で結婚式を挙げることは、キリストが命を犠牲にして愛したように、あなたは妻となる人のために自分の命を犠牲にする覚悟で愛することができますかと言うことが問われるのです。彼女のために、あなたは自分の命を犠牲にする覚悟で愛しますかと聞きます。

ほとんどの人は、「はい、その覚悟で愛します。」または「はい」とうなずきます。すると、彼女は、嬉しそうにっこりします。私は「彼は、自分の命を犠牲にする覚悟で愛すると言っています。あなたは彼を頭として仕えていきますか。」と聞くと、彼女は「はい、喜んで仕え、私も彼を愛して行きます。」と言います。

確かに、聖書は男性中心に書かれています。それは、神の御前に、まず男性は、命をかけて、妻や子供たちを愛して行く責任ある者としての姿として記されています。

「夫は妻の頭である」と言うことは、自分の命を犠牲にする覚悟で妻を愛すると言うことです。こんな大事なこと、すばらしい決意を結婚前の男女が確認することのできるこの個所を削除することは、残念です。私は削除しないで教えています。

5月に、大宮教会の姉妹の結婚式を司式しました。両親の結婚式、生まれた後の幼児洗礼、大きくなって高校生の時の信仰告白式と、全部、私がかかわったので、私に結婚の司式をしてほしいと、大宮教会の長老会の承認を経て、司式を申し込んできました。結婚ガイダンスをすることを条件で引き受けました。東京に住んでいる二人は、本庄まで来てガイダンスを受けました。彼に、「夫は妻の頭であることは、キリストのように自分の命を彼女に献げて愛することだが、その覚悟がありますか」と問いました。彼女の前に、「はい、自分の命を彼女のために献げます。」とはっきりと答えてくれました。

2人は、演劇の照明デザイナーの仕事をしていて、日曜日は、毎週休めません。日曜日が休日の時は、大宮教会の礼拝に出席することが、あなたがたの誓いを守り、互いに尋ね合う関係を支えることになりますよと勧めました。この間、二人は礼拝に来ていたと情報が入ってきました。
 
この「夫は妻の頭である」の御言葉が分かれば、26節以降の御言葉は素直に入って来ます。

「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものはなにひとつない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』 この神秘は偉大です。

わたしは、キリストと教会について述べているのです。
いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」

 キリストに対する畏れをもって互いに仕え合う妻と夫として、キリストにある喜びと感謝を表す歩みをしてまいりましょう。

祈り

 父なる神様、今日は、御言葉に基づいて、男と女の関係、また妻と夫との関係を見つめ、神様の御心を知ることができました。
イエス・キリストは御自身の命を犠牲にしてまで、私たちを愛し、救ってくださいました。その御愛に生きる者として、男と女との出会い、また、夫婦の関係を導いて祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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