マラナタ32号編集後記

本庄教会月報11月号をお届けします。

換気扇

11月22日の礼拝から、礼拝堂に4基の換気扇を設置し、2基からは吸気、残り2基からは排気と、効率の良い換気に努めています。また、加湿器を合せて設置しました。

試行錯誤の毎日ですが、主が顧みてくださることを信じて、できる努力を続けていきます。

在主


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月報『マラナタ』32号 巻頭言

説教:
めぐみとしてのえいえんいのち
2020年11月1日
えいみんしゃねんれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい2しょう7せつ
ヨハネのしんへのがみ3しょう16-17せつ

國磨呂牧師講壇

1、永眠者記念礼拝

今日は、永眠者記念礼拝として、本庄教会関係者の天に召された方々を想起して礼拝を献げます。神様の御言葉を通して慰めと励ましをいただき、御遺族皆様の上に神様の祝福とお導きを共にお祈りいたしたいと願います。

昨年の永眠者記念礼拝後、F.T.さん、S.N.さん、S.A.さんの3人が、「本庄教会 逝去者・納骨者名簿」にお名前が加えられました。お別れして1年も経っておられなく、まだ寂しさの中にもおられるかと思いますが、御遺族の上に神様の御慰めをお祈りいたします。

2、宗教心

最初に「宗教心」について考えたいと思います。

日頃、〝神も仏もあるものか〟と言って生きている人がおられます。また、日本人は、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれると〝無宗教です〟と答える人が多いと言われています。

このような〝神も仏もあるものか〟〝無宗教です〟と言われる人も、重い病気になったり、何か災いが起きたりすると、「神さま、仏さま」と言って恐れ拝むのです。正月三が日の初詣で、神社や寺に何百万人という人々が詣でる数は何なのでしょうか。

日頃、〝神も仏もあるものか〟〝無宗教〟と言っているような人々にも、「人間を超越した神さま、仏さま」を恐れ拝む心があるのです。それが「宗教心」なのです。

3、「神のかたち」

聖書は、この「宗教心」をどのように記しているでしょうか。

聖書の一番始めに書かれている創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された。」と書かれています。聖書は「天地を創造」された〝創造主・造り主〟を「神」と呼ぶのです。世界は、創造主によって造られた被造物の世界なのです。世界を造られた創造主は〝唯一の神〟なのです。

創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。」と記されています。

人は誰も皆、「神のかたち」に造られ、祝福されて生まれたのです。

創世記2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。この「命の息」は「神の霊」とも言われます。

土の塵のようなもので形づくられた人が、その鼻に神の霊が吹き込まれて、神様と霊的な交流・会話ができるようになったことを「生きる者となった」と言うのです。神様は人に霊を吹き込まれたので、人は生まれながらに神様と霊的に交流ができるのです。これが「神のかたち」なのです。それが「宗教心」とも言えるのです。

キリスト教では、目に見えない神様を「天の父なる神様」と呼びかけてお祈りをします。お祈りができることこそが「神のかたち」を生きることなのです。また「宗教心」があることの証拠なのです。

4、限りある人生

詩編90編10、12節に次のように言われています。
「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」

私たちの人生は、70年、80年と限りある人生です。しかも、苦労や災いが多く、瞬く間に終わってしまうのです。詩人は、自分の生涯を正しく数えることを教えてくださいと訴えていますが、人は誰も、自分の人生を正しく数えることができません。

コヘレトの言葉3章9~14節に次のように言われています。
「人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。
わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人はだれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。
わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」

私たちの限りある人生でも、「神を畏れ敬う」ことによって、神様がすべてを時宜にかなったように造られたことが分かるのです。「すべて時宜にかなうように造り」は口語訳聖書では「神のなさることは皆その時にかなって美しい」と訳されています。

私たちには神様のなされることを始めから終わりまで見極めることはできませんが、
人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることなのです。

誰もが飲み食いし、その労苦によって満足することができるのは、神様からの賜物(=恵み)なのです。

限りある人生において、私たちが喜び楽しんで幸福であり、満足できるという神様からの「恵み」を頂けるのは、「神を畏れ敬う」心を大切にすることによるのです。

5、「神のかたち」を見失った罪人

私たち人間は、いつの間にか「神のかたち」として造られたことを見失ってしまったのです。造り主である神様との霊的交流ができなくなって、神様の御心が分からなくなってしまったのです。このような状態を、聖書は「罪」と言います。

