主題:
『イエス様の教会を建て上げるために(2)』
説教:
『十字架のキリストを仰ぐ救い』
2020年7月5日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:民数記21章4-9節、
ヨハネによる福音書3章9-15節
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
説教:
『十字架のキリストを仰ぐ救い』
2020年7月5日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:民数記21章4-9節、
ヨハネによる福音書3章9-15節
前回は、キリスト教会では、神の家族とはイエス様の建てられた教会の群れを意味するとお話ししました。その教会の群れに加えられる者は、「霊によって新たに生まれた者」なのです。
霊によって新たに生まれるとは、イエス様は自分の罪から救い出してくださるキリストと信じて、バプテスマを受けることであります。そのことを「新生」とも言います。洗礼を受けてキリスト者として歩んでいる人は皆、この新生体験をしているのです。
そこで、今日、考えたいのは、なぜ人は新しく水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできないのでしょうか。神の国とは何なのでしょうか。
私たちの周りには、「新しく生まれる」とか、「神の国に入る」とか言わなくても、結構、楽しく充実した人生を生きている人々が多いように見えます。
私たち日本人は、いろいろな宗教行事を楽しんでいます。正月には神社に初もうで、二月には節分で、その年決められた方を向いて恵方巻を食べ、三月にはお雛祭りをします。五月には端午の節句としてこいのぼりを上げ、夏、秋の神社の祭りで神輿を担ぎます。十二月にはサンタクロースのプレゼント、ケーキとクリスマスを楽しみます。子供の頃は七五三で神社に行き、青年になるとキリスト教式の結婚式、死んだら仏式の葬式などと、いろいろな宗教行事を生活の中に取り入れています。
何も霊的に生まれ変わらなくてもいいのではないかと思われる日本人が多いかとも思います。こうした日本に住む私たちに「神の国」が意味するものは何なのでしょうか。
*
私たちが信じる神様は、どんなお方なのでしょうか。
「神の国」とは、聖書では〝神の支配〟を意味します。神様を信じて、神様の御支配の中に生きることが、神の国に入るということなのです。
その時に、キリスト者たちが信じる神様は、天地万物の造り主を神様とします。神様は、御自分に似せて人間を「神のかたち」として造られたのです。
「神のかたち」とは、神様に「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)と記されているように、神の息、即ち「神の霊」を吹き込まれた存在なのです。
ですから、最初に造られた人間は、神様と霊的に交流ができ、神様の御言葉に従い、神様の祝福の中に生きるように造られたのです。
*
しかし、アダムとエバが、蛇の誘惑によって神のように善悪を知る者となりたいと思い、神様が食べると必ず死ぬと言われていた禁断の木の実を食べて、神様に背き、神様から離れてしまったのです。これが罪の始まり、〝原罪〟と言います。
しかしながら、神様は人間を祝福して「神のかたち」として造られたゆえに、やがて、アブラハムを選び出して命じました。
「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12:2~3)
神様は、アブラハムを選んで、〝地上の氏族のすべての祝福の源〟とされようとしたのです。やがて、アブラハムの子・イサク、イサクの子・ヤコブから生まれた12人が、イスラエル民族となったのです。
神様は、地上のすべての人々を祝福へと導くために、イスラエル民族を用いられたのです。モーセを用いて、エジプトの奴隷状態にあったイスラエル民族を救い出し、十戒を中心とする律法を与えて、全ての民族の祝福の源となることを願われたのです。
しかし、この民は、今日読んで頂いた民数記にあるように、神様とモーセに逆らって「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と不平を言うのでした。このような繰り返しの中に、荒れ野を40年さまよい、約束の地・カナンに入り、12部族に土地が与えられます。
ところが、イスラエルの民は、神様を信じるだけは物足りなくて、周囲の国々のように国を治める王を求めます。そして立てられたのが初代のサウル王、2代目のダビデ王でした。神様はダビデの子孫から世界を治める王、メシアを立てると約束されます(サムエル記下7:12~13)。
ダビデ王の後、ソロモン王が立てられ、その後、王国は北イスラエルと南ユダに分裂します。十戒の第一戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト20:3~4)と命じられているにも関わらず、周囲の国々の偶像を崇拝するようになりました。その罪が神によって裁かれて、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされてしまいました。神様が祝福の源となるようにと用いようとしたイスラエル民族も、結局は、その期待に応えることができなかったのです。
しかし、神様は憐れみ深い御方です。バビロンに捕虜として連れ去られたユダ王国の人々は、約70年後、紀元前538年、ペルシアの王キュロスによって、解放されて故国に帰還することができました。そして更に、およそ500年後に神の御子・イエス様の誕生となるのです。神様に繰り返し背いたイスラエルの歴史でしたが、造り主である神様は、全ての人間が、神の祝福のもとに造られていることを知らしめるために、イスラエル民族から神の御子・イエス様を地上にお送り下さったのです。
*
神様に繰り返し背いたイスラエルの民の姿は、私たち人間一人一人の姿であるのです。そう思って、民数記の出来事をもう一度見てみたいと思います。
民たちは、神様とモーセに逆らい「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と不平を言っています。
神様は、この不平を言って逆らう民を裁くために罰として「炎の蛇」を送ったので、蛇は人々をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。
「炎の蛇」と言うのは、かまれると焼け付くような痛みと激しい毒のためにこう呼ばれているのです。また、その地方の蛇には赤い斑点があり、陽の光が当たるときらきらと輝くことからそう呼ばれたとも言われています。
民たちは、モーセのもとに来て言っています。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」
モーセは民のために主なる神様に祈りました。すると神様はモーセに言われました。
「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」と。
モーセは、命じられたとおりに、青銅で一つの蛇を形づくり、旗竿の先に掲げました。蛇にかまれた人たちが、青銅の蛇を仰ぐと命を得たのでした。
ここで、注意して理解しなければならないのは、青銅の蛇自体に救う力があるのではないのです。「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」との、神様の約束を信じて仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れることができたということです。
この旗竿の先に掲げられた青銅の蛇に対して3人の人の姿を考えてみました。
① ある人は考えました。「旗竿の上につけられた青銅の蛇を見ることによって救われるのだと、そんな非科学的な迷信みたいなことに惑わされるものか。自分の理性が許さない。」そしてその人は死んで行きました。理性的、科学的に考える人です。
② ある老人は思いました。「自分の長い人生経験の中で、そんなことはいまだかつて一度も見なかった。そんなバカげたことで人が救われるという知らせは、人を惑わす以外の何ものでもない。私は信じない。」そう言ってその老人も死んで行きました。体験・経験を重要視する人です。
③ しかし、しかし、苦しみの余り、藁にもすがる思いで、旗竿の見えるところまでやって来て、その上に掲げられていた青銅の蛇を見た人は救われたのです。神様の御言葉を信じる人です。
ここで、ニコデモとイエス様とのやり取りを見てみます。
イエス様が「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われました。するとニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。
そこで、イエス様は答えられました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく(アーメン)。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」
ニコデモは、イスラエルの教師で、律法を守ることを大事にし、人々から尊敬も受けている人でした。彼は、律法をどう守り、どのように行うかについて理性的に指導できる経験豊かな人でしたが、しかし、イエス様の話される霊的なことが受け入れられなかったのです。
