月報『マラナタ』11号巻頭言

『主よ、祈りを教えてください』

2019年1月6日(日)礼拝説教より
ひきくに磨呂まろ 牧師ぼくし
聖書せいしょ:イザヤしょ61しょう10せつ
ルカによる福音書ふくいんしょ11しょう1-13せつ
マタイによる福音書ふくいんしょ6しょう5-15せつ

1、「主の祈り」からの学び

 2018年度標語の「主よ、祈りを教えてください」は、主の弟子がイエス様に「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と言ったことを「主よ、祈りを教えてください」を短く表現したものです。

 私たちキリスト者は、キリスト者としてどのように祈るかを、弟子たちのようにイエス様から教えてもらわなければならないのです。

 私たちの祈りの多くは、信仰の先達たちの祈りの見様見真似で身に着けたものであります。私は神学校でも祈りの仕方について学びませんでした。

 そこで、本庄教会として「主よ、祈りを教えてください」とイエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」を通して共に祈りについて学びたいと願っています。私たちの祈っている「主の祈り」は文語調ですが、これに基づいて、一つ一つの祈りについて御言葉から聞きたいと考えました。ですから、次年度に入り込みますが、ご了承ください。

2、「主の祈り」をめぐる6つの教え

 「主の祈り」は、ルカによる福音書11:1~13のほかに、マタイによる福音書6:9~15でも記されています。

 ルカもマタイも「主の祈り」の本文に付随して、語られていることがあります。その御言葉を取り次ぎます。次回から本文を何回かに分けて取り次ぎます。私は「キリスト入門講座」でも「主の祈り」について取り扱っています。

 イエス様は「主の祈り」を教えられるに当たって、ルカ、マタイにおいてそれぞれ3つのことを言われています。

ルカ11・1~13では

(1)イエス様の直伝の祈り

 弟子の1人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったことに対して、イエス様は「祈るときには、こう言いなさい」と言って「主の祈り」を教えられています。イエス様は、朝早く起きて祈られ、夕方一人になって祈っておられる姿は聖書に記されています。また、十字架にかかる前に、ゲッセマネの園で、汗が血の滴るように苦しみ悶え、切に祈られた姿も(ルカ22:44)記されています。しかし、祈りの全体の形や内容は全く記されていません。

 イエス様は「主の祈り」を通して、初めて弟子たちに直接、祈りの形や内容を教えられているのです。以来、2000余年間、イエス様が「祈るときはこう言いなさい」と教えられたとおり、キリストを信じる者たちは世界中、自分の国の言葉で祈ってきているイエス様直伝の「主の祈り」なのです。

(2)祈りの姿勢

 イエス様は弟子たちに次の話をされました。「友達が真夜中に来て、『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』と言いました。すると友は『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』と言いました。

 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはしなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」

 祈りの姿勢は、「しつように頼む」ことです。しきりに頼む、切実に頼むとも訳されています。しつように求め、探し、門をたたくことなのです。

 イエス様は「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネ14:13、Ⅰ5:16、16:23)と約束されています。約束を信じて、あきらめないで、しつように頼み、求め、探し、門をたたくのです。

(3)求める者に与えられる聖霊

 「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さいる。」と言われています。

 イエス様はマタイ福音書で「あなたがたの天の父は求める者に良い物を下さるにちがいない」(マタイ7:11)と言われています。どうして「聖霊」は「良い物」なのでしょうか。

 祈りの答えとして聖霊が与えられるとは、神様の御心は何処にあるのかを悟らせるためなのです。神様の祈りの答えには、4つのパターンがあると言われます。

①祈り願ったことが、そのまますぐ答えられることです。

②祈り願ったことが、内容を変えて答えられることです。

③祈り願ったことが、時間が経ってから答えられることです。

④祈り願ったことが、絶対駄目、叶えられないのではないかと思われる答えです。

 どの答えが自分に最も良い物として与えられているのか、その答えを悟り分からせて下さるのが聖霊なのです。

マタイ6:5~15では

次の三つのことが言われています。

(4)祈りの場所、密室の祈り

 祈りは、会堂や大通りの角に立って人に聞かせたり見せたりするのではなく、神様と一対一の祈りができることが基本です。イエス様は「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父は報いて下さる。」と言われています。神様は決して隠れてはおられるのではないのですが、私たちの隠れた所での祈りを聞いてくださる神様であるということです。〝密室の祈り〟と言います。