人間は皆、神様との交流を失い、神様の御言葉に聞かなくなったので、自分の価値観を基準にし、自分中心に生きるようになってしまったのです。

ですから、神様が恵みとして下さる喜びや楽しみの幸福や満足が分からなくなり、悪いことはみんな他の人の責任にし、他の人を裁き、他の人と争い、他の人の命を奪うこともしてしまうのです。そこには最早喜びも楽しみも満足もありません。

6、クリスマスに誕生された御子イエス様と永遠の命

神様は、人間に与えられている「神のかたち」を回復して、人々が神様から与えられる恵み・幸福が分かるようにと、神の御子イエス様を地上に誕生させて下さったのです。それがクリスマスなのです。

それが、ヨハネによる福音書3章16節、17節のメッセージなのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

クリスマスの出来事は、神の御子イエス様の誕生によって、世の人々が救われるためであります。「神のかたち」に造られながら、それを見失い、神様との霊的な交流ができなくなって滅びるしかない人間が、神の独り子であるイエス様を救い主として信じて「神のかたち」を回復し、永遠の命を得るようになることです。

キリスト教会の十字架は、神の独り子である御子イエス様が、神様に背いている全ての人間の罪を背負って、身代わりとなって死んでくださった十字架なのです。

イエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ福音書23:34)と祈りつつ死なれたのです。あのイエス様の祈りと死は、自分の罪の赦しのためであったと信じる者が「神のかたち」を回復し、永遠の命を得ることができるのです。

「永遠の命」とは、地上の限られた人生を生きる時も神様の御支配の中に生き、また、やがて死によって地上を去り、神様の御許、天の国に行っても神様の御支配の中に生きることなのです。永遠の命とは、神様の御支配の中に永遠に生きることです。

今日、永眠者記念礼拝の中に覚えられる方々は、神の御子イエス様をキリストと信じて、永遠の命を得て、神様の御許に生きる、天のみ民たちなのです。

今、こうして礼拝を献げていますが、この礼拝は既に神様の御許に召されて天におられる愛する方々と、地上にある私たちとが一緒に神様をほめたたえる礼拝なのです。

毎日曜日に献げる礼拝は、天上の民と地上の民が一緒になって献げている礼拝なのです。ですから、私は、御遺族の方々に、天に召された方々とお会いしたかったら、礼拝にいらっしゃい。お会いできますよとお誘いするのです。

今日も、天上の方々は皆さんと一緒に礼拝を献げておられ、地上の私たちを見守り、礼拝を共にできることを喜んでおられることでしょう。

〈祈り〉

天の父なる神様、今朝は、永眠者記念礼拝として、この礼拝を御遺族の皆様と共に献げることのできることを感謝いたします。

私たちの人生は限りのある人生です。「神を畏れ敬う」ことによって神様が賜物としてくださる喜び、楽しむことの幸福を私たちに満たしてください。

御遺族の方々が、十字架上のイエス様の祈りを自分に対するものと信じて永遠の命を得ることができるようにお導き下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

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月報『マラナタ』31号 巻頭言

説教:
『キリストがわたしのうちにおられる』
2020年10月18日
きょうかいせつりつ132しゅうねんれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい15しょう1-6せつ
ガラテヤのしんへのがみ2しょう15-21せつ

國磨呂牧師講壇

1、設立記念日を覚えて

今日は、本庄教会が設立されてから132周年を迎えたことになります。本庄の地に、イエス・キリストを信じる群れができて、神の家族としてキリストによる恵みを証ししてきて132年になるのであります。

今、教会の標語を「わたしたちは神の家族」と掲げて歩んでいます。「神の家族とは何なのか」と説教を通して御言葉に聴いて来ました。少し振り返ってみたいと思います。

  • 神の家族とは、「あなたはキリスト(救い主)、生ける神の子です」と信仰を告白するキリストを信じる信徒の群れなのであります。
  • イエス様は、この「あなたはキリスト、生ける神の子です」との信仰告白を土台の岩として、「わたしの教会を建てる」と言われました。教会はイエス様の教会なのであります。
  • パウロは、イエス様の教会を「キリストの体」と表現し、私たち一人一人はイエス様の御体の一部分であることを教えています。「キリストの体」が喜びをもって生き生きと生きる要は、御体に連なる弱い部分が生かされることであります。

弱い部分も強い部分も共に一緒に生かされることです。実際の私たちの体のことを考えてみると、体のどんな部分も働きが担わされており、弱い部分だから働きを担わなくてもよいと言う部分はありません。教会の働きも、皆で一緒に担い合ってこそ、生き生きと生きるのです。

2、全ての人は、信仰によって義とされる

本庄教会を始め諸教会のキリストの御体とされている私たちが、御体の一部分として生き生きと生かされているのかと絶えず主から問われているのです。この問いの下で、今日の御言葉に御一緒に聴きたいと願っています。