人間の理性や人間の経験からだけでは、神様の霊的なことは受け止められないのです。私たちでも同じです。幸い、イエス・キリストを信じる人々は、聖霊なる神様の助けと導きをいただくことができているから、霊的なことが分かるのです。しかし、今日のキリスト者も聖霊を受けていることの自覚が無いと言うくらい薄いのです。私も、韓国の教会と交流して、聖霊を受けていることの重大さに気づかされたのです。
今日読んだヨハネによる福音書の14節に、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と御自分が高く上げられることについて、民数記の出来事に言及されています。ここで「人の子」と言うのは、イエス様御自身のことを指しておられ、「高く上げられる」とは、十字架に架けられることを指しておられます。
*
イエス様は、旗竿の上に掲げられた青銅の蛇のように、神様に繰り返し背いて来た私たち人間の罪を裁きから救うために、私たちの身代わりとなって十字架にかかって下さったのです。その十字架のキリストを仰ぎ、救い主だと信じる者が罪の裁きから救われるのです。
神様から「神のかたち」として祝福されて造られた人間は、あのアダムとエバが蛇に誘惑されて以来、今日に至るまで、蛇の誘惑によって、罪に陥れられ、その罪のために死ななければならない運命に置かれています。それは、ちょうどイスラエルの民が荒れ野で神様につぶやき背いて、毒蛇にかまれた時の状態のようなものです。
憐れみ深い神様は、モーセに命じて青銅の蛇を旗竿の上に上げさせて、「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」との約束を信じて仰ぎ見た者は救われたように、御子イエス・キリストが人間の罪の贖いの犠牲として架けられた十字架を仰ぎ見る者を救われるのです。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と約束されているのです。
罪なき神の御子イエス様が、神様に背いて「神のかたち」を失っていた人間のために、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈りつつ、罪人の身代わりの死を遂げて下さったのです。その十字架のキリストを仰ぎ、自分の罪の赦しのために死んでくださった救い主と信じる者が罪を赦されるのです。そして見失っていた「神のかたち」を回復し、神様を「アッバ、父よ」と呼びかけて祈り、霊的な交わりができるようになったのです。御子イエス様が復活して天に昇られた後、御自分に代わる助け主・弁護者として聖霊を私たちに遣わし、信じる者と永遠に一緒にいるようにして下さったのです。
私たちが今、〝天の父なる神様〟と呼んでお祈りができるということは、「神のかたち」を回復したからです。神のかたちを回復したということは、神様と霊的な交わりができるようになり、神様の御心が分かり、神様に喜んで従い、共に生きることです。聖霊なる神様が永遠に共にいて下さることは、私たちは永遠に造り主である神様と共に生きることです。
今、この地上に生きる時も、また、地上の生活を死によって閉じて天に行った時も、神様と共に生きることができるのです。これが永遠の命であり、「神の御国に入る」ということなのです。
キリストの福音と言うのは、十字架のキリストを仰ぐ者として罪が赦されたと言うことにとどまらず、「神のかたち」を回復して生きるということです。
罪のために滅ぶべきものであった者が、「神のかたち」として神様と霊的に交わって生きることができるのですから、「キリストの十字架を仰ぐ救い」は、嬉しい、喜びの知らせなのです。十字架のキリストを信じる者は皆、「神のかたち」を回復し、永遠の命を得ることができるのです。
今日、この後に与るパンと杯の聖餐式は、ここに集まる者たちが「神のかたち」を回復して生きていることの具体的なしるしであります。感謝と喜びを持って聖餐に与りましょう。
*
父なる神様、
新型コロナウイルス感染の心配の中にも私たちの健康を守り、礼拝を共にささげることのできることを感謝いたします。
私たちは神様の祝福のもと霊的に生きるようにと「神のかたち」に造られたにもかかわらず、背きの罪の中を歩み、滅ぶべき者でした。しかし、聖霊なる神様のお助けによって十字架のイエス様を仰いで、罪が赦され「神のかたち」を回復して生かされていることを感謝いたします。
あなたは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことを願っておられます。
神様が、独り子であるイエス様を十字架に架けてまでも、人間一人ひとりを救おうとして愛してくださってるこの御愛を心から感謝して、まだ知らない人々に分かち合うことができるようにお導き下さい。
「神のかたち」を回復して、神様と共に霊的に生かされている具体的なしるしとして、感謝と喜びを持って聖餐に与らせてください。
世界中の人々が、新型コロナウイルス感染の恐怖の中に置かれています。この病気の収束の上にあなたの憐れみをお与え下さい。
この時、人々が十字架のキリストを仰いで救いを得ることができるように、あなたの憐れみとお導きを祈ります。
主イエス・キリストの御名によって、
アーメン。
**
説教:
『霊によって新たに生まれた者』
2020年6月28日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:エゼキエル書37章9節、
ヨハネによる福音書3章1-8節
今、こうして教会堂に集まって礼拝を献げて、もう4回目になろうとしています。更に会堂での礼拝がずっと続くと、この前の2ヶ月間、家庭で礼拝を献げていたことが、忘れ去られてしまうのではないかと思うのです。
しかし、皆さんのお手元にある「マラナタ」6月号を見ると、4月12日のイースターから5月31日のペンテコステまでの8回の日曜日、ライブ中継を通して家庭で礼拝を献げられた皆さんの思いが記録されています。最後の頁には、ライブ中継中の礼拝堂の様子の写真も載っています。本当に礼拝堂がガランとしていますね。
そうした中で、司会者、説教者、奏楽者やヒムプレーヤ―の担当者たちは、画面を通して礼拝を献げる各家庭の皆さんを想起しながら語ったり、伴奏したりしなければなりませんでした。
こうして、皆さんのお顔を拝見しながら語ったり、賛美したりするのと違って本当に緊張しました。できるだけ画面を通して皆さんに顔を向けて語ることが出来るようにと、パソコンのカメラの方を向いて語る
のに苦心しました。
コロナウイルス感染対策として、密集・密接・密閉を配慮したライブ中継でしたが、この期間を通し、たとえ離れていても〝イエス様を通してつながっている神の家族であること〟また〝「みなさん」と呼び合うことのできる神の家族であること〟を実感させられたことは、皆さんの共通認識かと思われます。
このコロナウイルス危機を通して改めて認識した、神の家族としての実感を、私たちの信仰生活のいろいろな面でも更に共有できる教会を建て上げて行きたいと願い、祈ります。
*
前回、私は、「イエス様の教会を建てる」と言うことに視点を合わせて御言葉を取り次ぎたいとお話ししました。
イエス様は、弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたことに対して、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。するとイエス様は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われたのです。(マタイによる福音書16:13~19)
私は、伝道者として教会に遣わされて以来、ずっと教会に教師(牧師・伝道師)として仕えるとはどんなことなのか、何を目指して行けばよいのかと神様に問い続けつつ歩んで来ました。
教会担任教師になると、教会の信徒の皆さんと共に歩まねばなりません。教会の教師にとって、一番大変なのは、信徒の皆さんと人間関係を、どのようにして共に歩むかということです。教会も人の集まりですから、そこに起きる人間関係のトラブルは世間と全く変わりません。信仰者の集まりだから、何の問題もないかのように思われますが、全く変わらないのです。
私も勝子牧師も、伝道者として応えるために神学校に行っていた頃は、自殺予防を目指しての「東京いのちの電話」が設立された頃でした。私たちは、電話カウンセラーとしてのカウンセリング訓練を2年間受けました。私は第2期生、勝子牧師は第3期生です。東京で5~6年電話カウンセラーとして担当しました。それから福井市の福井神明教会に遣わされました。この電話カウンセラーの訓練と電話カウンセリングの経験が、教会担任教師となってから、大変役に立ちました。今は、牧会カウンセリングと言って、教師や信徒たちと一緒に学ぶカウンセリング講座も開催されています。
教会においては、イエス・キリストを信じる者として人間関係をどう生きるかと言うことになります。その人間関係の現れ方を通して、いろいろな形の教会が現れるのです。
どうしたらキリストの体としての教会を建て上げることが出来るのか、これが、ずっと私の課題であり祈りであります。教会論についてのいろんな本も勉強しました。
ある時、ハッと示されたことがありました。今から20年ほど前です。マタイによる福音書16章13~19節の、ペトロの信仰告白に対して、イエス様の言われた言葉であります。イエス様は、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われています。イエス様が、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われている〝わたしの教会を建てる〟という御言葉にハッとしたのです。
