説教:
『キリストの復活』
2020年4月12日復活日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:詩編149編1-9節、
マタイによる福音書28章1-20節
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
2020年4月12日復活日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:詩編149編1-9節、
マタイによる福音書28章1-20節
皆さん、イースター、主のご復活 おめでとうございます。
神の御子イエス様は、私たち人間の罪を赦すために、十字架に架けられて「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈りつつ、御自身の命を献げられ、そして、墓に葬られました。しかし、イエス様が弟子たちに予告されていたように、墓に葬られて3日目の朝、週の初めの日の明け方、すなわち日曜日の早朝に、復活なさったのです。
昨年暮れに、中国の武漢で発生した新型コロナウイルスが、3カ月の間に、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニア、アフリカと、あっと言う間に世界的に拡大してしまいました。昨日の朝日新聞の夕刊によると、「新型コロナウイルス感染者による死者が、日本時間11日現在、10万人を超えた。」と報じています。今、全世界がコロナウイルスの恐怖の中に置かれています。
日本も、新型コロナウイルス感染対策のために、先週、4月7日、国の緊急事態宣言が7つの都府県に発せられ、埼玉県もその対象の県となりました。
それで、私たち本庄教会も、すべての人々の命と私たちの命を守るために、主日礼を、ライブ中継を通して、同時に、各家庭で献げることになりました。
今回の新型コロナウイルスの世界的感染は、今から600年ほど前、1347年に中央アジアに発生したペスト病の発生・拡大感染に似ていると8日の新聞に報じられていました。その時も、ペストに対する何の防御の手立てもなく、あっと言う間にヨーロッパに広がり、5年間でヨーロッパの人口の3分の1が失われたそうです。
その紙面で、歴史小説作家の佐藤賢一氏は、次のように書いています。
「一説に人類は、どんな歴史の教訓も600年で忘れるという。あるいは知識として持ち得ても、現実味を覚えなくなるのかも知れないが、いずれにせよ、今の世界の無力が妙にうなずけてくる。この2020年は、1347年の大ペストから673年だからである。もう過去からは何も引き出せない。だから、うまく対処できない。仕方ないとしても、その報いは大きい。ことによると、世界を一変させてしまうくらい大きい。」と書いています。
私たちは、今朝、このような歴史的な事件に匹敵する新型コロナウイルス感染拡大の恐怖の最中に、2020年のイースターを迎えて、礼拝を献げているのです。
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私たちは、今朝、新型コロナウイルス感染と死の恐怖の中に置かれているからこそ、死の力に打ち勝って復活されたイエス様の出来事に、しっかりと目を向け、復活の主イエス様の御言葉に耳を傾けたいと願います。
受難週の金曜日の午後3時ごろ、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください」と祈りながら死なれました。そして、イエス様の弟子であったヨセフと言う人が、イエス様のご遺体を引き取ることをピラトに願い出て、岩を掘った新しい墓の中に納め、入り口に大きな石を転がして閉じました。それを見届けていたのが、「マグダラのマリアともう一人のマリア」でした。弟子たちについては、マタイ福音書は「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(26:56)と記しています。ヨハネ福音書は「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(20:19)と記しています。
一方、祭司長たちは、イエス様が「御自分は三日目に復活する」と言っていたから、弟子たちが来て、イエス様の死体を盗み出すかも知れないと言って、ピラトに番兵をつけるように願い出ました。そこで、イエス様の墓の石に封印がされ、番兵がつけられました。
*
1節、「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」と記されています。
マリアたちが墓に行くと、大きな地震が起きました。すると墓の入口の石が転がっており、その石の上に天からの天使が座っていました。その稲妻のような輝きで、番兵たちは恐ろしさのあまり震えあがって死人のようになってしまいました。
天使は婦人たちに言いました。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、弟子たちにこのことを伝えるために急いで墓を去りました。すると、イエス様が行く手に立たれ、「おはよう」と言われたので、婦人たちはイエス様の足を抱き、御前にひれ伏しました。
するとイエス様御自身が言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
このようにしてイエス様は復活されて、マリアたちに会い、弟子たちにガリラヤに行くように伝言されたのです。
このところから、4つのことを聞き、考えたいと思います。
普通、人々は、人間の歩みは死んで墓に入ったら終わりと思っています。富める者も貧しい者も、愛情も憎しみも、真面目な生活もでたらめの生活も、全く同じように死んだら終わりです。
しかし、イエス・キリストを信じる者は、死んで墓に入ったら終わりではなく、イエス様の復活によって、天国で神様の御支配の中に生きる永遠の命にあずかることができるのです。墓は、キリストを信じる者には天国の入口にすぎないのです。
イエス様は言われています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書11:25~26) これは永遠の命の約束であります。
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番兵たちの報告を聞いて、祭司長と長老たちの指導者たちは、番兵たちに多額の金を与えて、イエス様の復活を否定する工作をしました。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」と言う噂を流させました。
どんな時代にも、このように都合の悪い事を隠蔽する工作がおこなわれるのですね! 最近、私たちは日本の政治の中でも、隠蔽工作を幾つも見て来ています。
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しかし、隠蔽工作にもかかわらず、あの情けない弟子たちは「ガリラヤに行くように」との伝言を聞いて、ガリラヤの山に行き復活のイエス様とお会いしました。イエス様にお会いしてひれ伏す弟子たちの中には、疑う者もいたのです。
ところが、イエス様はとがめもせずに、この11人の弟子たちに大宣教命令を与えられたのです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
あらゆる人々をイエス様の弟子にし、バプテスマを授け、イエス様の語られた御言葉を守るように教えることは、全てのキリスト者の群れ、即ち、教会に与えられた光栄ある使命であります。私たち本庄教会にも、この使命は託されているのです。
この使命に励む私たちに、イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束して下さっているのです。復活の主イエス様がいつも一緒にいて下さるということは、イエス様の御言葉に従って、親しい者や家族のため、隣人のために福音が伝えられるように祈り、励む者に与えられる祝福であります。
新型コロナウイルス感染の恐怖の中に在る私たちに、復活のイエス様は「恐れることはない。」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されているのです。この復活のイエス様の御臨在を信じて、互いに愛し合い、祈り合い、支え合って2020年も神の家族としての歩みを進めて行きましょう。
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天の父なる神様、
今、私たちは新型コロナウイルスの世界的感染の恐怖の中に、イースター礼拝を献げています。お互いの命を守るために教会に集まることも自粛するような状態ですが、この時こそ、死の力に打ち勝たれたイエス様の御臨在を求めます。どうか世界の人々を憐れみください。どうか、新型コロナウイルスの感染から人々をお守りください。感染された人々を助け癒してください。また愛する者を失った人々をお慰めください。