15節に「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と言っています。

「ユダヤ人」は、神様が「祝福の源となるように」と選ばれたアブラハム(創世記12:2)の子孫で、天地万物の造り主である神様を信ずるイスラエル民族であります。

一方「異邦人」は、聖書が示す造り主である神様を知らず、さまざまな偶像の神々を信じているイスラエル人以外の国の人々を指しています。それゆえ造り主である神様を信じない罪人なのです。日本人も異邦人としての罪人であります。

ユダヤ人たちは、神様と共に生きる民族として、モーセをとおして「十戒」という神様からの掟をいただき、それに従って生きる民族でした。

「十戒」前半は、神様と人間との縦の垂直関係の在り方、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」「あなたはいかなる像も造ってはならない。」「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を心に留め、これを聖別せよ」等と示されています。

「十戒」の後半は、人と人との横の関係の在り方、「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」等が示されています。

ユダヤ人たちは、この「十戒」を基として作られた律法に従うことによって神の「義」を求めたのです。

「義」と言うのは、神様の義にあずかることで、神様と正しく向き合って神様との愛の関係を生きることです。これを「キリストによる救い」とも言います。

しかし、イスラエルの民は、偶像を禁じられていながら、偶像を造って神様に背き、アッシリアやバビロンの大国に滅ぼされると言う裁きを受けたのです。その意味で、ユダヤ人たちは律法に従うことによって神の義を得ることができなかった罪人だったのです。

16節「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」

 「律法の実行」は、〝人間の行い〟と言い替えて良いと思います。神様から与えられた「十戒」によって神様からの義を得られなかったイスラエルの歴史でした。そこで神様は、人が義とされるのは、律法を守るという人間の行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰による義を得る道を与えられたのです。

アブラハムは「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とありますが、まだ律法が示されるはるか以前、アブラハムは主の御言葉を聞いて信じたのです。これが信じて義とされることです(創世記15:5~6)。神様は、この信じて義とされる道をイエス・キリストを通して備えて下さったのです。

それは律法を守り得なかったユダヤ人たちの罪人も、異邦人としての罪人も、皆、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのです。

イエス様は、全ての人々の罪を背負って十字架にかかり、全ての人々の身代わりに犠牲の死を遂げて、全ての人々の罪の赦しを実現されたのです。

3、十字架の贖い

ですから19節で言われます。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」

「律法に対して律法によって死んだ」と言うことは、律法には、罪を犯した者は死の報いを受けるのですが、自分の命の身代わりの犠牲として、小牛、小羊などを献げることができたのです。贖罪の献げ物としてレビ記7章に詳しく述べられています。

キリストはわたしの罪のために身代わりの犠牲として十字架につけられた、ということです。

十字架に架けられて死んだイエス様は墓に葬られましたが、3日目に復活されました。弟子たちの前に現れ、「40日にわたって彼らに神の国について話をされ」て、そして天に上げられて、今は、神様の右の座についておられます。聖霊の働きと共に復活のキリストとして地上の私たちの傍らに来られて共に歩んでくださるのです。

それ故に、20節に言われています。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

パウロが、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言うのは、あの十字架のキリストの死は、私の罪のための死であったと、その犠牲の贖いを信じたお蔭で、自分は今、神様の前に義とされて生かされているのです。自分の罪の赦しのために死んでくださったイエス様は、今は復活のキリストとして、私の内におられ、私と共に生きておられるのですと、復活のキリストの現臨、今も共におられることをリアルに感じ取っていることを述べているのです。

そして「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです。」と告白しています。更にパウロは21節に「わたしは、神の恵みを無にはしません。」と信仰の決断をしています。

キリストの御体の一部分にされている私たちが、生き生きとして生きることができるのは、このキリストの十字架に流された贖いの血が通っていることを信じることです。どの一人一人にもキリストの十字架の贖いの血が通っており、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と、復活のキリストの現臨の喜びを分ち合うことです。この霊的な喜びに満ちあふれる教会となることです。

どうしたらそんな教会になれるのでしょうか。それは、19節から語られている、パウロが示す、キリストと共に十字架につけられ、キリストが私の内に生きておられるという復活のキリストの現臨を自分自身のものとして一人一人が信仰によって味わい、そしてその喜びを互いに分かち合うことから始まります。

復活のキリストが私の内に生きておられるという恵みを、ここにおられる皆さんにも与えられているのです。

設立132周年を祝うということは、「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」との恵みが、132年の歩みにおいて受け継がれ、今も同じように本庄教会の信仰的現実であることを証ができることを祝い喜ぶことなのです。

