マラナタ18号報告: 「恵老」の日礼拝

 9月8日(日)は、「けいろう」の日礼拝を守りました。本庄教会では、高齢化の中にある教会が「老い」を神の「恵み」として受け止め、主にある希望を分かち合う教会でありたいとの願いから、2006年度の臨時教会総会で決議し、2007年9月16日(日)の礼拝からこの表現を用いています。

 今年も80歳以上の方を覚えて、礼拝の中で疋田國磨呂牧師が「敬老の日の祝福」の祈りをささげ、礼拝に出席されたお一人お一人にお祝いのカードを手渡されました。

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マラナタ18号編集後記

本庄教会月報第18号をお届けします。

一人ひとりの賜物たまものは異なりますが、互いに補い合い、支え合って、また助け合いながら神様の恵みとして与えられた各自の賜物を、感謝をもって“活かしあう”教会の群れでありたいと願います。

  在 主

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2019年9月の生花

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講壇こうだんのお花(#73)*
19.9.29 flower no.73(resized)

2019年9月29日聖書せいしょ

ローマのしんへのがみ8しょう28せつが掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2019年9月29日主日礼拝しゅじつれいはい
(聖霊降臨節第せいれいこうりんせつだい17主日しゅじつ)

ばんえきとなるように
ともはたらかみあい
♪音声再生(4MB:32分)

説教者:ひきくに 牧師ぼくし


聖書箇所:しんめい8しょう2-10せつ
ローマのしんへのがみ8しょう26~30せつ
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講壇こうだんのお花(#72)*
19.9.22 flower no.72(resized)

2019年9月22日聖書せいしょ

マタイによるふくいんしょ20しょう14せつが掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2019年9月22日主日礼拝しゅじつれいはい
(聖霊降臨節第せいれいこうりんせつだい16主日しゅじつ)

さいのものへのあい
♪音声再生(5MB:43分)

説教者:ひきかつ 牧師ぼくし


聖書箇所:イザヤしょ43しょう4せつ
マタイによるふくいんしょ20しょう1~16せつ
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講壇こうだんのお花(#71)*
19.9.15 flower no.71(resized)

2019年9月15日聖書せいしょ

ヨハネのがみいち4しょう10せつが掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2019年9月15日主日礼拝しゅじつれいはい
(聖霊降臨節第せいれいこうりんせつだい15主日しゅじつ)

『ここにあいがあります』
♪音声再生(3MB:28分)

説教者:ひきくに 牧師ぼくし


聖書箇所:サムエルじょう3しょう1~10せつ
ヨハネによるがみいち4しょう7~12せつ
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講壇こうだんのお花(#70)*
19.9.8 flower no.70(resized)

2019年9月8日聖書せいしょ

エレミヤしょ31しょう3せつが掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2019年9月8日主日礼拝しゅじつれいはい
(聖霊降臨節第せいれいこうりんせつだい14主日しゅじつ)

わることのないかみさまいつくしみ』
♪音声再生(4MB:33分)

説教者:ひきよし 牧師ぼくし


聖書箇所:エレミヤしょ31しょう1〜14せつ
ルカによるふくいんしょ15しょう11~32せつ
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講壇こうだんのお花(#69)*
19.9.1 flower no.69(resized)

2019年9月1日聖書せいしょ

ヨハネによるふくいんしょ15しょう9せつが掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2019年9月1日主日礼拝しゅじつれいはい
(聖霊降臨節第せいれいこうりんせつだい13主日しゅじつ)

『わたしのあいにとどまりなさい』
♪音声再生(3MB:29分)

説教者:ひきくに 牧師ぼくし


聖書箇所:へん23しょう1~6せつ
ヨハネによるふくいんしょ15しょう9~15せつ
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日本キリスト教団本庄教会
〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1
TEL 0495(22)2785


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月報『マラナタ』17号巻頭言(3)

説教:
かなしむひとさいわいである』

2019年8月18日の説教から

せっきょうしゃひきかつ 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい27しょう28〜36せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう4せつ

19.8.maranatha 勝子牧師

1、人生の中の悲しみ

 私たちの長い人生の中では、誰もが悲しみを味わっていると思います。その悲しみも、深い悲しみや、ちょっとした悲しみもあるでしょう。また、その悲しむ期間も、長い期間の悲しみや、短いちょっとした悲しみもあるでしょう。

 私自身も今までの歩みの中で長い期間の悲しみがありました。それは、若い時に受験に失敗したのがとても深い悲しみでした。しかし、後で分かったことは、その失敗で別の道を歩んだことは、神様の導きであったと知らされたのです。こういうことは皆さんも体験されていることと思います。

2、山上の説教

 さて、今朝、与えられています「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」との主の御言葉に共に聞きたいと思います。
 「幸いである」との祝福の言葉は、5章~7章の説教の冒頭に当たります。このイエス様の説教は、山に登って語られたので、「山上の説教」と言われています。
 
 「山上」は、旧約聖書以来、神様の啓示の場所でした。モーセもエリヤもシナイ山(ホレブ山)で神様からの言葉を受けました。詩編121編1節にも「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と記されています。

 新約聖書においても、「イエスの姿が変わる」(マタイ17:1~13)時に、イエス様はペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られたと記されています。

 さて次に、この山上の説教は誰に対して何のために語られたのでしょうか。それは、イエス様の行動を最初から順に追って見るとよく分かります。

 イエス様は、マタイによる福音書では、3章に、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けました。4章に、公生涯に入られる前に、悪魔の誘惑を受けて、準備しました。そして、ガリラヤで伝道を開始され、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4・17)と言って、宣べ伝え始められました。その後、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(4・19)と言われて、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師を弟子にしました。

 そして、今朝の5章に入ります。イエス様は、大勢の群衆見て、山に登られ、腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきました。そこでイエス様は口を開いて「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」と教えられたのです。3節~13節まで、「幸いである」と言う祝福の言葉が9回も繰り返されます。

 山上の説教は、直接的には「弟子たち」に対して語られています。それゆえに、これはイエス様に従おうと決意したものに与えられた道であるのです。

 しかし、それは、決して弟子たちにだけ言っているのではなく、イエス様は「群衆を見て」とありますから、イエス様に従おうとする弟子たちと群衆の両方に語っておられるのです。

 4章17節の「悔い改めよ。天の国は近づいた。」との神の国の福音は、12弟子だけのものではなく、世界中の人々に向かって証ししなければならないものなのです。山上の説教を世界中に向かって宣べ伝えるのには協力者が必要なのです。

 そのために、まずイエス様は地上の諸会堂で教えられ、病人をいやされ、そして山に登られて協力者になる弟子たちに、山上の説教を教えられ、すべての民に教え、弟子とするように示されたのです。

3、「幸い」「悲しむ」「慰められる」

 次に3つの語句、「幸い」「悲しむ」「慰められる」について簡単に述べます。

(1)「幸い」について

 「幸い」は、ギリシア語でマカリオスと言って、「最高度の幸福と幸福感」を示します。

 人間として生まれた誰もは、幸福な人生を送りたいと思うわけです。そこから、どのようにしたら幸福に人生を築き、送ることができるかを追求し、多くの教訓などが語られて来ました。
旧約聖書では、どのように語られているでしょうか。

まず、詩編1編1~3節をご覧ください。
「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

 この場合、幸いとは、神様のおきてを守る者や神様に罪赦された者の幸いと言うように、神様との交わりがもたらす幸いに力点が置かれていることが特徴です。

 マカリオスはギリシア語的な「幸福」を意味しますが、へブル語的に、神様から与えられた「祝福」「救いの喜び」を表します。「祝福」は「幸福」を含むものですが、神様との人格的な深い交わりにおける喜びを軸としています。「幸い」とは、単なる幸福追求に生きるのではなく、神様との交わりに従って生きる時に、神様から与えられる賜物、それが幸いなのです。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と言われている通りです。

