本庄教会月報第6号をお届けします。
ヨナ書講解を再開しました。
9月は、「恵老の日」礼拝を守りました。
本庄教会では、2007年9月16日より「恵老」という言葉を用いています。「高齢化」の中にある教会が、「老い」を「神の恵み」と受け止め、主にある希望を分かち合う礼拝でありたいとの願いを込め、2006年度の臨時教会総会で決議されました。
在 主
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本庄市見福にあるプロテスタント教会です
ヨナ書講解を再開しました。
9月は、「恵老の日」礼拝を守りました。
本庄教会では、2007年9月16日より「恵老」という言葉を用いています。「高齢化」の中にある教会が、「老い」を「神の恵み」と受け止め、主にある希望を分かち合う礼拝でありたいとの願いを込め、2006年度の臨時教会総会で決議されました。
在 主
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2018年9月9日(日)礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:詩編119章105節、
テモテへの手紙二3章10~17節
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先週の説教で、〝聖書は神様からの愛の手紙、ラブレターだ〟と言いましたら、そのことがとても心に響いたという方がおられました。
50年ほど前でしょうか、日本で行われた世界日曜学校大会で、あるアフリカの青年が話した証です。アメリカで恵まれた生活をするようになった青年は、アフリカのお母さんに折々、感謝の手紙と共にお金を入れて送りました。字の読めないお母さんは息子からの手紙を喜んで、封も開けないままその手紙を宝物のようにして保管しました。お母さんは、手紙を読まなくても息子から手紙をもらったということで十分満足していました。やがてお母さんが天に召されました。帰国した息子は、箱一杯に保管されていた手紙の封が開けられていないことを知りました。息子は、お母さんに送ったお金を使って幸せになってもらいたかったのですが、お母さんは封を切らなかったのでお金が入っていることに気づかなかったのです。
聖書は、神様からのラブレターです。その聖書を手にすること自体大変幸せなことです。しかし、ラブレターは開いて読んでみないと、神様の愛はどのようなものかわかりません。ラブレターを開いて読んでみてこそ、神様がわたしたち一人一人に語っておられる愛の御言葉は分かるし、神様の愛を味わうことができるのです。
昨年、9月の1日研修会で、聖書日課を用いて、毎日、聖書を開いて、神様からの御言葉を聞くディボーションの方法を学んで1年が経ちました。暫くして、ある姉妹は「先生、私は今まで日曜日にしか聖書を開きませんでした。毎日、聖書を開いて御言葉を聞けることは、とてもうれしいですね。」と告白してくださいました。
一般的に、聖書は、日曜日の礼拝に来て開き、説教を聞くというのが普通です。日曜日以外に聖書を開くのは、聖書研究の担当を与えられたり、集会で何か奨励の役割が与えられたりした時で、それ以外にほとんど聖書を開かないでも済むのです。
ところが、ディボーションは、神様からの愛の御言葉を聞くことですから、毎日、神様の御言葉を聞くために聖書を開くのです。聖書を開かなければ、神様からのラブレター、愛の御言葉を聞くことができないのです。
イエス様は言っておられます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と。私たちキリスト者は、神様の口から出る一つ一つの愛の御言葉によって喜びと感謝の生活ができるのです。だから、毎日、聖書を開くのです。
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皆さんは、聖書は誰が書いたものだと思っておられるでしょうか・・・・・?
旧約聖書には、イザヤ書、エレミヤ書というように、イザヤやエレミヤという預言者たちの名前がついていますから、預言者イザヤやエレミヤたちが書いたと言われます。また詩編には、ダビデの詩とも書かれていますから、ダビデが書いたともいわれます。
新約聖書には、マタイによる福音書、マルコによる福音書、など、弟子の名前が付されていることから、マタイやマルコという弟子が書いたと言われます。
ところで、今日のテモテⅡの3章16節に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」とあります。これはどういう意味なのでしょうか。
日本基督教団信仰告白で「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。」と告白しています。
「神の霊感によりて成り」との告白は、テモテⅡの3章16節の「神の霊の導きの下に書かれ」ということなのです。「神の霊」とは聖霊のことです。聖書はすべて聖霊の導きの下に書かれたということです。
旧約聖書は、紀元前1400年ほど前からの事が書かれ、新約聖書は、紀元後100年ほどまでの期間に書かれたと言われています。合わせると約1500年間の事が書かれています。その意味で、聖書は、そんなに古い書物ではありません。エジプトやメソポタミヤでは紀元前3000年前以上の文書が出て来ています。
しかし、聖書の持つ驚きは、1500年の間に書かれた文書ですが、創世記からヨハネ黙示録まで、造り主である神様の存在と主旨が一貫していることです。
例えば、今日、日本は江戸時代から明治時代になってから150年余り経っています。150年前の言葉も、服装も、交通機関なども、大きな変化があります。まして、1500年を経ると文化や文明に大きな変化があります。しかし、その間に書かれた聖書の主旨は一貫して変わっていないのです。
それは、その時代その時代の人々が、神の霊・聖霊の導きによって〝神様がこう語られました〟ということを記したからであります。このことを「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」と告白し、テモテの手紙は「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」と言っているのです。