今まで、私は自分として、キリストの体としての教会を建てるために一生懸命に学び、一生懸命祈り努めて来たと思っていたのです。しかし、イエス様は、「わたしは・・・・わたしの教会を建てる」と言われているのです。イエス様の教会を建てるのは、イエス様御自身なのです。牧師が教会を建てるのではないのです。役員や長老が教会を建てるのではないのです。人が教会を建てるのではなく、イエス様御自身が教会を建てると言われているのです。
このことに気づいてから、教会の捉え方、見方が変わって来ました。
〝この教会は、イエス様が建てられる、イエス様の教会となっているかな〟と見るようになったのです。そして〝イエス様の教会〟となっていないなら、何が妨げているのかな。〝イエス様の教会〟となることを妨げているのは、牧師かな、役員・長老かな、信徒の誰かなのかな、それとも伝統なのかな、などと見るようになりました。
それで、いろいろな教会に招かれたりして、何か話してくださいと言われると、〝イエス様は、「わたしの教会を建てる」と言われています。イエス様が建てられるイエス様の教会になっているかよく自己吟味してくださいね〟と言っているのです。
これから、イエス様の教会となるために、いろいろと教会の姿の断片を語ったりしますが、本庄教会のことを言っているのではありません。もちろん、本庄教会も〝イエス様の教会となる〟ことを願って語っていますから、指摘が当たっているところがあったら、互いに改善して、〝イエス様の教会〟により近づいて行きたいと願います。
*
イエス様が建てられる教会と言う「教会」は、ギリシア語で「エクレシア」と言い、「信徒の群れ」を意味します。教会は信徒の群れなのです。どのようにして信徒を建て上げると、「わたしの教会」と言われるイエス様の教会になるのかということです。そこでイエス様が建て上げに用いられる「信徒」とは、どんな人なのかを、今日の御言葉から学びたいと思います。
ユダヤのファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員であるニコデモが、ある夜、イエス様を訪ねて来た時の対話が今日の出来事です。
最初に、ニコデモと言う人は、どんな人だったのかについて話します。
(1)ファリサイ派に属する人です。
ファリサイ派の信者と言うと、聖書には批判的に書かれていますので、悪い人間で偽善者と思われがちです。実は、当時のイスラエルにおいて、ファリサイ派の人は、ユダヤ教の中で正統的な信仰を持っており、旧約聖書の権威を信じて、実践している立派な人たちというのが一般的イメージでした。当時、6千人ほどいて、その多くは人々から尊敬を受けていたそうです。ニコデモは、そのようなファリサイ派に属していたのです。
(2)ユダヤ人の議員でありました。
ユダヤ人議会と言うのは、ユダヤ人の政治的議会だけでなく、ユダヤ教の最高の議会でもありました。全国から選ばれた、70人の祭司、長老、学者から成る最高議決機関でした。「サンヘドリン」(70人議会)と呼ばれていました。ニコデモは、ユダヤ人議会の議員で有力な指導者の一人であったのです。
(3)ギリシアの教育を受けた人でした。
ニコデモと言う名はギリシア式の名前で、「民の征服者」と言う意味です。当時、ユダヤ人でありながら、このようなギリシア名を持つ人は、上流階級で、ギリシアの教育を受けていた人でした。
このように、ニコデモは、当時、ファリサイ派の人として尊敬を受け、ユダヤ人議会の有力な人で、ギリシアの教育を受けた上流階級の人で、ユダヤ教の熱心な指導者でありました。
このニコデモが、「ある夜」イエス様を訪ねて来たのです。なぜ、ニコデモは、夜に訪ねて来たのでしょうか。ニコデモは、ユダヤ人の指導者として年配者だったと思われます。一方、イエス様は30歳でメシアとしての公の生涯を歩みだされましたから、年若いのです。
ユダヤ人の有力な指導者である年配のニコデモは、まだ年若い、当時のユダヤ教では受け入れられていないイエス様のもとへ人目を避けて、夜、訪ねて来たのです。
しかも、年配のニコデモは、年若いイエス様に対して「ラビ」(先生)と呼びかけています。ここにニコデモの強い求道心があったとも言えます。
ニコデモは、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言っています。ニコデモは、イエス様のなされたしるし・奇跡を見て、神様が共におられると受け止めて、イエス様にお会いしたかったのです。
イエス様は答えて言われました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
この「はっきり言っておく」は、原語では「アーメン」なのです。イエス様が真実にかけて約束される時は、アーメンと最初に言われるのです。口語訳では「よくよくあなたに言っておく」、新共同訳の新しい訳では「よくよく言っておく」と訳されています。
「新しく生まれる」の「新しい」とは、〝上から〟〝天から〟という意味でもあるのです。これは、神様によって生まれる誕生を意味します。ですから、“神によって生まれなければ、神の国を見ることはできない”となるのです。
しかし、ニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えています。イエス様は、神様のこと、霊的な話をされたのに、ニコデモは、霊的なことを全く理解できませんでした。「生まれる」と聞くと、赤ちゃんとして生まれて来る肉体の誕生を考え、人間的な肉的な視点からしか聞くことが出来ませんでした。
イエス様は更に言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と。
「水と霊によって生まれる」の「水」はバプテスマの水を指し、「霊」は聖霊のバプテスマを指すと考えて良いのです。すなわち、聖霊によって「イエス様は救い主」と告白し、罪を洗い清めるバプテスマを受けて聖霊の支配に与ることによって、神の国に入るということなのです。
皆さんが、イエス・キリストを信じて洗礼を受けたあの時のことなのです。
「神の国を見る」「神の国に入る」と言う「神の国」は、3章16節に言われている「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言われている「永遠の命を得る」と同じことを意味しています。
イエス様は、水と霊の洗礼を受けて霊的に生まれ変わる者が神の国に入る、即ち永遠の命を得ることになると言われたのです。
イエス様は「風は思いのままに吹く」と言って、霊によって新しく生まれることを風の動きにたとえて説明しています。
「風」はギリシア語で「プニューマ」と言いますが、「霊」の意味も持ちます。
風が吹いても、見えないのでどこから来て、どこに行くのか分かりません。だだ、風が吹いて来た結果、現象として音が聞こえ、煙や雲をたなびかせるのを見ることができます。それと同じように、神の霊によって生まれる時も、人間の目で霊の働きを直接見ることはできませんが、霊がその人を生まれさせて下さると、キリストを信じて生きるその人の生き方が変わるので、誰の目にもよくわかるのです。結果として分かるということです。
以上から分かるように、イエス様がイエス様の教会として建てるために用いられる信徒は、水と霊によって生まれた人、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた信徒なのです。
当時、世間ではファリサイ派の人として尊敬を受け、ユダヤ人議会の有力な人で、ギリシアの教育を受けた上流階級で、ユダヤ教の熱心な指導者であったニコデモが、霊的な誕生を理解できなかったように、霊的なことが理解できない人がいるのです。
イエス様は、この世でどんなに評価を受けているかどうかで用いられるのではないのです。新しく、水と霊によって生まれて、神の国に入ることのできた人々を用いられるのです。
このように言うと、皆さんは、「私は新しく生まれているのだろうか」と不安になるかと思います。ご安心ください。イエス様は次のように言われています。
ヨハネ福音書1章12~13節、
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
「言」は、御子イエス様のことです。「資格」は、特権、権能とかにも訳されています。
御子イエス様は、御自分を受け入れ、「イエス様は神の子・キリストである」と信じてバプテスマを受けた人々に、神の子となる資格(特権、権能)を与えられるのです。キリストを信じる人々は、神様が生まれ変わらせて下さったのであって、決して人間の血のつながりや身分や地位によってではなく、人間の願望や意志によるのでもありません。ただ神様が御心によって生まれ変わらせて下さるのです。
イエス様が御自分の教会を建てるために用いられる人とは、イエス・キリストを信じて新しく霊的に生まれた信徒たちなのです。キリストを信じて、神様の御言葉を聞いて、神様と共に歩もうと礼拝を献げている皆さんを、イエス様は用いて下さっているのです。そのことを信じて感謝いたしましょう。
*
父なる神様、
会堂で共に集まって礼拝を献げることを再開して、4回目の礼拝を守ることができて心より感謝いたします。ライブ礼拝によって献げられた家庭礼拝を通して、キリストに結び付いた神の家族であることを実感できたことを感謝いたします。
今日は、教会は人が建てるのではなく、イエス様が御自身の教会を建てられることを、改めて御言葉から聞きました。そして、イエス様が教会を建てるのに用いられる人々は、新しく水と霊によって生まれて、神の国に入れられた人たちであることも確認しました。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けている私たちは、神の子としての資格が与えられ、あなたの御体である教会を建て上げるのに用いられていることを感謝いたします。