 すなわち、これは追求される幸いではなく、神様との交わりの中で与えられる幸いなのです。山上の説教の祝福は、そのような性質のものであります。

(2)「悲しむ」について

 「悲しむ」は、ギリシア語でペンセオーと言って、ギリシア語の中で悲しさを表す一番強い言葉です。これは愛する者の死を狂わんばかりに悼み嘆く場合に用いられます。

 「70人訳聖書」と言うギリシア語訳旧約聖書の創世記37章34節で、この「悲しむ(ペンセオー)」と言う語は、息子ヨセフが死んだと思ってヤコブの嘆き悲しんだ時に使われています。この悲しみは、人の心に食い入ってどうにも隠すことができない悲しみです。心に痛みを感じて、押さえても押さえても涙が出るような悲しみなのです。

(3)「慰められる」について

 「慰め」は、神様から与えられるすばらしい恵みであります。この「慰め」をいただくためには、悲しんでいることも恵みであります。悲しんでいない人は、どうして慰めを受けることができるでしょうか。

 この慰めは、ただ単に悲しみがいやされると言う意味ではありません。これは、神様から与えられる素晴らしい恵みの賜物なのです。この恵みの賜物は、悲しんでいる人にだけ与えられるものです。今、慰めていただけるので幸いなのです。

 この慰めを下さるお方は、十字架と言う苦難を通して人々の悲しみを知っておられる慰め主であります。このお方のもとに真の慰めの道があります。私たちの悲しみは、イエス・キリストを仰がせる道となるからこそ、悲しみも恵みであるのです。

 へブライ人への手紙に「この大祭司は。わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:15~16)と勧められています。以上で、語句の説明は終わります。

4、慰められる者の幸い

 さて、イエス様が言われた「悲しむ人々は、幸いである。その人は慰められる。」と言う御言葉を3つの点で述べます。

(1)そのままの解釈

 この御言葉は、人生の最大の悲しみに耐え抜いた人は幸いであると言うことであります。それは、悲しんで見て初めて体験できるものがあります。

 ある夫婦の話です。御主人は、大変傲慢な亭主関白でした。奥さんは、勤めていて、働きながら子どもを育て、何から何まで一人でしなければなりませんでした。御主人は、怒りっぽくて、人前でも奥様を怒鳴り、恥ずかしい思いをしていました。たいへん悲しく心の中ではいつも泣いていました。

 ところが、その御主人が癌になりました。御主人は病気で苦しみ、悲しみ、病気になってみて初めて、奥さんのありがたみが分かって来ました。何にもまして、励ましてくれる人々の情けや奥さんの日頃の苦労が分かったのです。更にまた、神様の憐れみと慰めが分かって来ました。病気によってクリスチャンであった御主人の信仰が成熟してきたのです。

 順境にある間は何年たっても、物事の表面しか知ることができませんが、悲しみに遭って、人の心の温もりや優しさ、更には神様の慰めが分かって来るのです。

(2)悲しむ隣人を助ける人の幸い

 ある人は、この世の悲しむ人、苦しむ人に対して親身になって助ける人は幸いであると解釈しています。

 このことで、すぐに頭に浮かぶのはマザー・テレサのような働きであります。あのような大きな働きができなくても、私たちキリスト者は、イエス様から大きな愛をいただき、また、兄弟姉妹のお互いの愛をいただいて味わっていますので、周りに悲しんでいる人、苦しんでいる人がいるならば何とか助けてあげたいと思うのではないでしょうか。いや、自分が助けているようですが、本当は、その相手を通して自分が励まされ助けられている体験をします。このことが互いに慰められると言うことになるのです。病人の方をお見舞いに行って、かえってこちらの方が、励まされ、力をいただくと言うことがよくあります。

 教会生活の中で体験したことですが、あるとても上品な言葉を使うホームレスの人が、時々来ました。東京都の役所に勤めていた人で、家庭も、病気がきっかけで家族がバラバラになったそうです。70歳代の方、Kさんと呼ばれていました。

 よく水曜日夜の求道者会にやってきました。生活保護を受けると良いと思い問い合わせましたが、住所不定者は受けられません。山谷の教会にも行っていましたが、山谷にも縄張りがあってなかなか仲間に入れなく、苦労しているのだと言っていました。

 ある時、Kさんから大宮駅に来ているとの電話があり、急いで行ってみたら、体全体が黄色で、かなり重症の黄疸の状態で、やっと会いに来て下さいました。それが最後となりました。

 とうとう生活保護を受けられないまま、また信仰にも導けないで申し訳なく思いました。しかし、私は、Kさんの生活保護の問題をきっかけに、社会人入学によって明治学院大学二部で社会福祉を勉強する機会を得ました。青年会の皆さんもKさんと交わることができ、Kさんの別れた子供を思う思いを聞いて、一人の青年が受洗を決意することができたのです。

 ここで教えられたことは、他人の苦しみ、悲しみに対して思いやりを持てる人は幸いであると言うことでした。

 この点で、もう一つ思うことがあります。それは、イエス様が十字架を背負って刑場に向かって行く時、キレネ人シモンが代わりに十字架を背負わされたことです。そこに民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成してイエス様に従いました。その時イエス様は婦人たちの方を振り向いて言われました。「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」と言われています(ルカ23:26~28)。

 私たちは、こうして日曜日に教会に来て礼拝をささげています。そして、救いの恵みをいただいています。この恵みを思うと、まだ救われていない家族のことを悲しみ、救われていない友人や近所の人たちのことを覚えて悲しみ、真剣に祈りつつ、伝道をして行くことの大切さを思います。

(3)自分自身のことに悲しむ人

 最後に、聖書が一番言いたいことかと思います。「自分の罪と自分の力のなさに悲しむ者は幸いである」と言うことです。

 イエス様が、伝道の最初に言われたことは「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。

 自分の罪に悲しまなければ、悔い改めることはできないのです。十字架を仰ぎ見る時、私たちは自分の罪を告白せざるを得ないのです。

 親子で言い争うことがあります。子供は、自分の気持ちを必死になって言います。〝少しわがままだ〟と思ったりします。そして、そのことが通らないと、親は分かってくれないと思って、子供はそれなりに悲しむのです。わがままで、自分勝手であると子供自身も知っているのに、どうにもならない子供なりの悲しみがあるのです。夫婦喧嘩なども、こういうことがあります。

 確かに、自分はわがままなことを言っているし、自分勝手なことを言っているが、しかし、自分の気持ちを分かってもらえない悲しみがあります。

 人にはいろいろな悲しみがあると言うことです。だからイエス様は「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」と言っておられるのです。 

 この御言葉は、たとえ、自分がわがままで、自分勝手からくる悲しみであるにもかかわらず「幸いである。その人たちは慰められる」と言われるのでしょうか。

 それは、その通りなのです。どんな種類の悲しみでも、イエス様はご存知であります。ただ主イエス様のもとに来さえすれば、その時、その時、その内容によって悔い改めさせられ、修正され、慰められて、幸いを与えられるのです。

 悲しみには、涙がつきものです。しかし、日本人という国民性は、悲しくても泣き顔を見せたら恥ずかしいことだから、と言って教育されてきました。だから、泣きたいのに泣かないで我慢してきました。

 しかし、泣きたいのに泣かないで我慢していると自分が見えてこないのです。悲しい時は、我慢しないで泣くことです。
イエス様も、涙を流されました。それはラザロの死に際して、マルタとマリアの訴えに、共に涙を流して悲しんでくださいました。私たちは、ありのままの姿で主イエス様の御前に、自分の悲しみを訴える時、慰められるのです。詩編にも「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(30:6)とあります。

 私たち人間は、自己中心の塊のようなもので、この罪は大変根深いものです。使徒パウロさえ、次のように告白しています。
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、私の中に住んでいる罪なのです。・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:19~24)・

 パウロのように、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と、へりくだって自分自身の罪を悲しむ者は本当に幸いであり、主の慰めをいただくことができるのです。

 以上の主の慰めは、この世の何をもっても変えることのできない主よりの賜物であるのです。そして何と言っても、この地上での私たちの悲しみ、苦しみは希望であります。それは主の再臨の時に与えられる恵みです。最後に黙示録21章3~4節を読んで終わります。

 祈り 

天の父なる神様、
 私たちの人生にはなぜこのような悲しみがあるのかと苦しむような様々な悲しみがあります。
 今日は、イエス様から「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」との御言葉の深い意味を示され感謝します。
 自分の罪と力のなさに悲しむ者を、いつもイエス様は共にいて赦し、慰めてくださることを感謝いたします。この恵みによって悲しむ隣人の傍らに立って主の慰めを共にする者としてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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月報『マラナタ』17号巻頭言(2)