要するに、聖書の著者は「神の霊・聖霊」だということです。聖霊の導きの下に多くの人々が神の御言葉を書き記したのが旧新約聖書です。私たちが正典とする聖書は、旧約聖書は39巻、新約聖書は27巻、合計66巻です。これは九九の、三九、二七と覚えれば良いのです。
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聖書の著者は聖霊で、それぞれの時代の人々が聖霊の導きの下に聞いた神様の御言葉を書き記したのが聖書なのです。それゆえ、聖書から神様の御言葉を聞く者は、聖霊の導きを頂いてこそ、初めて神様からの語り掛けを聞くことができるのです。
だから日本基督教団信仰告白に「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」と告白するのです。
今まで何回も礼拝で伝えましたように、洗礼を受けた私たちは、その時から聖霊が私たちの中に宿ってくださっているのです。
パウロは言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿っている神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19~20)
私たちの中に宿っておられる聖霊のお導きを信じて、聖書を開き、神様からの愛の御言葉を聞くのです。神様の愛の御言葉は、詩編に言われるように「わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」ともなるのです。
午後からの研修会で、お互いに御言葉に聞き、その聞いた御言葉からの恵みを分かち合う時を持ちますが、そこには、聖霊が私たちに働いて下さって、それぞれに恵みを感じ取らせて下さるのです。
ここで言う「恵み」というのは、聖書から神様の御言葉を各自が聞いて感じたことなのです。自分の心に残った御言葉を大事にしながら、その御言葉は自分にとって何を意味するのか、神様は何を教えようとしているのかを思いめぐらすのです。そして、示され思ったことを誰かに聞いてもらうのです。
私たちは思ったことを一人でそのままにしておくと、すぐに消えてしまいます。しかし、他の誰かと話して聞いてもらうと、その思ったことが消えないで残り、さらには具体的になっていくのです。お互いに聖書を読んで示され、感じたこと、思ったことを、お互いに率直に話し合うと、お互いに励まされ、相手の話を通して自分の恵みも更に深められるのです。
このことは、毎主日の礼拝の後でも同じことです。その日、聞いた御言葉に感動したり、深く指摘されたりすることがあったら、礼拝後の交わりの時間の時、互いに他の兄弟姉妹に聞いてもらい、分かち合うとその日の恵みがさらに豊かにされます。
礼拝後、ある姉妹は、あいさつすると、「先生、今日の説教を通してこんなことを教えられ大変恵まれました」と一言おっしゃって下さるのです。お互いに兄弟姉妹同士で、是非、礼拝で聞いたことを分かち合って下さることをお勧めします。そんな交わりの中に、道を求める方がおられるとどんなにか教えられ、励まされ、恵まれることでしょう。
パウロは、今のトルコの国にあったアンティオキア、イコニオン、リストラの伝道旅行で迫害や困難に遭いましたが、キリストを信じて耐え抜くことができました。そして12節から15節で言っています。
「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。 ・・・・だがあなたがたは、自分で学んで確信したことから離れてはなりません。・・この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」と。
そして16節から17節で結んでいます。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」
これがディボーションを通して与えられるものです。
「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」
日々、御言葉に聞いて、歩む者は、神様のどんな御業にも応えて仕えることができるように整えられるのです。神様の御業に仕えることは、決して特別大きいことではありません。日常の中の人間関係の中で求められてゆきます。イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい」と言われています。人間関係の中で、キリストの愛を思い起こしつつ、人と接することができれば、それが神様の善い業なのです。神様からのラブレターに日々聞く者は、その愛を分かち合うことができるようになるのです。
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毎朝、マリーゴールドの丘までウォーキングをするのですが、示されたことがあります。丘は本庄早稲田駅のそばにありますから陸橋から新幹線が走るのが見えます。先日、どうしてこんなに力強く早く走ることができるのだろうかと見ていました。すると新幹線の上にあるパンタグラフが架線に触れながら走っているのです。架線に通っている電気は見えませんが、新幹線はパンタグラフを通して電気をもらいながら力強く早く走ることができるのです。
私たち信仰者も力強く歩むのには新幹線のように神様の愛をいただけなければなりません。架線に当たるのが聖書です。聖書には目には見えないが神様の愛のみ言葉が豊かに満たされています。パンタグラフはキリストを信じる信仰です。パンタグラフが架線に触れて走ることは、信仰によって聖書を開いて御言葉に聞く、ディボーションではないでしょうか。日々、ディボーションによって神様の愛の御言葉を聞くことによって私たちは力強く、喜びと感謝の歩みができるのではないでしょうか。
パンタグラフが付いていても、架線に触れないと新幹線は走ることができません。同じように信仰があっても、聖書に触れないと神様の愛の御言葉と力をいただくことができません。信仰を持って聖書を開いてディボーションをすることこそが、神様の愛と力をいただく基ではないでしょうか。
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天の父なる神様、今日、こうして礼拝に集められ、共に神様をほめたたえ、御言葉に聞くことのできたことを感謝いたします。