 或る兄弟は、私の密室は大宮駅から東京駅の電車の中だと言われました。始発の電車に着席して、小型の聖書で日課を読んで神様からの御言葉を黙想し、祈るのだそうです。小1時間、周りの人々のことが全く気にならず集中できるそうです。

(5)くどくどと述べて祈らない

 イエス様は「異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」と言われています。ある宗教ではお経を一万回唱えると御利益が与えられると言っています。
しかし、イエス様は彼らのまねをしてはならないと言われます。なぜならば、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」だからです。

 人間の親も、小さい子供の必要とするものや欲しがっているものを知っていて与えます。まして父なる神様は私たちの必要をすべてご存知なのです。だから異邦人のようにくどくど祈らないのです。「〇〇をお願いします」率直に願い求めるのです。

(6)人の過ちを赦すこと

 人の過ちを赦すことは、本当に難しいものです。イエス様は「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。と言われています。」私たちは、神様からキリストの十字架の贖いを通して赦しの恵みをいただくことによって、初めて人を赦すことができるのです。それであるのに、赦すことがなかなか難しいのです。人の過ちを赦すことは、祈りの最大の課題であります。

3、なぜイエス様に「祈りを教えてください」と頼むのか

 今日皆さんと考えたいことは、弟子たちはなぜ「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのかと言うことです。

 弟子たちはユダヤ人でありますから、1日に午前9時、正午、午後3時に、どこにいても祈るように決められていました。ですから弟子たちは誰も祈ることを知っていたはずです。イスラム教徒も1日に何度か祈る時間が決められていて、小さなじゅうたんを敷いて、メッカの方に向かって額をすりつけては祈っています。額に祈りだこができるのだそうです。

 私たち日本人も、神仏に祈っています。正月三が日に神社やお寺に初もうでに多くの人々が出かけていることが報じられています。この人々は、普段は、宗教と関係のないような生活をしていても、正月には神社仏閣に出かけて、新しい1年が幸いであるように祈り願っているのです。

 祈りと言うのは、世界中のどの国のどんな宗教でも見られる普遍的な宗教的営みであります。

 祈ることを知っている弟子たちが、なぜイエス様に祈ることを教えてくださいと願ったのでしょうか。

 ルカは、イエス様が神様に徹夜の祈りをして12人の弟子を選ばれたこと(ルカ6:12)を記しています。マルコは、12人を選んだのは「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(マルコ3:14~15)と記しています。

 12人の弟子たちは、イエス様のそばに置くために選ばれたのです。ですから、イエス様の祈る姿もよく見ていたのです。自分たちはユダヤ人として1日3回祈ることをしてきたが、イエス様の祈る姿に、自分たちと違った何かがあると感じ取ったのではないでしょうか。それは一体何なのでしょうか。

 ルカによる福音書の3:21や、9:29に、その何かを感じさせるものがあります。

・ルカ3:21~22(106頁)
 イエス様が洗礼を受けた時の出来事です。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

・ルカ9:29~30、35(123頁)
 イエス様が山の上で姿が変わった出来事です。
「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤであった。」
 この時も「すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえてきた。」とあります。

(1)初めて神様を「父よ」と呼んで祈ら
れた。

 イエス様は、人間として生まれ、人間の貧しさや弱さ、悲しみや苦しみなど全てをご覧になってお育ちになりました。罪なきお方でしたが、人間として「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)と言われて、悔い改めのバプテスマをヨハネから受けられました。その時、聖霊が鳩のように降って、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が天から聞こえたのです。

 この天からの声に答えて、聖霊に導かれて、イエス様はゲッセマネの園の祈りの最初にあるように、「父よ(アッバ)」という言葉を語られたのです。人間の歴史において初めて神様を「父よ」と呼ばれたのです。