説教:
かわひとびとは、さいわいである』

2019年8月11日の説教から

せっきょうしゃひきよし 牧師ぼくし
せいしょしょへん51ぺん8〜14せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう6せつ

19.8.maranatha 義也牧師

1、悲しみの歴史を繰り返さないために

 先週は、平和聖日の礼拝をお捧げしました。8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下を覚えて、また8月15日には終戦(又は、敗戦記念日)であることを覚えて、再びその悲しみの歴史を繰り返さないように祈りました。

 そのためにも、本日の礼拝の中では、関東教区が作成した、戦時中の日本基督教団のキリスト者が犯した過ちについて覚えて、関東教区「日本基督教団罪責告白」を共に告白いたしました。

 十字架を通してキリストの平和を与えられている私たちは、その恵みによって平和を祈り願い、神の御力によって造りだす、キリストに遣わされる使者とされていることを共に覚えたいと思います。

2、山上の説教・幸いシリーズ

 さて、先日の平和聖日には、疋田國磨呂牧師から、マタイによる福音書5章のイエス様が山上でなさった説教の「幸い」の箇所(5:3~12)の中の、9節の「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」についての御言葉に聞き、共にその恵みを頂きました。

 今回は、少し前に戻って、6節、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」の御言葉に共に聞きたいと思います。来週は、引き続き、4節「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」によって疋田勝子牧師が御言葉を取り次ぎますので、来週もぜひ期待して、礼拝に集っていただければと思います。

 本日与えられているマタイによる福音書5章6節は、イエス様が山上でなさった説教です。マタイ4章では、イエス様がガリラヤ湖でペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネという4人の漁師を弟子にお招きになり、彼らと一緒にガリラヤ地方を巡りながら、各地の会堂で神様の国である天国の恵みが到来したと、人々にお告げになり、病気や悪霊に苦しみ悩む人々を癒し、また解放してくださったことが語り伝えられています。そして、その評判がシリア一帯に広まり、各地から人々がイエス様を求めてやってきたのです。大勢の群衆を御覧になって、イエス様は彼らに語るために、山に上り、大勢の人に説教をお話しになりました。

 新共同訳聖書には見出しがついていますが、5章3節から12節には「幸い」という見出しがついています。実は、英語圏ではここの箇所には特別な名前があり、the Beatitudes(ザ・ビアティテューズ)と呼ばれています。難しい単語ですが、「最高の祝福」を意味するラテン語から来ているとのことです。

 つまり「幸いである」…というのは、その幸いが神様から頂いたもの、「神様がその最高の祝福を下さったのだ」という信仰に立って、受け取られるべき言葉なのです。ですから、英語訳の聖書では、「幸いである」となっている箇所を全て、 「Blessed(祝福されている)」と受身形で翻訳しているのです。ですから本日の聖書箇所である5章6節の「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」というのは、つまり、「義に飢え渇く人々は、祝福されている、その人たちは満たされる」とも言えるのです。

3、神の義について

「義」に対して、「飢え渇いている」とはどういうことなのでしょうか。

 「義」と言うと、世間では、道徳的・倫理的な正しさ、裁きの公平性ということが連想されると思います。また「正義」ということで理解される場合、「何が正義で、何がその正しさの基準となるか」は人それぞれです。むしろ、お互いの思い描いている正義がぶつかり合って、争いが起こり、巻き込まれた人々が理不尽にも傷つけられ、虐げられてしまっているのが現状ではないでしょうか。

 これらに対して、ここでイエス様がお語りになっている義というのは、これらの倫理や裁きといったこととは全く無関係ではありませんが、実は旧約聖書の時代から既にある「義」、つまり「神の義」という、具体的なことを、お語りになっているのです。これまでも、説教の中で触れさせていただいたことがありましたが、「神の義」というのは、神様から与えられた掟、十戒を中心とする律法が人に求めていることを行うことです。何が義なのかというのは、この律法が物差しであり、判断基準となってきたのです。

 しかし、旧約聖書の時代のこの律法による「義」というものは、神様が人にただ命じて従わせるというだけの一方的なものではありません。ここには、大切な前提があります。その前提は、出エジプト記や申命記に記されている「十戒」の言葉に出てきます。出エジプト記20章2節。十戒の第一戒の前書きのようにして伝えられている箇所ですが、こうあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

 また、5節以降には、こうもあります。
「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」

 つまり、イスラエルという具体的な民族と、主なる神様との間において、神様はイスラエルがエジプトで奴隷とされ苦しんでいた時、彼らをその苦役から救い出し、彼らの主、彼らの神となってくださったのです。

 救い主であられる神様との関係性の中で、救われた彼らは、主なる神様の掟を重んじ、従う中で、神様から祝福を受けます。また、反対に、掟に逆らうのであれば、神様の祝福を受けられず、不幸となるというのです。

 この救い主と救われた者たちとの関係の中で示されるのが、神の義なのです。その関係が崩れそうになるときには、主は裁きと懲らしめをもって、彼らを導き、正しい義の関係へと引き戻そうとされるのでした。そして、主の掟に背いてしまった罪を赦して頂いて関係性を修復する為に、主なる神様は律法を通じてエルサレムの神殿で、日ごとに動物の犠牲を献げるように定めていたのです。出エジプト記29章42節以降にはこうあります。

 「これは代々にわたって、臨在の幕屋(つまり神様がおられる場所)の入り口で主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う。そこは、わたしの栄光によって聖別される。わたしは臨在の幕屋と祭壇を聖別し、またアロンとその子らをわたしに仕える祭司として聖別する。また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。」と、繰り返し、神様が彼らの神となったことを強調し、そのことを理解し、味わわせるための礼拝が、イスラエルの民の生活の中心として定められていたのです。

 この意味では、「義」というのは、本来あるべき、神様と人との信頼関係であるとも、言えます。

 ある牧師は、この神様との義の関係を糸電話にたとえていました。糸電話とは二つの紙コップの様なものの底を糸で繋いだものです。もし、この二つのコップを結ぶ糸がたるんでいたら、声は反対側に届きません。同じように、神様の声を聞いて、神様の御心を知れるようになるためには、この神様と私たちの間の義の関係がたるんでいてはなりません。義の関係が真っすぐに張っていてこそ、私たちは、神様と向き合い、神様に従って歩むことができるのです。

 このように、旧約聖書においては、この神の義が、神様からの一方的な恵みとして与えられ、イスラエルは神様との祝福の関係の中に生かされていたことが分かります。申命記7章7節以下にも、イスラエルについて、はっきりと言われています。

 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを...」と言われているのです。イスラエルは義であられる神様によって絶えず、救われ、助けられてきたのです。

 これまでは、イスラエルを救い出し、彼らに律法を与え、神様との義の関係の中に置いて、彼らを導き、生かしてくださった神様のお話をしてきました。しかし、それでは、今日を生きる私たちにとって、その「神の義」はどのような意味を持つのか、ということになると思います。実は、旧約聖書に語り伝えられるイスラエルの歴史を見ていくと、律法によって導かれてきた神様との祝福の関係が、崩れていく様子が語られています。それは、ひとえに人間が神様を信頼できず、従いきれない、人の罪によって生じた不従順によるものでした。いつの間にか、律法が求めている「神の義」というものが、自分たちの力で成し遂げるもの、自分たちの力で満たす目標のように掲げられていきます。いつの間にか、自分たちで何が正しくて、何が義であるかを見分けることが出来るかのような、驕りが生じたのでした。

4、義に飢え渇くとは

 しかし、本日の6節の箇所は、それとは異なる、神様の恵みの真理を、私たちに示しているのです。「義に飢え渇くものは」とあります。ここでは「義を行うものは」とは言われていないのです。「飢え渇く」と言われているのです。しかも、「義に飢え渇く人々が…」神様によって「満たされる」ということが言われているのです。
 