今日は、礼拝後、教会一日研修会があり、ディボーションについて学び、分かち合おうとしています。聖書はすべて聖霊の導きの下で人々が書き記した、神様の御言葉であることを学びました。
どうか、私たちも聖霊の導きを頂いて神様からの愛の語り掛けの、御言葉を聞くことができるようにお導き下さい。神様から愛され、救われている恵みを、喜びと感謝を持って歩む一週間としてください。
病める者、重荷を負う兄弟姉妹の上にあなたの癒しと平安をお与え下さい。道を求める方々の上に、あなたの特別なお導きをお与え下さい。主イエスの聖名によって祈ります。
アーメン。
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8月は受洗者が与えられたので、紙面を変更して「洗礼を受けて」を掲載しました。
「ヨナ書講解」は、次月より継続します。
在 主
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2018年8月5日(日)礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:ヨシュア記1章5~9節、
エフェソの信徒への手紙6章10~20節
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昨年9月3日から「エフェソの信徒への手紙」から御言葉に聞いて来ました。
最初は、1章3節~14節から「神からの三重の恵み」と題して説教しました。
1つは、父なる神様は、天地創造の前から私たちを愛し、キリストを通して選ばれたことです。
2つは、御子なる神様であるキリストは、私たちのために御自身の血によって贖われ、罪を赦され、私たちが神様の秘められた計画を知らされ、あずかる者とされたことです。秘められた計画とは、救いの業が完成され、天と地の全てのものが頭であるキリストのもとに一つにされることです。御国の完成です。
3つは、聖霊なる神様は、キリストを信ずる私たちが御国を受け継ぐことの保証です。
この父、子、聖霊としての三位一体の神様から三重の恵みを頂いている私たち信仰者が、「神の栄光をたたえる」ことが礼拝なのです。
私は熱心な日蓮宗の家に育ちました。しかし、母が40歳の時に生まれた子供で、自分は本当に親に愛されて生まれたのだろうか。妊娠したから仕方なく生まれたのではないかと疑問になり思い悩み、自殺さえ考えるに至りました。そうした時に、ルーテルアワーの放送で、キリスト教の話を聞き、羽咋教会に導かれました。
私の悩みを良く聞いて下さった杉山牧師に、「疋田さんは、神様に祝福されたから生まれたのです。」と言われて、驚きました。私がそれまで信じて来た神仏様は、人を呪い、たたり、罰を与え、地獄に落とす方として教えられて来たからです。人間を祝福してくださる神様を知りたくて、教会に通い、18歳の時、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けました。以来56年間、キリストを信じて神様に従ってきました。
今改めて思うことは、神様が人間を祝福してくださるとは、神様は天地の造られる前から私を愛し、御計画のもとで選んで私を誕生させてくださったと言うことです。そして地獄にではなく、天の御国に入る者として保証して下さっていると言うことです。
今朝、この礼拝の中で洗礼を受けられた藤宮栄子姉妹も、この神様の三重の恵みを頂いているのです。本庄教会に来られるようになったのは、昨年のクリスマスからですが、神様の御計画は、栄子姉妹が生まれる前からあったのです。栄子姉妹は、神様から愛され、神様に選ばれる者として今日までの歩みが導かれていたのです。
御一緒に、この恵みをまだ知らない人々に分かち合って行きたいと願います。
「エフェソの信徒への手紙」の4章からは、信仰者の実際の在り方が勧められています。
これらの関係は、神様とイエス様の愛による光が注がれる時、祝福され、豊かな実を結ぶことができるのです。
パウロは、「最後に言う」といって、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなれなさい。」と勧めているのです。その理由は、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」なるためです。
今朝、私たちは藤宮栄子姉妹が洗礼を受けたことで、神様の御導きを感謝しつつ大いに喜んでいます。礼拝が終わってから藤宮姉妹の受洗をお祝いする会を持とうとしています。
しかし、このことを喜ばない者がいるのです。それは「悪魔」なのです。サタンとも言います。私たちの持っている新共同訳聖書の一番後ろに、用語解説が載っています。
「悪魔」は、「中傷する者」の意味で、人間を誘惑して神に反逆させる者。サタンとかベリアルとかいう名前でも呼ばれ、「この世の神」という別称でも呼ばれます。
悪魔は、人間を誘惑して神様に反逆させるものですから、藤宮姉妹がキリストを信じて神様のもの、神様の子供になったことを一番嬉しくないのです。
洗礼を受けた感激は、しばらくすると覚めてきます。すると、悪魔は、「洗礼を受けたって、ちっとも変わらないではないか」「お前は、それでもクリスチャンなのか」と私たちの弱さを突いて、惑わしてきます。
しかし、たじろがないでください。弱い私たちを助けるためにイエス様は〝助け主としての聖霊〟を送って下さったのです。この聖霊はずっと永遠に信じる者と一緒にいてくださると約束されています。(ヨハネ福音書14・16)
聖書日課は、7月半ばからヨシュア記を読んで御言葉に聞いて来ました。主なる神様はヨシュアに言っています。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。・・・この律法をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。・・・わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたはどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア記1:5~6)
この神様がヨシュアに約束された「どこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と言うことは、インマヌエルの主イエス様を信じる者にも与えられる約束です。イエス様は助け主としての聖霊を私たちに送ってくださっているので、うろたえたり、おののいたりしなくてもよいのです。