 そして、イエス様の姿が変わることを通して、人としてお生まれになったイエス様が神の子であることが現わされたのです。
 
 弟子たちは、イエス様が神様を「父よ」と呼んで祈り、「これは私の愛する子」と天からの声が聞こえたりするこの神様とイエス様との親密な姿は自分たちの祈りにないことに気づいたのではないでしょうか。

 イエス様がバプテスマを受けられて聖霊が降った出来事は、すべての人々のバプテスマにおいて起きる祝福なのです。私たちも洗礼を受けると、天から聖霊が降って私たちの内に宿って下さり、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」とされて、「救いの衣」と「恵みの晴れ着」(イザヤ61:10)をまとった神の子供とされて歩むのです。

 そして、目に見えない神様をイエス様と同じように神の子供として「アッバ、父よ」「天の父よ」と呼んで祈ることができるのです。

(2)垂直次元の祈り

 ユダヤ人を始め世界の人々は祈りをしているのですが、天の神様に向かって「父よ」と祈るのはイエス・キリストを信じる者だけなのです。

 私たち人間は、「主の祈り」を通して、初めて神様を「父よ」と言って祈ることができるようになったのであります。

 ある人は、主の祈りがもたらした祈りは、人間の心を垂直次元の動きをもつ神様へとむけられた言葉であると言っています。

 イエス様が教えられる祈りは、神様を「父よ」と呼ぶことを通して神様と私たちという縦の関係、垂直次元の関係を成り立たせる祈りなのです。

 これに比べて、私たちの周りに見られる祈りは、自分を中心とした水平次元の祈りなのです。日本人の祈りは、神仏を動かして自分の願いを聞かせようとする祈りなのです。

 私たちは、神様を「天の父なる神様」と呼んで祈る祈りの中で、自分の願いを率直に訴え答えられる喜びを知ります。また、自分の思いが叶えられる喜び以上に、父なる神様の御心を知り、神様の御心に応えて従う喜びも知るのです。

 この1年、神様を「父よ」と呼んで、垂直次元に働く祈りの恵みを豊かに頂き、味わいたいと願います。

 キリスト者の中で、祈るとき、「神様」とだけ呼びかける祈りをする方もおられますが、是非、「父なる神様」と「父なる」をつけることをお勧めします。私は18歳になるまで罰や呪い、たたりを与える日本の神仏を恐怖の中で神様と呼んできました。しかし、イエス様を通して知らされた神様は人間を祝福し、救い、愛される神様なのです。イエス様が祈られたように、私たちも神様を「父よ」、「天のお父さん」とお呼びして、救いの衣と恵みの晴れ着をつけた神の子供として感謝と喜びを分かち合う生活をする2019年といたしましょう。

〈祈り〉

 天の父なる神様、
 2019年という新しい年を あなたの御子イエス様の誕生を祝う喜びと共に迎えることができました。「主よ、祈りを教えてください」と2018年度標語として掲げていますが、「主の祈り」を通して、私たちが心新たにして祈ることができるようにお導き下さい。

 イエス様は、神様を「父よ」と呼んで祈ることを教えてくださったので、私たちは天の神様が私たちに働きかけてくださる垂直次元の祈りの恵みに与かることができています。この神様を天の父と呼び、垂直次元の祈りの恵みに与かるのはキリスト者に与えられている特権です。この特別の祈りの恵みを新年も豊かに頂けるようにしてください。

 道を求めておられる方々が、この素晴らしい垂直次元の恵みに与かることができるように聖霊なる神様がお働き下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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月報『マラナタ』10号巻頭言

『父の家にいるのは当たり前』

2019年1月13日(日)礼拝説教より
ひきかつ 牧師ぼくし
聖書せいしょ箴言しんげん1しょう7せつ
ルカによる福音書ふくいんしょ2しょう41-52せつ


1、神殿での少年イエス様

 12月30日の礼拝は、ルカによる福音書2章22~38節の御言葉に聞きました。「神殿に献げられる」と小見出しにあるように、両親は、主の律法に「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と定められているので、イエス様を主に献げるためにエルサレムの神殿に連れて行きました。