どうか、私たちが用いられて、本庄教会がイエス様の教会として建て上げられ、キリストの恵みをこの町の人々に証しできますように、聖霊の御助けをお願いいたします。
コロナウイルスの感染は、まだまだ拡大しています。世界中の人々が、感染で病んで苦しんでいます。多くの方々が亡くなっています。医療の最前線にある方々の働きを支えて下さい。第二次、第三次感染が来ると心配されていますが、良い薬が一日も早く開発されて、人々が助けられ、コロナウイルスが終息しますように、神様の憐れみと御助けをお願いいたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
**
2020年5月31日ペンテコステ礼拝より
(ライブ中継による)
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:詩編71編14-24節、
使徒言行録2章1-13節
「皆様、ペンテコステおめでとうございます!」新型コロナウィルス感染の緊急事態宣言は解かれましたが、依然として感染予防の為に、換気や密集を避けるといった注意を要する状況が続いています。本庄教会では大事をとって、6月7日から会堂での礼拝を再開することになりました。本当でしたら、教会にとって大切なこの聖霊降臨日礼拝・ペンテコステ礼拝から再開できればよかったのですが、このように離れていても、ネット配信のパソコン等の画面を通じて、また受話器を通じて礼拝で共に主に賛美をささげ、祈りをささげ、御言葉に共に聴く主の日が与えられていることに感謝したいと思います。
クリスマスには「主の御降誕をおめでとうございます!」と言って、わたしたちの救い主であられるイエス様がお生まれになった日をお祝いします。また、イースターには「主のご復活をおめでとうございます!」と十字架で命をお献げなさったイエス様が、3日目に復活されたことをお祝いします。そして、この聖霊降臨日(ペンテコステ)には、「おめでとうございます!」と言って、天に昇られたイエス様のもとから、天から聖霊が私たち主イエス・キリストを信じる者に降って聖霊なる神様の力が与えられたことをお祝いするのです。この出来事は、「教会の誕生日」とも言われているは、聖霊なる神様こそが、教会にとって命であり、私たちに主イエス・キリストを信じ、また神様に祈り・賛美をささげ・礼拝する力を授けてくださる御方だからです。
先週の主日礼拝では、疋田國磨呂牧師の説教によって、イエス様が天に昇られた、昇天の出来事を通じて、私たちは共に御言葉を頂きました。主イエス・キリストが天に昇られたのは、私たちのために天に住む場所を用意し、私たちを天国に迎え入れるための備えをしてくださるためであったこと、そしてもう一つが、天から私たちに聖霊を送るために天に昇られたのだということを示されました。
本日の使徒言行録2章1節以降の箇所では、イエス様が約束なさった通り、弟子たちに聖霊なる神様が降ってこられました。この聖霊降臨の出来事を通じて、共に主の御言葉を聴いていきましょう。
*
今日の新約聖書の使徒言行録2章1節は、「五旬祭の日が来て」と始まっています。私たち、クリスチャンにとって、「五旬祭」とは、「ペンテコステ」・「聖霊が降った日」ですが、その起源はユダヤ教のお祭りにあります。
先日、水曜日に、教会員の皆様に、役員の方々と分担して、今日の為の週報をご自宅にお届けしました。私は國磨呂牧師と共に車で信徒の方々のご自宅を回ったのですが、その道中で、道路の脇に麦畑が広がっていました。國磨呂牧師は、実家が造園業と農業を兼業しているので、農業についても詳しいようで、春麦はこれからが刈り入れ時で、二毛作をしている農家は、麦を刈り入れた後で、水を張って水田にして田植えをしていくと話していたのがとても印象的でした。
毎年お伝えしているかもしれませんが、「ペンテコステ」というのはギリシャ語で「50日目」という意味なのです。それは過越祭から数えて50日目とのことですが、過越祭の週の安息日の翌日には、大麦の初穂を主の祭壇に献げたようです。そして、それから7週間後、7×7=49日間です。そして50日目には、小麦の収穫を主なる神様に感謝して、パンを焼いて、羊、牛、山羊といった家畜と一緒に神様の御前にささげる「刈り入れの祭り」が祝われたのです。「7週の祭り」(ペンテコステの祭り)とも呼ばれていたのです。しかし、後代になってから、この五旬祭というのが、シナイ山でモーセが十戒の掟を授けられたことを記念する日としても、ユダヤ教で理解されるようになり、大切な意味が与えられていったようです。
*
さて、私たちクリスチャンにとっては、このペンテコステ(50日目)というのは、私たちの救い主であられるイエス様との関わりの中でその出来事の恵みが示されます。この50日目(ペンテコステ)とは、イエス・キリストが十字架で命をお献げくださってから数えて、50日目に聖霊が与えられたということになります。ヨハネ福音書では、ご自身を地に落ちた一粒の麦に譬えて、主が十字架で遂げられる死を通じて、多くの者が主を信じて罪を赦されて永遠の命に与り、信仰の実が豊かに実ることをお示しになっています。
先の復活節には、十字架の死から三日目に復活されたイエス様が、弟子たちの前に、そして弟子の一人であったトマスの前にも現れて下さった出来事をヨハネ福音書から共に聴きましたが、その時は、当時の宗教指導者からの迫害を逃れるために、弟子たちが家の扉に鍵をかけて、恐怖の中でひっそりと集まっていた様子が語られていたと思います。しかし、今日の使徒言行録2章冒頭で語られている弟子たちの集いというのは、状況が全く異なっています。
そこでは、120人を超えるイエス様の弟子たちが「一つになって集まっていた」と言われています。これは「思いを一つにしていた」と訳すこともできます。そして、集まっていた場所というのは、使徒言行録1章では宿泊していたおそらくペトロの家に集まって祈っていました。その様子が1章の14節に書かれていて、イエス様に従う兄弟姉妹たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。彼らは、熱心に心を合わせて祈りながら、イエス様が送ってくださると約束した聖霊が来ることを待っていたのです。しかしながら、ここでは5節以降にエルサレム神殿を訪れてきた人々が入ってくることとの繋がりで理解するのであれば、民家ではなくて、エルサレム神殿で、彼らは祈りを合わせていたことになります。
2節の聖霊降臨の箇所では激しい風の音が「家中に響いた」とありますが、これは神の家である神殿のことを語っているのです。使徒言行録5章12節にも、弟子たち「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」とあります。ソロモンの回廊とは、エルサレム神殿の異邦人の庭の東側にあった柱廊で大勢が集まるスペースがあったようです。
さて、聖霊を送って下さるというイエス様の約束については、ヨハネ福音書14章16節と26節の言葉が有名です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」 使徒言行録1章4節にも約束されています。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」また、同じくルカによる福音書11章では、イエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えられた時に、その流れの中で、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9節)と言われた後に、13節後半で「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と既に、約束されていたのでした。そこで、弟子たちは、エルサレムの都にとどまり。約束された聖霊を祈り求めていたのです。
すると、イエス様の十字架の恵みとして復活から数えて50日目に、イエス様の約束の言葉を信じ、聖霊なる神様の助けを祈り求める群れの上に、主は激しい風の音と、そして炎の舌を伴って、一同全員に、聖霊が満たされたのでした。本日は、國磨呂牧師も、私も、勝子牧師もそうですが、胸には炎の舌の模様が描かれたバッジを付けています。本庄教会では、ペンテコステにはこの聖霊降臨を象徴するバッジを胸に付けて、主が聖霊を送ってくださったことの恵みを覚えています。バッジの模様は、本当によくできていて、炎の舌が表現されています。なぜ、風と炎なのかという事については色々な解釈がありますが、新約聖書が書かれた言語であるギリシャ語では、聖霊は「プネウマ」となっていて、「風」と同義語の言葉なのです。また火ということについては、福音書で洗礼者ヨハネがイエス様は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と伝えていたのです。私たちを救うために、自らの御子を十字架に遣わすこともいとわない、燃えるような神様の意志と愛を表すといってもよいかもしれません。いずれにしても、神様ははっきりと弟子たち自身が分かる形で、彼らに聖霊なる神様の助けと力が注がれたことをお示しになったのです。