しかしながら、悪魔は,いろいろな策略を用いて、私たちを神様から引き離そうとするのです。その意味で、藤宮姉妹は、今一番、悪魔の攻撃を受けやすいので、皆さんで藤宮姉妹の歩みが神様の愛に留まり続けられるようにお祈り頂きたいと願います。
私たちは、何か悪いことが起きると、それをもたらした人、相手をののしったり、批判したりして戦おうとします。
しかし、パウロは、信仰者たちに「わたしたちの戦いは、血肉(=人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする者なのです。」と言うのです。要するに、私たち信仰者が戦う相手は、人ではなく、その人を支配して悪いことを行わせたり、神様から引き離そうとする悪魔であると言うことです。信仰者が戦う相手は、人の言葉や行動の背後にある悪魔との戦いであって、人ではないと言うことです。〝人を憎まず、罪を憎む〟と言われていることです。
そこで、パウロは、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」また、「邪悪な日によく抵抗して、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と「神の武具を身に着けなさい」と繰り返し勧めています。
神の武具とは、次のように言われています。
これらの「帯」「胸当て」「履物」「盾」「兜」「剣」は、既にキリスト・イエス様を信ずる者に与えられているのです。「霊の剣」、聖霊がいつも共にいて働いてくださる「神の御言葉を取る」ことこそが、悪魔の策略に打ち勝つ一番の戦い方なのです。
皆さんは、聖書日課カードを用いていますか。聖書日課カードは、毎日、神の御言葉を聞くことによって、霊の剣、神の言葉を取ることなのです。
8月3日の聖書日課は、ルカ福音書8章16~39節でした。ゲラサの地方で、悪霊に取り付かれた男が長い間、衣服も身に着けず、墓場を住まいとしていました。生きていながら、死人が葬られる墓場を住まいとすることは、何と惨めな可哀そうなことでしょう。正に生きた屍(しかばね)です。イエス様が、汚れた霊に男から出るように命じられました。汚れた霊どもは、ローマ兵の5千人部隊名のレギオンと呼ばれ、それほどの力を振るっていたのです。汚れた霊は、イエス様に命じられて男から出て行き、二千匹ほどの豚の群れに入り、狂った豚は湖の中になだれ込んで、溺れ死んでしまったのです。男は、服を着、正気になってイエス様の足もとに座っていたのです。
神の子・イエス様の御言葉は、このように悪魔や汚れた霊(悪霊)を追い出す力があり、それは私たちの日常の生活の中にも、聖霊と共に力をもって働くのであります。
私たちは、自分の力、人間の力だけでは、悪魔や汚れた霊と戦って勝つことができないのです。自分の弱さを知った者こそが、神様の御言葉に本当に依り頼むことができるのです。
神の御言葉を取って、御言葉に聞くことができる時、「どんな時にも、〝霊〟に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続ける」ことができるのです。
まず、全ての信徒のために信仰が守られるように祈るのです。
聖書日課で御言葉に聞いて祈る時、自分のためにだけでなく、本庄教会の兄弟姉妹のためにも根気よくお祈り頂きたいと願います。これが神の家族、兄弟姉妹なのです。
次にパウロは、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、私のために祈ってください。」と言っています。
説教者が、会衆の心に届く言葉を用い、福音の神秘を大胆に示すことができるように祈ることを勧めています。本庄教会の疋田牧師、義也牧師、勝子牧師が福音の神秘を、適切な言葉を用い、大胆に語ることができるようにお祈りをお願いします。
〝礼拝の説教は、語る者と聞く者の共同作業である〟と言われます。礼拝の中で、語る者が大胆に福音の御言葉を語ることができるように、聞く者は福音の御言葉を各自の心に受け入れることができるようにと聖霊のお働きを祈るのです。
悪魔はいろいろな策略を用いて、私たちの弱さや欠点を突いて、私たちを神様から引き離そうとします。それ故に、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と勧められるのです。
自分の弱さを覚える時こそ、主に依り頼むのです。そして神の武具、とりわけ霊の剣、神の御言葉を取る時に、神様の力を覚え、神様に委ねることができるのです。それが神様に委ねることのできる者の強さなのです。キリスト者の強さは、自分の弱さを知って、神様に委ねることのできる強さであります。そして兄弟姉妹のため、牧師のために、目を覚まして絶えず、根気よく祈ることが大切なのです。どんな時でも、互いに祈られて信仰が守られているという喜びを共に実感できる神の家族、本庄教会の群れを現わして行きましょう。
天の父なる神様、私たちは、大変なことや嫌なことがあると、それと関わった相手が悪いのだと批判したり、嫌ったりして、他人のせいにしてしまいます。しかし、わたしたち信仰者の戦いは、血肉である人間を相手にするのではなく、その人の背後にいて支配している悪魔を相手とするものであることを確認しました。信仰者が悪魔と戦うには「神の武具を身に着けなさい」と勧められています。聖霊なる神様、どうか、行き詰まったり、弱さを覚える時にこそ、主イエス様に依り頼み、神様の力をいただいて強くなるようにお導きください。主の御名によって祈ります。
アーメン。
昨年度3月25日に続いて、第2回の高校生・青年会(役員会主催)を開催しました!
台風の接近に伴い不安定な天候で、時折強い雨が降る中でしたが、高校生2人、青年2人(内大学生1人)牧師先生3人、教会から5人、計12人が参加しました。
会場を玄関ホールとして、テーブルと長椅子を出し、スロープ側の枕木のテラスにバーベキューコンロを設置しました。
教会の正面の扉と受付の背後の扉をすべて開け放ち、快く吹き抜ける風を感じながら持ち寄った食材を炭火で網焼きにし、食事をしながら語り合いました。
17時から開始し、片付けが終わって解散した19時30分まで、楽しく交流し充実したひと時を過ごすことができました!
来年もぜひ行いたいと考えていますので、どうぞ奮ってご参加ください!