 そして、神殿でシメオンに会いました。シメオンは聖霊に導かれていた人で、幼子イエス様が両親に連れてこられた時、すぐに幼子を腕に抱き、神様をたたえて言いました。

 「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(:29~32)

 イエス様の誕生は、異邦人の救い、全世界の万民の救いとして語られています。シメオンによって祝福された幼子イエス様は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(:40)のです。続いて、「神殿での少年イエス」の小見出しがついた、イエス様の12歳の時の話が出てきます。

 イエス様は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(:40)とありますが、イエス様だけでなく、幼子は皆、神様の子供ですから、「神の恵みに包まれている」のです。

 そのことを大人がどれだけ気づき、神様からお預かりしている子供として認識しながら育てているかが問われてきます。産まれた時は、みんな純真な子供なのです。ところが育てられ方次第で、悪の道に入り、犯罪を犯してしまう子供もいるのです。

 幼い子供はなかなか体温調整ができないので、室温が高いと高い体温になってしまうのです。それと同じように、子供の置かれた環境が悪いと、悪い方に同化してしまいます。私たち大人は、子供たちを良い環境に置いてあげることができるように祈り努めなければなりません。その意味で、ミッション・スクールの存在は大きいです。

 神様は、どんな子供でも愛して下さっていることを、知的に教えるだけでなく、愛を注ぎながら育てていくことが大事です。今日の聖書の個所は、子供は、自分の子供である前に、まず神様の子供であることを意識して育てていく大切さを教えているのです。

2、少年イエス様を通して学ぶ3つのこと

(1)慣習に従って

 「イエスが12歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」とあります。

 日本では、満20歳で成人式を迎えます。ユダヤ人の男子は13歳で成人式を迎え、この年から律法のあらゆる義務を果たすことが求められます。まず、年3回のエルサレムでの三大祭り(過越し祭、五旬祭、仮庵祭)に出席することが命じられています。

 女性にはその義務はないのですが、敬虔な家庭では同行したのです(サムエル上2:19)。しかし、年3回出席という規定は、一般的に年1回の「過越祭」への出席だけでも良いとされていました。イエス様のご両親は、この慣習に従ったのです。

 ユダヤ人社会では、男子が12歳になると青年期に入ったとされ、律法に従う生活ができるようになると考えられていました。
そして断食をすることを教わり始め、13歳になると幼年期を脱し、成人の宗教的義務に関わることが求められました。おそらく、イエス様の両親は、一人前の年齢に達したイエス様が、これから神の前に一人で立つことができるという喜びを持ってエルサレムに上ったと思います。過越祭と、それに続く「種入れぬパンの祭り」(除酵祭)は7日間に渡ります。当時、一緒に連れて行くことは子供に対する宗教教育でありました。

 新約時代に生きる私たちにできることは、何と言っても一般化されているクリスマスに、子供たちと教会で礼拝を捧げることです。〝クリスマスって何の日〟とテレビ番組で取り上げられていました。クリスマスは終わり、今度は、クリスマスほど世間に知られていませんが、イースターに向かって準備しなければなりません。今から、祈りながら、このチャンスに子供や孫を誘ってみるのも一つの良い方法です。

 信仰とその成長とは、自動的に起こるものではなく、何もしないでは起きるものではありません。信仰の成長には訓練が必要であることが、ここで語られています。今日の聖書では「慣習に従って」と言うところです。「慣習」とは〝しきたり〟〝ならわし〟習慣の意味です。信仰には、しきたりや習わしに従うことが、つきものです。

 礼拝も習慣になることが大事とも言えます。日常の決まりきった行いは、信仰生活と切っても切れないものなのです。私たちの毎日の生活で、朝、顔を洗ったり、歯を磨いたり、1日3回の食事をしたり、お風呂に入ったり、習慣化されていることを欠かすと気持ちが悪くなります。