 先週の國磨呂牧師の説教の中で、「平和を実現する」、「平和を造る」ということは、私たちの力で成し遂げられることではなく、神様の救いの力によって与えられる平和、しかも主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みによって成し遂げられる平和だと言われていました。ここでも、同様のことが言えます。古くは、旧約聖書において、十戒や律法を通じてイスラエルと主なる神様の間で保たれてきた義の関係が、今ではイエス様の十字架の贖いを通じて、イスラエル民族とは直接関係のない、異邦人のわたしたちにも、差し出されているのです。旧約のイスラエルの民は、律法を通じて、神の義を与えられてきましたが、わたしたちはイエス様を通じて神の義、つまり神様との本来あるべき、祝福された関係に加えて頂けるのです。

 「飢え渇く」というのは、わたしたちに足りないものを、必死に、神様に求めているということです。本日読まれた旧約聖書の詩編51編の言葉は、神様の前に自らの罪を悔い改め、神様に祈り願っています。

 「神よ、わたしを憐れんでください。…あなたに背いたことをわたしは知っています。…あなたの裁きに誤りはありません。…あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように…神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」

 わたしたちの救いの為に、イエス様が十字架に掛かってくださったことを信じ、その恵みを告白し、洗礼を受けたわたしたち一人一人は、イエス様の十字架の血によって罪を洗い清めて頂いた、その恵みを、身を持って体験していると思います。また、これから洗礼を受けられる方々も、イエス様が命をもって与えられている、神の義によって、罪を清め、新しく神様に信頼して歩む道を、神様が確かに備えていてくださっています。

5、義を満たしてくださるイエス様

 さて、「義」という話になると、どうしても「罪が清められる」、「清められる」という点だけが強調されてゆきますが。しかし、今日の箇所では、「義」を乞い求める人々を、神様が「満たされる」ということです。確かに、神様の掟である律法が人に求めている義務や要求を、イエス様が私たちに「代わって満たして下さった」ことが「義」であると、一つは言えるかもしれません。しかし、私たち自身の体も、魂も、その存在自体も、神様はしっかりと満たして下さいます。しかも適当な粗悪なもので満たすのではなくて、魂に命を与える良いもので満たしてくださるのです。

 義に飢え渇いている私たち。それは、言い換えるならば、神様の存在を見失って、希望を失っていた私たちです。スカスカに乾ききったスポンジが、水をぐっと吸い上げて満たされて、ふわっと膨らんでいくかのように、罪の暗闇と痛みと破れの中にあった私たちが、そこに寄り添い救い出してくださるイエス様によって、命の水を頂いて、永遠の命の希望を与えられるのです。イエス様の恵みを喜ぶ私たちの中から、恵みは溢れ出て、わたしたちは、地の塩、世の光として、自然とその恵みを家族へ友人へと証し、伝える歩みへと押し出されて行くのです。

 言葉で直接伝えられなかったとしても、この場所にも神様が共に居てくださるということを聖霊なる神様の導きのもとに信じて歩んだ時に、既にその場所には神様が共にいて、神様の愛と恵みで満たして下さっています。

 今日のこの「幸い」の箇所の5章10節にはこうあります。
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」

 「義」と「天国(神の国)」とは深い繋がりがあります。なぜなら、天国(神の国)にこそ神様がおられ、そしてその場所を正しく裁いてくださるからです。或いは、真の義によってその場所を治め導いて下さる神様が、私たちと共に宿って、臨在してくださるからこそ、私たちは召される前から天国(神の国)の恵みを先取りするかたちで、礼拝で、聖餐式で、また交わりを通じて、この地上にあって神様の国を、味わうことを許されています。しかし、それは現状として悩みが全くないということでもないのです。むしろ、周囲からの無理解もあれば、試練もあり、悲しみもあります。しかし、その先に、イエス様が再び来られる時に、全てを満たしてくださる神様の愛があることを信じたいと思います。

 私たちには、喜びもあれば、悲しみもあり、満たされる時もあれば、不足の中で苦しむときもあります。しかし、全てにおいて、その先に主がおられ、現在進行形で、「わたしたちの罪を赦して義としてくださり」、「満たしてくださっている」主がおられることを信頼し、歩んでいきたいと願います。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)とイエス様は私たちに語り掛けられます。憂いの中で、神様を見失いそうになるとき、“主よ、どうか私の内に、また私たちのただ中に来てください、そして全てを治め導いてください。”と謙虚な思いで祈り願いつつ、神様を私たちの心にお迎えいたしましょう。

 祈り 

天の父なる神様、
 今日はイエス様の「義に飢え渇く人々は幸いである、彼らは満たされる」という御言葉から共に聞きました。大切な御子イエス・キリストを十字架へと遣わしてくださり、イエス様の贖いの恵みによって、私たちは、いついかなる時も、神様によって義とされ、神様との祝福の関係の中に置かれていることに感謝します。
 これまで、罪の力によって、霊的に渇き、満ち足りることを知らず、希望を持っていなかった私たちを、イエス様は十字架の義と、永遠の命の希望で満たし、様々な不安と不満の中にある私たちを解き放ってくださいました。この恵みを覚えて、今週も歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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月報『マラナタ』17号巻頭言(1)

説教:
へいつくひとびとさいわいである』

2019年8月4日の説教より

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょ:イザヤしょ26しょう1-13せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう9せつ

19.8.maranatha 國磨呂牧師

1、平和聖日を覚えて

 今朝は、日本基督教団は平和を覚える聖日として礼拝を献げています。
 
 8月は、私たちの日本においては、第二次世界大戦、又は太平洋戦争とも言いますが、6日に広島に、9日に長崎にと原爆が投下され、15日に敗戦の受諾宣言をして戦争が終わった月であります。
 
 今年で戦後74年が経ちました。74歳以下の戦後生まれた方々は、この太平洋戦争のことは直接何も体験していなく、何も知らない方々であります。私は、昭和18年生まれで76歳です。終戦の時は3歳で、石川県の羽咋という田舎で育ちましたから、戦争のことはほとんど覚えていません。ただ辛うじて、富山県境の山の向こうの空が真っ赤だったこと、飛行機が飛んでいたことが、かすかな記憶として残っているのです。それは富山市が空襲を受けた時の様子であったと教えられました。

 私のようにまだ3歳であっても、東京や広島・長崎などのように、直接、空襲や原爆投下を受けた地域に住んでいた方々は、忘れられない恐ろしい戦争体験として記憶に残っているかと思います。 

 74年間に渡る平和な日本に生活する者にとって、第二次世界大戦の出来事は遠い過去のこととなりつつあります。日本は戦争をしないという戦争放棄をうたう現平和憲法に守られてきたのですが、その憲法を変えようとする政治の動きがあります。

2、関東教区「日本基督教団罪責告白」

 このような状況の中に在って7年前、この第二次世界大戦を太平洋戦争としてアジア諸国を侵略して行った日本に対して、私たち日本のキリスト教徒はその戦争推進に加担して行った経緯を確認し、それを悔い改めた告白が、関東教区「日本基督教団罪責告白」であります。

 私が関東教区総会議長の任を負った2007年5月~2011年5月の2期4年間、戦争責任告白検討委員会を設けて、副議長経験者の村田元先生を中心に、教区議長経験者の石橋秀雄先生、三浦修先生、秋山徹先生をはじめとする10人余りの先生方で、歴史的資料に学びつつ、キリスト者としての罪責告白作成の検討をしました。教区議長交代の2011年5月の第62回総会に議案として挙げ、2012年5月第63回総会で秋山徹教区議長のもとで、関東教区「日本基督教団罪責告白」を可決致しました。

 この先生方は、私とほぼ同じ年代の方々で、今、このことと取り組まなければとの決意と祈りの中で検討し作成した「日本基督教団罪責告白」であります。今日の礼拝後の役員会で承認を得た後、次週の11日の主日礼拝の中で、関東教区「日本基督教団罪責告白・リタニー」を皆さんで告白できたらと願っております。

3、「平和」とは何か

「教会婦人」8月号に、関東教区の書記を務めておられる東新潟教会の小池正造先生の説教「平和のあるところ」が掲載されています。その最初の所に、小学校3年生のお嬢さんに、「平和」とは何だと思うかと聞いたら次の3つを答えたと記されています。
・戦争がないこと。
・食べることができること。たくさん美味しい物が食べられると幸せ・平和と感じるから。
・環境が守られること。人間だけが幸せだったら良いのではなく、動物たちも幸せに生きるためには、人間は環境を壊してはいけないのだ。