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本庄教会月報第4号をお届けします。
猛暑が続き体調管理が難しい毎日です。
くれぐれもご自愛ください。
在 主
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2018年7月1日(日)
礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:創世記2:18~25、
エフェソの信徒への手紙 5:21~33
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「互いに仕え合う妻と夫」という説教題を見て、ある方が、この説教は結婚していない人は聞けないのですかと質問をしてきました。決してそうではなく、これから結婚を求め祈る方にも、是非、聞いてもらいたく願います。
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(6:21)という言葉は、「妻と夫」(5:21~33)「子と親」(6:1~4)「奴隷と主人」(6:5~9)の全部にかかる御言葉であります。
最初に、神様が造られた人間、男と女との関係、その在り方を御言葉から聞きます。次に、男と女が結婚した夫婦の在り方を御言葉から聞きます。ここから、聖書が示す結婚の有り様が示されてきます。
神がなぜ人間を男と女とに造られたのかと言うと、創世記2:18に、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者(口語訳、ふさわしい助け手)を作ろう。」と言われています。
この「彼に合う助ける者」とか「ふさわしい助け手」という意味は、〝顔と顔とを向き合わせて尋ね合う者〟の意味です。互いに「わたし」「あなた」と呼び合って、対話をする関係です。
結婚への出会いは、お見合いであれ、恋愛であったとしても、出合いの最初は、皆同じように、顔と顔とを向き合わせて、お互いを知ろうとして、相手のことを聞き合ったのではないでしょうか。そして、この人と結婚しようと決心したのではないでしょうか。ある人は、私たちは親が結婚を決めてしまったので結婚しましたと言いました。そうであったとしても、結婚を決められて、お互いに相手を知ろうとされたと思います。
神様は、人は独りでいるのは良くないと言われて、尋ね合う、対話の相手として、男に対して女を造られたのです。
聖書によると最初、神が造られたいろいろな生き物に、人は名前を付けたが、自分に合う助ける者を見出すことができなかったのです。
そこで神は、男を深いねむりに落とされて、男のあばら骨の一部を抜き取り、その抜き取ったあばら骨から女を造られたと記されています。男のあばら骨を抜き取って女を造られたとは、とてもグロテスクな、奇怪な表現です。これは何を意味するかと言うと、あばら骨の所に心臓があり、そこに人間の心があると考えられていました。神が男のあばら骨から女を造ったと言うことは、男の心を分け合う存在として女を造られたと言うことなのです。男と女とは、互いに心を分け合う者として存在しているのです。
だから「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」と言っています。
私の小さいころ、「骨まで愛す」という流行歌があり、どんなことだろうと驚きましたが、今、それが分かるようになりました。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」神は、男と女とが結ばれて、裸の関係を祝福されているのです。
以上のことから、次のことが問われます。
人間、男と女との関係は、尋ね合う関係であって、それは生涯続くと言うことです。男にとって女は、女にとって男は、知り尽くすことのできない未知なる存在であると言うことです。
妻と私は、私が20歳の時に出会って以来、もう55年間、向き合っている関係です。大体のことは分かったと思っていますが、まだまだ分からないことのある存在なのです。だから、尋ね合うのです。夫婦は、死ぬまでお互いを発見し合う存在なのです。それゆえ、どんなに歳をとっても新鮮な思いで向き合えるのです。
しかし、どうでしょうか。多くの人は、結婚して数年経つと、お互いがもう何もかも分かったように錯覚してしまいます。尋ね合うことを辞めて、新たに他の人との関係を求めて行き、結婚生活の破綻が起きてしまいます。
男女が尋ね合う関係の原点は、人間は「神のかたち」として造られて、神と向き合い、尋ね合う関係に造られていることです。男女がそれぞれ神と向き合い尋ね合う関係、それが礼拝なのです。礼拝を通して神と向き合う人は、夫婦同志の関係も、向き合い、尋ね合う関係ができるのです。
たとえ、夫婦の片方が信仰者でなくても、信仰者の神と向き合うことが、夫婦の尋ね合う関係にも活かされていくのです。
新約聖書のヨハネによる福音書2章で、主イエスは、ぶどう酒が無くなったカナの婚礼の時、召し使いたちに水がめに水を満たさせ、その水をぶどう酒に代える奇跡をもって結婚を祝福されました。この出来事の鍵は、母のマリアが、召し使たちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言われたことです。人生のどんなピンチのときでも、主イエスの御言葉に従う時に、ピンチがチャンスとなって、思いを超えた主の恵みに与かって祝福されると言うことです。
パウロは、結婚が祝福されるために、キリストと教会の関係を土台にしています。
「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」
今日、妻は夫に仕え、夫は妻の頭であるという言葉は、女性にとって、とても屈辱的な言葉として、結婚式の式文から削除されています。
30年余り前、福井神明教会に仕えていた時、ウィメンズカレッジの英語講師として勤めていた、ジェイ・トーマスという青年が、教会の青年会で、この個所を学んでいる時、「皆さん、ここはこの通りに信じますか」と聞くと、日本の青年たちは、「聖書にそう勧められているから信じるよ」と言うと、ジェイさんは、「アメリカでは、多くの人は信じていません。アメリカでは妻が夫の頭ですよ」と言って驚いていたのを思い出します。彼は、聖書の御言葉を神の言葉と信じる青年たちと交わり、学び、そしてやがて私の手から洗礼を受けました。
今日、ある立場の人は、この言葉を嫌い、用いないようにしています。しかし、このパウロの勧めには、結婚の奥義が込められているのです。