 信仰生活もこれに似ています。毎日曜日の礼拝に来て、御言葉に聞き、そして兄弟姉妹と交わりをします。そして始まる1週間、毎日、聖書日課を通して聖書を読んで、御言葉に従い、執り成しのお祈りをし、週半ばの祈祷会を覚えることが、習慣化され、当たり前の生活となっていくのが大事です。

 ある賢人は、〝性格というものは習慣の総計である〟と言っています。即ち、性格とは、何らかの行動が習慣となって表れたものだと言うのです。ですから、キリストのような品性を身に着けたいと願うなら、キリストの持っておられた習慣を身に着けて成長していけばよいと言うことです。

 ある人は言いました。暇さえあればテレビばかり見ていてよいのだろうか。聖書も読まないし、祈りもしない、礼拝は時々しか行かない。これでクリスチャンと言えるのかと自分を責めていました。思い切って礼拝に出ることにしました。そうしたら、とても気が楽になり、月1回の礼拝が、2回、3回となりました。テレビばかり見ていたが、半分だけテレビを見、半分は聖書を読む時間にするようにしました。すると気が楽になり、信仰生活が楽しくなってきましたと言っておられました。良い習慣に少しずつ置き換えていくことによって、少しずつキリストの似姿に向かって成長していったのです。

(2)父の家にいるのは当たり前

 私たちは毎日の生活で、時として知らないうちに、あれやこれやと神様以外の人や物を捜しています。「私たちは、なんとも落ち着かず右往左往して、どうしようもないものですが、しかし、そんな私たちであることをご存知の上で御手を広げて、〝ここだよ、ここだけだよ〟とお迎えくださる主のやさしさはたまりません。」(FBマイヤー)

 少年イエス様は12歳になって、ある程度自由にふるまっていました。両親は過越祭の期間が終わって帰途についた時、イエス様はエルサレムに残っておられました。両親は1日分の道のり(35km)を行った時に、イエス様がいないことに気づいたのです。それから、両親は親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返しました。3日後に、イエス様が神殿の中にいるのを見つけました。

 少年イエス様は、「学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問したり」しておられました。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いた」と記されています。ここに神の御言葉を学ぶ姿勢が示されています。

 「マルタとマリアの話」があります。マリアはイエス様の足もとに座り、しっかりと話を聞いていました。姉のマリアはイエス様をもてなす料理を作るのに忙しく、何も手伝わないマリアの姿を見て怒ってしまいました。するとイエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41~42)と言われました。

 少年イエス様の姿は、マリアとは状況は違いますが、教わる者の姿勢を取り、何よりも神の御言葉に耳を傾け、真剣に学者に質問していました。この神の御言葉に学ぶ姿勢は、私たち大人も学ぶべきでありますが、ここを通して、子供には教会でなければできない、聖書を読み・祈り・礼拝をささげるという習慣の大切さを、小さいうちから教えなければならないことを学ばせられます。大人も子供も御言葉に聞いて従う習慣、祈る習慣を身に着けていきたいと思います。

 少年イエス様と学者とのやり取りは、学者たちと対等に議論していると言うよりも、座って御言葉を〝教わる者の姿勢〟が示されています。

 12歳になったイエス様が、神の掟に対して責任を持つことができるようになることは〝自立する〟ことです。普通、自立することは親の手から離れることであります。しかし、母親のマリアは、ここではまだ子離れしていないのです。

:48)母は言った。「なんでこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」
:49)するとイエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのが当たり前だということを、知らなかったのですか。」
:50)しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

 ここには、私たちに対して大切なことが教えられています。つまり、〝子供は、いったい誰のものか、親だけのものなのか〟と問われています。

 親が子供はどこへ行ったのかと心配するのは当然であります。しかし、イエス様は「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言われ、親子の関係よりも自らの使命をはっきりと打ち出しておられるのであります。

 私たちには家が2つあります。一つは生活する家です。もう一つはイエス様が言われた父なる神の家です。私たちは、父なる神の家に住んでいるのに、不安な生活をしていないでしょうか。

 もし、親である私たちが、マリアのように子供のことで大変不安な生活をしているとしたら、子供を父なる神の家に住まわせていないから不安で仕方がないのです。子供は神様からの預かりもので、自分一人で育てるのではなく、神様が育てて下さるのです。そのことを信じる時に安心が与えられます。