 小池先生は、小学校三年生にしては意外にしっかりした答えが返ってきたと驚かれています。

 私たちは、平和を、政治的、国家権力的争いという視点でとらえがちですが、小池先生のお嬢さんは、食べられること、環境が守られること等と日常生活の身近な視点でとらえておられることにハッとしました。

 戦争が起こって平和でなくなると、食べる物も食べられないし、人間も動物たちも不幸になってしまいます。このことを、日本の私たちは、テレビや新聞が報道するアフリカや中近東の出来事と思って見ていますが、74年前、私たち日本でもそんな状態だったのです。

4、神様が授けてくださる「平和」

 ユダヤ人たちにとって「平和」は人間の最高の幸福を作り出す全てのものと理解されていました。「平和」は、ヘブル語で「シャローム」と言います。イスラエル旅行をすると挨拶の言葉として「シャローム」と言います。それは、「平和がありますように」と言う祝福の言葉で、キリスト教徒の間でも、「シャローム」という言葉は、挨拶の言葉になっています。私がよく行っている韓国でも、また数回行ったアメリカでも「シャローム」と言うと、笑顔で「シャローム」と挨拶が返ってき、抱擁して再開や出会いを喜び合いました。

 イザヤ書26:12に「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです。」と言われているように、ユダヤ人たちは、平和は神様がお授けになるものだと考え「主よ、わたしたちに平和をお授けください」と祈り求めています。

 聖書は、神様に造られた人間が神様を信じて、神様の御心に従って共に歩むことが平和の根源であると教えています。その神様に従わないで歩むことを聖書は「罪」と教えています。神様に逆らって生きる罪の歩みには、平和はありません。

 ある人は言っています。“罪とは、神様と戦争していることである”と。造り主である神様と戦争しても勝ち目はありません。しかし、私たちは神様に従うよりも、自分の思いのままに自分中心に生きようとするのです。自分の考えを一番にして生きようとすると、人の言うことも受け入れず、争いがおこります。自分の国を一番にして生きようとすると、国と国の争い、戦争が起こります。

 ですから、戦争の原因は何かと問うと、自分の立場、自分の考えを一番にすることから起こります。今、アメリカのトランプ大統領は、〝アメリカを第一に〟と主張しています。それで、今まで平和であった他国との関係が揺らぎ始めています。このことが国家間の大きな争いとならないようにと、願い祈ります。
神様は、神様が造られた人間は皆、共に仲良く、助け合って生きる平和を願っておられるのです。だが〝自分を一番に〟と主張する人たちは、神様を一番にしないから、神様からの平和をいただけないのです。

5、平和を実現する人々は幸いである

 マタイによる福音書5:9にイエス様は「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と言われています。この御言葉は、山上の説教と呼ばれる一節であります。

 口語訳聖書では「平和をつくり出す人たちは、幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」と訳されています。「平和を実現する人々」が「平和をつくり出す人々」となっています。昨年の秋出された、新共同訳の新しい訳は、「平和を造る人々」と口語訳と同じように訳されています。

 では「平和を造り出す人々」とは、どういうことなのでしょうか。

 平和は、私たち人間の力では造り出すことのできないものであって、神様が授けてくださるものであることをイザヤ書の御言葉から学びました。神様に逆らって生きる罪の人間には、平和は授けられないことも学びました。

 しかし、人間を造られた神様は、すべての人間が平和に生きることを願っておられるのです。人間が平和に生きるためには、人間の罪を解決しなければなりません。人間がどれだけ罪深く生きて、神様の平和をいただけなくなっているかを知らせるために、神様はクリスマスに神の御子・イエス様を誕生させられたのです。イエス様を通して神様はすべての人間が、神様を信じ、神様の御心に従って、神様を中心に平和に生きることを願っておられることを知ることができるのです。

 それだけでなく、神様はすべての人間の罪を赦すために、御子イエス様を十字架に犠牲の死として献げられたのです。十字架のイエス様の死こそが、自分の罪を赦す犠牲の死なのだと信じ、イエス様をキリストと信じる者は、神様の子供とされ、神様と共に生きる平和が与えられるのです。

 イエス・キリストこそが、罪ある人間に真の平和を造り出して下さるお方なのであります。

 コロサイの信徒への手紙1:19~22に次のように言われています。
「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめることのない者としてくださいました。」

平和を造り出し、平和を実現してくださるのは、神の御子、イエス・キリストなのです。

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2:14)と言われています。イエス・キリストを信じる者たちの間において、神様の平和が造り出され、神様の平和が実現するのであります。

 そこで、私は、「平和を造り出す人」または「平和を実現する人々」を「イエス・キリストを信じる人々」と置き換えることができると思います。

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と言う御言葉は“イエス・キリストを信じる人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。”と言うことができるのです。

 イエス・キリストを信じることこそが、平和を造り出すことであり、平和を実現する道なのです。

 イエス・キリストを信じることによって、神様から授けられる本当の平和の喜びを、この8月、まだ知らない人たちに知らせ、分かち合いたいと願います。

 祈り 

父なる神様、
 今日は平和聖日として礼拝を献げ、本当の平和とはどんなものであるかを御言葉に聞くことができ感謝いたします。平和は、造り主である神様がすべての人々に授けてくださるものであり、イエス・キリストを信じることこそが、平和を造り出し、平和を実現する道であることを確認できたことを感謝いたします。キリストを信じることによって与えられたこの真の平和の喜びを周りの人々と分かち合う8月とさせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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マラナタ17号報告

緑のカーテンについて

 7月24日(水)、礼拝堂南側に「緑のカーテン」を設置しました。昨年教会に頂いた宿根(しゅくこん)アサガオを地植えにして、南側ガラス戸全面に庇(ひさし)から張ったネットに誘引しました。
 宿根アサガオは、琉球アサガオ、ノアサガオとも呼ばれます。亜熱帯地域に自生するつる性の多年草で、ヒルガオ科サツマイモ属の植物です。
 開花期間は長く霜が降りる11月頃まで咲き続けます。一般のアサガオとは異なり、3~8個の花を房状につけ、夕方まで咲き続けます。
 10月上旬に花数が最も多くなるので、設立記念礼拝の頃が楽しみです。花の色は“オーシャン・ブルー”です。

アサガオカーテン (1)
7月24日
アサガオカーテン (2)
8月12日
アサガオカーテン (3)
8月25日


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2019年8月の生花

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講壇こうだんのお花(#68)*
19.8.25 flower no.68(resized)

2019年8月25日聖書せいしょ

ローマのしんへのがみ13しょう4せつが掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2019年8月25日主日礼拝しゅじつれいはい
(聖霊降臨節第せいれいこうりんせつだい12主日しゅじつ)

かみつかえるもの
♪音声再生(4MB:31分)

説教者:ひきくに 牧師ぼくし


聖書箇所:ダニエルしょ2しょう21せつ
ローマのしんへのがみ13しょう1~7せつ
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講壇こうだんのお花(#67)*
19.8.18 flower no.67(resized)

2019年8月18日聖書せいしょ

マタイによるふくいんしょ5しょう4せつが掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2019年8月18日主日礼拝しゅじつれいはい
(聖霊降臨節第せいれいこうりんせつだい11主日しゅじつ)

かなしむひとさいわいである』
♪音声再生(4MB:35分)

説教者:ひきかつ 牧師ぼくし


聖書箇所:そうせい27しょう28〜36せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう4せつ
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講壇こうだんのお花(#66)*
19.8.11 flower no.66(resized)

2019年8月11日聖書せいしょ

マタイによるふくいんしょ5しょう6せつが掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2019年8月11日主日礼拝しゅじつれいはい
(聖霊降臨節第せいれいこうりんせつだい10主日しゅじつ)

かわひとびとは、さいわいである』
♪音声再生(3MB:29分)

説教者:ひきよし 牧師ぼくし


聖書箇所:へん51ぺん8〜14せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう6せつ
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講壇こうだんのお花(#65)*
19.8.4 flower no.65(resized)

2019年8月4日聖書せいしょ

マタイによるふくいんしょ5しょう9せつが掲載されていました。

🔈説教音声が聞けます
2019年8月4日へいせいじつれいはい
(聖霊降臨節第せいれいこうりんせつだい9主日しゅじつ)

