マラナタ6号編集後記

本庄教会月報第6号をお届けします。

 ヨナ書講解を再開しました。
 9月は、「恵老の日」礼拝を守りました。
 本庄教会では、2007年9月16日より「恵老」という言葉を用いています。「高齢化」の中にある教会が、「老い」を「神の恵み」と受け止め、主にある希望を分かち合う礼拝でありたいとの願いを込め、2006年度の臨時教会総会で決議されました。

在 主
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月報『マラナタ』6号巻頭言

「神の霊の導きの下に」

2018年9月9日(日)礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:詩編119章105節、
テモテへの手紙二3章10~17節


1、なぜ毎日、聖書を開くのか

 先週の説教で、〝聖書は神様からの愛の手紙、ラブレターだ〟と言いましたら、そのことがとても心に響いたという方がおられました。

 50年ほど前でしょうか、日本で行われた世界日曜学校大会で、あるアフリカの青年が話した証です。アメリカで恵まれた生活をするようになった青年は、アフリカのお母さんに折々、感謝の手紙と共にお金を入れて送りました。字の読めないお母さんは息子からの手紙を喜んで、封も開けないままその手紙を宝物のようにして保管しました。お母さんは、手紙を読まなくても息子から手紙をもらったということで十分満足していました。やがてお母さんが天に召されました。帰国した息子は、箱一杯に保管されていた手紙の封が開けられていないことを知りました。息子は、お母さんに送ったお金を使って幸せになってもらいたかったのですが、お母さんは封を切らなかったのでお金が入っていることに気づかなかったのです。

 聖書は、神様からのラブレターです。その聖書を手にすること自体大変幸せなことです。しかし、ラブレターは開いて読んでみないと、神様の愛はどのようなものかわかりません。ラブレターを開いて読んでみてこそ、神様がわたしたち一人一人に語っておられる愛の御言葉は分かるし、神様の愛を味わうことができるのです。

 昨年、9月の1日研修会で、聖書日課を用いて、毎日、聖書を開いて、神様からの御言葉を聞くディボーションの方法を学んで1年が経ちました。暫くして、ある姉妹は「先生、私は今まで日曜日にしか聖書を開きませんでした。毎日、聖書を開いて御言葉を聞けることは、とてもうれしいですね。」と告白してくださいました。

 一般的に、聖書は、日曜日の礼拝に来て開き、説教を聞くというのが普通です。日曜日以外に聖書を開くのは、聖書研究の担当を与えられたり、集会で何か奨励の役割が与えられたりした時で、それ以外にほとんど聖書を開かないでも済むのです。

 ところが、ディボーションは、神様からの愛の御言葉を聞くことですから、毎日、神様の御言葉を聞くために聖書を開くのです。聖書を開かなければ、神様からのラブレター、愛の御言葉を聞くことができないのです。

 イエス様は言っておられます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と。私たちキリスト者は、神様の口から出る一つ一つの愛の御言葉によって喜びと感謝の生活ができるのです。だから、毎日、聖書を開くのです。

2、聖書の著者は誰か

 皆さんは、聖書は誰が書いたものだと思っておられるでしょうか・・・・・?

 旧約聖書には、イザヤ書、エレミヤ書というように、イザヤやエレミヤという預言者たちの名前がついていますから、預言者イザヤやエレミヤたちが書いたと言われます。また詩編には、ダビデの詩とも書かれていますから、ダビデが書いたともいわれます。

 新約聖書には、マタイによる福音書、マルコによる福音書、など、弟子の名前が付されていることから、マタイやマルコという弟子が書いたと言われます。

 ところで、今日のテモテⅡの3章16節に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」とあります。これはどういう意味なのでしょうか。

 日本基督教団信仰告白で「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。」と告白しています。

 「神の霊感によりて成り」との告白は、テモテⅡの3章16節の「神の霊の導きの下に書かれ」ということなのです。「神の霊」とは聖霊のことです。聖書はすべて聖霊の導きの下に書かれたということです。

 旧約聖書は、紀元前1400年ほど前からの事が書かれ、新約聖書は、紀元後100年ほどまでの期間に書かれたと言われています。合わせると約1500年間の事が書かれています。その意味で、聖書は、そんなに古い書物ではありません。エジプトやメソポタミヤでは紀元前3000年前以上の文書が出て来ています。

 しかし、聖書の持つ驚きは、1500年の間に書かれた文書ですが、創世記からヨハネ黙示録まで、造り主である神様の存在と主旨が一貫していることです。

 例えば、今日、日本は江戸時代から明治時代になってから150年余り経っています。150年前の言葉も、服装も、交通機関なども、大きな変化があります。まして、1500年を経ると文化や文明に大きな変化があります。しかし、その間に書かれた聖書の主旨は一貫して変わっていないのです。

 それは、その時代その時代の人々が、神の霊・聖霊の導きによって〝神様がこう語られました〟ということを記したからであります。このことを「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」と告白し、テモテの手紙は「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」と言っているのです。

 要するに、聖書の著者は「神の霊・聖霊」だということです。聖霊の導きの下に多くの人々が神の御言葉を書き記したのが旧新約聖書です。私たちが正典とする聖書は、旧約聖書は39巻、新約聖書は27巻、合計66巻です。これは九九の、三九、二七と覚えれば良いのです。