本庄教会の礼拝につながる一人一人を守り、死にも勝利して復活されたイエス様の御臨在と、十字架の贖いによる私たちの救いの恵みを周りの方々に分かち合うことができるようにお導き下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン。
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新型肺炎が猛威を振るう中、教会の礼拝は、マスクを着用し、受付で手の消毒をした上で、守られています。一日も早い終息を心より祈ります。くれぐれもご自愛くださいますように。
在 主
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2020年3月15日
礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:ヨシュア記24章14-24節、
ヨハネによる福音書6章60-71節
今日は、受難節第3週を迎えての礼拝で礼拝後、2019年度臨時教会総会を迎えます。本庄教会の2020年度の歩みの協議を前に、主の御言葉に聞きたいと願います。
神様が本庄教会に私たちを遣わされて、3年が経ちます。皆様にとって、この3年間はどのような3年間だったのでしょうか。私は、この3年間、神様が私たちを本庄教会に遣わされた目的は何なのだろうかと問いつつ、御言葉に聞いてきました。
教会が建てられているという事は、第1に、そこに生ける神様と復活のイエス様のおられることを証する礼拝を献げると言うことが、遣わされた者の任務であります。
イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と約束されています。そのイエス様の御臨在を証しするのが遣わされた者の第一の務めであります。この任務がどれだけできたのだろうかと問われます。
教会が建てられているという事は、第2にそこに生けるキリストの体としての群れがどれだけ活き活きとして造り上げられているかであります。
4年目から、一人一人が「キリストの体」としてどう生かされ、連なり、主体的に神様の御業に用いられるのか、お互いの歩みを主にあって受け止め合うことができるようにと願っています。その意味で「伝道協議会」を重ねて、皆で話し合って皆でできることを進める歩みをしたいと願います。
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今日のヨハネによる福音書6章60節からの出来事は、イエス様が会堂で教えられた話を聞いた弟子たちが「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか。」と言って、多くの者がイエス様から離れて行った話です。
弟子たちが「実にひどい話だ」と言った話は、53節~58節です。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
私が伝道者としての生涯を献げようとして決心して神学校に入ろうとした時、当時、所属していた中渋谷教会の山本茂男牧師は、「疋田君、神学校入る前に、是非、明治学院大学に行って学んでほしい。そこは明治初期のキリスト教信仰の宝庫のような学校だから。」と言われて明治学院大学に入学しました。
ある時、明治初期のキリスト教に関する文献を読んでいた時、国のスパイがキリスト信徒の中に入り込んで、〝この宗教は人の肉を食らい、人の血を飲むひどい宗教だから警戒すべきである。〟と報告していたという記事がありました。
恐らく、今でも、今日の個所を初めて読むと、意味の分からない人は、ひどい話だと思うでしょう。イエス様がこのお話をされたのは、カファルナウムの会堂です。そこはユダヤ人たちが集まって礼拝をする場所で、そのユダヤ人たちが信じて守っていた律法には、血を飲むことは禁じられていました。
「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(創世記9:4)
「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。」(レビ記17:10~11)
イエス様が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と言われたことは、ユダヤ人が大切に守っていた律法の教えに反することで、「実にひどい話だ。だれが、こんなひどい話を聞いていられようか。」と言って、ユダヤ人たちがつまずいて離れて行ってしまうのも無理がないのです。ユダヤ人だけでなく、イエス様に従っていた弟子たちの多くの者も離れて行ったのです。今でも、ユダヤ人は血抜きの肉しか食べません。
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イエス様は弟子たちのつぶやきを聞かれて言われました。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・。命を与えるのは、〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」(61~64節)
人の子であるイエス様が、もといた所である父なる神様のもと(天)に上った後、人々は現実にイエス様の肉を食べ、血を飲むと言うことはあり得ないことです。イエス様の語られた御言葉は現実の体ではなく、霊的に理解されなければならないのです。だから「命を与えるのは〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言われたのです。
このことは、6章の初めから展開される五千人に給食の奇跡の出来事、「わたしは命のパンである」と言って人々の罪を赦すために十字架に御自身の命を献げられた出来事についての対話、そしてユダヤ人に対して論争した命のパンの意味・聖餐の意味にも言えるのです。
この出来事の霊的な意味は、聖霊のお導きをいただかなくては理解できないのです。
22~40節までは、五千人の給食の奇跡の場所から、イエス様を捜して追いかけて来たガリラヤの人々がカファルナウムでイエス様と再会し、イエス様と「イエスは命のパン」について対話しています。
ガリラヤ人:25節「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか。」
イエス様:26~27節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
ガリラヤ人:28節「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」
イエス様:29節「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
私たちは「神の業」と言うと何か特別なことのように思いがちですが、神様がお遣わしになった者・神の御子イエス様を救い主・キリストと信じることなのです。イエス・キリストを信じると、私たちはイエス様の御言葉と御心に支配されて、神様の御心に叶った歩みができるのです。
ガリラヤ人:30節「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」
イエス様:32~32節「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
ガリラヤ人:34節「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」
イエス様:35、38~40節「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない…わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
私たちの人生には平坦な道のりだけではありません。山あり、谷ありで、病気の苦しみや災害による災いや、人間関係による苦しみ悲しみがたくさんあります。しかし、どんな時でも、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されているイエス・キリストを信じて歩むなら、決して飢えることもなく、渇くこともないのです。喜びを見出し、感謝することができるのです。神様の御心は、信ずる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることであります。
「永遠の命」というのは、地上の肉体の命が何時までも死なないことではありません。私たちは皆、神様から与えられた地上の命を終えて、やがて神様にお返しする死があるのです。でも、私たちの命は地上を去っても造り主である神様のもとに帰って存在するのです。地上にいる時も、地上を去っても造り主である神様に覚えられて存在する命、それを永遠の命と言います。その永遠の命は、イエス・キリストを信じる者に与えられる命です。
ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしは天から降って来たパンである。」と言われたので、つぶやいて、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と言いました。(41~59節)
イエス様は、ユダヤ人たちに次のように言っています(51節)。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
イエス様は、神様に背いて生きてきた人間の罪を赦すために、十字架のうえで、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、御自身の命を犠牲として献げられたのです。イエス様の十字架の祈りと死は私自身の罪の赦しのためであったと信じて、パンと杯の聖餐にあずかる世の人々は永遠の命を得るのです。
*
弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエス様と共に歩まなくなったので、イエス様は、12人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。
すると、ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と信仰を告白しました。
しかし、イエス様は、「あなたがた12人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と言われました。イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであるとあります。イエス様を裏切ろうとしていたユダのことをお見通しだったのです。
私が東京神学大学を卒業して、東京の柿ノ木坂教会の伝道師として遣わされた時、高校生の担当をしました。一人の女子高校生が、「ユダは救われないのですか。裏切る役割を与えられたユダが救われないのだったら、私は洗礼を受けません。」と言われたことが今も忘れることはできません。
ユダはイエス様を裏切りました。しかし、ペトロもカイアファの庭で、イエス様を知らないと3回も否み、他の弟子たちも皆イエス様を見捨てて逃げ去ったと聖書は明言しています(マタイ26:75、56)。イエス様を裏切り、背いたことは、12弟子の皆も同じだったのです。
その違いは何かと言いますと、ユダは自分のやったことの責任を取って首をつって死んでしまったのです(マタイ27:5)。他の弟子たちは、逃げて隠れていたのです。そこに復活されたイエス様が訪ね、また、ガリラヤの山でお会いし、御言葉を下さって、弟子たちを励まし、御業のために立てたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19~20)と命じ、約束されたのです。
今日の私たちも、12弟子と何ら変わらない、欠け多き弱き者であります。どれだけイエス様を裏切り、悲しませて来たことでしょうか。幸い、私たちは神の家族の一員とされて、愛する良き兄弟姉妹を与えられ、兄弟姉妹の祈りと励ましによって、復活のイエス様のおられる主の日の礼拝に立ち帰ってくることができています。
主の弟子の大切な本質は、どんな時も、どんなことがあっても、復活のイエス様のおられる礼拝に立ち帰ることができることです。
モーセに代わってイスラエルの民を導いたヨシュアに民たちは「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」と誓ってシケム契約を結んでいます。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と告白しています。しかし、どんなに誓約し、立派な告白をしても、私たちは自らの誓いや告白に背くような状態にしばしば陥ってしまう弱い存在です。
日本人は昔から、背いたり、失敗したら切腹などと死ぬことが責任を取って潔いように見てきましたが、聖書の教えは違うのです。
人間の命を祝福して造られた神様の御心は、悔い改めて、神様の御前に立ち帰って生きることなのです。それで、私たちは主日毎に、生ける復活の主・イエス様の御前に立ち帰って、悔い改めて、「あなたが永遠の命を持っておられます」とイエス様の御言葉と祝福をいただいて立ち上がり、生きるのです。それゆえに神様に感謝し、喜んで従い、御業に仕える歩みができるのです。
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父なる神様、
本庄教会の2019年度の歩みを導き、守って下さり心より感謝いたします。
新しい2020年度に備えて臨時教会総会を礼拝後、開催いたしますがお導き下さい。新年度も主の日の礼拝を守り、本庄教会の一人一人が「キリストの体」として、活き活きと歩むことができるようにお導き下さい。
背いた弟子たちの姿は私たちの姿でもあります。どうか、弱い私たちが絶えず、主日礼拝毎に御前に立ち帰って、悔い改めて、立ち上がり、神様と共に歩むことができるように憐れみ導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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埼玉地区交換講壇のメッセージを掲載しました。
栗原先生は、ご多用中にも拘わらず、中2日で原稿を送ってくださり、感謝でした。
在 主
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会員の方は棚に配布致しました。教会受付には予備もございます。どうぞご自由にお持ちください。「巻頭言」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼
**内容(全8ページ)**
◇巻頭言:説教『あなたがたに平和があるように』疋田國磨呂 牧師
◇7月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記
◇特集:本庄教会墓地について・・・その歴史と変遷 A.O.兄
会員の方は棚に配布致しました。教会受付には予備もございます。どうぞご自由にお持ちください。「巻頭言」、「特集」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼
**内容(全10ページ)**
◇巻頭言:主題『イエス様の教会を建て上げるために』
~ヨハネによる福音書3章1-15節からの説教(1・2)~
説教(1)『霊によって新たに生まれた者』疋田國磨呂 牧師
説教(2)『十字架のキリストを仰ぐ救い』疋田國磨呂 牧師
◇特集:本庄教会の敷地内の植物(花)を紹介します
◇6月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記
会員の方は棚に配布致しました。「巻頭言」、「ライブ時の礼拝堂の写真」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼
**内容(全14ページ)**
◇巻頭言:
説教『キリストの昇天』疋田國磨呂 牧師
説教『神の偉大なわざを語る教会』疋田義也 牧師
◇寄稿:『受難週を迎えての証 – ブランコに座る』M.K.兄、
◇特集:ライブ礼拝中の家庭礼拝 13名の兄姉から礼拝のライブ中継の感想を述べていただきました。
◇5月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇ライブ中継発信時の礼拝堂の様子
◇編集後記
「巻頭言」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼
**内容(全8ページ)**
◇巻頭言:
説教『わたしの羊を飼いなさい。』疋田勝子 牧師
◇寄稿:『受難週を迎えての証』K.H.姉、
◇報告:~教会正面入り口のスロープ架け替え工事について~
◇4月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記
「巻頭言」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼
**内容(全12ページ)**
◇巻頭言:
説教『キリストの復活』疋田國磨呂 牧師
説教『見えないのに信じる人は、幸いである』疋田義也 牧師
◇寄稿:『受難週を迎えての証 – 負わされた十字架』H.S.兄、
****『役員に選出されて』Y.S.姉
◇報告:「本庄教会で礼拝を献げておられる皆様へ」
◇3月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記