「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」
この「キリストが教会を愛し」とは、キリストが十字架の上に命を犠牲にして、教会の信徒たちを愛されたと言うことです。
「キリストが教会を愛したように、妻を愛しなさい」とは、夫となるべき者は自分の命を犠牲にしてまでも妻を愛しなさいと言うことです。
私は、結婚ガイダンスでいつも、この聖書の個所を用います。教会で結婚式を挙げることは、キリストが命を犠牲にして愛したように、あなたは妻となる人のために自分の命を犠牲にする覚悟で愛することができますかと言うことが問われるのです。彼女のために、あなたは自分の命を犠牲にする覚悟で愛しますかと聞きます。
ほとんどの人は、「はい、その覚悟で愛します。」または「はい」とうなずきます。すると、彼女は、嬉しそうにっこりします。私は「彼は、自分の命を犠牲にする覚悟で愛すると言っています。あなたは彼を頭として仕えていきますか。」と聞くと、彼女は「はい、喜んで仕え、私も彼を愛して行きます。」と言います。
確かに、聖書は男性中心に書かれています。それは、神の御前に、まず男性は、命をかけて、妻や子供たちを愛して行く責任ある者としての姿として記されています。
「夫は妻の頭である」と言うことは、自分の命を犠牲にする覚悟で妻を愛すると言うことです。こんな大事なこと、すばらしい決意を結婚前の男女が確認することのできるこの個所を削除することは、残念です。私は削除しないで教えています。
5月に、大宮教会の姉妹の結婚式を司式しました。両親の結婚式、生まれた後の幼児洗礼、大きくなって高校生の時の信仰告白式と、全部、私がかかわったので、私に結婚の司式をしてほしいと、大宮教会の長老会の承認を経て、司式を申し込んできました。結婚ガイダンスをすることを条件で引き受けました。東京に住んでいる二人は、本庄まで来てガイダンスを受けました。彼に、「夫は妻の頭であることは、キリストのように自分の命を彼女に献げて愛することだが、その覚悟がありますか」と問いました。彼女の前に、「はい、自分の命を彼女のために献げます。」とはっきりと答えてくれました。
2人は、演劇の照明デザイナーの仕事をしていて、日曜日は、毎週休めません。日曜日が休日の時は、大宮教会の礼拝に出席することが、あなたがたの誓いを守り、互いに尋ね合う関係を支えることになりますよと勧めました。この間、二人は礼拝に来ていたと情報が入ってきました。
この「夫は妻の頭である」の御言葉が分かれば、26節以降の御言葉は素直に入って来ます。
「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものはなにひとつない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』 この神秘は偉大です。
わたしは、キリストと教会について述べているのです。
いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」
キリストに対する畏れをもって互いに仕え合う妻と夫として、キリストにある喜びと感謝を表す歩みをしてまいりましょう。
父なる神様、今日は、御言葉に基づいて、男と女の関係、また妻と夫との関係を見つめ、神様の御心を知ることができました。
イエス・キリストは御自身の命を犠牲にしてまで、私たちを愛し、救ってくださいました。その御愛に生きる者として、男と女との出会い、また、夫婦の関係を導いて祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
2018年4月15日(日)本庄教会礼拝説教
疋田國磨呂 牧師
聖書:創世記1:27~31、 Ⅰコリント 6:19~20
2018年度の教会標語を「主よ、祈りを教えてください」と掲げています。
この標語は、ルカによる福音書11章1節に、弟子の一人が祈っておられた主イエスに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったと記されています。それを縮めて「主よ、祈りを教えてください」としました。この標語は、主の弟子たちが主イエスに祈りを教えてくださいと願い求めたように、私たちもこの一年間、〝イエス様、本庄教会の私たちにも祈りを教えてください〟と願い求めて、祈りについて学ぶ1年にしたいと願っています。
なぜ人間は祈らねばならないのかと言う根本について、御言葉から聞きたいと思います。
キリスト者は、天地万物を造り、人間の命を造られた方を神と信じています。「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあるように、神は人間を「神のかたち」に造られたのです。
「神のかたち」とは何を意味するのでしょうか。創世記2:7に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。鼻に吹き込まれた「命の息」は「神の霊」とも訳すことができます。神に造られた人間が、神の霊を吹き込まれて生きる者となったということは、目に見えない神と向き合い霊的に対話ができるということであります。
神は人間だけに神の霊を吹き込み、神と対話ができる者とされたのです。対話とは、人間に対する神の語り掛けを聞き、人間も神に語り掛けることができるということです。この霊的な対話を「祈り」と言うのです。
日本人が神社仏閣で献げる祈りは、聖書で言う祈りと根本 的に違います。自分の願望を一方的に述べるのです。神仏に自分の願望を請求するだけですから、祈願と言うのです。
神はすべての人間を「神のかたち」に造られたのですが、それを人間が失ってしまいました。それが、創世記3章で記されているアダムとエバの物語です。アダムとエバは、神から「善悪の知識の木から、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われたのに、サタンの化身である蛇が「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と唆し、女は「神のように善悪を知るもの」となりたいと思って食べてしまったのです。以来、人は神から顔を背け、まるで神のように善悪の基準を持ったかのように思ってしまい、神と向き合うことなく、神に聞かなくなってしまいました。これが聖書で言う「罪」なのです。
