クリスマス・イヴ礼拝メッセージ

「すべてのひとらすまことひかり

2018年12月24日(月)
クリスマス・イヴ礼拝説教より
ひきくに磨呂まろ 牧師
聖書:へん36へん14~22せつ
ヨハネによる福音書ふくいんしょ1しょう1-18せつ


1、クリスマスはキリストの誕生を祝うのになぜサンタクロースなのか

 メリー・クリスマス。皆さん、ようこそ、イブ礼拝にお出で下さいました。クリスマスは、日本の年中行事に、なくてはならないものになりました。

 私は、一昨年まで、キリスト教幼稚園の園長を39年間務めてきました。クリスマスになると、キリスト教幼稚園では3歳児、4歳児、5歳児が一緒にキリストのお誕生を祝う劇を演じるのです。この劇のことを「ページエント」と言います。無垢で純真な心で演じる子供たちのページェントを見て、イエス様の世界を垣間見るようで感動していました。この子どもたちに「クリスマスってなあに」と聞くと、「イエス様のお誕生日です」と返事が返ってきます。

 ところで、キリスト・イエス様のお誕生日のクリスマスなのに、なんでサンタクロースが出てくるのでしょうか。
NHKの番組〝チコちゃんに叱られる〟ではありませんが、「今や、日本の全国民に問う。クリスマスはキリストの誕生日なのに、なぜサンタクロースが出てくるのでしょうか」と問われます。その答えは、現在のトルコのミラで、セント・ニコラスという司教・神父さんがいました。ニコラスはある時、貧しくて娘が身売り寸前の家にコインを投げ入れて、娘が助かったという逸話が元です。

「セント」と言うのは聖人のことです。聖マリアのことをサンタ・マリアともいうように、セントはサンタともいわれます。サンタ・ニコラスという名前がサンタクロースと訛って行ったのです。このセント・ニコラスは、キリストの救いの恵みと喜びを人々に伝える神父でした。ニコラスは裕福な家に育ったそうですが、貧しくて身売り寸前の娘を救うためにお金を投げ入れて助けました。ニコラスは、キリストの救いの恵みと喜びを分かち合っていたのです。投げ入れたお金がストープわきに干してあった靴下に入ったそうです。それでサンタクロースが靴下にプレゼントを入れてくれるとの逸話になったのです。

 今日では、サンタクロースは子どもたちの願望叶える象徴的存在になっています。それはそれなりに意味があるかと思いますが、サンタクロースの元祖はキリストの救いの恵みと喜びを分かち合う意味でのプレゼントであったことを覚えたいと思います。

2、心の暗闇・自分中心

 キリストの救いの恵みと喜びとは何かについて、お話いたします。

 ヨハネは、キリストの誕生を、暗闇の中に輝く光として描いています。9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と言われています。

皆さんは、暗闇と言うとどんな場面をイメージしますか。
1)停電した真っ暗な世界を思う人もいるでしょう。
2)しかし、電気がついていても暗闇があるのです。それは人間の「心の暗闇」です。
皆さんは、どんな時に心が暗くなりますか。4つの場合を考えてみたいと思います。

 ①番目。頑張ったが失敗した。頑張ったが合格しなかった。頑張ったが負けた場合の「心の暗さ」です。がっかりしたり、悔しくも思ったりもしますが、こんな場合、やり直しでチャレンジすることができます。

 ②番目。人間関係がうまくいかない場合から生じる「心の暗さ」があります。人間関係の問題で一番辛いのは、相手から無視されたように思える時です。牧師を40年以上も務めていて、たくさんの方々の悩みを聞いてきましたが、自分が無視されたように思える時の辛さをよく聞かされました。ある方に、どうして無視されたと思うのと聞くと、「わたしが挨拶しても、返事してくれない」と言うのです。「聞こえなかったのでないの」と言うと、「自分は、いつもはっきりと、今日は、おはようございます、と言うけれど、返事は帰ってきません」と言うのです。挨拶の仕方で無視されたと思う人がいるのです。
 挨拶は、人間関係を作る窓口で、大切なものであります。互い快く挨拶をかわしたいものですね。

 ③番目。何か悪いことをして心に秘めている時です。自分で悪いことをしたと罪を犯している場合の「心の暗さ」です。犯罪と言う刑事事件もあるでしょう。また、人間関係の中でうそをついて相手の立場を悪くしてしまった場合もあると思います。犯罪にかかわることは警察に早く自首することが一番でしょう。うそをついた場合、本人に告白して謝るのが一番でしょうが、それがなかなか難しいのですね。

 ④番目。これは普通、人々は気づかない場合が多いです。私たちの命の造り主である神様を信じないことから来る「心の暗さ」です。神様を信じないと言うことは、人は皆、自分を中心で生きることになります。この「自分中心」は、意外とくせ者で、自分中心を貫いていくと、自分も他の人の心も暗くしていくのです。
2番目の人間関係がうまくいかない場合も、3番目の罪を犯している場合も、もとはと言えば、自分中心からくる「心の暗さ」であります。