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**内容(全6ページ)**
◇巻頭言:説教『あなたは永遠の命を持っておられます』疋田國磨呂 牧師
※礼拝出席者の中に高校を卒業された方がおられ、お祝いの品を贈呈いたしました。
◇報告:「ご卒業おめでとうございます」※、
****2019年度臨時教会総会の報告
◇2月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記
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**内容(全4ページ)**
◇巻頭言:
講壇交換 説教
『祝福してくださるまで』*
栗原清 牧師(武蔵豊岡教会)
◇報告:栗原清先生を囲んでの会食
◇A.H.氏(T.H.姉の御長男)からのT.H.姉追悼礼拝へのお礼状の紹介
◇1月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記
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**内容(全8ページ)**
◇巻頭言:説教『真の平和の中を歩もう』疋田國磨呂 牧師
◇報告:T.H.姉追悼礼拝・追悼の辞、
****お餅つき(2020.1.19礼拝後開催)、
◇12月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記
「巻頭言」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼
**内容(全10ページ)**
◇巻頭言:クリスマスの説教
主日クリスマス礼拝(12月22日):説教『救い主誕生の大きな喜び』疋田國磨呂 牧師
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クリスマス・イヴ礼拝(12月24日):説教『その名はインマヌエル』疋田義也 牧師
◇クリスマス諸集会の報告:「こどもクリスマス礼拝」、「クリスマス愛餐会・祝会より」
◇11月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記
「巻頭言」、「編集後記」はホームページ上でご覧になれます。以下の項目をクリックすると各内容のページにとびます▼
**内容(全6ページ)**
◇巻頭言:説教『備えられている天国の家』疋田國磨呂 牧師
◇報告:「イタリア紀行」、「本庄教会に転入して」
◇10月度諸報告:集会平均出席者数報告/会計報告
◇編集後記
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日本キリスト教団本庄教会
〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1 TEL 0495 (22) 2785
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2020年1月5日
新年礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:イザヤ書2章1-5節、
エフェソの信徒への手紙2章14-22節
新しい年、2020年の歩みが始まりました。この年も、本庄教会に連なる皆様の上に神様の豊かな祝福があるようにとお祈りいたします。この年、神様は皆様と共に歩み、どのような御業を展開してくださるのでしょうか。
本庄教会では「わたしたちは神の家族」との言葉を掲げて歩んでいますが、どのように神の家族として花咲かせ、どのような実を結ぶ1年となるのでしょうか。神様のお導きに期待し、祈り、励んで行きたいと願います。
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1月元旦の聖書日課は、イザヤ書43:1~7、マタイによる福音書4:12~25でした。私たち3人で聖書日課を分かち合い、祈って新しい1年が始まりました。
今朝は、新年のメッセージを、イザヤ書を中心に聞きたいと願いますので、元旦の聖書日課、イザヤ書43:1~7を、皆さんで、改めて読んで見たいと思います。
この43章は、神様に造られ、選ばれながらも、その神様に背いたイスラエルの民が、その裁きを受けて、バビロンと言う大国に滅ぼされて、バビロンに捕虜となって連れ去られた事に対して、神様はその裁きである捕囚から解放する、救い出すという預言として語られたものです。
1節のいくつかの言葉を解説します。
「ヤコブよ」「イスラエルよ」は、神の民であるイスラエルを指します。この場合、バビロン捕囚という神様の裁きの中にも最後まで神様に従おうとする「残りの民」を意味します。又、イエス・キリストを通して造り主である神様を信じる霊的イエラエルをも念頭に置かれた呼びかけであります。
「創造された主」は、命の造り主であるという意味ですが、ここでは諸民族の中からイスラエルを選び出し、又エジプトの奴隷の状態から導き出して、王や預言者を立てて神の民として整えて来た主なる神様であることを指してます。
「贖う」とは、神様御自身の所有の民とするために代償を払って買い取ったということです。具体的には、3節の「わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバ(エチオピア)をあなたの代償とする」と言うことであります。神様はイスラエルをバビロンの捕囚から解放して救い出すために、エジプトとエチオピアをバビロンの王キュロスに引き渡すということなのです。
「あなたの名を呼ぶ」とは、親しい関係を表します。この1節の言葉は、具体的には裁きを受けてバビロンの捕囚となっているイスラエルの民に対して呼びかけていますが、イエス・キリストの十字架の贖いを通して、造り主であり、救い主である神様を信じる全世界のキリスト者、即ち霊的イスラエルを指して語られている終末的な預言の言葉でもあるのです。
その意味で、「ヤコブよ」「イスラエルよ」と呼びかけている名を、私たち自身の名を入れて読んで見ると、「あなた」と私自身に呼びかけて下さっている神様が良く分かり、実感できるのではないでしょうか。「あなた」を自分の名に置き換えて読んで見て下さい。
元旦、私に「國磨呂よ」と語り掛けて下さる神様をあらためて実感できて、喜びに充ち溢れました。イエス・キリストの十字架の「贖い」を受けて神様のものとして買い取られて58年経ちます。神様はいつどんな時でも、〝恐れるな。わたしは國磨呂を贖った。國磨呂はわたしのもの。わたしは國磨呂の名を呼ぶ。わたしは國磨呂と共にいる。わたしの目に國磨呂は価高く、貴い。わたしは國磨呂を愛する。恐れるな、わたしは國磨呂と共にいる。〟と言い続けて下さっている58年であったことを、改めて深く思いました。
7年前、がんの再発で余命1年と宣告されましたが、今も、皆様の前に立たされ、御言葉に仕えています。2節の「火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」とはこういう事なのかなと思って感謝しています。
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マタイによる福音書4:12~25では、イエス様がガリラヤで伝道を始められたことが記されています。
イエス様は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められました。そして、ガリラヤ湖のほとりで、漁をしていたペトロとその兄弟アンデレの二人に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人は網を捨ててイエス様に従いました。更に、別の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネにも呼びかけると、この二人もすぐに、船と父親を残してイエス様に従いました。
「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と記されています。
ここを通して示されたことは、ガリラヤ中を回って、御言葉を教え、御国の福音を宣べ伝えられ、そして、ありとあらゆる病気をいやされたイエス様のお姿を、今日どのように受け止めるのかということです。
イザヤ書で「あなたはわたしのもの」と言われている民が「神の家族」なのです。イエス様は御国の福音を宣べ伝えるために、漁師たちに「わたしについて来なさい」と言われて4人の漁師を弟子にされました。弟子たちは、イエス様と共に御国の福音を宣べ伝えるために共に歩み従ったのです。
本庄教会の神の家族は、御国の福音を宣べ伝えるために、どのようにイエス様と共に歩んだらよいのでしょうか。
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」とも記されています。