例)金太郎あめをご存じですか。どこを切っても金太郎の顔が出てきます。それと同じように、教会の歩みのどこを切っても、「キリストがわたしの内に生きておられる」とキリストが出てくるのです。それは、即ち、教会に連なる私たち一人一人の生活のどこを切っても共におられるキリストが出てくるのであります。

私は、皆さんに提案いたします。今、設立132周年を迎えた本庄教会の神の家族、そのキリストの御体の一人一人に、自分なりに「キリストがわたしの内に生きておられる」と言う信仰の喜びを証しする証しを書いて頂くことです。そして証し集を纏めてみてはどうでしょうか。

〈祈り〉

天の父なる神様、今日は本庄教会の設立132周年の記念すべき礼拝であります。この教会のキリストの御体の一部分として連なり、神の家族としての歩みを許されていることを感謝いたします。

パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と告白する信仰を、私たち一人一人の信仰として受け止めることのできることを感謝いたします。

キリストが私たち一人一人の内に生きていて下さる恵みの喜びを共に分かち合い、まだあなたのことを知らない人々にも、この恵みを分かち合うことのできるようにしてください。あなたを求めておられる方々の上に聖霊のお導きをお与え下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

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月報『マラナタ』30号 巻頭言

説教:
『わたしたちをになってくださるかみさま
2020年9月13日
けいろうしゅじつれいはいより

せっきょうしゃひきよし 牧師ぼくし
せいしょしょ:イザヤしょ46しょう1-4せつ
ルカによるふくいんしょ15しょう1-7せつ

義也牧師講壇

1、恵老の日を覚えて

本庄教会では9月の第2週目を「恵老の日」礼拝としておささげしています。この後、8名の80歳以上の兄姉を覚えて、健康と歩みが神様によって祝福されますようお祈りをいたします。さて、本庄教会では「けいろう」という言葉を、「恵み」に「老い」と表記していますが、ここには「老い」ということへの一つの信仰的な姿勢が表わされていると思います。本庄教会で、本日「恵老の日」をお祝いするということは、恵老祝福を受けられる兄姉方のこれからの歩みに主の祝福とお支えを祈り願うと同時に、これまで兄姉が本庄教会に仕え、それぞれが信仰の歩みを証しする者とされた主の恵みに感謝する時でもあるのです。

兄姉、お一人お一人に命を造り与えて下さった主なる神様。そして、命の誕生から今日にいたるまで、それぞれに出会い、導き、救い出して、今まで共に寄り添い、共に歩んでくださったイエス様の恵みを思い起こし、感謝をおささげしたいと思います。また、私たちも恵老の兄姉と本庄教会で出会い、礼拝の交わりを通じて、共に主の救いの恵みに連なり、神の家族とされているこれまでの歩みを主に感謝し、恵老の兄姉が生涯を通じて証ししてきた主の救いの御名を、私たちも共に心から賛美したいと願います。

2、バビロン捕囚の地での不安と嘆き

イザヤ書46章1節から4節を共にお読みしました。そこでは、40章から始まる、主なる神様の神の民への預言が語りかけられているのです。特に、この46章の箇所には「背負う」という言葉が繰り返し登場します。まず1節~2節には人間によって重荷として担がれる偶像について語られます。ベルとネボと呼ばれる二つの名前が出てきますが、これらは紀元前6世紀の初めにイスラエルを侵略し、イスラエルの民を捕虜として連れ去ったバビロン帝国において、ベルは別名マルドゥークとして知られていたバビロニアの守護神、ネボは文学と農耕の神として崇められていた、偶像の神々の名前です。さて、これらのベルとネボは、別々の神殿で崇められていたそうなのですが、新年を迎えるごとにネボの神殿とベル(マルドゥーク)の神殿との間で行進行列が行われていたそうです。その儀式の中で、これらの像が家畜や船に乗せられて行きかうということがあったようです。

こうした、様々な偶像が祭り上げられているバビロンの文化の中で、そこに捕虜として連れてこられたイスラエルの人々の心の内はどのような状態だったのでしょうか。捕囚の民とされていたイスラエルの嘆きは、旧約聖書の哀歌にその嘆きの歌が語られています。また、詩編の137編には、バビロンでイスラエルの人々が覚えた嘆きがストレートに歌われています。

「バビロンの流れのほとりに座り、シオン(つまりエルサレム神殿の丘)を思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして、『歌って、聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で。」(詩編137:1~4)。