 私たち人間は、失敗したり、負けたり、人間関係がうまくいかなくなって辛い思いをしたり、相手を悪い方におとしめたり、最悪の場合、人の命を奪ってしまったりするのです。国が自分たちの考え方を絶対化すると戦争になってしまいます。人間は「心の暗闇」を持つ存在なのです。

 神の御子、イエス様がクリスマスにお生まれ下さった世界は、人間が自分中心にして生きるためにもたらす「心の暗闇」のある世界なのです。

3、心の暗闇を照らす神の御子

 ですからヨハネはクリスマスの出来事を次のように告げるのです。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは一つもなかった。」この「言」は、神の御子、イエス様のことなのです。「言」=「神の御子」なのです。

 この言=神の御子の内に命があって、神の御子の命は人間を照らす光であったのです。神の御子は、この世の暗闇の中で、人間の心の暗闇を照らす光として来られて、輝いているのです。しかし、「暗闇は光を理解しなかった」と言われています。

 今、私たちは暗闇の中にロウソクを灯しています。このロウソクは私たち人間の外側を明るく照らしています。しかし、私たちの心の暗闇を照らすことはできないのです。9節に「その光は、真の光で、世に来て全ての人を照らすのである。」と言われている光とは、人々の心の暗闇を照らすことのできる神の御子・イエス様のことなのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言われていますが、神の御子・イエス様が人間の肉・体をもって生まれてくださったことであります。

 フィリピの信徒に書いた手紙に神の御子イエス様の誕生を次のように言っています。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 キリストは、神の御子で、神御自身であるにも関わらず、神の特権を捨てて、弱い人間としてお生まれになったのです。それは、人間の生きるすべての苦悩、心の暗闇を知るためでした。私たち人間は、いまだかって誰も、神を見た者はいないのです。だだ、独り子であるイエス様を通して、私たち人間を造られた神様の御心と愛、「恵みと真理」を知ることができるのです。この神の御子・イエス様の言葉を通して、私たちは心の奥底まで照らし出されるのです。

 御子イエス様の光に照らし出される時、自分がどんなに自分中心で、他の人を愛することのできない、自分のことばかり考えている小さい、弱い者であるかを知らされます。

 しかし、同時に、自分中心な自分の存在であるが、神様に掛け替えのない者として造られ、愛されている存在であることも知らされるのです。

4、隣人を愛しなさい

 イエス様は言われています。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)と。

 イエス様が言われる自分を愛するとは、神様に造られ、神様から愛されている自分を大事にすることです。そのように、隣人も自分と同じように神様に造られ、神様から愛されている者として大事にしなさいと言うことなのです。

 私たちは自分に良くしてくれる人には良くし、好きになれるのです。しかし、自分を批判する人には良くできないし、好きになることはできません。

 イエス様は、自分に良くしてくれる人も、自分を批判する人も、自分と同じように神様から掛け替えのない者として造られ、愛されている者であることを認めなさいと言われていのです。隣人を愛するとは、どんなに嫌いな人でも、その人も自分と同じように神様に造られ、神様の愛をいただいていることを認めることなのです。どうしたらそのように隣人を愛することができるのでしょうか。

5、十字架上での御子の祈りと犠牲の死

 イエス様は、人間の心の暗闇をもたらすすべての罪を背負って、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、私たちの罪を赦すために身代わりとなって死んでくださったのです。

 このイエス様の十字架の祈りは、自分中心に生きて、心の暗闇を持っている私自身の赦しのためだと受け止める時、私たちは、神様が、イエス様の命を犠牲にしてまでも、私の命を大切に愛して下さっていることを信じることができるのです。

 この神様の自分への愛が分かる時、神様はどんな人の命も愛してくださっていることも分かり、自分が神様から愛されているように、隣人を愛することができるのです。

 クリスマスにお生まれになった神の御子・イエス様の光で、私たちの心の暗闇が照らしだされる時に、神様の愛が分かり、隣人を愛する喜びも分かるのです。

 セント・ニコラスは、神の御子イエス様を十字架にかけてまで、自分の罪を赦し愛して下さっている神様の大きな愛を知った時に、自分の手に持てるものを惜しみなく貧しい、困っている人々に分け与えることができたのです。そしてサンタクロースの元祖となったのです。

 このクリスマス、私たちの心の暗闇を神の御子・イエス様の愛と御言葉によって照らし出してもらい、神様の愛を喜ぶものとさせていただきましょう。

〈祈り〉

 天の父なる神様、クリスマスにお生まれになった神の御子イエス様は、私たちの心の暗闇を照らす光として来て下さいました。イエス様の愛の御言葉によって私たちの心の暗闇を照らしてください。そして神様から愛されている喜びを分かち合うクリスマスとしてください。御子イエス様の御名によって祈ります。
アーメン

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