 大人の私たちも、マリアのようにイエス様を捜して右往左往しないためには、まず、父なる神の家にいるのが当たり前だと思うことです。

 具体的には、何よりも第一に主日の礼拝と聖餐を大事にしてしっかりと主イエス様に結び付くことです。次に、イエス様の〝御言葉を教わる姿勢〟に習って、日々の聖書日課を大事にすることです。また、少年イエス様が学者たちと交わって成長したように、私たちも兄弟姉妹との交わりと執り成しの祈りを大切にすることです。そして「父の家にいるのは当たり前」と言い合いながら、キリストの体なる教会にしっかりとつながり続けて行きましょう。ここにこそ安心の道があるのです。

(3)仕える

 少年イエス様は、ナザレの家に帰ってから、両親に仕え、父ヨセフの大工の仕事を手伝いながら社会生活をされました。

 私たちは新しい年も、それぞれこの世へと遣わされて行きます。置かれている所でキリストの恵みを証ししつつ、仕事に励み、隣人に仕えて行きましょう。そうすれば、神様は私たちの生活の中に平安と喜びを恵みとして与えて下さいます。

:52)イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 私たちクリスチャンは、イエス様に似た者として成長していくイエス様の弟子ですから、この御言葉は、私たちにも与えられている恵みであります。

〈祈り〉

天の父なる神様、御名を賛美します。

 主イエス様が12歳の時からもうすでに神の御言葉を学び、従う姿勢を取っておられ、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」と言われたことを私たちに自覚させて下さり本当にありがとうございます。

 どうか、まず私たち大人が父の家から離れることなく、しっかりとつながって、子供たちをも信仰へと導いていくことができますように力を下さい。

主イエスの聖名によって祈ります。  

アーメン。

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マラナタ9号編集後記

本庄教会月報第9号をお届けします。

今回はクリスマス特集です。
 今年のクリスマスは、昨年より5,000部多い8,000部のチラシを作成し、新聞折り込みやポスティングで地域に配布しました。
クリスマス礼拝には5人、イブ礼拝には9人の新来会者を迎えることができました。
 その中にはチラシを見ていらしたご夫妻もありました。本庄の地域に福音を宣べ伝えるために、今後も小さな努力と祈りを積み重ねていきたいと思います。        
  在 主

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クリスマス・イヴ礼拝メッセージ

「すべてのひとらすまことひかり

2018年12月24日(月)
クリスマス・イヴ礼拝説教より
ひきくに磨呂まろ 牧師
聖書:へん36へん14~22せつ
ヨハネによる福音書ふくいんしょ1しょう1-18せつ


1、クリスマスはキリストの誕生を祝うのになぜサンタクロースなのか

 メリー・クリスマス。皆さん、ようこそ、イブ礼拝にお出で下さいました。クリスマスは、日本の年中行事に、なくてはならないものになりました。

 私は、一昨年まで、キリスト教幼稚園の園長を39年間務めてきました。クリスマスになると、キリスト教幼稚園では3歳児、4歳児、5歳児が一緒にキリストのお誕生を祝う劇を演じるのです。この劇のことを「ページエント」と言います。無垢で純真な心で演じる子供たちのページェントを見て、イエス様の世界を垣間見るようで感動していました。この子どもたちに「クリスマスってなあに」と聞くと、「イエス様のお誕生日です」と返事が返ってきます。

 ところで、キリスト・イエス様のお誕生日のクリスマスなのに、なんでサンタクロースが出てくるのでしょうか。
NHKの番組〝チコちゃんに叱られる〟ではありませんが、「今や、日本の全国民に問う。クリスマスはキリストの誕生日なのに、なぜサンタクロースが出てくるのでしょうか」と問われます。その答えは、現在のトルコのミラで、セント・ニコラスという司教・神父さんがいました。ニコラスはある時、貧しくて娘が身売り寸前の家にコインを投げ入れて、娘が助かったという逸話が元です。