天地万物を創造された真の神を礼拝していた民が、彼らの礼拝所であったエルサレム神殿から引き離され、異国の地に捕囚の民としての生活を余儀なくされてしまったのです。

自分たちの心が主から離れてしまったから、民の中の弱きものを顧みず、富や名声に溺れて不正を行い、神様よりも政治的な権力や近隣諸国との軍事的な同盟を頼りとしてしまったから、主なる神様はそのような過った歩みを徹底的に裁かれているのだと、感じていたかもしれません。しかし、その裁きの先に、神様が再び彼らを憐れんで、顧みてくださるのかということが大きな問いであったのです。

先ほどの哀歌でも、嘆きの中で祈りを閉じています。
「なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか。主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました。」(哀歌5:20~22)

遠くバビロンで捕囚とされてしまった彼らの内側には、喜びや希望はすっかり消えてしまっていたのです。もし、このままこの地で主なる神様からの助けの手がなければ、わたしたちはバビロンの民と一緒に、このべルとネボを担ぎ上げるものとされてしまうのだろうか。真の神様であられる主の御名を忘れないようにと自らに言い聞かせながらも、いつかはベルとネボを拝むものになってしまうのではないか…そのような不安が彼らの心の内にあったかもしれません。

3、担い、背負い、救ってくださる神様

しかし、主なる神様は決して神の民をお見捨てにはならないことをはっきりとお示しになるのです。本日読まれたイザヤ書46章では、真の神様とは、ベルとネボのように、担ぎ上げられるものではなくて、命を創造して与えた者を慈しみ、苦難のなかで心身共に疲れて嘆く彼らを背負ってくださる御方なのです。

「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
(イザヤ46:3-4)

このイスラエルと同じく、私たちも神様を信じるものとされ、この主日の礼拝へと招かれています。御子イエス・キリストの十字架の恵みによって神様の民に連なるものとされた私たちは、イスラエルの民と同じく、胎を出た乳児の時から、齢を重ねて白髪となるときまで、すべての歩みが神様によって支え導かれているのです。

この3節は、聖書の翻訳によっては、「生まれる前から神様によって背負われてきた」と翻訳しているものもあります。これは、イザヤ書44章2節で「あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主」と言われていることから来ている解釈だと思われます。私たちは目に見える、形のあるものに信頼して、心を寄せる傾向があります。しかし、神様は私たちが形づくられる前から、私たちに命を与え、そして今日この日まで、生きるものとし、神を信じるものとなるように、導き、救い出してくださっているのです。

「生まれる前」から主に選ばれ、担われていたのですから、私たちが地上の歩みを終えて、神様の御もとに向かうときにも、「わたしが担い、背負い、救い出す」と約束してくださるのです。神様は、現在の私たちの在り方に関わらず、神様に背いていると思う時も、心がかたくなにされ主を離れてしまったと思う時も、ただ神様の一方的な恵みの中で、私たちを主の近くへと招き、救い出して下さるのです。私たち、一人一人にはすでに神様から大切な命が与えられています。しかし、その命は神様の憐れみの中で、私たちを助け、担ってくださる主の御手の中で、初めて命の輝きを与えられ、神様の恵みに結ばれて生きることの喜びと平安が与えられるのです。この命の輝きは、私たちの地上での生涯だけで終わってしまう輝きではありません。地上の肉体の死を迎えるときも、やがて私たちの体が甦らされ神の国へと招き入れられる時の輝きでもあるのです。

4、失われた一匹を捜し出すイエス様の愛

私たちの体の死によっても終わることのない、命の輝きを、神様は主イエス・キリストを通じて示してくださいました。私たちの救い主であられるイエス様も、天地万物を造られた父なる神様と共に、私たちを担い、背負い、救い出してくださいます。ルカによる福音書15章には、見失った羊のたとえが語られています。この物語の中では、羊飼いが神様で、迷い出た羊が罪人である私たち人間を指し示しています。

さて、このたとえ話の中で、この羊飼いは一匹を見失ったことが分かると、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回」(ルカ15:4)るのです。この「野原」というのは「荒れ野」という意味です。本来、羊たちはお互いの背後にくっつくようにして群れをなして行動します。ですから、群れをなしていれば、これ以上逸れていく羊はないからと判断したのでしょうか。しかしながら、荒れ野には野獣など様々な危険が潜んでいます。その中に99匹を残してまでも、失われた一匹を捜し出そうとするのは、神様の徹底的な憐れみと、救い出そうとする神様の愛の力強さがここで語られているのです。失われた一匹を見つけ出すと、「喜んでその羊を担いで」(ルカ15:5)友達や近所の人と祝うのでした。