へいつくひとびとさいわいである』
♪音声再生(3MB:27分)

説教者:ひきくに 牧師ぼくし


聖書箇所:イザヤしょ26しょう1〜13せつ
マタイによるふくいんしょ5しょう9せつ
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日本キリスト教団本庄教会
〒367-0044 埼玉県本庄市見福3-4-1
TEL 0495(22)2785


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月報『マラナタ』16号巻頭言

説教:
『神の家族となるために』

2019年6月30日、7月7日
の2回の説教から

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょへん1ぺん1-3せつ
ローマのしんへのがみ12しょう1-8せつ

19.6.30主日講壇
6月30日の第1回目の説教から

1、神の家族を証しする礼拝

(1-1)本庄教会の礼拝で

 今年度の教会の標語は「わたしたちは神の家族」であります。イエス様の言われる「神の家族」とは、血のつながっている肉親を指すのではありません。イエス様は、神様のお話を聞くために集まっている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ。」(マルコ3:34)と言われました。

 このことは、今日でいうと、こうして神様を礼拝し、神様のお話を聞こうとして本庄教会の礼拝に集まっている私たちを見回して、イエス様が、誰でも天の父である神様の御言葉を聞いて行う人を神の家族ですと言われていると思っていいのです。

 私たちが神の家族であることの一番の証しは、礼拝を共に献げるために集っているということなのです。礼拝は神の家族の基本であると言ってよいのです。

(1-2)訪問・交わりを通して実感する神の家族

 本庄教会で礼拝を献げている兄弟姉妹は、2018年度は平均26名でした。最近は30名前後の出席が度々あり、皆さんよく励んでおられると喜び感謝しています。

 でも、施設に入所されたり、病院に入院されたり、いろいろな事情で礼拝に出席できない兄弟姉妹もおられます。そういう方は、神の家族としてどうなるのでしょうか。

 6月9日(日)はペンテコステ礼拝でしたが、子どもの日・花の日と重なりました。持ち寄ったお花を飾って礼拝を献げ、礼拝に出席された80歳以上の兄弟姉妹には礼拝後花束を差し上げ、礼拝に出席できなかった兄弟姉妹には、牧師、役員と有志の兄弟姉妹で訪問し、花束を差し上げて、賛美し、お祈りをしました。その時の感想を2人の姉妹に書いていただき、「マラナタ」6月号の月報に掲載しました。二人の姉妹はこう書かれています。

「神の家族として、お互いを思い合いながら、祈りの内に覚えつつ歩みたいとの思いを強くしました。」

「お花をお届けする小さい業は、私にとって神の家族、神のもとにある兄弟姉妹を実感させられる、豊かな時となりました。」

 礼拝に出席される方々は、礼拝を通して神の家族の恵みを実感し、分かち合うことができるのです。出席できなかった方々は、礼拝を通して恵みと喜びを頂いた兄弟姉妹がお訪ねして交わる中に、お互いに神の家族であることを実感できるのです。

 花の日は年に一回ですが、敬老の日や、クリスマス、イースター、ペンテコステなどの祝日礼拝などにも覚え合ってお訪ねできると良いですね。何も、特別な礼拝の時でなくても、週報や月報「マラナタ」を届けがてらにお訪ねしてお交わりしても良いかと思います。

2、神の家族としての礼拝と献身

「ローマの信徒への手紙」12章を通して、神の家族としての生き方を共に学びたいと思います。この聖書の個所で、説教の準備のために御言葉を黙想する中で、12章を3回に分けて御言葉に聞くことを示されました。
(第1回)12:1~2  神の家族としての「礼拝と献身」
(第2回)12:3~8  神の家族として「互いに賜物を活かし合う」
(第3回)12:9~21 神の家族としての「愛の在り方」
今日は、神の家族としての礼拝と献身について1節から2節の御言葉に聞きます。

(2-1)自分の体をいけにえとして献げなさい

 1節には「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と言われています。

 この「こういうわけで」とは、1章~11章までに述べてきたことです。神様が人間を罪から救うために、キリストの十字架の贖いを信じる信仰によって救われる道を御計画されたこと。それはユダヤ人だけでなくローマの人々をはじめとする世界中の異邦人の救いに至る救いの御計画についての教えであります。

 パウロは、そのキリストの福音の教えを生活の中にどのように活かすかを神様の憐れみによって勧めますと言って、12章以下が展開するのであります。

 1節「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
ここでは、キリストによって救われた者たちが、神様の救いの恵みに応答することとして礼拝が語られています。

 私たちは、誰かからプレゼントを頂いたら、まず言葉で「ありがとうございます」とお礼を言って応答します。中には、その喜びの余りに心ばかりのプレゼントを返す人もいるでしょう。

 礼拝は、正に、御子イエス様の命を犠牲にしてまでも私たちを救って下さった神様の愛と言うプレゼントに対するお礼の応答の時であります。神の子・イエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、私たちの罪を赦すために御自身の命を、私たちの身代わりの犠牲として十字架に献げられました。そして、十字架による罪の赦しを信じる私たちは、神様を〝天のお父様〟と呼んで祈る神様の子供とされているのです。

 パウロは、礼拝とは、神様の子供とされた私たち自身の体をいけにえとして献げることだと言っているのです。この御言葉に自分の体をどのように献げるかについて三つのこと、(ア)「神に喜ばれる」(イ)「聖なる」(ウ)「生ける」が言われています。

(ア)「神に喜ばれる」体とは、どういうことでしょうか。

 どうしたら神様に喜ばれる体となるのでしょうか。
 
 皆さんは、自分の親に喜ばれることは何かと考える時、どうしますか。親の願っていることが何かを知って、それに応えることですね。

 これは神様に対しても同じことなのです。神様が何を願っておられるかを知って、それに応えることです。そのために、聖書を読んで、神様の御心を知ることです。

 今、本庄教会で聖書日課カードに従って聖書を読むということは、その日、神様は私に何を語りかけ、何を願っておられるのかと神様の御心を知ることが目的なのです。

 神様の御心が分かったら、それに従うのです。しかし、なかなか御心が分からなかったり、分かっても、なかなかその通りに従うことができないのです。でも、少しでも御言葉に聞いて従うことができると嬉しいですね。御言葉に従う喜びが分かってくると、私たちの生活も少しずつ変えられ、人間関係もだんだん変えられてゆきます。

 聖書日課の御言葉を読むだけでなく、そこに語られていることを通して、神様は私に何を教え、導こうとしているかを数分間、黙想してみて下さい。すると神様の御心が分かってきます。それをディボーションと言うのです。

 先日、小島明夫役員が、召されたお母様のものを整理していたら、御自分が大学時代に、学生の修養会をした時のプログラムが出て来たと持って来られました。そこに「ディボーション」と言う言葉が書かれているのです。そこでの「ディボーション」は、講師の先生のお話を振り返って黙想する時を意味していたのですが、「ディボーション」という言葉を40年以上も前、20歳頃に知らされていたのだと驚かれていました。

 私たちは、この時代に神様に喜ばれる体として献げるために、まず、ディボーションを通して神様の御心を知りましょう。そして従う喜びを頂きたいと願います。

(イ)「聖なる」体とは、どういうことなのでしょうか。

 聖い〟体と訳している聖書もあります。

 〝聖なる〟〝聖い〟とは、自分の力で品行方正で正しい善い行いをする者となることではありません。クリスチャンとして恥じることのない正しい人間になることでもありません。私たちは自分の力では、そう願ってもできないのです。

 〝聖なる〟〝聖い〟とは、神様のものとすることです。「私の命も生涯も、神様あなたのものです」と差し出すことなのです。罪を悔い改めて、洗礼を受けるということは、自分の命も生涯もあなたものですと差し出した印なのです。

 神様に差し出すと、神様は信じる私たちに聖霊をおくって私たちの内に住まわせてくださるのです。パウロは言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(Ⅰコリント6:19)

 聖なる体として献げると言うことは、神様のものとされている体であることを自覚して礼拝に望むと言うことです。すると、聖霊が働いて、ここに神様と復活のキリストが御臨在しておられることを信じることができ、御言葉を通して神様の御心を知ることができるのです。