イエス様が、私たち人間の世界にお生まれになって二千年余り、科学や医学が大変進歩していますが、私たちの周りの人々が抱えている病気や悩み苦しみはあまり変わらないのではないでしょうか。そういう人々がイエス様のもとに連れられて来たように、どうしたら本庄教会に来ることができるのでしょうか。
そのために神の家族として何ができるのでしょうか。新年度の課題として受け止められたらと願っています。いわゆる神の家族が伝道するとはどんなことなのか、自分たちの課題として向き合うことができたらと願っています。
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説教予告のイザヤ書2:1~5の御言葉に聞きたいと思います。ここには、アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見た終末の平和について語られています。
「終わりの日に」とは、神様に逆らっていた者が、悔い改めて、贖われて神の民として回復された終末の時です。その時、主を礼拝する神殿(今日の教会堂)が立つ山は、山々の頭として堅く、高くそびえ立ち、国々の人々は大河のように礼拝に来るのです。そして人々は来て言います。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えと御言葉は、エルサレムのあるシオンの丘から全世界に語られるのです。
国々の争いを裁かれる神様の御心は、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とすることです。戦いの武器である剣や槍を作り直して、作物を作る鋤や鎌にすることです。そして、国は国に向って剣を上げないで、もはや戦うことを学ばなくなることです。この神様の御心が実現することが「真の平和」なのです。
「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」とは、〝武器を捨てて、真の平和の中を歩もう〟と言う悔い改めの招きの言葉であります。
聖書日課のマタイによる福音書ではイエス様は「悔い改めよ。天の国が近づいた。」と宣べ伝えられたとありますが、マルコによる福音書では、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:14)と人々に呼びかけています。
1月2日の聖書日課は、マタイによる福音書5:1~12で、山上での幸いの教えであります。その9節に「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。
また、今日の説教のための新約聖書、エフェソの信徒への手紙2:14~18に次のように記されています。
このように、キリストは御自分の十字架によって、敵対している双方の敵意という壁を取り壊し、両者を一つの体として神様と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされたのです。このキリストの十字架によって敵対する者たちの敵意が滅ぼされて、両者が一つになって父なる神様に近づくことができるのです。これが「平和の福音」なのです。このキリストによる平和の福音こそが、真の平和なのです。
イザヤ書「主の光の中を歩もう」という招きの言葉を、キリストによる「真の平和の中を歩もう」と言い替えて説教題としました。
今日、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すことのできるのは、イエス・キリストの十字架なのです。敵対する罪人のために、十字架につけられて「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、御自身の命を献げられたイエス・キリストの愛こそが敵意を滅ぼすことができるのです。
このキリストによる真の平和を告げ知らせるために、最近、2つの出来事がありました。
1つは、ローマ教皇の来日とメッセージであります。昨年11月下旬、来日されたローマ教皇フランシスコは世界初の原爆被災地の長崎と広島に立って、原子爆弾はいかに最大の犯罪行為であるか、日本政府におもねることなく、大胆に率直に語られました。東京ドームを一杯にしてミサを行い、キリストの平和に生きる者として、証しされました。
朝日新聞のローマ教皇の取材ノートに次のように書かれています。〝「平和」という究極のモラルに向き合い、誰にも忖度(そんたく)せず、真っ当な主張を堂々と説いて回った。大きく注目されたのは、それが今日の日本でとても新鮮に映ったからかもしれない。〟ローマ教皇の残されたメッセージを日本のキリスト者の基盤の一つとして受け止めたいと願います。
もう1つは、アフガニスタンで人道支援に取り組んできたNGO「ペシャワール会」の現地代表で、12月4日に殺害された医師・中村哲さんのことです。最初、医師としてアフガニスタンの人々を診ていましたが、医療の根本問題として食糧不足に気づき、その解決として、食べ物を十分に得るために、砂漠化した土地に川から水を引いて田畑で作物を作ることができるように灌漑事業を起こしたことです。食べ物がないので、男たちはお金を得るために傭兵として雇われて、戦いに参加しているのです。
灌漑工事が完成して、田畑に水を引いて作物ができ始めると、兵隊に雇われていたタリバンの兵士たちも村に戻って来て、作物作りに精を出すようになった様子が、ドキュメント映像として放映されていました。人は戦いたくて戦うのではなく、食べるために兵として雇われ、戦っている人たちのいることを知りました。
タリバンの兵士たちが武器を捨て、農具を用いて作物作業に喜んでいる姿を見て、これこそ正に、イザヤ書が描く神様の願う平和、終末の平和であることを思いました。
聖書が告げる終わりの日は、いつ来るのか分かりませんが、今日のような争いの有る混沌とした時代の中にも、真の平和の中を歩むことのできることを私たちキリスト者は知っているのです。本庄教会に連なる神の家族としての私たちは、この時代に神様の御心の何ができるのかを、御言葉に聞きつつ求めて行きましょう。「真の平和の中を歩もう」と、その平和の喜びを町の人々と分かち合う教会となって行きたいと願います。
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父なる神様、
御子イエス様の御降誕の喜びと共に、2020年という新しい年を歩み出すことのできたことを感謝いたします。本庄教会に連なる神の家族である皆の上に豊かな祝福をお与えください。
アメリカがイランの軍師司令官を殺害したという事で、戦争が起こるかもしれないという不安の中に、新年の初めから世界が置かれています。どうぞ、このような時代だからこそ、私たちを憐れみ、キリストの十字架による真の平和をお与え下さい。
本庄教会は、この新しい年に、神様の御心である「真の平和の中を歩もう」との招きを本庄市の町に人々に呼びかけることができ、人々を迎え、人々と共に喜ぶことができますようにお導き下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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2020年、神さまの豊かな恵みを覚えながら歩みだすことができました。 この一年この地にあって、主を証しすべく教会の業に仕えていきたいと願います。
在 主
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2019年12月24日(火)
クリスマス・イヴ礼拝より
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:イザヤ書7章14節、60章1-2節、
マタイによる福音書1章18-25節
皆さま、クリスマス・イヴ礼拝にようこそおいでくださいました。クリスマスおめでとうございます。巷では、英語で挨拶を交わされることの方が多いと思いますので、今度は英語で、「メリー・クリスマス!」
このクリスマスの時期、12月に入ると、町にはクリスマスのイルミネーションが溢れます。教会でも、クリスマスの25日の前、アドベントの4回の日曜日に渡り、ろうそくに1つずつ火を灯して25日を待ちます。
本庄教会に入って来られた時にご覧になったと思いますが、教会の入り口にも、もみの木に電飾を飾りつけています。しかし、最近は、教会以上に、様々な施設などで、クリスマスの演出がなされるようになってきました。この近辺では、本庄早稲田駅近くのマリーゴールドの丘が、一番盛大なクリスマスイルミネーションかもしれません。様々な場所で、競うかのように、こぞって、ライトアップをするようになりました。
なぜ、私たちは、そんなにクリスマスをライトアップするのでしょうか。どうして、クリスマスは楽しくて、喜ばしい日なのでしょうか。もしかすると、クリスマスの日にクリスマス・プレゼントが貰えるからでしょうか?