このたとえ話は7節に、このように纏められています。「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

このたとえ話は、決して、私たちを「九十九匹」の羊か、または「一匹」の羊かと仕分けることを目的としているのではありません。むしろ、私たちの誰もがこの〝一匹の迷い出た羊のように、罪によって迷い出てしまった存在〟なのです。ところが、イエス様はその「一匹」である私たちをも憐れみ、私たちの長所や賜物、秀でたところだけではなくて、むしろ私たちの弱いところ、罪の部分をも含めて、私たちの存在すべてを担っていてくださるのです。

イエス様の生涯の働きを記した福音書の中で、イエス様はこうおっしゃっていました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23) こうおっしゃった時、イエス様はこれに合わせて、ご自身が十字架で遂げられる死と、そして三日目に復活されることもあわせて約束されていたのです。私たちが日々担うべき十字架は、すでにイエス・キリストによって、すでに担われているのです。そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負
い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28~30)と悔い改め、赦しの恵みを受け取るようにと、招いてくださっているのです。また、この恵みの福音を分かち合うものとして私たちは遣わされて行くのです。

試練や困難の中にあっても、イエス様が私たちよりも先に、その重荷を担ってくださっていることを覚えたいと思います。キリストの霊によって導かれて、この本庄教会において、日々を共に耐え忍び、喜びを分かち合う神の家族とされていることに感謝しつつ、共に歩みたいと願います。

祈り

慈愛に満ちたもう天の父なる神様。あなたの御名を賛美します。
今日は共に「恵老の日」を覚えて礼拝をおささげしています。本庄教会の群れには、8名の80歳以上の兄姉が与えられています。兄姉は、これまで本庄教会に尽くし、信仰の継承のために仕えて下さいました。この恵みに感謝いたします。私たちもこの証しを受けて、主に結ばれて神の家族として歩むことの喜びを一人でも多く方にお伝えし、信仰を継承していくものとさせてください。
それぞれの歩みにおける、喜びや悲しみ、課題や葛藤は異なりますが、あなたはその一つ一つの生涯を受け止め、キリストに共に結ばれる者とされている恵みに感謝します。私たちは生まれる前から、またこの世の生涯を閉じて天国に行くときにも、主がすべてを担っていてくださっています。この主と共に、主に信頼し喜びと平安の中を歩むことができますように。
今コロナ禍で、特に施設に入所されている兄姉は、ご家族との面会ができず、つらい時期となっています。どうか主が慰めと平安を豊かにお与えください。また、会堂に共に集えず、インターネットを通して礼拝に参与されている方もおられます。どうか、そのお一人お一人に変わらぬ恵みと平安をお与えください。どうか、再びこの会堂で共に集い、主に礼拝をおささげすることができますよう、1日も早くコロナウイルスを終息させてください。
この感謝と願いを尊い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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マラナタ29号編集後記

本庄教会月報第29号をお届けします。

asagao

今月は、後半に本庄教会墓地の歴史と変遷を考察しました。墓地を併設する教会は少ないかと思います。参考にお読みください。
まだまだ、新型コロナウイルスの終息は遠い道のりのようです。引き続きご自愛ください。
在 主

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月報『マラナタ』29号 巻頭言

説教:
『あなたがたにへいがあるように』
2020年8月2日へいせいじつれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい2しょう7せつ
ヨハネによるふくいんしょ20しょう19-23せつ

國磨呂牧師講壇

1、戦後75年を振り返り

今日は、日本基督教団では「平和聖日」として礼拝をささげています。

今から75年前の8月6日広島に、9日長崎に、人類初めて戦争のために原子爆弾が投下されました。この衝撃で、太平洋戦争を始めた日本が、ようやく、14日に連合軍によるポツダム宣言を受諾し、15日正午、天皇によるラジオ放送で、日本が無条件降伏したことが国民に知らされました。こうして、第二次世界大戦が日本の敗戦として終結したのです。内務省の記録によると、戦死者約213万人、空襲による死者約23万人と言われています。

週報の解説にあるように、この平和聖日は、原子爆弾の被爆を受けた西中国教区の教師・信徒たちが広島原爆投下の日を覚えて「平和聖日」として守るように教団に要請したとあります。広島・長崎の世界で初めての原子爆弾の被爆の悲惨な体験から、再び原子爆弾は使われてはならないと言う願いが、平和を祈る聖日を守る要請になったと思われます。

この願いと祈りは、今や世界中の人々によって国際連合における核兵器軍縮会議から「核兵器禁止条約」の成立となり、日本はその批准を求められています。しかし、私たちが忘れてはならないのは、太平洋戦争を始めたのは日本国で、日本国はアジア諸国の加害者であったということです。朝鮮、中国、フィリピン、インドネシア、タイなどの東南アジア諸国に侵略し、その戦いで一般人を入れて約二千万人の死者を出しているのです。