さて、聖霊が降った弟子たちには何が起こったのでしょうか。彼らは、「国々の言葉で話しだした。」とあります。そして、当時、先ほど紹介した五旬節の祭りで、主に収穫の感謝のために、地中海沿岸の様々な国から集まっていたユダヤ人たちも、風の音を聞いて、何が起こったのかを確かめに、イエス様の弟子たちのもとへと集まってきたのです。そこで、主の弟子たちが聖霊を注がれて、彼らの母国語で主の御言葉が語られているのを目の当たりにするのでした。パルティア、メディアに始まって、ローマに至るまで、地中海沿岸の諸国から遠く、東西南北、至る所から人々が集まっていた様子が語られています。当時はまだキリスト者やクリスチャンという呼び名もなく、イエス様の弟子たちは、イエス様を教師としてあがめるユダヤ教の分派だと思われていました。確かに、ユダヤ人の中から、最初のキリスト者たちが生まれ、そして教会が建てられていったのです。しかし、地中海沿岸で生活するようになったユダヤ人には、アラム語を話すユダヤ人もいれば、ヘブライ語やアラム語を話せない人々もいたのです。新約聖書が旧約聖書と同じヘブライ語で書かれたのではなくて、当時の文化では公用語であったギリシャ語で記されたのも、多くの人々に主イエス・キリストの福音を伝えるためであったと言えます。国の数だけ、言語の種類や方言もあったと思いますが、聖霊が弟子たちに降った時、彼らは言葉の壁を乗り越えて、イスラエル・パレスチナの地域を超えて、全世界へと語りだしたのです。今日の箇所では、まずはユダヤ人の人々に向けてですが、この後に異邦人に向けて、ペトロが、そしてパウロがイエス・キリストを伝えていくことになります。そして、全世界への宣教の働きがなされて、日本にもイエス・キリストの福音が伝えられました。この世界への宣教の業が、先取りされて、今日の箇所でも語り伝えられているのです。
*
イエス様が聖霊を送る約束をされた時、その聖霊なる神様が弟子たちにどのような働きをなさるかについても、あわせて話しておられました。使徒言行録1章8節で、主はこう弟子たちに約束されています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」これと同じように、ルカによる福音書24章の45節以降にもこうあります。
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカによる福音書24:45-49)
聖霊は、様々な困難や壁を乗り越えて、イエス・キリストの救いの恵みを証しする者へと私たちを変えてくださるのです。後にイエス・キリストを信じて宣べ伝える者へと変えられたパウロも、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリントの信徒への手紙一12:3)と言っているように、聖霊なる神様は私たちと主イエス・キリストとを深く結び合わせ、そして主の十字架と復活をが、私を救う恵みでることを身近に感じ、生きる喜びであり望みであることを心に深く示してくださるのです。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネによる福音書14:26)と主が約束してくださっています。
イエス様の十字架と復活の恵みが私たちにとって身近なものとなることは、私たちにとってだけではなくて、私たちが主の証し人とされることによって、私たちの周りの人々にも救いの恵みとしての輝きを放つことになるのです。聖霊に満たされて、様々な国の言葉で主の救いの恵みを語った弟子たちに対して、中には「新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける人々もいたのですが、もう一方では彼らが語っている言葉に驚き、そして聞き入った人々もいたのです。11節で「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」と語っていた人々です。「人々は驚き怪しんで言った。」とありますが、これは必ずしも否定的にとる必要はありません。彼らは、自分たちの理解を超えた奇跡に出会って、驚いているのです。
ここで注目したいのは、聖霊を受けた弟子たちが、「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」と、周りの人々も受け取ったことです。彼らにとって身近な言語で主イエス・キリストの恵みを聞いたのでした。しかも「神の偉大な業を語っている」と言っているのです。まだイエス様の弟子とされていない人々も、神様の救いの業がここに起こっていることを感じ取ったのです。「偉大な」というのは、証し者の話し方や言葉が優れていたというのではないのです。むしろ、彼らの背後に彼らを支え生かしてくださっている偉大な神様が共におられることを感じ取ったのでした。聖霊なる神様は、主イエス・キリストの恵みと私たちを結びつけてくださるだけではなくて、私たちキリスト者と周りに共に生きている人々との心も結んでくださるのです。
*
主イエス・キリストを証しすると言うと、人によっては何か難しく考えてしまう方もいるかもしれません。本庄教会でも、受難週祈祷会には信徒の方々に証ししていただいたり、また以前書かれた証し集を読ませていただいたこともあります。しかし、私たちに寄り添って、私たちを助け、生かしてくださる、主なる神様の恵みを感じて生きる時には、その証しは私たちの日常においても、既に起こっているのです。
先週の木曜日の教団の聖書日課では、ローマの信徒への手紙8章1節以降が読まれました。そこには14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」とあり、聖霊が私たちを神の子供たちとし、「アッバ父よ」と天の父なる神様に祈る力が与えられていることが言われていました。本日読まれた詩編71編にも、そのように神の子供たち、ここでは神の民として、主の助けを祈り求めて、主により頼んで生きる者の歩みが語られています。71編1節~3節は読みませんでしたが、この詩編の歌い手が主なる神様の御手に助けを求めることから始まっているのです。
「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。」
そして本日の18節では「神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。」そして20節~22節で「あなたは多くの災いと苦しみをわたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から、再び引き上げてくださるでしょう。ひるがえって、わたしを力づけ、すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。わたしもまた、わたしの神よ、琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。」と神様に祈り願っているのです。
詩編71編を通じて示されることは、主に結ばれた者は、様々な困難や、健康や精神的な弱さの中にあって、その弱い私たちが身を寄せる時に助けて下さる主を証ししているのです。主に助けていただいて、そして主に私たちの弱さを受け止め、支えていただくときにこそ、私たちの信仰の歩みを通じて、主の恵みが私たちの生活を通じて、周りの人に伝わっていくのです。
これは「イエス様に助けを求めましょう!救って頂きましょう!」と人々に伝えることでもあります。そして、主の助けと救いの恵みが与えられる教会へとお連れすることでもあります。國磨呂牧師も、勝子牧師も説教の中で度々お伝えしていると思いますが、日曜日、教会に友人家族をお連れすることも、主が私たちを通じてなさる偉大な御業なのです。
ヨハネ福音書16章で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている」(33節)と言われたイエス様から送られた聖霊なる神様が私たちと共におられ、私たちを神の子、また神の家族として主の平安のもとにおいてくださっています。私たちの日々を歩みに聖霊なる神様が生きて働いてくださっていることを信じ、今週も歩ませて頂きましょう。
*
父なる神様、新型コロナウイルスの感染からお互いの命を守る中にも、自分たちの家庭で、ペンテコステを覚えての礼拝を献げることのできることを感謝いたします。
この日聖霊がキリストを信じる者たちの上に降り、神の偉大な救いの御業を各国の言葉で世界中の人々に弟子たちが語り始め、教会の誕生日と言われています。
そして二千年後、今日、日本の私たちも聖霊を受けてキリストの偉大な救いの恵みを語り、証できることを感謝いたします。聖霊なる神様が生きて働いて、私たちをもあなたの御業のためにお用い下さい。どうか、家族や友人たちを教会に連れてくることができるように力とお導きを下さい。
神様、世界中の人々を憐れんでください。新型コロナウイルスの感染が一日も早く終息できるようにお助け下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
**
2020年5月24日礼拝より
(ライブ中継による)
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:イザヤ書66章1-2節、
ヨハネによる福音書1章6-11節
「皆さん、おはようございます。」 挨拶ができて、共に礼拝を献げることのできることは、神様のお恵みです。感謝します。
4月7日に緊急事態宣言が出されて、新型コロナウイルスの感染対策として1ヶ月の行動自粛が要請され、更に緊急事態宣言が5月末まで延長されました。
私たちキリスト教会も、神様から与えられた命を互いに守るために、教会堂に集まって礼拝することを自粛する中で、各教会は、主日の礼拝をどのように守り、献げるかが問われ、主日の礼拝のためにいろいろな工夫が取られています。
今まで、教会堂に集まって礼拝を献げ、互いに交わることが当たり前と思われていたことができなくなってしまったのです。感染を広げないために「スティホーム」と言われて、人々ができるだけ家に留まることが求められ、密集、密接、密封という三密をしないようにと要請されています。
