2018年度標語の学び:
『主よ、祈りを教えてください』(続き)
**目次**
- 「主の祈り」の構造の確認
- 第4の祈り「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」
- 第5の祈り「我らの罪をもゆるしたまえ」
- 第6の祈り「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」☚
- 第7の祈り「国と力と栄えとは限りなく神のもの」
**過去の学びについてはこちら**
4.第6の祈り「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」
神様は、私たちが、喜びと感謝に満ちた生活をするようにと願い導いて下さっています。しかし、いつも喜びと感謝に満ちた生活ができるわけではありません。戸惑い、苦しみ、悲しむ出来事に遭遇します。そういう時を「試練」と言います。「我らを試みにあわせず」という「試み」は、善い意味で〝訓練〟ともなり、悪い意味で〝誘惑〟ともなります。
私たちは、或る出来事を通して試みられた結果、強くなり、前よりも精神的に向上できるならば、それは神様による試練であり訓練であります。しかし、試みに負けて悪に陥るきっかけとなるならば、それは誘惑であります。
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(1)主の試みには備えがある
神様が私たちを訓練するために試練を与えることがヘブライ人への手紙12:5~11に記されています。
「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
このように、神様は霊の父として、私たちが神様の神聖にあずかることができるように鍛えて、鍛錬・訓練をされるのです。
この試練で、聖書における最大の試練は、アブラハムのイサクの奉献でした。
アブラハムは75歳の時、祝福の源となるようにと神様から召しだされ、天の星のようにあなたの子孫を与えると約束されました。しかし、なかなか子供が与えられませんでした。25年経って100歳にして約束の子としてイサクが誕生しました。ところが神様はアブラハムを試みられたのです。
神様は、アブラハムに、愛する独り子イサクをモリヤの山に連れて行って、焼き尽くす献げものとして献げなさいと命じられたのです。100歳にしてやっと授けられた、愛する独り子を焼き尽くす献げものとして献げなさいと命じられたアブラハムの心境はいかばかりであったでしょうか。しかし、次の朝早く、アブラハムはロバに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神様が命じられた所に向かって行きました。
山に着くと、イサクは父アブラハムに言いました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」するとアブラハムは答えました。
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
二人は一緒に歩いて行き、神様が命じられた場所に着くと、アブラハムは祭壇を築き、薪を並べて、そして息子のイサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、イサクを殺そうとしました。
「そのとき、天から主の御使いが『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』 アブラハムは目を凝らして見まわしました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
アブラハムは、その場所をヤーウエ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。そこで人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』」言っている。」(創世記22:11~14)
このアブラハムにおける出来事は、神様がアブラハムの信仰を試された「試み」です。神様はアブラハムの信仰を確認して、全人類の祝福の源として用いられたのです。
その神様は、今日も、信仰者の私たちを試みて信仰を確かめて、その信仰に応じて用いられるのです。信ずる者が、神様から試みられていると思う時、大事なことは、神様は必ずその先に備えていて下さるお方であるということです。「主の山には備えあり」と言うことです。そう信じる時、私たちはどんな試練にも耐え忍ぶことができるのです。
今から7年近く前ですが、私は2012年9月、大宮の赤十字病院で、腎臓がんの再発と両肺への転移と診断され、余命1年と言われました。その時、聖書日課で、「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、先祖の列に加えられ、朽ち果てました。」と使徒言行録13:36の御言葉を与えられたのです。私は、その時、ダビデが神様の計画に仕えた後、眠りについたように、私も神様の御計画に仕えた後に眠りにつくのだと平安な気持ちになれたのです。
神様は、良きセカンドオピニオンの医師と良き治療を与えて下さり、多くの教会員の皆様に祈られて、癒しの恵みを頂きました。大宮教会で神様の御計画が終わりかと思っていたら、本庄教会に遣わされ、いまだに神様の御計画に仕えております。過ぎし1年は、本庄教会の皆様の祈りに支えられ、伊勢崎教会の代務者をも務めることができました。今私の体のがんは、寛解状態で、がんはまだ無くなっていないのですが、がんはおとなしくなって、私の働きを妨げることがないのです。がんと共に生きる私ですが、神様の御計画がある限り、仕えてまいりたいと願っています。
私はがんになったために、がんの人々の心と通じ、牧師として10数名の方々をイエス様の御許にお連れし、弟子としていただきました。〝がんも恵みです!〟と言っています。
本庄がん哲学カフェが始まりました。どなたのがん生活にも、がんを通して見出だす恵みがあるのです。そんな互いの恵みを分かち合って、互いに喜び生きる本庄がん哲学カフェとして行きたいものです。
皆様が試練を受けていると思われる時、神様の与えられる試みには、必ず、備えがあると言うことです。「主の山に備えあり」を忘れないでください。
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(2)試みは、悪魔・サタンの試みの時
私たちが受ける試練は、悪魔が働く時でもあるということです。
ペトロの手紙一5:8~11に言われています。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」
私たちが受ける試みは、悪魔・サタンの試みの時でもあるのです。
悪魔の働きの目的は、人々を神様から引き離すことなのです。ですから、不信仰な者はほっといても神様から離れるからと安心して余り働きません。しかし、信仰的に生きようと、礼拝を大切にし、聖書日課を通して毎日御言葉に聞こうとしたり、お祈りを大切にして生きようとする人々には、絶えず悪魔は働きかけて来るのです。
その悪魔の策略に対抗して立つためには、神の武具を身に着けることなのです。
エフェソの信徒への手紙6:10~20にそのことが書かれています。そこで、言われていることの一番大事なことは、私たちの戦いは、血肉(人)を相手にするのではなく、その人の背後に働く悪魔を相手にするのだと言うことです。
神の武具とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる履物、信仰の盾、救いの兜などを身に着け、霊の剣、即ち神の言葉を取りなさいと言われています。日々、聖書日課を通して聞き従う神様の御言葉ほど強い武具はないのです。
また、どのような時にも、聖霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気強く祈り続けなさいと勧められています。
水曜日に守られる「祈り会」は、聖霊に助けられて御言葉に聞き、聖霊に助けられて全ての兄弟姉妹のために、根気強く祈り続ける場なのです。その祈りに支えられて私たち信仰者の生活が守られているのです。是非、この祈りの場に加わってください。
聖書は、悪魔が絶えず信仰的に生きようとするものを襲ってくることを告げていますが、しかし、同時に、イエス様がご自身の代わりとして送られた聖霊は、私たちの弁護者・助け主として常に働いていて下さるのです。この聖霊は、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエス様が約束してくださっています。聖霊なる神様がいつもいて下さるという信仰が有るならば、何も恐れることはないのです。
しかし、愚かで、弱い私たちは、その聖霊なる神様の助けを忘れて、自分の力で何事もできると、しばしば思ってしまうのです。気が付くと、悪魔の誘惑に陥って神様から離れてしまうことがあるのです。
だから、そのようなことがないように、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。
イエス様は、「二人または三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいる。」(マタイ18:20)と約束されています。私たちは一人でいると悪魔に誘惑されやすいのです。だから信仰のある兄弟姉妹の交わりが大切なのです。互いに助け合い、祈り合って神の家族としての歩みを新年度も進めてまいりましょう。
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