75年も経つと、太平洋戦争と言うと、広島・長崎の被爆だけが残って、日本が戦争を始めた加害者であることを忘れ去りがちなのではないでしょうか。私は77歳で、戦争が終わった時は、まだ3歳です。ほとんど戦争中の記憶はありません。私よりも年上の方々は、まだまだ、戦争中の記憶がおありなのではないかと思います。戦争の悲惨さを忘れないで、平和を造り出す者として立つために何ができるのでしょうか。

2、戦争はなぜ起きるのでしょうか

戦争は、自分の価値観や自分の国の利益を優先すると言う、人間の自己中心から起きます。自分の考えや利益を第一とするから、人と人との喧嘩、国と国の戦争が起きるのです。

私たち人間は、神様から共に生きるように造られたにもかかわらず、その神様を見失い、神様を信じないために自分中心になってしまいます。その根本は、神様を第一として神様と向き合おうとしない、神様に背いている人間の「罪」なのです。

その人間の罪を赦して、神様と共に生きるように道を開いてくださったのがキリストの十字架の死なのです。皆さん一人ひとりにとって、キリストは〝この私の罪を赦すために〟身代わりとして十字架の上に死んでくださったのです。神様は、御子キリストの命を犠牲にしてまでも神様に背いていた〝罪人のこの私を愛して〟くださっているのです。これが十字架の愛なのです。3日目に死から復活されたキリストは、罪赦されて神様と共に生きる私たちを励まし、導いてくださるのです。

イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と言われています。

3、復活のキリストによる平和

人間の本当の平和は、神様と共に生きることなのです。そのことを、いつも礼拝の終わりの派遣の言葉としてお読みしているヨハネによる福音書20章21節の御言葉から聴きたいと願います。

週の初めの日の夕方、イエス様が復活された日曜日の夕方です。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家に鍵を掛けて隠れていたのです。イエス様を十字架に架けたユダヤ人たちが、その仲間である自分たちをも捕らえるのではないかと恐れて、鍵を閉めて隠れていたのです。

そこへ、復活されたイエス様が来られて真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。そしてイエス様は、御自分の手とわき腹をお見せになりました。それは、十字架に釘付けにされた手の傷跡、槍で刺されたわき腹の傷跡でした。弟子たちは、死んだはずのイエス様であることを見て喜んだのです。
するとイエス様は重ねて言われました。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言われてから、彼らに息を吹きかけて言われました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

今日のこの出来事から、幾つかのことを学び聴くことができます。

2、戦争はなぜ起きるのでしょうか

(1)復活のイエス様による「平和」

復活のイエス様は、人々を恐れ、鍵を堅く締めて隠れている弟子たちの中に入って来られて、「平和があるように」と言われたのです。

私たちキリストを信じている者も、日々の生活の中に、人間関係、病気、仕事、老齢化などのさまざまな恐れと不安の中に置かれています。しかし、イエス様は、そうした私たちに対して「平和があるように」と声をかけて一緒にいてくださる方なのです。「平和」と言うのは、ギリシャ語で「エイレイネ」と言い、ヘブル語では「シャローム」と言います。「平和がありますように」とは、当時は、挨拶の言葉になっていました。しかし、イエス様が言われた「平和」は単なる挨拶ではなかったのです。

ヨハネによる福音書14章27節に
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。」と言われています。

マタイによる福音書の28章19~20節で、復活されたイエス様が、ガリラヤの山の上で、弟子たちと会って、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と宣教命令を述べられた最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されておられます。

イエス様が与えて下さる「平和」は、争いや戦争がないという平和ではなく、世の終わりまで、どんな争いの時でも、どんな困難や病気の時でもご一緒にいてくださるという「平和」なのです。

がん哲学カフェの提唱者の樋野興夫医師は、「がんという病気があっても、病人でないように生きる」と言っておられます。復活のイエス様が、どんな時でもいつも一緒にいてくださると思うから、病気であっても病人でないように生きることができるのです。

私は、2007年以来、腎臓がんで右腎臓の摘出、腎臓がんの再発、前立腺がんと、この13年間、ずっとがんと共に歩んでいます。しかし、復活のイエス様が全てをご存じでご一緒だと思うと、心が平和な生活ができ、主の御業に仕えていくことができているのです。本庄に来てから、がんの方々と集まる「本庄がん哲学カフェ」で〝がん友〟の交わりも許されています。

