月報『マラナタ』14号巻頭言(1/4)

2018年度標語の学び
(第3回、完結):
『主よ、祈りを教えてください』
2019年 3/24、4/7、5/5、5/26の説教より





説教者せっきょうしゃひきくに磨呂まろ 牧師ぼくし
聖書せいしょ箇所かしょ
しゅつエジプト16しょう9-16せつ
サムエル12しょう1-14せつ
しんめい6しょう16-19せつ
へん8ぺん2-10せつ
マタイによるふくいんしょ6しょう9-13せつ

※今回は数回分の説教となっている為、目次をご利用ください。
**目次**

**過去の学びについてはこちら**

1.「主の祈り」の構造の確認

 これまで学んできた第1~第3の祈りは、神様の御名、神様の御国、神様の御心と、神様のことを祈っています。

 これに対して、今回の第4~第6の祈りは、我らの日用の糧、我らの罪、我らの試みと、私たちのことを祈っています。

2. 第4の祈り「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」

(1)飽食の時代に生きる者にとって

 私はこの祈りについて考えるとき、いつも思うのです。私たちは毎日、食べ物のことで今日も与えて下さいと神様に祈っているだろうか。祈らなくても毎日何か食べ物を食べることができると思っているのではないでしょうか。

 なんで、イエス様は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るように教えられたのでしょうか。
イエス様の時代は、その日の食事も食べられないような人がいたことは確かですが、今の日本のように飽食の時代の中に生きる者は、この祈りをどう受け止めればよいのでしょうか。

 私は、キリスト入門講座で「主の祈り」を学ぶとき、私たち日本人は食べ物に何の不自由もないが、今も地球のどこかに、食べる物がなく飢えて、死んでいく人がいることを忘れないでください。そういう中で、
食べることのできることを感謝しましょう。と教えていました。

 出エジプト記の記事では、モーセに導かれて荒野を旅するイスラエル人が食べる物がなく、それだったらエジプトにいた方がましだったと不平を言っています。それに対して神様は「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。』と。」(16:12)と言っておられます。それで、神様は夕方にはうずらを与え、朝には露が蒸発した後にできる薄いウエハスのようなマナを与えて養われました。

 日本人は、第二次世界大戦に負けた後、極度の食糧難に遭い、食べることに窮した時代がありました。私の年代、75歳以上の人々は食糧難を経験していると思います。

 荒野のイスラエル人や日本の戦後の食糧難を経験している人には、「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、実感を込めて祈ることができますが、飽食の時代を生きる者には、どれほどの実感を持って祈ることができるのでしょうか。

(2)「大いなる明日の食べ物」

 今回、「主の祈り」について学ぶ中に、ハッとして目からうろこが落ちる経験をしました。

 新約学者のエレミアスは、「日用の糧」と訳されているギリシア語は「エピウーシオス」と言う言葉で、宗教改革者のマルチン・ルターは「日ごとに」と訳したことから、今日の主の祈りが定着したと言うのです。

 しかし、ウルガータと呼ばれるカトリック公認のラテン語訳聖書の翻訳者のヒエロニムス(343~420年)は、イエス様が用いられた言葉であるアラム語で書かれたナザレ人福音書には、「日用の糧」に当たる言葉は、「マハール」つまり「明日」と言う言葉が用いられ、「我らの明日の食物を今日も与えたまえ」となると言うのです。

 この「明日の食物」ついて、ヒエロニムスはこう言っています。「へブル人福音書=ナザレ人福音書の中で、私はマハール、即ち『明日の』という言葉を見つけた。それゆえ『私たちの明日、即ち将来の食物を今日もお与え下さい』と言う意味になる」と。

 それは、単に「明日の食物」と言うことではなく、「大いなる明日」つまり「終末における完成の食物」を意味するものと考えられていると言うのです。

 「大いなる明日」とは、来るべき神の国です。客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言われたことに対して、イエス様は「大宴会」(ルカ14:15~24、マタイ22:1~14)にたとえて話されました。「明日に食べる食物」は、神の国の食事なのであります。神の国の食物は、人間にとって「究極の食物」であります。