(ウ)「生ける」体とは、どういうことなのでしょうか。

 旧約聖書時代、人々は神様に対する罪を赦していただくために、貧しい人は鳩2羽、中間くらいの人は子山羊か子羊の傷のないものを、豊かな人は子牛の傷のないものを、自分の身代わりとして神殿にいけにえとして献げたのです。死んだ動物や傷ついた動物はいけにえに用いることは禁じられていたのです(レビ記1章参照)。

 私たちの体を生ける体として献げると言うことは、あるがままの生きている自分を神様に献げることなのです。時々言われることなのですが、教会に来ている時の自分と家にいる時の自分を使い分けている人がいると。しかし、私は、「それは無理ですよ。使い分けは長く続かないし、自分が苦しくなります。神様がすべてを御存じなのですから。」と言います。

 ありのままの生ける自分を神様に差し出すということは、キリストの十字架の贖いの赦しを頂かねばならない罪だらけの自分を差し出すことなのです。すると神様は聖霊の助けによって、罪だらけの自分の罪の一つ一つを赦して、癒して、だんだん神様の子供として生きることができるようにして下さるのです。

 イエス様の贖いによる罪の赦しは、一万タラントンの借金の帳消しと言われています。それは20万年分の賃金に相当する額の帳消しですから、私たちの罪は自分でも自覚ができないくらい大きいものです。しかし、神様は、その大きな罪をキリストを信じることのゆえに、すべてを帳消しにして赦して下さるのです(マタイ18・21~36)。

 キリスト者は、自分の罪の赦しの恵みの大きさを、生涯をかけて、〝イエス様、これも赦して下さっているのですね。感謝します。〟と死ぬまで、自分の罪を数えて、その赦しの恵みを感謝して行くのだと思っています。

 それゆえ、1週間を振り返って、自分の罪深さ、御心に従えなかったこと、隣人を愛しえなかったこと等の全てを携えて、生きている自分のありのままを引っさげて神様の御前に出るのが主日の礼拝なのです。

 これが「生ける体」として神様に献げることなのです。この礼拝で、罪の赦しと神様の限りない憐れみの愛と力をいただいて、新しい1週間が始まるのです。

 以上のように「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とは、
・ディボーションを通して神様の御心を知り、神様に喜ばれるように献げることです。
・キリストを信じることによって神様のものとされている体として献げることです。
・一万タラントンの帳消しの赦しの恵みの中に生きている自分をありのままで神様の御前に出て礼拝を献げることです。

 神様に、自分の体をいけにえとして献げて生きる人は、詩編1編1~3節に言われているように幸いな人であり、豊かに実を結ぶ人となれるのです。

 「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

(2-2)生きる拠り所を変えていただきなさい

 私たちは、2節に言われているように礼拝を通し次のように変えられるのです。

 2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

心を新たにして自分を変えるとは、神の御心に基準をおくこと

 礼拝を通して自分を神様のものとされている体として献げることは、この世の価値基準に自分の生き方をおかないことです。聖書を通して神様が示される御心に基準をおいて生きることです。自分の生き方の拠り所を、この世の価値基準から神様の御心の基準に置き換えることが、「心を新たにして自分を変えていただく」ことです。自分の生き方の拠り所を神様の御心に置くと、私たちの生活自体が変えられてゆくのです。

 自分中心から神様中心に変えられるのです。すると、今まで、何かにつけて、不平不満で、周りの皆が悪いように思っていたことの1つ1つに感謝し、喜ぶと言う変化が起きてきます。

自分が変えられたしるしは「感謝ができるようになること」

 今まで、文句ばかり言っていた人が、「ありがとうございます」「神様に感謝します」と言えることは、大きな大きな変化なのです。神様によって変えられることの大きな証拠の一つは「感謝ができる」と言うことです。

 自分は果たして「心を新たにして自分を変えていただくこと」ができるのだろうかと深刻に考えないでください。神様と周りの人々に感謝ができれば、変えられているのです。

御心を知って世にたいして執り成しの祈りをする者として変えられる

 自分が変えられることのもう一つは、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神さまに喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる」ことです。

 不思議と、聖書を通して神様の御心が分かってくると、この世のすべてのことが透けて見えてくるのです。神様の御心ほど完全なものはないのです。

 ですから、神様の御心を知ると、現在の政治の姿や社会経済の姿に対して、もっとこうあると良いのにとの思いが与えられると共に、神様にその実現を祈り求めざるを得なくなってくるのです。

 私たちキリスト者は、この世のことを避けたり、無関心であってはならないのです。神様の御心を知ると、どうしても現在の政治経済に対してもっとこうあってほしいという願いが出て来るのです。そういう願いと共に執り成しの祈りが大切なのです。

 日本の人口の1パーセントのキリスト者では何もできないと思いがちですが、イエス様は「あなたがたは地の塩であり、世の光である」(マタイ5:13、14)と言われています。

 塩は、ほんの少しでも相手の味を引き出したり、悪い細菌から守ってくれます。私たちキリスト者は、いるかいないか分からなくても、日本の社会で「地の塩、世の光」としての役割を果たしているのです。絶望して暗闇の中にいる人々に、世の光として、私たちがいただいている神様の光を輝かすことができるのです。そして、希望のない人の人生に真の神様の光を照らすことができるのです。

救いの御業のためにキリスト者を用いる神様

 18歳の私は、生きる意味が分からず、自殺願望者でした。ルーテルアワーのラジオ放送を通して教会に招かれ、牧師から「疋田さん、あなたは神様が祝福されたから生まれたのです。」と言われました。それで人間を祝福する神様を求めて、たった3人で始まる礼拝がしばしばであった小さな羽咋教会でイエス様と出会い、イエス・キリストを信じて洗礼を受けました。その私が生涯をキリストに献げて58年、伝道者として44年の歩みをしています。

 大宮教会を辞める時、或る長老が「疋田先生は大宮教会で205名の方に洗礼を授けましたよ」と言われました。福井神明教会で50名でした。本庄教会で2名の受洗者が与えられました。自殺志願者の私がイエス・キリストを信じて、生涯をささげることによって、神様は257名の方々を神の家族に加えるために私を用いて下さったのです。しかし、人々が神の家族に加えられると言うことは、伝道者だけでできることではないのです。

 神様は「自分の体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げる」すべての人を用いて救いの御業をなされるのです。伝道者だから、用いられるのではないのです。

 伝道者以上にキリストを信ずる信徒一人一人を用いられるのです。なぜなら、救いを求める方々が、教会に導かれた時に一番感じ取るのは、そこに神様の救いの祝福をどのように喜び生きている信徒がいるかどうか、自分が来ることが歓迎されているのかどうか、だからです。

 信徒が用いられることについては、次の礼拝で取り次ぎたいと思います。

 祈り 

 天の父なる神様、
 雨の中にも私たちをこうして礼拝に招いて下さり感謝いたします。

 礼拝は、自分の体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げることであることを御言葉から示されました。

 罪深い弱い者を、キリストの救いを通して神様のものとして下さり、神様の御心を知って神様に喜ばれる生活を願い求めることのできることを感謝いたします。礼拝を通して神様の御心に生き方の拠り処をおいて生活する者に変えられるようにお導きください。小さい者ですが、何が神様の御心であり、何が善いことであり、何が神に喜ばれる完全なことであるかを求めて知ることのできるようにお導きください。

 どうか、日本に住んでいる方々が、神様の祝福にあずかるように本庄教会に連なる私たちを地の塩、世の光として働く神の家族としてお用い下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。


7月7日の第2回目の説教から

3.神の家族として互いに賜物を活かし合う

 神の家族として「互いに賜物を活かしあう」と言うことについて御言葉から学び合いたいと願います。

 ローマの信徒への手紙1章~11章までは、神様の御子イエス様を通しての神様の救いの御計画がどんなものであったのか、いわゆるキリスト教の救いの教理について語られています。そして12章から、イエス様をキリストと信じる者の生活は、具体的にどうあるべきかについて、信仰の実践論が語られています。

(3-1)与えられた恵み

3節「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」

 パウロは、「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」と言っています。

 「わたしに与えられた恵み」とは、パウロが、キリストを信じることによって救われて、回心したという神様からの恵みを指しています。その恵みの体験に基づいて一人一人に勧めると言っているのです。