「セント」と言うのは聖人のことです。聖マリアのことをサンタ・マリアともいうように、セントはサンタともいわれます。サンタ・ニコラスという名前がサンタクロースと訛って行ったのです。このセント・ニコラスは、キリストの救いの恵みと喜びを人々に伝える神父でした。ニコラスは裕福な家に育ったそうですが、貧しくて身売り寸前の娘を救うためにお金を投げ入れて助けました。ニコラスは、キリストの救いの恵みと喜びを分かち合っていたのです。投げ入れたお金がストープわきに干してあった靴下に入ったそうです。それでサンタクロースが靴下にプレゼントを入れてくれるとの逸話になったのです。

 今日では、サンタクロースは子どもたちの願望叶える象徴的存在になっています。それはそれなりに意味があるかと思いますが、サンタクロースの元祖はキリストの救いの恵みと喜びを分かち合う意味でのプレゼントであったことを覚えたいと思います。

2、心の暗闇・自分中心

 キリストの救いの恵みと喜びとは何かについて、お話いたします。

 ヨハネは、キリストの誕生を、暗闇の中に輝く光として描いています。9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と言われています。

皆さんは、暗闇と言うとどんな場面をイメージしますか。
1)停電した真っ暗な世界を思う人もいるでしょう。
2)しかし、電気がついていても暗闇があるのです。それは人間の「心の暗闇」です。
皆さんは、どんな時に心が暗くなりますか。4つの場合を考えてみたいと思います。

 ①番目。頑張ったが失敗した。頑張ったが合格しなかった。頑張ったが負けた場合の「心の暗さ」です。がっかりしたり、悔しくも思ったりもしますが、こんな場合、やり直しでチャレンジすることができます。

 ②番目。人間関係がうまくいかない場合から生じる「心の暗さ」があります。人間関係の問題で一番辛いのは、相手から無視されたように思える時です。牧師を40年以上も務めていて、たくさんの方々の悩みを聞いてきましたが、自分が無視されたように思える時の辛さをよく聞かされました。ある方に、どうして無視されたと思うのと聞くと、「わたしが挨拶しても、返事してくれない」と言うのです。「聞こえなかったのでないの」と言うと、「自分は、いつもはっきりと、今日は、おはようございます、と言うけれど、返事は帰ってきません」と言うのです。挨拶の仕方で無視されたと思う人がいるのです。
 挨拶は、人間関係を作る窓口で、大切なものであります。互い快く挨拶をかわしたいものですね。

 ③番目。何か悪いことをして心に秘めている時です。自分で悪いことをしたと罪を犯している場合の「心の暗さ」です。犯罪と言う刑事事件もあるでしょう。また、人間関係の中でうそをついて相手の立場を悪くしてしまった場合もあると思います。犯罪にかかわることは警察に早く自首することが一番でしょう。うそをついた場合、本人に告白して謝るのが一番でしょうが、それがなかなか難しいのですね。

 ④番目。これは普通、人々は気づかない場合が多いです。私たちの命の造り主である神様を信じないことから来る「心の暗さ」です。神様を信じないと言うことは、人は皆、自分を中心で生きることになります。この「自分中心」は、意外とくせ者で、自分中心を貫いていくと、自分も他の人の心も暗くしていくのです。
2番目の人間関係がうまくいかない場合も、3番目の罪を犯している場合も、もとはと言えば、自分中心からくる「心の暗さ」であります。

 私たち人間は、失敗したり、負けたり、人間関係がうまくいかなくなって辛い思いをしたり、相手を悪い方におとしめたり、最悪の場合、人の命を奪ってしまったりするのです。国が自分たちの考え方を絶対化すると戦争になってしまいます。人間は「心の暗闇」を持つ存在なのです。

 神の御子、イエス様がクリスマスにお生まれ下さった世界は、人間が自分中心にして生きるためにもたらす「心の暗闇」のある世界なのです。

3、心の暗闇を照らす神の御子

 ですからヨハネはクリスマスの出来事を次のように告げるのです。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは一つもなかった。」この「言」は、神の御子、イエス様のことなのです。「言」=「神の御子」なのです。