さて、クリスマスの電飾・イルミネーションとは不思議なもので、その電飾を眺める人や置かれた状況によって、見え方や、受け取る感情が変わってくるものです。イルミネーションの内容にもよるかもしれませんが、鮮やかに輝く電飾を見て、お祭りの時の気分のように、気持ちが高まる方もいれば、真っ暗な中で煌々と輝く電飾を見て心が洗われるようだ、心が落ち着くと感じる方もいると思います。これに対して、チカチカと点滅するのが苦手、クリスマスのお祭り気分が苦手だと実際にお感じになっている方もいるかもしれません。また、クリスマスの楽しい雰囲気に気持ちが乗らないと、逆にこのイルミネーションが、どこか寂しく感じる時も、あるのではないかと思うのです。なぜならば、光が見える時、そこには暗闇もあるからです。
ヨーロッパの方では、日が一番短く、一番寒さの厳しい、冬至を迎えるころに、丸太をキャンプファイヤーのように、一晩中燃やすことで、暖を取り、明かりを確保したそうです。クリスマスの光の役割というのは、お祭りの気分を演出することもさることながら、私たちを取り巻く暗闇を照らし、私たちの心を照らし出す光なのです。今日は、このクリスマス・イヴ礼拝をろうそくの明かりのもとにお捧げしています。
今日、このクリスマスに、神様はこの世界全体を照らし、私たちの心を温かい光で包み、照らし出す、真の光として、私たちにイエス様をプレゼントされました。世界の光として赤ちゃんイエス様が私たちのもとに来て、お生まれになったのです。このことを覚えて、ろうそくの灯と共に、この場所に集まっているのです。
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先ほどの、「メリー・クリスマス」の挨拶にもあるように、「クリスマス」は誰にとっても「メリー(幸せ)」なことであり、また誰にとっても「おめでとう!」とお祝いできることなのです。実は、ここがクリスマスの核心部分です。「クリスマス」とは、一人の命が誕生したという喜びと共に、私たち全員に関わってくる大きな祝福と、恵みがそこにはあるのです。今日の聖書の箇所に登場する天使が伝えたように、私たちの為に、私たちの救い主として、イエス様がお生まれになってくださいました。
ここに、「Christ(クライスト)=救い主」としてイエス様が誕生された日を、賛美する「Mass(マース)=礼拝」、Christ-mass(クライスト・マース)=Christmas(クリスマス)が始まったのです。救い主のイエス様の誕生こそが、これほど盛大に祝われる日、喜ばれる日となったクリスマスの起源なのです。
西暦はイエス・キリストのお生まれをおおよその元年とします。今年は2019年になります。今から2019年前に起こった最初のクリスマスの出来事を通して、今を生きる私たちに語られている神様の恵みを受け取りたいと思います。今日は、新約聖書のマタイによる福音書に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」とイエス様の誕生について語られていることを、共に見ていきましょう。
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ここに悩める一人の男性がいました。ヨセフというユダヤ人で、彼は聖書の中で有名なダビデ王の血筋でした。しかし、遠い親戚のようなもので、彼自身、王族ということでもなく、裕福な家庭でもありませんでした。その彼の悩みとは、婚約していたマリアが自分の知らないうちに身ごもっていた、つまり子どもを宿していたというものです。
ヨセフは既に、マリアと婚約していました。当時のユダヤの文化の中では、結婚して一緒に生活するに至るまでに、1年間の婚約の期間があったそうです。当時の厳粛な掟に従っていたユダヤの民にとっては、婚約中の妊娠は重大なことでした。婚約によって、妻・夫という関係が既に成り立つようなのですが、婚約中は婚約者同士が二人きりになることも許されなかったとのことです。その婚約のさなかに、マリアの妊娠が分かったとなると、この子は誰の子なのだろうかという問題になるのです。そして、このことが公にされてしまうと、最悪の場合は、石打の死刑に処せられてしまうのです。実にこのことは、命の危機ともなりうる、手放しで喜べないことであったのです。本来は嬉しいはずの出来事が、悩みとなって、ヨセフは暗闇の淵に落ちるような思いであったかもしれません。そこで、夫ヨセフは「正しい人」とあるように、マリアの命を助ける為に、ひそかに縁を切って、このことを穏便に済ませようと考えていたのです。
しかし、ヨセフが思っていたことと、実際にクリスマスに起こった出来事とは、180度、正反対の出来事だったのです。命が滅びてゆく絶望ではなく、命を生み出す希望であったのです。マリアが身ごもったという聖書の個所は「聖霊によって身ごもった」と伝えています。「聖霊」とは神様の力、神様の存在そのものです。ですから、神様のご計画の中で、神様の力によって子を授かったというのです。そして、それは神様ご自身が赤ちゃんとして、マリアのお腹の中に宿ることで、神様が、人間の世界に、人間の歴史に入り込んできてくださる出来事だったのです。これは、人間の理屈では説明できないことです。マリアはこのことを天使から告げられましたが、その説明をマリアからされても、到底ヨセフには信じることが難しかったのです。
そこで、神様はヨセフの眠りの夢の中へ、天使を遣わされました。まさに、絶望の暗闇の中に伏していたヨセフの上に、神様の光を放つ天使が訪れ、彼の暗闇を照らしたのです。天使はヨセフを慰め、励まして言いました。「恐れずにマリアを迎えなさい」と。マリアは、聖霊によって、つまり神様の力によって赤ちゃんを宿したのだと。そして、その子をイエスと名付けて自分の息子として受け入れるようにと伝えたのです。ここで、「子どもを名付ける」というのは、つまり自分の子どもとして受け入れ、育ての親となることなのです。
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さて、ここでマリアから生まれる赤ちゃんへの二つの呼び名が登場してきます。
一つ目は、「イエス」という名前で、人間として授かった名前です。救い主であられるので、クリスチャンは「様」をつけて、「イエス様」とお呼びしますが、その名前の意味も、「神は救い」という意味です。天使がヨセフに告げていたように、神様は御自身に背く人間を立ち帰らせ、人間を支配する死の力(罪)から救い出してくださる御方なのです。実は、この「イエス」というお名前は、クリスマスの舞台であった、当時のユダヤ・パレスチナ地方において、一般的な男性の名前であったようです。日本でも、翔君、唯ちゃんといった名前が親しまれているのと似ています。
二つ目の呼び名は「インマヌエル」という神様としての呼び名です。なぜイエス様が特別なお方、救い主(キリスト)なのかを示す名前です。古くは、紀元前700年代にも遡る、預言者イザヤによって伝えられていた名前で、この「インマヌエル」の意味は、ユダヤ人の言語であったヘブライ語で、「インマ(一緒)」「ヌー(わたしたち)」「エル(神)」となり、今日の聖書の箇所にもあるように、「神は我々と共におられる」という意味になるのです。これは、イエス様が、私たちと共にいて、私たちの歩みに伴ってくださる神様として、私たち人間のもとに生まれて来られたのだと伝えているのです。