 この大いなる明日の食物、神の国の食卓にも備えられた食物とは何なのでしょうか。私たちは、イエス様が弟子たちと共にされた最後の晩餐を思い起こさねばなりません。

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(ルカ22:19~20)

 この最後の晩餐は、ただのパンではなく、ただの杯ではないのです。このパンと杯のただ中にキリストがおられるのです。キリストの命を犠牲とする愛に裏付けられた、アガペーの愛を含んだパンなのです。
イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と言われています。

 確かに、私たちは日毎のパンなしには生きることはできません。しかし、神様の口から出た御言葉の一つ一つを通して自分の存在と、生きる意味を見出すのです。

 「日ごとのパンを与えて下さい」という祈りは、〝人間を究極的に生かす神の国の食物を与えて下さい〟という祈りを指し示しているのです。神の国の食事を先取りして与えられているのが主の聖餐であります。
私たちは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る時、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言う御言葉と重ね合わせて、神の国の食事に与かっている恵みに感謝したいと思います。

(3)聖霊の結びついた食べ物の交わり

 神の国の食事は、人間を神様に祝福された者として究極的に生かす「命のパン」であります。
ルカによる福音書の主の祈りに付随する話に、真夜中にパンを借りに来た人の話があります。そして、祈りの姿勢として、「しつように頼めば」与えられる。「求めなさい…探しなさい…門をたたきなさい」と勧められています。ところが、与えられるのはパンではなく、「聖霊」が与えられると言っています。

 私は、前の説教で、この聖霊は私たちの祈り求める事に対して神様の答えが何であるかを諭し導くものとしてお話ししました。

 別の言い方をしますと、天の父が、良い物としてパンではなく、聖霊を与えられるということの意味は、人間が生きるのに良いものとして究極的に与えられる「命のパン」は「聖霊」であると言うことです。人間は祝福された者として生きるためには、聖霊を必要としているということです。

 私たちが日ごとに頂くパンの背後に聖霊があって、パンと結びついているのです。私たちは日ごとのパンを頂く中に、私たちを活かして下さる神様、主イエス様を知るようになるのです。

 神の国の食事は、単に腹を満たす食物ではなく、その食物の背後に聖霊があり、聖霊がもたらす実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)に包まれた食事による交わりであります。聖霊が伴うパンの食事は、聖霊による交わりを現すのであります。

 本庄教会でも、礼拝後に、簡単な食べ物をいただきながら交わりますが、ただ腹を満たすのではないのですね。その食べ物には聖霊が結びついているのです。だから、愛があり、喜びがあり、平和があり、聖霊の結ぶ実に満ちた交わりになるのであります。
 
 ある牧師はこう言っています。
「食事とは、本当は、神の国の盛大な晩餐会を幾分でも反映した、いわばお祭りの要素がなければならないのです。たとえば家庭が不和になると、そのお祭り的要素はなくなってしまいます。食事は〝物〟ではなく、〝出来事〟なのであります。」

 私は、今回、この点でも改めて、「そうなのだ」と思わされました。教会で兄弟姉妹と共にする食べ物は、聖霊が結びつき、聖霊の実による交わりの出来事なのだと再認識しました。

 私が伝道者として歩んできたこの44年間、柿ノ木坂教会、福井神明教会、大宮教会、どこに於いても、若者たちと本当に簡単な食べ物をいただきながら交わりの時を持ってきました。その中から、多くの若者たちがイエス様を信じて洗礼を受け、信仰者として育って行きました。その中から10数人が伝道者として献身して行きました。

 本庄教会でも、聖霊が結びついた食卓の交わりをして行きたいと願っています。
2019年度の宣教の標語は「わたしたちは神の家族」ということです。聖霊の結びついた食卓の原点は主の聖餐でありますが、日々の食卓でも聖霊が結びついていることを自覚して聖霊の実があふれる神の家族を現して行きたいと願い、祈っています。

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