3、聖霊の導きの下に聞く神の御言葉

 聖書の著者は聖霊で、それぞれの時代の人々が聖霊の導きの下に聞いた神様の御言葉を書き記したのが聖書なのです。それゆえ、聖書から神様の御言葉を聞く者は、聖霊の導きを頂いてこそ、初めて神様からの語り掛けを聞くことができるのです。

 だから日本基督教団信仰告白に「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」と告白するのです。

 今まで何回も礼拝で伝えましたように、洗礼を受けた私たちは、その時から聖霊が私たちの中に宿ってくださっているのです。

 パウロは言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿っている神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19~20)

 私たちの中に宿っておられる聖霊のお導きを信じて、聖書を開き、神様からの愛の御言葉を聞くのです。神様の愛の御言葉は、詩編に言われるように「わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」ともなるのです。

 午後からの研修会で、お互いに御言葉に聞き、その聞いた御言葉からの恵みを分かち合う時を持ちますが、そこには、聖霊が私たちに働いて下さって、それぞれに恵みを感じ取らせて下さるのです。

 ここで言う「恵み」というのは、聖書から神様の御言葉を各自が聞いて感じたことなのです。自分の心に残った御言葉を大事にしながら、その御言葉は自分にとって何を意味するのか、神様は何を教えようとしているのかを思いめぐらすのです。そして、示され思ったことを誰かに聞いてもらうのです。

 私たちは思ったことを一人でそのままにしておくと、すぐに消えてしまいます。しかし、他の誰かと話して聞いてもらうと、その思ったことが消えないで残り、さらには具体的になっていくのです。お互いに聖書を読んで示され、感じたこと、思ったことを、お互いに率直に話し合うと、お互いに励まされ、相手の話を通して自分の恵みも更に深められるのです。

 このことは、毎主日の礼拝の後でも同じことです。その日、聞いた御言葉に感動したり、深く指摘されたりすることがあったら、礼拝後の交わりの時間の時、互いに他の兄弟姉妹に聞いてもらい、分かち合うとその日の恵みがさらに豊かにされます。

 礼拝後、ある姉妹は、あいさつすると、「先生、今日の説教を通してこんなことを教えられ大変恵まれました」と一言おっしゃって下さるのです。お互いに兄弟姉妹同士で、是非、礼拝で聞いたことを分かち合って下さることをお勧めします。そんな交わりの中に、道を求める方がおられるとどんなにか教えられ、励まされ、恵まれることでしょう。

 パウロは、今のトルコの国にあったアンティオキア、イコニオン、リストラの伝道旅行で迫害や困難に遭いましたが、キリストを信じて耐え抜くことができました。そして12節から15節で言っています。

 「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。 ・・・・だがあなたがたは、自分で学んで確信したことから離れてはなりません。・・この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」と。

 そして16節から17節で結んでいます。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」
これがディボーションを通して与えられるものです。 
「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」

 日々、御言葉に聞いて、歩む者は、神様のどんな御業にも応えて仕えることができるように整えられるのです。神様の御業に仕えることは、決して特別大きいことではありません。日常の中の人間関係の中で求められてゆきます。イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい」と言われています。人間関係の中で、キリストの愛を思い起こしつつ、人と接することができれば、それが神様の善い業なのです。神様からのラブレターに日々聞く者は、その愛を分かち合うことができるようになるのです。

4、新幹線の走りとディボーション

 毎朝、マリーゴールドの丘までウォーキングをするのですが、示されたことがあります。丘は本庄早稲田駅のそばにありますから陸橋から新幹線が走るのが見えます。先日、どうしてこんなに力強く早く走ることができるのだろうかと見ていました。すると新幹線の上にあるパンタグラフが架線に触れながら走っているのです。架線に通っている電気は見えませんが、新幹線はパンタグラフを通して電気をもらいながら力強く早く走ることができるのです。

 私たち信仰者も力強く歩むのには新幹線のように神様の愛をいただけなければなりません。架線に当たるのが聖書です。聖書には目には見えないが神様の愛のみ言葉が豊かに満たされています。パンタグラフはキリストを信じる信仰です。パンタグラフが架線に触れて走ることは、信仰によって聖書を開いて御言葉に聞く、ディボーションではないでしょうか。日々、ディボーションによって神様の愛の御言葉を聞くことによって私たちは力強く、喜びと感謝の歩みができるのではないでしょうか。

 パンタグラフが付いていても、架線に触れないと新幹線は走ることができません。同じように信仰があっても、聖書に触れないと神様の愛の御言葉と力をいただくことができません。信仰を持って聖書を開いてディボーションをすることこそが、神様の愛と力をいただく基ではないでしょうか。

〈祈り〉

 天の父なる神様、今日、こうして礼拝に集められ、共に神様をほめたたえ、御言葉に聞くことのできたことを感謝いたします。

 今日は、礼拝後、教会一日研修会があり、ディボーションについて学び、分かち合おうとしています。聖書はすべて聖霊の導きの下で人々が書き記した、神様の御言葉であることを学びました。

 どうか、私たちも聖霊の導きを頂いて神様からの愛の語り掛けの、御言葉を聞くことができるようにお導き下さい。神様から愛され、救われている恵みを、喜びと感謝を持って歩む一週間としてください。

 病める者、重荷を負う兄弟姉妹の上にあなたの癒しと平安をお与え下さい。道を求める方々の上に、あなたの特別なお導きをお与え下さい。主イエスの聖名によって祈ります。  

アーメン。

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