そのために、私たち本庄教会も、教会堂に集まらないことにしました。幸いにしてインターネットを通して牧師たちが礼拝堂で献げる礼拝をライブ中継ができて、各家庭で一緒に礼拝を守ることができています。パソコンやスマートフォンを通して映像を共にしながら礼拝を献げるのですが、パソコンやスマートフォンのない方々もおられます。それで、電話で音声だけの中継で礼拝を守っておられる方が3名おられます。しかし、パソコンも電話もできない方が2人おられます。その方々には週明けに、録画したCDや説教原稿を届けたりしています。各家庭で心を合わせて礼拝が献げられるようにと牧師と信徒有志で水曜日から木曜日にかけて週報をお届けしています。
新型コロナウイルスは、私たちが、今まで当たり前だと思い、それが基本だと思っていた教会堂に集まっての礼拝や交わりができなくしてしまっています。しかし、そうした中で、キリスト教会はどのように礼拝を献げ、神の家族としての信仰と交わりを共にしていくかが問われています。
5月15日の新聞で、イタリアの作家、パオロ・ジョルダーノの言葉が紹介されていました。「パンデミック(感染症の世界的流行)が僕らの文明をレントゲンにかけているところだ。数々の真実が浮かび上がりつつあるが、そのいずれも流行の終りと共に消えてなくなることだろう。もしも、僕らが今すぐそれを記憶に留めぬ限りは。」
この新型コロナウイルス感染の流行を通して、私たちキリストの体としての教会もレントゲンにかけられているのです。どんなことが写し出され、見えて来たでしょうか。教会の在り方がいろいろと問われて来たと思われます。示されたことをしっかりと記憶に留めて、キリストの体が成るために、各自が示された課題を分ち合い負い合って行きたいと願います。
*
(1)イエス・キリストに結ばれて生きる神の家族
コロナウイルス感染の対策として、人と人との間に距離を置くように言われています。人と人との間に距離を置くことによって、人と人との心が離れるのではないかとの恐れがあります。
そうした恐れの中にも、私たちには聖書日課を通して神様の御言葉を聞く幸いを与えられています。今、「ローマの信徒への手紙」を通して御言葉に聞いています。昨日は、6章1~14節の御言葉でした。3節「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けたわたしたちが皆」、8節「わたしたちは、キリスト共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」、11節「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と言われています。
ここに「キリスト・イエスに結ばれて」と「キリストと共に」が繰り返し言われています。私たちキリスト者は、人と人との間に距離を置いたとしても、イエス・キリストに結ばれて、キリスト共に生きる者たちなのです。ですから、たとい数カ月、お互いにお会いできないとしても、イエス・キリストに結ばれて、互いにキリストと共に生きる神の家族なのです。その恵みを感謝したいと思います。
(2)復活のイエス様が40日間弟子たちに神の国について教える
このところ聖書日課は、旧約は「出エジプト記」、新約は「ローマの信徒への手紙」であったのに、5月21日は、突然、旧約は「列王記下」2:1~15、新約は「ヘブライ人への手紙」9:11~15になりました。それは、その日が「キリストの昇天日」だったのです。キリストが天に昇られてから10日後に、ペンテコステの聖霊降臨日になるのです。ですから、5月21日の10日後、5月31日の日曜日は、ペンテコステの聖霊降臨日の礼拝であります。
今日、共に聞く「使徒言行録」は、復活後のイエス様が弟子たちに大事な2つのことを示された様子が描かれています。
3節「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」と記されています。イエス様は十字架の苦しみを受けて死なれた後、復活されて、40日間、弟子たちに現れて、神の国について教えられたということです。
①大事なことの第1は、復活されたイエス様は、40日間、弟子たちに神の国について教えられたことです。
4~5節「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」とあります。
復活されたイエス様は、弟子たちと食事を共にしておられたのです。そして、言われたことは、エルサレムを離れないで、父の約束されたものを待ちなさいと命じられたのです。父の約束されたものとは、聖霊によるバプテスマを授けられることです。
➁大事なことの第2は、主の弟子たちは、父である神様が約束された聖霊を授けられることを待つことです。
このイエス様の教えを受けた弟子たちは、6節に、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねています。この問いは、弟子たちが、依然として、旧約聖書におけるイスラエル民族の独立による神の国の地上的実現を考えていたことを示しています。即ち、メシアが来ると、当時の支配者であったローマ帝国をイスラエルが打ち破って勝利し、神の国が実現すると言うようにユダヤ人たちは考えていたのです。
弟子たちもそのように考え、イエス・キリストの十字架の贖いと復活によって、全世界の人々に開かれた神の国の福音であることを十分に理解していなかったのです。
7節に、イエス様は言われました。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」
そして更に8節で言われています。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
ここでイエス様が言われていることは、父なる神様が神の国についてお定めになった時や時期は、私たち人間には知る余地がないということです。
そして、イエス様が40日にわたって教えられた神の国の福音は、弟子たちが父の約束された聖霊を受けると、エルサレムから始まって、全世界の地の果てまでイエス様の証人となって宣べ伝えることができるようになるということです。
(3)イエス・キリストの昇天
イエス様が、このことを弟子たちに話し終わると、
9節「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」のです。これがイエス様の昇天の様子なのです。弟子たちが天に上げられるイエス様を見ていると、白い服を着た二人の人(天使)が来て言いました。
11節「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
これは、イエス様が再び来られる再臨のことを言っています。
*
(1)神の国の福音は、聖霊を受けてこそ世界に証しされ伝えられることです。
なぜ、イエス様は弟子たちに「父の約束を待ちなさい」と言われたのでしょうか。
もう25年も前になりますが、大宮教会と韓国のソウルにある忘憂(マンウ)教会と3年間相互訪問の交流をしました。その時、韓国の信徒たちの熱い祈りや積極的な伝道活動の様子に驚き、そこの主任牧師の李聖實(イ ソンシル)牧師に聞きました。「どうして韓国の教会の信徒たちは、こんなに熱心に喜んで伝道活動ができるのですか」と。すると李牧師はこう答えられました。「日本の信徒の皆様は、実に聖書をよく学び、聖書の知識を沢山持っています。ですが、それを生活の中に生かし現わし得ないのです。そのためには、聖霊を受けて心が熱くならなければなりません。聖霊様が御言葉を生活の中に生かしてくださるのです。」そこで私は、「どうしたら聖霊を受けることができるのでしょうか」と聞きました。そしたら、李牧師は、答えられました。「聖霊は、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた信徒たち皆に既に注がれているのです。その聖霊様のご臨在を信じ、聖霊様がいつも働いて下さっていることを信じることです。」
私は、ハッとしました。私自身が、どれだけ聖霊のご臨在を身近に感じて生活してきただろうかと深く反省させられました。また、李牧師は、聖霊のことを「聖霊様」「聖霊様」と親しく呼んでおられることにも心にいたく感じました。
聖書の神様は、父・子・聖霊としての三位一体の神様です。教団の多くの信徒たちは「神様」「イエス様」とお呼びしているのに聖霊だけは「聖霊」と呼んでいることに気づきました。
私は、帰国してから、大宮教会の皆さんに、聖霊は、三位一体の神様ですから、「聖霊なる神様」、または「聖霊様」と呼んで、イエス様に対するように聖霊を身近に感じるようにしましょうと呼びかけて来ました。それが具体的になったのが、聖霊様の導きの下に、毎日、聖書日課を通して神様や主イエス様の御言葉を聞くと言う、ディボーションなのです。
聖霊なる神様は、イエス様が天に上られた後、御自分に変わっての弁護者・助け主として父なる神様が送られた方なのです。私たちは、その聖霊様の助けなくしては、神の国の福音を証し、伝えることはできないのです。信仰生活において聖霊様の御臨在と御助けを第一に思わなければなりません。このために、ペンテコステの聖霊降臨の出来事が必要だったのです。
(2)復活のイエス様の昇天の意味
イエス様が死人の中から復活されたという出来事は、イエス様はもはや地上の肉の体ではなく、天的に栄化された霊の体を持っておられ、永遠の命の世界に属しておられることを意味しています。
昇天とは、ただ空間的にイエス様が天の上空に上げられて行くということではなく、正にキリストの勝利そのものの現われであり、神様の救いのご計画の完成を表わすものなのです。イザヤ書66章1~2節の御言葉の預言が実現し完成したのです。
