月報『マラナタ』1号巻頭言

「神のかたちを生きる」

2018年4月15日(日)本庄教会礼拝説教
疋田國磨呂 牧師
聖書:創世記1:27~31、 Ⅰコリント 6:19~20

1、2018年度の教会総会を覚えて

 2018年度の教会標語を「主よ、祈りを教えてください」と掲げています。
 この標語は、ルカによる福音書11章1節に、弟子の一人が祈っておられた主イエスに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったと記されています。それを縮めて「主よ、祈りを教えてください」としました。この標語は、主の弟子たちが主イエスに祈りを教えてくださいと願い求めたように、私たちもこの一年間、〝イエス様、本庄教会の私たちにも祈りを教えてください〟と願い求めて、祈りについて学ぶ1年にしたいと願っています。
 なぜ人間は祈らねばならないのかと言う根本について、御言葉から聞きたいと思います。

2、人間は「神のかたち」に造られた

 キリスト者は、天地万物を造り、人間の命を造られた方を神と信じています。「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあるように、神は人間を「神のかたち」に造られたのです。
 「神のかたち」とは何を意味するのでしょうか。創世記2:7に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。鼻に吹き込まれた「命の息」は「神の霊」とも訳すことができます。神に造られた人間が、神の霊を吹き込まれて生きる者となったということは、目に見えない神と向き合い霊的に対話ができるということであります。
 神は人間だけに神の霊を吹き込み、神と対話ができる者とされたのです。対話とは、人間に対する神の語り掛けを聞き、人間も神に語り掛けることができるということです。この霊的な対話を「祈り」と言うのです。
 日本人が神社仏閣で献げる祈りは、聖書で言う祈りと根本 的に違います。自分の願望を一方的に述べるのです。神仏に自分の願望を請求するだけですから、祈願と言うのです。

3、人間の罪

 神はすべての人間を「神のかたち」に造られたのですが、それを人間が失ってしまいました。それが、創世記3章で記されているアダムとエバの物語です。アダムとエバは、神から「善悪の知識の木から、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われたのに、サタンの化身である蛇が「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と唆し、女は「神のように善悪を知るもの」となりたいと思って食べてしまったのです。以来、人は神から顔を背け、まるで神のように善悪の基準を持ったかのように思ってしまい、神と向き合うことなく、神に聞かなくなってしまいました。これが聖書で言う「罪」なのです。

4、神の愛とご計画

 人は誰も、自分なりの善悪の基準を持ち、自分の基準が一番と思っています。夫婦であっても、価値基準がなかなか合わないのです。
 神は、「神のかたち」として造った人間が、自分の善悪の基準を一番にして行く結果、争ったり、人を殺したりしていく姿を大変悲しまれています。国と国との善悪の違いは戦争にまで発展していくのです。
 しかし、神は「神のかたち」として造られた人間を愛してくださっているのです。神は、何とかして人間に与えられている「神のかたち」を回復しようと計画を立てられました。最初は、イスラエルという民族を選び、十戒という律法を与え、それを守ることを通して「神のかたち」を回復させようとしました。しかし、人間は律法を守ることを通して神の御前に立ち帰ることができなかったのです。
 それで、神は、神の御子イエスを誕生させられました。御子イエスを通して神の御心と愛を地上の人々に知らしめ、最後は、すべての人間の罪を赦すために御子イエスの命を十字架の上に犠牲として献げられたのです。御子イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ22:34)と私たち人間の罪の赦しのために祈りつつ、命を献げて行かれたのです。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙4:10)と言われているとおりです。
 御子イエスは、死んで墓に葬られましたが、3日目に復活され、弟子たちの前に現れました。死んだら終わりではないのです。復活されたイエスは、今は、天の神様の右の座に着いて、私たちの場所を用意して下さっておられるのです。また、聖霊と共に呼び求める私たちの傍らに、また礼拝の中に来て御臨在くださるのです。

5、「神のかたち」を回復して生きる

 イエスを救い主と信じて救われるということは、「神のかたち」を回復して生きることです。キリスト者は「神のかたち」を生きる人々です。目に見えない神を「天のお父さん」と呼んで、対話の祈りをする人々です。
 定家都志男牧師は著書で「あなたはどんなお祈りをしていますか」と問われていることは、〝あなたは、神と霊的な対話をしていますか〟という問いかけです。
 キリスト者は、イエス・キリストを信じて洗礼を受けると祈りを覚えて、祈りができるようになります。赤ん坊が、少しずつ言葉を覚えて成長するように、周りの信仰の先輩たちの祈り方を真似て、私たちも少しずつ祈りを身に着けるようになります。しかし、その祈りは神との対話になっているかと問われると、どちらかと言うと自分の願いが中心の祈りであります。 
 神との対話の祈りは、説教と日常の生活の中で聖書日課を通してのディボーションにより、自分への神からの語り掛けを聞く時にはじめて、対話の祈りができるのです。

6、私たちの体は聖霊が宿って下さる神殿

 ディボーションにおいて一番大事なことは、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」ということです。キリストを信じて洗礼を受けることは、その時から聖霊を受けることです。この聖霊は「イエスはキリストである」と信じるように導き、目に見えない神を「天の父なる神様」と呼んで祈るようにさせ、聖書の言葉を神の御言葉として聞くことができるようにしてくださるのです。
 「神のかたち」として生きることは、聖霊を宿して生きることでもあります。聖霊は「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:16)と約束されています。
 「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。自分の体で神の栄光を現しなさい。」と勧められています。私たちは、神が御子の命という代価を払って、罪の支配から、神の支配へと買い取ってくださった者なのです。私たちは神の御支配の中に生きる神のものなのです。「神のかたち」を生きるということは、聖霊なる神と共に生き、神の栄光を現すことであります。
 この一年間、「神のかたち」を回復して頂いた者として、対話の祈りをしつつ、この地域において、神の御業に仕えて、神様の栄光を現して行きたいと願います。

祈り

 父なる神様、あなたは人間を「神のかたち」としてお造り下さったにもかかわらず、そのかたちを失って、自分中心に生きて来ました。あなたは御子イエス・キリストの十字架の贖いを通して「神のかたち」を回復してくださいました。聖霊の宿る体として、この恵みの中に生活できるように、日々の聖書日課を通して神様と対話の祈りができるようにお導きください。
 聖霊なる神様、求めておられる方々の上に、イエス・キリストを信じて「神のかたち」を喜んで生き、神様の栄光を現すことができるようにお導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。

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