人は誰も、自分なりの善悪の基準を持ち、自分の基準が一番と思っています。夫婦であっても、価値基準がなかなか合わないのです。
神は、「神のかたち」として造った人間が、自分の善悪の基準を一番にして行く結果、争ったり、人を殺したりしていく姿を大変悲しまれています。国と国との善悪の違いは戦争にまで発展していくのです。
しかし、神は「神のかたち」として造られた人間を愛してくださっているのです。神は、何とかして人間に与えられている「神のかたち」を回復しようと計画を立てられました。最初は、イスラエルという民族を選び、十戒という律法を与え、それを守ることを通して「神のかたち」を回復させようとしました。しかし、人間は律法を守ることを通して神の御前に立ち帰ることができなかったのです。
それで、神は、神の御子イエスを誕生させられました。御子イエスを通して神の御心と愛を地上の人々に知らしめ、最後は、すべての人間の罪を赦すために御子イエスの命を十字架の上に犠牲として献げられたのです。御子イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ22:34)と私たち人間の罪の赦しのために祈りつつ、命を献げて行かれたのです。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙4:10)と言われているとおりです。
御子イエスは、死んで墓に葬られましたが、3日目に復活され、弟子たちの前に現れました。死んだら終わりではないのです。復活されたイエスは、今は、天の神様の右の座に着いて、私たちの場所を用意して下さっておられるのです。また、聖霊と共に呼び求める私たちの傍らに、また礼拝の中に来て御臨在くださるのです。
イエスを救い主と信じて救われるということは、「神のかたち」を回復して生きることです。キリスト者は「神のかたち」を生きる人々です。目に見えない神を「天のお父さん」と呼んで、対話の祈りをする人々です。
定家都志男牧師は著書で「あなたはどんなお祈りをしていますか」と問われていることは、〝あなたは、神と霊的な対話をしていますか〟という問いかけです。
キリスト者は、イエス・キリストを信じて洗礼を受けると祈りを覚えて、祈りができるようになります。赤ん坊が、少しずつ言葉を覚えて成長するように、周りの信仰の先輩たちの祈り方を真似て、私たちも少しずつ祈りを身に着けるようになります。しかし、その祈りは神との対話になっているかと問われると、どちらかと言うと自分の願いが中心の祈りであります。
神との対話の祈りは、説教と日常の生活の中で聖書日課を通してのディボーションにより、自分への神からの語り掛けを聞く時にはじめて、対話の祈りができるのです。
ディボーションにおいて一番大事なことは、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」ということです。キリストを信じて洗礼を受けることは、その時から聖霊を受けることです。この聖霊は「イエスはキリストである」と信じるように導き、目に見えない神を「天の父なる神様」と呼んで祈るようにさせ、聖書の言葉を神の御言葉として聞くことができるようにしてくださるのです。
「神のかたち」として生きることは、聖霊を宿して生きることでもあります。聖霊は「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:16)と約束されています。
「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。自分の体で神の栄光を現しなさい。」と勧められています。私たちは、神が御子の命という代価を払って、罪の支配から、神の支配へと買い取ってくださった者なのです。私たちは神の御支配の中に生きる神のものなのです。「神のかたち」を生きるということは、聖霊なる神と共に生き、神の栄光を現すことであります。
この一年間、「神のかたち」を回復して頂いた者として、対話の祈りをしつつ、この地域において、神の御業に仕えて、神様の栄光を現して行きたいと願います。
父なる神様、あなたは人間を「神のかたち」としてお造り下さったにもかかわらず、そのかたちを失って、自分中心に生きて来ました。あなたは御子イエス・キリストの十字架の贖いを通して「神のかたち」を回復してくださいました。聖霊の宿る体として、この恵みの中に生活できるように、日々の聖書日課を通して神様と対話の祈りができるようにお導きください。
聖霊なる神様、求めておられる方々の上に、イエス・キリストを信じて「神のかたち」を喜んで生き、神様の栄光を現すことができるようにお導きください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
表題の「マラナタ」は、コリントの信徒への手紙一16章22節に記されている『マラナ・タ(主よ、来てください)』に由来します。聖書には、この箇所にしか使われていません。ヨハネの黙示録の最後をしめくくる言葉も「主イェスよ、来てください」(22章20節)と記されています。
本庄教会も主の再臨を信じて待ち続ける群れでありたいと思います。在主
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2018年5月20日(日)聖霊降臨日説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:ヨシュア記1:9、使徒言行録 2:1~13
今日は、聖霊降臨日を記念する礼拝です。この日をペンテコステとも言いますが、ペンテコステとは、ギリシア語で50を意味します。1節の「五旬祭」と言うのは50日目の祭りということです。
旧約聖書では、「過越の祭り」が終わって50日目に、祝われたのが「刈り入れの祭り」で小麦の刈り入れが祝われたのです。この日はキリスト教では主イエスが復活されてから50日目に当たり、その日に聖霊が降ったのです。
本庄近辺に住んでいると、今、麦畑が黄色く実り、刈り入れをしている畑もあります。キリストの復活から50日目頃は、春小麦が実り、刈り入れとなる頃なのです。
私たちは、4月1日に主のご復活のイースターを迎えました。それから50日目のペンテコステ、聖霊降臨日は、旧約聖書で言う過越しの祭りの後50日目の小麦の刈り入れの祭りと重なることが、本庄の麦畑の実りの光景を見てよくわかります。
主イエスは、復活されて40日間、弟子たちに神の国について話され、そして、命じられました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と。こう話し終わると、主イエスは弟子たちの見ているうちに天に上げられて、雲に覆われて見えなくなってしまったのです(使徒1:8~9)。