(2)「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」

父なる神様が、御子イエス様をキリストとしてこの世に遣わしてくださったお陰で
私たちは神様に対する背きの罪が赦され、神様と共に歩む「平和」を与えられているのです。

このキリストによる平和を知った者が、人間の根本的な平和はイエス・キリストのもとにあることを周りの方々に伝え分かち合うために、私たちは遣わされるのです。

(3)「聖霊を受けなさい」

イエス様は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのです。

息を吹きかけてと言うことで、創世記2章7節の神様が人を最初に造られた時のことを思い起こします。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

このことから分かることは、恐怖におののいて、死んだようになっていた弟子たちに新しい命の息・聖霊を吹き入れることによって、この時、弟子たちは再創造されて、神様と共に生きる者とされたということです。

私たちも、聖霊の導きにより、イエス・キリストを信じた時に聖霊を受けて、新しく再創造された者となったのです。見失っていた「神のかたち」を回復することができ、御言葉に聴き、神様を「アッバ、父よ」と呼んで祈り、神様と共に歩む者とされたのです。

この聖霊を受けて新しく生きる者とされた信仰者たちに与えられている特権は、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言う「罪の赦しの務め」であります。

人間は誰もが心の平和を求めています。本人が自覚していないのですが、平和を妨げている罪の赦しを求めているのです。「あなたがたが赦せば」と言われているように、あなたがたとは教会の群れなのです。

教会の務めの第一は、罪の赦しなのです。自分たちがキリストの十字架の贖いによって罪が赦されたように、キリストの十字架は全ての人々の罪の赦しのために立てられているのです。人の罪を赦すということは、その人の存在を愛することなのです。

ですから、イエス様は「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われるのです。

私たち人間は、たとえキリストを信じていても、教師であっても、信徒であっても、罪深い行いをしてしまいます。しかし、どんな罪深いことでもキリストが赦してくださったように、互いに赦し合い、愛し合うのが教会なのです。教会という群れは、赦し合う者の歩みなのです。

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマの信徒への手紙5:20)と言われていますが、どんな罪も互いに赦し合う事が多ければ多いほど、恵みも増し、愛の豊かな教会になるのです。人目を気にしてピリピリするのではなく、互いに赦し合い、受け入れ合う愛の豊かな教会にしましょう。そのためには、「聖霊を受けている」ことを自覚し、聖霊のお導きを忘れないように歩んで行きましょう。

祈り

父なる神様、
平和聖日を覚えて、本当の平和はどこにあるのかを御言葉を通して思いを深めることができ感謝します。戦後75年の平和の中にある私たち、日本が戦争を仕掛けてアジア諸国を悲惨に陥れ敗戦になったことを忘れ去りがちであります。再び、戦争を起こすことがないようにお導きください。

イエス・キリストを通して神様を知り、罪赦されて神様と共に歩む平和を感謝いたします。イエス様が私たちに与えてくださる神様と共に歩む平和を、まだ知らない人々に知らせ、分かち合うことができるようお導きください。

また、日本の戦争によって悲しみや苦しみに遭ったアジアの諸国の人々と平和に歩むために私たちをお用いください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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マラナタ28号特集

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本庄教会の敷地内の植物(花)を紹介します
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〇サンパラソルジャイアント
サンパラソルジャイアントキョウチクトウ科
マンデビラ属
 教会の北側に置かれたプランターで咲く夏の花。
 暖地性の植物だが、これは、昨年の越冬株。
〇サルスベリ(百日紅)
サルスベリミソハギ科
サルスベリ属
 前原の教会の園庭から移植したもの。2015年に根元から枯れてしまったが、翌年切り株から発根し現在に至る。時間をかけて樹形を整え、以前の姿を取り戻したい。
〇キダチチョウセンアサガオ
(エンゼルストランペット)
ナス科キダチチョウセンアサガオ属
キダチョウセンアサガオ 田島姉のご自宅から分けていただいて3年目。
 冬地上部は枯れるが、春になると立ち上がってくる。
 昨年は二本、今年は三本に株が増えている。
〇リュウキュウアサガオ
(オーシャンブルー)
別名:ノアサガオ、
シュクコンアサガオヒルガオ科
サツマイモ属
昨年路地植えにし、緑のカーテンにするためにネットを設置して2年目。宿根なので、春になると根元からツルが再生してくる。今年は勢いが良く葉も大きい。
リュウキュウアサガオ
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マラナタ28号編集後記

本庄教会月報第28号をお届けします。

十字架とエンゼルトランペット
▲ 本庄教会の十字架とエンゼルトランペットの花

 緊急事態宣言の解除、移動制限の解除と事態が好転したかと言うと、さらに難しい状況が続いています。ご自愛ください。

在 主

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※本庄教会では、6月7日(日)から会堂に集まっての礼拝を再開しています。

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