 この言=神の御子の内に命があって、神の御子の命は人間を照らす光であったのです。神の御子は、この世の暗闇の中で、人間の心の暗闇を照らす光として来られて、輝いているのです。しかし、「暗闇は光を理解しなかった」と言われています。

 今、私たちは暗闇の中にロウソクを灯しています。このロウソクは私たち人間の外側を明るく照らしています。しかし、私たちの心の暗闇を照らすことはできないのです。9節に「その光は、真の光で、世に来て全ての人を照らすのである。」と言われている光とは、人々の心の暗闇を照らすことのできる神の御子・イエス様のことなのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言われていますが、神の御子・イエス様が人間の肉・体をもって生まれてくださったことであります。

 フィリピの信徒に書いた手紙に神の御子イエス様の誕生を次のように言っています。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 キリストは、神の御子で、神御自身であるにも関わらず、神の特権を捨てて、弱い人間としてお生まれになったのです。それは、人間の生きるすべての苦悩、心の暗闇を知るためでした。私たち人間は、いまだかって誰も、神を見た者はいないのです。だだ、独り子であるイエス様を通して、私たち人間を造られた神様の御心と愛、「恵みと真理」を知ることができるのです。この神の御子・イエス様の言葉を通して、私たちは心の奥底まで照らし出されるのです。

 御子イエス様の光に照らし出される時、自分がどんなに自分中心で、他の人を愛することのできない、自分のことばかり考えている小さい、弱い者であるかを知らされます。

 しかし、同時に、自分中心な自分の存在であるが、神様に掛け替えのない者として造られ、愛されている存在であることも知らされるのです。

4、隣人を愛しなさい

 イエス様は言われています。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)と。

 イエス様が言われる自分を愛するとは、神様に造られ、神様から愛されている自分を大事にすることです。そのように、隣人も自分と同じように神様に造られ、神様から愛されている者として大事にしなさいと言うことなのです。

 私たちは自分に良くしてくれる人には良くし、好きになれるのです。しかし、自分を批判する人には良くできないし、好きになることはできません。

 イエス様は、自分に良くしてくれる人も、自分を批判する人も、自分と同じように神様から掛け替えのない者として造られ、愛されている者であることを認めなさいと言われていのです。隣人を愛するとは、どんなに嫌いな人でも、その人も自分と同じように神様に造られ、神様の愛をいただいていることを認めることなのです。どうしたらそのように隣人を愛することができるのでしょうか。

5、十字架上での御子の祈りと犠牲の死

 イエス様は、人間の心の暗闇をもたらすすべての罪を背負って、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、私たちの罪を赦すために身代わりとなって死んでくださったのです。

 このイエス様の十字架の祈りは、自分中心に生きて、心の暗闇を持っている私自身の赦しのためだと受け止める時、私たちは、神様が、イエス様の命を犠牲にしてまでも、私の命を大切に愛して下さっていることを信じることができるのです。

 この神様の自分への愛が分かる時、神様はどんな人の命も愛してくださっていることも分かり、自分が神様から愛されているように、隣人を愛することができるのです。

 クリスマスにお生まれになった神の御子・イエス様の光で、私たちの心の暗闇が照らしだされる時に、神様の愛が分かり、隣人を愛する喜びも分かるのです。

 セント・ニコラスは、神の御子イエス様を十字架にかけてまで、自分の罪を赦し愛して下さっている神様の大きな愛を知った時に、自分の手に持てるものを惜しみなく貧しい、困っている人々に分け与えることができたのです。そしてサンタクロースの元祖となったのです。

 このクリスマス、私たちの心の暗闇を神の御子・イエス様の愛と御言葉によって照らし出してもらい、神様の愛を喜ぶものとさせていただきましょう。

〈祈り〉

 天の父なる神様、クリスマスにお生まれになった神の御子イエス様は、私たちの心の暗闇を照らす光として来て下さいました。イエス様の愛の御言葉によって私たちの心の暗闇を照らしてください。そして神様から愛されている喜びを分かち合うクリスマスとしてください。御子イエス様の御名によって祈ります。
アーメン

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