このことは、教会でイエス様のことを、「真の人であって、真の神であられる」と告白することにつながっていきます。私たちは、天と地をお造りになり、すべてに命を与え、祝福し、愛し、尊んでくださる神様を信じ礼拝しています。その神様は、天国から私たちを眺める存在だけではなくて、イエス様において、人間となって、地上に降りて来こられ、人間と労苦を共にしてくださいました。その苦しみの根源である、罪を一挙に背負い、十字架で命を捧げることで、罪を打ち滅ぼしてくださったのです。
私たちの苦しみや悩みに、一番近いところで寄り添い、生きる勇気と力を与えるために、イエス様はインマヌエル(我々と共におられる神様)として地上にお生まれになられたのです。
世界を取り巻く状況というのは、本当に混沌としていて、神様が共におられるという恵みを、忘れさせてしまう状況が続いています。親が子の命を奪い、子が親の命を奪ってしまう悲しいニュースも流れてきます。自分の保身や自分の名誉のために、思い通りに事を動かそうと他の人をないがしろにする、自己中心的な言動が世界を占めています。私たちの心の中にも、時として、人を悲しませ、神様を悲しませてしまう心の影があるかもしれません。また、神様によって与えられた自分の命を、この人生を、素直に喜べないこともあるかもしれません。しかし、今日、この場所でろうそくの光が私たち一人ひとりを照らし、あたたかな光で包んでいるように、神様はそうした暗闇にあるわたしたちの身近にいて、私たちの命と存在を照らし、祝福で包んでくださいます。
ヨセフが悩みと戸惑いの中、暗闇の淵にあった時、神様は天使の光によって彼を照らし、救い主イエス様が共におられる希望と祝福を知らせました。これによって、恐れずマリアとの新しい人生を歩み始めることができたのです。そのように、私たちも今日、ここで神様の光に照らされて、神様が共に歩んでくださる恵みを心の内に、確かにいただくことで、この2019年クリスマスから始まる、2020年の新たな歩みも、希望と勇気をもって歩みだしていきたいと願います。では祈りましょう。
天の父なる神様、
ヨセフが戸惑いの中にも神様の光に照らされて新しい人生を歩んだように、わたしたち一人ひとりも神様からクリスマスの光をいただいて、2020年も新しく歩み出すことができますようにお導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン
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2019年12月22日
クリスマス主日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:イザヤ書26章12-13節、
ルカによる福音書2章8-20節
「みなさん、クリスマスおめでとうございます。」皆さんは、この「クリスマスおめでとうございます」という挨拶を、どのような実感を持って言えていますか。
この二千年間、毎年、巡り来るクリスマスですが、私たち一人ひとりが受け止めるクリスマスの実感は、毎年違うのです。私は、本庄教会で皆様と守る3回目のクリスマスですが、一回一回のクリスマスに受け止める恵みの実感は違うのです。それは、私たちのおかれた状況、特に精神的状況に変化があるからではないでしょうか。
ドイツの宗教詩人のシレシウスが、こう言っています。「たとえ、千たび、キリストが生まれようとも、あなたの心の中に生れなければ喜びがない。」と言っています。
キリストの誕生の喜びは、私たちの心に関わることですから、私たちの精神的状態によってその喜びの度合いが違ってくるのではないでしょうか。
*
今日のルカによる福音書は、最初のクリスマスの出来事でありました。この記事を通して、クリスマスの恵みとはどんなことなのかを聖書から聞いてみたいと願います。
8節に「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」とあります。羊飼いたちは、羊の群れを野原に連れて行って、草を食べさせて羊を養うのが仕事です。今日のように家畜小屋を作り、囲いの中で餌を与えて育てるのではなく、自然放牧で野原の草を食べさせて育てるのです。ですから、野宿することが良くあり、夜には、羊を襲ってくる狼などから守らなければなりません。羊を盗みに来る人もいたようです。暗闇の中で、交代で寝ずの番をしなければ羊を守ることはできません。寒い夜など、大変につらい仕事であります。
また、当時、ユダヤ人たちは、安息日には、仕事を休んで、神様を礼拝に行くことが大切な務めでした。しかし、羊飼いたちは、羊を中心とした生活ですから、仕事を休むことはできませんし、安息日には町に帰ることはできませんでした。野原で神様を礼拝していたと思いますが、礼拝堂に行って神様を礼拝できませんでしたから、宗教指導者たちから安息日を守らない人たちとしてさげすまれていました。
ところが、9節~12節を見ると、大変な想定外のことが起こったのです。
「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」
暗闇の中で、焚火を焚いて寝ずの番をしていた羊飼いたちに、主の栄光が照らし、民全体に与えられる大きな喜び、救い主誕生の知らせが告げられたのだから・・・・、どんなに羊飼いたちは驚いたことでしょう。 安息日を守らない者としてさげすまれている自分たちに、なぜ、民全体に与えられる救い主の誕生の知らせが告げられたのだろうかと、彼らは戸惑ったことでしょう。しかし、天使は「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。これがあなたがたへのしるしである。」と具体的に知らされたのであります。
天使に天の大軍が加わって神様を賛美して言いました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」そして天使たちは、羊飼いたちから離れて、天に去って行きました。すると、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と話し合って、急いで行きました。羊飼いたちは迷子の羊を探すのが得意で、苦になりません。神様はその持ち味を生かして用いられたのです。どんな人にもその人なりの持ち味が神様から与えられているのです。羊飼いたちはマリアとヨセフ、飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子を探し当てたのです。その光景を見た羊飼いたちは、この幼子について天使が知らせてくれたことを人々に知らせました。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったのであります。たとえ、礼拝堂に行けなくても、神様をあがめ賛美する羊飼いたちの姿が証しされています。
私たちは、ここから2つのメッセージを聞きたいと思います。