そのことをイエス様が分かりやすく言われているところがあります。
「ヨハネによる福音書」14章1~4節です。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
イエス様は、私たちが父なる神様のところにイエス様と共に永遠に生きるために、場所を用意するために天に昇られたのです。
「ヨハネによる福音書」は、もう一つ、復活のイエス様が昇天される意味を語っています。
ヨハネによる福音書14章16~17節
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」
ヨハネによる福音書16章7節
「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
このように、イエス様が天に昇られたのは、私たちのために聖霊様を弁護者・助け主として送った下さるためだったのです。
以上のように、イエス様の昇天の意味は、私たちのために永遠の命に生きる場所を準備するためでした。また、イエス様が召天されたから、別の弁護者としての聖霊様が送られてきて永遠に一緒にいて下さるようになったのです。
*
父なる神様、共に礼拝を献げることのできることを心より感謝いたします。新型コロナウイルスのパンデミックは、私たちの在り方をレントゲンするものだとの言葉に考えさせられる中にも、実は、あなたは、私たちのすべてをいつもお見通しであることの自覚が薄かったことを思い深くお詫びします。
今日はイエス様の昇天の意味を、御言葉を通して教えられ、確認させられました。聖霊なる神様の助けを受けることなくしては、私たちは神の国の福音を証し伝えることができないことを改めて認識しました。既に、聖霊様が私たちの内に宿り、いつも一緒にいて下さることを豊かに味わうことのできる1週間とさせてください。イエス様が昇天して、神様の家に私たちの場所を用意して下さっていることを喜び、地上の生活をあなたの御国の福音のために献げることができるように聖霊様の助けをお与え下さい。
父なる神様、新型コロナウイルスから私たちを守って下さい。また、病んでいる方々を癒してください。この病気のために愛する者を亡くした多くの人々をお慰めください。今なお、治療の最前線に働いておられる医療関係者を守り支えて下さい。神様、地上の私たちを憐れみ、新型コロナウイルスの感染を1日も早く終息させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
**
礼拝をライブ中継し、家庭礼拝として守った8回の主日、イースター礼拝からペンテコステ礼拝までの記録をまとめています。
教会のあゆみの中で特記すべき事態であったと思います。再開された通常の礼拝が、今後途絶えることのないよう祈りつつ…。
在 主
※本庄教会では、6月7日(日)から会堂に集まっての礼拝を再開いたしました。
***
2020年5月3日礼拝より
説教者:疋田勝子 牧師
聖書箇所:イザヤ書40章9-11節、
ヨハネによる福音書21章15-19節
今日、講壇の花は、アマリリスの花です。皆さんが教会で礼拝を献げておられた頃、まだ茎の芽を出し始めて10㎝程にしかなっていなかったのですが、こんなに伸びて、真っ赤な花を咲かせるようになったので、皆さんに見ていただきたくて、いつもの活花に代えてここに飾りました。
*
人間の心が本当に癒されるとは、どういうことなのでしょうか。
私たちの体が病気になれば、目に見える形で、血液のデーターに出たり、レントゲンの検査の写真に出たり、心電図に現れたりします。しかし、心の傷は、はっきりと目で見える形で現れてはきません。この苦しみは、本人でないと中々分かりませんし、また、この苦しみがあると中々先に進めません。
5月1日の朝日新聞に、ニューヨークの医師の自殺が記されていました。この方は緊急救命室の責任者として、新型コロナウイルスの治療の第一戦で全てを出し切り、疲れ果ててしまいました。PTSDと言われる
心的外傷でストレス障害と重度のうつ病になりました。また、本人もコロナウイルスに感染したそうです。49歳の女性医師であります。チェロをたしなみ、長距離走や、スノーボードが好きで、毎週教会に通う熱心なクリスチャンでした。高齢者施設でボランティアもしていました。
しかし、この女性医師は疲れ果てて、心的障害を受け、自殺してしまったのです。今、コロナウイルスによる被害は、多くの人々の心にいろいろな形で悩み苦しみを負わせています。
*
さて、これとは違いますが、今朝、与えられている御言葉によりますと、ペトロの心は重かったのです。
主イエスさまが裁判を受けている時に、ペトロはイエスさまのことを、3回も「そんな人は知らない」(マルコ14:71)と否んでしまったのは、ついこの間のことであります。激しく泣いたその涙は、まだ乾き切っていなく、心の傷は重くのしかかっていたと思われます。
主イエスさまのために「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても」(マルコ14:31)と死を覚悟で誓ったペトロでありました。主イエスさまは、既にペトロの心を察しておられたと思われます。
今朝の個所は、そういうペトロの傷がどのように癒され、そして主の働き人に変えられていくのか、その過程を記したところであります。
まず、イエスさまが弟子たちの知らない所で、彼らのために炭火をおこして、魚を焼き、パンも準備し、そして「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言って、弟子たちの空腹を満腹にさせた、その後の出来事でありました。
*
主イエスさまは、ペトロに近づき個人的に語り掛け始められました。
まず第1回の問いかけがあります。
:15)「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
まず、ここで、イエスさまは、ヨハネの子シモン! と呼びかけられたのです。何故、ここで、ペトロ! とは言われなかったのでしょうか。それは、ペトロとは「岩」という意味でありますが、そのように呼ばれるのに、ふさわしい人物になっていなかったからです。
それで、イエスさまが、かつて「あなたはペトロ」と言って下さり、また、ペトロに対してもすごい約束をして下さっていました。だからこそ、イエスさまは、ペトロに対して「この人たち以上にわたしを愛しているか」とも問われるのは無理もないことであります。
その個所は、マタイによる福音書16:15~19にあります。
:15)イエスが言われた。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
:16)シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
:17)すると、イエスはお答えになった。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
:18)わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
:19)わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐこと(罪を裁く)は、天上でもつながれる。あなたが地上で解くこと(罪を赦す)は、天上でも解かれる。」
以上、イエスさまは、ペトロにこんな重大なことまで、語っておられたのです。
また、ペトロ自身も最後の晩餐の後で、「主のために命も捨てます」とまで誓ったのです。だからこそ、イエスさまは、ペトロに個人的に「この人たち以上に、わたしを愛しているか」と、そこに一緒にいた弟子たち以上に御自身を愛しているかと問われたのです。この言葉は、第1回目だけです。
ペトロは、過去において、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」(マルコ14:29)と言ったことがあるのです。しかし、ペトロは、鶏が二度鳴く前に、三度、イエスさまを知らないと否んでしまい、主が十字架につけられた時に逃げてしまったのです。このペトロの思い上がりに対応する問いかけでもあるのです。
本来ならば、イエスさまの「この人たち以上に」の一言に対して、あの主を否んだ傷が痛み出し、「主よ、本当に申しわけありませんでした。自分は本当に弱い者で、あの時、恐ろしさの余り、ついイエスさまのことを知らないと言ってしまいました。申しわけありませんでした」と悔い改めの言葉でも出てくれば良いのではないかと思いますが、そうではありませんでした。彼は、次のように答えています。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。
さて、イエスさまを愛しているとは、具体的に一体どういうことなのでしょうか。
私たちも「愛する天のお父さま」と言ってお祈りしています。本当に神さまを愛しているのでしょうか。
愛するとは、具体的に何を意味しているのでしょうか。
イエスさまが、ペトロに求めた、「わたしを愛しているか」と問われた、この愛することの具体的内容は、「主に従う」と言うことなのです。それは、19節の最後の言葉でも分かります。:
このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
第2回目の問いであります。
:16)二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
ここで、第1回目と違うのは、第2回目にはイエスさまの問いかけに「この人たち以上に」はついていないことです。