その10日後が、50日目の聖霊降臨となったのです。その日、「一同が一つになって集まっていると」(2:1)と記されています。
1章の14、15節を見ると、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」のです。120人ほどの人々が一つになって、心を合わせて熱心に祈っていたのです。一同が一つとなって集まって、祈っている所に、聖霊が降ったのです。一同が聖霊に満たされた時、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉でイエス・キリストによる救いの喜びを伝えるようになったのです。これが教会の誕生した初めだったのです。
ここで起こっていることは、聖霊降臨から二千年余り、いつの時代、どこの教会にも起きていることなのです。
復活の主イエスが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と言われているように、私たちの信仰の力は自分の中から出てくるものではなく、聖霊に満たされて受ける力なのです。
教会に力があるかないかは、どれだけの兄弟姉妹が集まって祈っているかで分かります。聖霊は一人一人の上に降りますが、一人ではなかなか力を現わせないのです。また、神は一人で何かをするワンマン・プレイを望まれないのです。イエス・キリストを信じる群れ、兄弟姉妹が集まり、心を合わせて祈っている所に聖霊は一番働かれるのです。
なぜなら、私たち一人一人はとても弱い者で、思いがあってもなかなか行動ができないのです。神は、そんな弱い者たちの集まりの中に聖霊として働いて、力を下さり、神が各自に与えられた賜物を用いて、御業に仕えることができるようにして下さるのです。賜物とは、自分が神のために喜んでできること・能力なのです。
だから、教会の「祈りの会」が大事なのです。主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と約束されています。それが「主日の礼拝」であり、週半ばの「祈りの会」「家庭集会」であります。本庄教会の皆が、主イエスの御名によって集まる所に、復活の主イエスがいてくださるだけでなく、聖霊の力が与えられ、各自の賜物が用いられるのです。
私たちは、神は、父、子、聖霊の三位一体の神として、同等の人格的存在であることを教えられています。ところが、「神様」、「イエス様」と素直に言えるのに、「聖霊様」とはなかなか言わないし、言い慣れていないのです。
23年前に、大宮教会が韓国のソウルにある忘憂教会と教会交流を3年間しました。青年・婦人・壮年たち15人ほどがお互いに訪ね合い礼拝と交わりを共にしました。韓国の兄弟姉妹たちの大変熱いもてなしを受けました。主任牧師の李聖實(イソンシル)牧師は、その時教えてくださいました。「日本の信徒の皆様は、とてもよく聖書を勉強して知識がいっぱいあります。しかし、その教えが生活の中に現されていません。心が熱くされなければ、御言葉の知識は生活化されないのです。心を熱くして御言葉に生きるようになるためには、聖霊様の助けが必要なのです。日本の皆様は聖霊様の助けを頂くともっと喜びと感謝にあふれる生活ができると思いますよ。」と。
韓国では、聖霊は、「神様」「イエス様」と呼ぶように「聖霊様」と呼んでいます。聖霊なる神をとても身近に感じて生活しているのです。私たち日本のキリスト者も、聖霊なる神をもっと身近に感じて生活するならば、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と(Ⅰテサロニケ5:16~18)いうことを自然と現わしていくことができるのです。
皆さんに、図式をしたものが渡っていると思いますが、これによって、三位一体の神の構造と、なぜ、聖霊なる神が私たちに最も身近な神であるかをお話しします。
キリスト教というか、聖書の世界観は、直線で表されます。天地創造の初めから世界が始まり、キリストの再臨によって御国が完成する終末の時までの一直線なのです。それが、ギリシア語で、アルファであり、オメガでありと言うのです。
神は天地を創造された後、最初、律法によって人々を治めようとした旧約聖書における神の律法の時代です。しかし、神は、律法に従うことのできない人間を何とか救おうとして神の御子、イエスの誕生と十字架の贖い、墓からの復活の出来事を起こされました。それが地上の33年間、新約聖書のイエス・キリストの時代です。
復活の主イエスが天に昇られて神の右の座に着かれてから、御自身の代わりとして別の助け主・弁護者としての聖霊が送られたのです。それがペンテコステから現代に至るまでの聖霊の時代であります。
ですから、この図のように、神は私たち人間に対して一番最初に働くのは、聖霊なる神として働かれるのです。この聖霊なる神の導きと助けによって、二千年前のキリストの十字架と復活の出来事は自分を罪から救うためであることが分かり、イエスをキリストと信じて生きるキリスト者になるのです。主イエスを通して目に見えない神を造り主と信じ、「アッバ、父よ」と呼んで祈ることができるようになるのです。
祈りにより神と対話し、御言葉に従うものとして「神のかたちを」回復するのです。
聖霊なる神は、私たち人間に一番最初に働かれ、最も身近な存在なのであります。
人は誰も、この聖霊なる神のお導きなくしては教会へ来ることも、聖書を理解することもできないのです。まだ洗礼を受けていない方を始め、主日礼拝に集っている私たちは皆、聖霊なる神の助けとお導きをいただいているのであります。
ですから、いちばん私たちに身近な神として聖霊なる神に親しくなるように努めましょう。お家で、ディボーションをする時、「聖霊なる神様」、または「聖霊様」と呼びかけて祈ってみてください。神の真理を悟らせてくださいます(ヨハネ16:13)。
天の父なる神様、ペンテコステの日、主イエス様を信じて集まって、心を一つにして祈っている兄弟姉妹の上に聖霊が降って初代教会が誕生しました。130年前、本庄に住んでいる兄弟姉妹たちの集まりの上に聖霊様が働いて本庄教会が誕生しました。今年は、本庄教会の創立130周年を祝う年です。聖霊様をより身近に感じて、その恵みに豊かにあずかり、本庄の人々に伝え分かち合う喜びと力をお与え下さい。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。