1つ目は、暗闇の中で羊を守ろうとして一生懸命に生きながらも当時の社会でさげすまれていた身の羊飼いたちの、その持ち味に神様は光を当てて、誕生された救い主を探し出し、民全体に大きな喜び知らせを伝えるメッセンジャーとされたのです。
私たちも人生において、暗闇と思われるような悲しみや苦しみの思いで歩むことがしばしばあります。そういう時に、光の恵みに照らされると戸惑いますが、暗闇と思われる歩みをしたがゆえに、その喜びが大きいのではないでしょうか。また、行き詰まりと思った時、光の恵みを受けると別の道を示されることがあるのです。また、その人の持ち味に光の恵みが当てられると、自ずと、素直に人々に光の喜びを知らせるようになるのではないでしょうか。
クリスマスは、暗闇を歩んでいると思われる人々に、光の恵みが当てられる時であります。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」との天使の御告げを自分への知らせとして聞いてみましょう。そして、光の恵みを受けましょう。
2つ目は、救い主メシアが、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子としてお生まれになったことは、人間として最も低く卑しい者の立場としてお生まれ下さったことです。
今時の「飼い葉桶」は、救い主の誕生をファンタスティック(幻想的)なものとして演出していますが、実は大変不衛生な動物の餌箱です。今ならば、誰がそんな不衛生な動物の餌箱の中に、生れたばかりの乳飲み子を寝かすでしょうか。
そんな状態の中に、救い主がお生まれになったということは、人間としてこれ以下は無いと思われるような状態に置かれた人々をも救う、救い主として、この世に来られたということです。
人々は、いろいろな悲しみや苦しみ、困難に遭います。ほとんどの人は自分の悲しみや苦しみは一番であって、誰も分かってくれない、受け止めてくれないと思うのです。そして自ら命を絶ったり、他者を巻き込んで死んでしまったりするのです。救い主の光は、このような人々も照らしているのです。
私自身のことを少し話します。私は18歳の時の春、自分は呪われた人間でしかない、生きる意味がないという思いに陥って、自殺を決行しようとして山に向かいました。途中でバスに乗って来た婦人が喜びに光り輝いていたのです。買い物かごを持ち、花束を持って、よく見るとお腹が大きい妊婦で、幸せそうに輝いているのです。私は〝俺は死ぬのだから関係ない〟と思って目を閉じ、やがてバスを降りて目的の山の中を登って行きました。しかし、私の脳裏から、あの婦人の輝く姿が消えないのです。とうとうプロバリンという睡眠薬を飲むことができず、山を下りて家に帰りました。そして、翌朝、何となく聞いたラジオの話は大変に心の和む話で、終わると、「今日は日曜日です。あなたの町にもキリスト教会があります。礼拝にいらっしゃいませんか」と招きの言葉があり、キリスト教の話だと知りました。2、3日後、町の教会に行ったのです。
話を良く聞いて下さった牧師は、「疋田さん、あなたは神様に祝福されたから生まれたのです」と言われてびっくりしました。私は思わず、「ええっ、神仏様は、人間を祝福するって本当ですか。私はいつも、そんなことしたら、呪われるぞ、たたられるぞ、罰が当たるぞ、地獄へ行くぞと言われながら育ちました。神様が人間を祝福するなんて聞いたことがない。」と言いました。そしたら牧師は旧約聖書を開いて、創世記1章27、28節「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた。『生めよ。ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。』」(口語訳)と読まれ、ここに「神は彼らを祝福して言われた」とありますよと言われたのです。私は、人間を祝福する神様って、どんな神様か知りたくて教会に通いました。そして18歳のクリスマスにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、今日59回目のクリスマスを迎えます。以来、神様に祝福されて生きる人間の喜びを、人々に分かち合い伝えてきました。
人間はすべて、神様に祝福されて、祝福の喜びの中に生きる者として造られた存在なのです。〝すべての人に与えられる大きな喜び〟とは、あなたは神様の祝福の中に生きる者として造られているという喜びなのです。クリスマスにお生まれになった救い主は、光の恵みで照らして、私たちにそのことに気づかせて下さるのです。今年のクリスマス、救い主御子の光に照らしていただきましょう。神様の祝福の中に生かされていることを喜びましょう。
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私にとって3回目の本庄教会でのクリスマスの恵みは、庭に植えられているエンゼル・トランペットの花を通しての恵みです。
昨年、鉢植えで頂いた苗を、今春、庭の中に植えました。なかなか花が咲かないのです。ところが秋の終わりころ、花芽をつけたのです。私の携帯電話のカメラの日付によると、10月23日に一つの花が咲いたのですが、強風に当たって落ちてしまいました。11月14日に2つの花が咲きました。それが終わると11月28日に3つから4つの花が咲き続けました。それが終わると、12月19日に最後の花芽が開き始めました。本日(12月22日)は満開に咲いています。
エンゼル・トランペットとは、天使のトランペットと言う意味でしょうか。隣の百日紅の葉が落ちて、枝も剪定されていますが、11月から12月にかけて、2つが花を咲かせ、更に4つが花を咲かせ、クリスマスには最後の花芽が満開に咲いたのです。
この秋、エンゼル・トランペットは正に天使のトランペットとして私の心の暗闇に奏でかけてくれたのです。待降節に入って4つの花が開花して救い主イエス様の誕生を喜ぶように咲いてくれました。私は心が癒され、エンゼル・トランペットの花と一緒に救い主のイエス様のお誕生を喜ぶ心へと整えられました。この花は、私にとって正にエンゼル、天使であって、あの羊飼いたちに救い主誕生の大きな喜びを告げたように、新たに救い主の誕生を喜ぶ大きな喜びを私に与えてくれたのです。忘れられないクリスマスとなることでしょう。
皆様の心にも、救い主イエス様の光が当てられ、喜びが増し加わるクリスマスとなるようにお祈りいたします。
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父なる神様、
2019年のクリスマスを、本庄教会において皆様と一緒に守ることのできることを感謝いたします。
暗闇の中に、寝ずの番をしていた羊飼いたちに天からの光と天使の喜びの知らせが告げられたように、現代を生きる私たちも救い主御子の光に照らし出されて、神様に祝福されて生かされている喜びを、新たに見出すクリスマスとなるようにお導き下さい。
そして、迎える2020年が、喜びと感謝に満ちた年でありますように祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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