『父の家にいるのは当たり前』
2019年1月13日(日)礼拝説教より
疋田勝子 牧師
聖書:箴言1章7節、
ルカによる福音書2章41-52節
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1、神殿での少年イエス様
12月30日の礼拝は、ルカによる福音書2章22~38節の御言葉に聞きました。「神殿に献げられる」と小見出しにあるように、両親は、主の律法に「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と定められているので、イエス様を主に献げるためにエルサレムの神殿に連れて行きました。
そして、神殿でシメオンに会いました。シメオンは聖霊に導かれていた人で、幼子イエス様が両親に連れてこられた時、すぐに幼子を腕に抱き、神様をたたえて言いました。
「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(:29~32)
イエス様の誕生は、異邦人の救い、全世界の万民の救いとして語られています。シメオンによって祝福された幼子イエス様は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(:40)のです。続いて、「神殿での少年イエス」の小見出しがついた、イエス様の12歳の時の話が出てきます。
イエス様は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(:40)とありますが、イエス様だけでなく、幼子は皆、神様の子供ですから、「神の恵みに包まれている」のです。
そのことを大人がどれだけ気づき、神様からお預かりしている子供として認識しながら育てているかが問われてきます。産まれた時は、みんな純真な子供なのです。ところが育てられ方次第で、悪の道に入り、犯罪を犯してしまう子供もいるのです。
幼い子供はなかなか体温調整ができないので、室温が高いと高い体温になってしまうのです。それと同じように、子供の置かれた環境が悪いと、悪い方に同化してしまいます。私たち大人は、子供たちを良い環境に置いてあげることができるように祈り努めなければなりません。その意味で、ミッション・スクールの存在は大きいです。
神様は、どんな子供でも愛して下さっていることを、知的に教えるだけでなく、愛を注ぎながら育てていくことが大事です。今日の聖書の個所は、子供は、自分の子供である前に、まず神様の子供であることを意識して育てていく大切さを教えているのです。
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2、少年イエス様を通して学ぶ3つのこと
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(1)慣習に従って
「イエスが12歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」とあります。
日本では、満20歳で成人式を迎えます。ユダヤ人の男子は13歳で成人式を迎え、この年から律法のあらゆる義務を果たすことが求められます。まず、年3回のエルサレムでの三大祭り(過越し祭、五旬祭、仮庵祭)に出席することが命じられています。
女性にはその義務はないのですが、敬虔な家庭では同行したのです(サムエル上2:19)。しかし、年3回出席という規定は、一般的に年1回の「過越祭」への出席だけでも良いとされていました。イエス様のご両親は、この慣習に従ったのです。
ユダヤ人社会では、男子が12歳になると青年期に入ったとされ、律法に従う生活ができるようになると考えられていました。
そして断食をすることを教わり始め、13歳になると幼年期を脱し、成人の宗教的義務に関わることが求められました。おそらく、イエス様の両親は、一人前の年齢に達したイエス様が、これから神の前に一人で立つことができるという喜びを持ってエルサレムに上ったと思います。過越祭と、それに続く「種入れぬパンの祭り」(除酵祭)は7日間に渡ります。当時、一緒に連れて行くことは子供に対する宗教教育でありました。
新約時代に生きる私たちにできることは、何と言っても一般化されているクリスマスに、子供たちと教会で礼拝を捧げることです。〝クリスマスって何の日〟とテレビ番組で取り上げられていました。クリスマスは終わり、今度は、クリスマスほど世間に知られていませんが、イースターに向かって準備しなければなりません。今から、祈りながら、このチャンスに子供や孫を誘ってみるのも一つの良い方法です。
信仰とその成長とは、自動的に起こるものではなく、何もしないでは起きるものではありません。信仰の成長には訓練が必要であることが、ここで語られています。今日の聖書では「慣習に従って」と言うところです。「慣習」とは〝しきたり〟〝ならわし〟習慣の意味です。信仰には、しきたりや習わしに従うことが、つきものです。
礼拝も習慣になることが大事とも言えます。日常の決まりきった行いは、信仰生活と切っても切れないものなのです。私たちの毎日の生活で、朝、顔を洗ったり、歯を磨いたり、1日3回の食事をしたり、お風呂に入ったり、習慣化されていることを欠かすと気持ちが悪くなります。
信仰生活もこれに似ています。毎日曜日の礼拝に来て、御言葉に聞き、そして兄弟姉妹と交わりをします。そして始まる1週間、毎日、聖書日課を通して聖書を読んで、御言葉に従い、執り成しのお祈りをし、週半ばの祈祷会を覚えることが、習慣化され、当たり前の生活となっていくのが大事です。
ある賢人は、〝性格というものは習慣の総計である〟と言っています。即ち、性格とは、何らかの行動が習慣となって表れたものだと言うのです。ですから、キリストのような品性を身に着けたいと願うなら、キリストの持っておられた習慣を身に着けて成長していけばよいと言うことです。
ある人は言いました。暇さえあればテレビばかり見ていてよいのだろうか。聖書も読まないし、祈りもしない、礼拝は時々しか行かない。これでクリスチャンと言えるのかと自分を責めていました。思い切って礼拝に出ることにしました。そうしたら、とても気が楽になり、月1回の礼拝が、2回、3回となりました。テレビばかり見ていたが、半分だけテレビを見、半分は聖書を読む時間にするようにしました。すると気が楽になり、信仰生活が楽しくなってきましたと言っておられました。良い習慣に少しずつ置き換えていくことによって、少しずつキリストの似姿に向かって成長していったのです。