 使徒言行録9章にパウロの回心が記されています。パウロは最初、主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のお墨付きをもらって、キリストの道に従う者を見つけ出して、エルサレムに連行するために、ダマスコに向かいました。

 パウロは、その途中で、突然、天からの光に照らされて地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との呼びかけを聞きました。

 回心前のパウロの名前はアラム語で「サウル」と呼ばれていたが、回心してから異邦人に伝道できるようにギリシア語で「パウロ」と呼ばれるようになったのです。

 パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」と復活のイエス様からの答えがありました。パウロは、地面から起き上がったが目が見えなくなっていました。仲間の者に手を引かれて、ダマスコに連れて行かれたが、3日間、目が見えず、食べも飲みもしませんでした。 

 一方、ダマスコのアナニアは、幻の中で主の声を聞いてパウロのもとに遣わされました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」と言いました。すると、たちまちパウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになったのです。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をとって元気を取り戻したのです。いわゆる、パウロのダマスコ途上の回心と言われている出来事なのです。

 パウロは、キリストを信じていないためにキリスト者を迫害する立場にありましたが、キリストを信じることによってキリストの救いの恵みを宣べ伝える者に変えられたのです。

 パウロの回心は、大変劇的に描かれていて、何かパウロだけの特別な出来事のように思われますが、決してそうではないのです。イエス様をキリストと信じることは、誰にとっても、信じない者から信じる者に変えられると言う特別な出来事なのです。

 「わたしに与えられた恵み」とは、キリストを信じない者から、キリストを信じる者に変えられたという恵みなのです。そして、その恵みに生きる者は、大なり小なり、イエス様を証し伝えて生きる者にされているのです。

 パウロは、キリストの救いの恵みを与えられた者として、キリストの恵の中に生きる一人一人に言いますと言っているのです。

(3-2)自分を慎み深く評価する

3節「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」

 ここに、自分を評価することについて、「過大に評価する」と「慎み深く評価する」と対照的に言われています。

 なぜ、パウロはこのようなことを言うのでしょうか。

 神の家族と言っても人間の集まりであります。パウロの時代は、キリストが宣べ伝えられて数10年しか経っていない教会の集まりで、いろいろな人がいました。特に、ユダヤ人からキリストを信じる者になった人から見ると、異邦人からキリストを信じる者になった人は割礼も受けていないし、律法の教えにも従っていないと見下す者もいたのです。ですから、自分はイエス様と同じユダヤ人で割礼も受け、律法をきちんと守っている、自分たちこそ真のキリスト者であると「自分を過大に評価する」者もいたのでしょう。

 そのような人たちに、パウロは「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」と言うのです。

 「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合い」と言われる「信仰の度合い」とは「信仰の量り」とも訳されていますが、どんな事でしょうか。

 コリントの信徒の手紙一7章17~20節にこう言われています。
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のまま歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。」

 ここに「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」と言われ、「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」とも言われています。

「神に召されたとき」と言うことは、神様がキリストと出会わせて、キリストの救いを与えて下さった時と言うことです。ここでは、割礼を受けている者が救いにあずかったことと、割礼を受けていない者が救いにあずかったこととが述べられ、どのような立場や身分で救いにあずかっても、その立場や身分を変える必要がないと言っています。

 そこで、私たち本庄教会と言う状況でこのことを考えてみたいと思います。

 ここで礼拝を献げている私たちが、イエス様と出会い、イエス様をキリストと信じて洗礼を受けた時の立場や身分はそれぞれ違います。神様は一人一人の立場や身分に応じて信仰による恵みを分け与えてくださったのです。

 私たちは、イエス・キリストを信じる者として〝同じ信仰の恵み・救い〟を与えられています。しかし、それは一人一人の立場や身分に応じて神様が与えられたのです。ですから、神様の救いの恵みに対する応答の仕方は、与えられた立場や身分によって違うのです。

 各自はその違いを認め合って慎み深く自分を評価すべきなのです。

(3-3)私たちはキリストの体の大切な一部分

(4~5節)「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」

 パウロは、神様が各自に恵みを分け与えてくださった働きの違いを、わたしたち人間の体とその部分にたとえています。体は一つですが、体には手や足、目や耳など、たくさんの部分があり、そしてその働きは皆違うのですが、体全体を活かしているのです。

 そのようにキリストを信じて結ばれている私たちも、一つのキリストの体を形づくっているのです。各自は部分で、その働きが違うのですが、キリストの体の大切な部分なのです。

 本庄教会も、ここに連なって礼拝をささげている皆さんはキリストの体の一部分なのです。どの一人の存在も、どの一人の働きも本庄教会としてのキリストの体を現わし、活かす大切な存在なのです。

 病気で施設や病院におられる方も、大切なキリストの体の部分なのです。私たちは病気したり、けがをした場合、その病気やけがをした部分を体の一部分ではないと切り捨てますか。決してそうではありません。かえって病気やけがが早く治るようにいたわり合います。

 このように違いのある一人一人の存在や働きを認め、受け入れ合って、神の家族として喜び励んで行きたいと願います。

(3-4)恵みとして与えられた異なる賜物を互いに活かし合う

(6~8節)「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれに異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

 パウロは、「わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている」と言っています。

 「異なった賜物」というのは、神様から与えられたそれぞれに固有な霊的才能・能力の事であります。それは、生まれつきの才能や能力ではなく、神様から与えられたもの(賜物)として受け止めるべきものであると言うのです。

 神様は、キリストを信じるすべての者に異なった賜物を与えて下さったのです。ですから、すべてのキリスト者は異なった賜物を互いに活かし合って仕え合うのであります。

パウロは、7つの賜物を挙げています。
① 「預言の賜物」;聖霊の導きによって神の御言葉を語ることです。
② 「奉仕の賜物」;神の民の共同体・教会の管理運営に仕えること、貧しい信徒たちに食事などの配慮をすることです。
③ 「教えの賜物」;キリストの福音と福音に基づく生活の仕方を教えることです。
④ 「勧めの賜物」;生きる気力を失ったり、信仰の弱さに悩んでいる人を慰め励ますことです。
⑤ 「施しの賜物」;福音の宣教と貧しい信徒のために経済的に援助・協力することです。
⑥ 「指導の賜物」;教会における営みを、霊的に、現実的に指導することです。
⑦ 「慈善の賜物」;貧しい人を助け、困っている人を援助する憐れみの行為をすることです。

 よく、「私には賜物なんか何もない」と言う人がいますが、決してそうではないのです。神様がキリストによる救いの恵みを分け与えてくださったということは、その人の賜物を用いて、キリストの体を築いて神の家族を証しようとされているから、必ず賜物が与えられているのです。

 この7つの賜物のどれかは、必ず皆さんに与えられているのです。神様からの賜物は、他の兄弟姉妹と比較するのではなく、誰に言われなくても自分から進んで喜んでできることが、その人の賜物だと私は見ています。

 例えば、お掃除の好きな人は、誰かに言われなくても自分から進んでお掃除をします。教会の掃除は、「奉仕の賜物」です。

 9月の1日研修会などで、自分にはどんな賜物があるのか、賜物チェクの学びをしても良いのではと思っています。

 もう一度、7つの賜物について言います。この賜物は、お互いに交わり、分かち合い、仕え合う中で神様からの賜物として活きてくるのです。どんな賜物も単独では活かすことができませんし、成り立ちません。

 自分が喜んでできる賜物は何かを考えてみて下さい。そして、本庄教会というキリストの御体のためにその賜物を互いに活かし合っていただきたいと願います。

 ここに集う皆様の賜物が、交わりの中に互いに活かし合うことができると、本庄教会の存在が際立って行くことでしょう。

 祈り 

 天の父なる神様、
 今日は、救われたときの立場や身分の違いのあることを教えられ、各自は異なった賜物を頂いていることを知りました。

 神様が各自に分けて与えてくださった信仰の度合いによって、どうかお互いの賜物の違いを認め合い、キリストの体の大切な一部分として互いに活かし合って神の家族を形づくって行く本庄教会としてお導き下さい。

 イエス様を求める方の上に、聖霊のお導きをお与え下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。         

 アーメン。

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