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(2)父の家にいるのは当たり前
私たちは毎日の生活で、時として知らないうちに、あれやこれやと神様以外の人や物を捜しています。「私たちは、なんとも落ち着かず右往左往して、どうしようもないものですが、しかし、そんな私たちであることをご存知の上で御手を広げて、〝ここだよ、ここだけだよ〟とお迎えくださる主のやさしさはたまりません。」(FBマイヤー)
少年イエス様は12歳になって、ある程度自由にふるまっていました。両親は過越祭の期間が終わって帰途についた時、イエス様はエルサレムに残っておられました。両親は1日分の道のり(35km)を行った時に、イエス様がいないことに気づいたのです。それから、両親は親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返しました。3日後に、イエス様が神殿の中にいるのを見つけました。
少年イエス様は、「学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問したり」しておられました。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いた」と記されています。ここに神の御言葉を学ぶ姿勢が示されています。
「マルタとマリアの話」があります。マリアはイエス様の足もとに座り、しっかりと話を聞いていました。姉のマリアはイエス様をもてなす料理を作るのに忙しく、何も手伝わないマリアの姿を見て怒ってしまいました。するとイエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41~42)と言われました。
少年イエス様の姿は、マリアとは状況は違いますが、教わる者の姿勢を取り、何よりも神の御言葉に耳を傾け、真剣に学者に質問していました。この神の御言葉に学ぶ姿勢は、私たち大人も学ぶべきでありますが、ここを通して、子供には教会でなければできない、聖書を読み・祈り・礼拝をささげるという習慣の大切さを、小さいうちから教えなければならないことを学ばせられます。大人も子供も御言葉に聞いて従う習慣、祈る習慣を身に着けていきたいと思います。
少年イエス様と学者とのやり取りは、学者たちと対等に議論していると言うよりも、座って御言葉を〝教わる者の姿勢〟が示されています。
12歳になったイエス様が、神の掟に対して責任を持つことができるようになることは〝自立する〟ことです。普通、自立することは親の手から離れることであります。しかし、母親のマリアは、ここではまだ子離れしていないのです。
:48)母は言った。「なんでこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」
:49)するとイエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのが当たり前だということを、知らなかったのですか。」
:50)しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
ここには、私たちに対して大切なことが教えられています。つまり、〝子供は、いったい誰のものか、親だけのものなのか〟と問われています。
親が子供はどこへ行ったのかと心配するのは当然であります。しかし、イエス様は「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言われ、親子の関係よりも自らの使命をはっきりと打ち出しておられるのであります。
私たちには家が2つあります。一つは生活する家です。もう一つはイエス様が言われた父なる神の家です。私たちは、父なる神の家に住んでいるのに、不安な生活をしていないでしょうか。
もし、親である私たちが、マリアのように子供のことで大変不安な生活をしているとしたら、子供を父なる神の家に住まわせていないから不安で仕方がないのです。子供は神様からの預かりもので、自分一人で育てるのではなく、神様が育てて下さるのです。そのことを信じる時に安心が与えられます。
大人の私たちも、マリアのようにイエス様を捜して右往左往しないためには、まず、父なる神の家にいるのが当たり前だと思うことです。
具体的には、何よりも第一に主日の礼拝と聖餐を大事にしてしっかりと主イエス様に結び付くことです。次に、イエス様の〝御言葉を教わる姿勢〟に習って、日々の聖書日課を大事にすることです。また、少年イエス様が学者たちと交わって成長したように、私たちも兄弟姉妹との交わりと執り成しの祈りを大切にすることです。そして「父の家にいるのは当たり前」と言い合いながら、キリストの体なる教会にしっかりとつながり続けて行きましょう。ここにこそ安心の道があるのです。
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(3)仕える
少年イエス様は、ナザレの家に帰ってから、両親に仕え、父ヨセフの大工の仕事を手伝いながら社会生活をされました。
私たちは新しい年も、それぞれこの世へと遣わされて行きます。置かれている所でキリストの恵みを証ししつつ、仕事に励み、隣人に仕えて行きましょう。そうすれば、神様は私たちの生活の中に平安と喜びを恵みとして与えて下さいます。
:52)イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
私たちクリスチャンは、イエス様に似た者として成長していくイエス様の弟子ですから、この御言葉は、私たちにも与えられている恵みであります。
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〈祈り〉
天の父なる神様、御名を賛美します。
主イエス様が12歳の時からもうすでに神の御言葉を学び、従う姿勢を取っておられ、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」と言われたことを私たちに自覚させて下さり本当にありがとうございます。
どうか、まず私たち大人が父の家から離れることなく、しっかりとつながって、子供たちをも信仰へと導いていくことができますように力を下さい。
主イエスの聖名によって祈ります。
アーメン。
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