また、ペトロの答えは、1回目も、2回目も同じであります。しかし、イエスさまの言葉は違っています。
1回目は、「わたしの小羊を飼いなさい」でしたが、2回目は、「わたしの羊の世話をしなさい」に変わっています。
3回目は、クライマックスになります。
:17)三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。
「悲しくなった」と記されていますが、これがとても大事なのです。初めて、ペトロの感情に響いたように考えられます。
2回目までは、ペトロは平然と答えていたように見受けられます。ペトロの3回目の返事は、
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
そこで、イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
3度目になると、かなり内容が変わって来ました。主イエスさまの問いかけの「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」は同じなのですが、ペトロの様子が変わって来たのです。以前、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスさまが言われた言葉を思い出して、激しく泣いたのです(マルコ14:72)。
ここで、ペトロ自身、イエスさまから三回同じ言葉で「わたしを愛しているか」と問われて、やっと気づかされていったのです。「三度」とは、忘れもしない、イエスさまを三度「知らない」と否んだ出来事に関係していたのです。
このペトロの悲しみをよみがえらせることによって、主は、癒そうとしておられるのです。
ここで、1回目、2回目には感じなかったことが、3回目に及んで、初めてペトロは悲しみを覚えたのであります。主に対して否むと言う罪を、そのまま、オブラートに包むままで、果たして、これから主の弟子として立てるのでしょうか。
確かに、鶏が鳴いた後で、ペトロはイエスさまの言葉を思い出して、自分の罪に泣いたことがありました。イエスさまは、そのペトロの否みの罪を数え上げて、責めるようなことをせず、「わたしを愛するか」の問いかけの中で、気づかせ、癒されたのではないでしょうか。
これは、少々痛いかも知れないけれど、その傷に触れて癒されたのです。この方法は、ある心療内科の医師は、これこそ「魂のリハビリ」だと言いました。例えば、足を骨折した時に、手術後、何カ月間かギブスをつけ、骨がしっかりくっついてから、リハビリをして歩けるように訓練して回復にもっていきます。そのためには、少々痛いリハビリも受けなければなりません。私たちの魂の回復のためにも、魂のリハビリが必要なのです。
ボンヘッファーの著書に『交わりの生活』と言う本があります。そこに「告白」について記されています。私たちが、もし何かの罪を犯したり、悩みがあったなら、それを信仰を共にする兄弟に告白することによって、その荷が軽くなることが記されています。それを聞いた人は、その荷物を受け取ったのですから、そのことについて共に祈り、また祈り続けていくということです。もし、兄弟に告白しなかったら、その人の心に、いつまでも、その悩みが残っているということです。
この荷を負い合うのが交わりの生活であると言うわけであります。
交わりとは、楽しく話し合うばかりではなく、兄弟の荷を負い合うことの重要さを語っているのです。
以上、主イエスさまは、今、ペトロに、あの出来事を3度にわたって思い起こさせ、3度目にやっと悲しみがこみ上げて来て、やっと癒されていった様子を見ることができました。ここを通過しない限り、スッキリした気持ちで、重要な「羊を飼う」牧会の業にたずさわることができないのではないでしょうか。
*
ペテロは、イエス様から3回言われました。
1回目、「わたしの小羊を飼いなさい」。
2回目、「わたしの羊の世話をしなさい」。
3回目、「わたしの羊を飼いなさい」。
ここでは、羊とは、イエス・キリストを信じる人のことを言っているのです。実際の羊は、羊飼いに全く依存していて、方向音痴とも言われています。
聖書の中に、迷子になった1匹の羊の話が出て来ます。羊は、羊飼いによって、餌の草場や水辺に導かれるように、全く羊飼いに依存しています。そこで、イエスさまは、御自身のことを
「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と言っています。
そして、イエスさまは「わたしの羊を飼いなさい」と言われて、羊飼いの大事な任務をペトロに委ねられたのです。
ここで大事なことは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われている羊とは、私たち信仰者のことで、信仰者は、ペトロの羊ではなく、「わたしの羊」と言われて「イエスさまの羊である」ということです。ここが最も大事な点です。教会とは、イエスさまをキリストと信じる群れのことですから、教会は主イエスさまのものであるのです。
その務めをペトロは委ねられたのです。ペトロは、過去の罪を赦されただけでなく、信徒を羊のように育てお世話をする職を委ねられたのです。
考えてみると、この世では、ペトロのような失敗をしてしまうと、もはや受け入れてもらえなくなり、「あなたはもう必要ない」と言われるのがこの世の在り方です。
しかし、イエスさまは違います。失敗があっても「あなたは必要です」と言って、どこまでも手放さないのです。今朝の聖書の個所は、そういうところなのです。このことが分かると、人間は生きていくために一番必要なことは、「あなたは必要な人」と言われることです。逆に、「あなたは必要でない」と言われることこそ、夢も希望もなくなり、生きていけません。この言葉で自殺まで実行する人が多いのです。
イエスさまは、どこまでも「あなたは必要な人」であると言って下さる方です。たとえ、体が全く動かない病気であっても、どんな人でも、その人の存在そのものを必要である、大切な存在であることを、今日のペトロを通して教えられました。
ましてやペトロは、最初にイエスさまより、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と約束された人です。どんなに失敗をしようが何があろうが、イエスさまによって言われたことは、消えることがないのです。
ペトロのみならず、伝道者はもちろんのことですが、バプテスマを受けている人は皆イエスさまの弟子ですから、信仰者皆にも、「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われているのです。このことに感謝して、この主の御業を実践していきましょう。
具体的に、羊飼いは羊の様子を見て、食欲があるかないか、元気であるかないかと世話をします。
そのように、私たちは兄弟姉妹として互いに、御言葉の分かち合いをして励まし合い、祈り合いながら、礼拝を休みがちな方はどうしたのかな、一人暮らしの方の生活はどうかなどと、心配し、支え合って神の家族を目指していきましょう。
また、イエスさまが、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。」(ヨハネ10:16)と言われました。私たちは、そのことも委ねられているのです。みんなで思いを一つにして祈りながら励んでいきましょう。
*
主なる御神さま、ありがとうございます。私たちはイエスさまの弟子です。本当に、どんなことがあっても「あなたが必要です」と声をかけて下さいます。
聖なる神さま、今、世の中はコロナウイルスで大変な叫びを上げています。私たちを憐れんでください。あなたの弟子として、あなたの御言葉をたずさえて、この世の皆さんをイエスさまの御許にお連れする務めを果たすことができるようにお導き下さい。
コロナウイルスが1日も早く終息するように助けて下さい。病んでいるお一人お一人に癒しの御手がありますように。また、医療従事者の皆さんに感謝します。そのお働きと健康を守り、お支え下さい。
本庄教会に連なる皆さんの上に御癒しとお導きを下さるようにお願い致します。
主イエスさまの御名によって祈ります。
アーメン。
**
緊急事態宣言の延長に伴い、5月も引き続き、礼拝をライブ中継に切り換え、家庭礼拝として守っています※。一日も早い終息を心より祈ります。くれぐれもご自愛くださいますように。
在 主
※本庄教会では、6月7日(日)から会堂に集まっての礼拝を再開いたしました。
***
新型コロナウイルスの影響により、4月第2主日から、礼拝をライブ中継に切り換え、家庭礼拝として守っています。終息を心より祈ります。くれぐれもご自愛くださいますように。
在 主
***
2020年4月19日
礼拝より
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:イザヤ書42章5-9節、
ヨハネによる福音書20章19-29節
主のご復活おめでとうございます!4月12日には、イースター復活主日礼拝を、インターネット中継を通じて、また一部の方は電話中継で共に礼拝をお献げしました。また、國磨呂牧師の説教原稿を郵送し、その原稿を通じて共に御言葉の恵みに与ったという方もおられると思います。新型コロナの蔓延の影響で、礼拝の献げ方についても変更が必要になったりと、忍耐が求められています。共に目に見える形では集えないこと、これは本当に寂しいことでありますし、大きな制約を感じるかもしれません。
しかしこの時も、主がこの礼拝と交わりの中に聖霊なる神様の助けによって、ご臨在くださることを信じ、私たちは本日の復活節の主日礼拝を共にお捧げしています。そして死から復活され、私たち人間の罪に打ち勝たれたイエス様の御言葉に共に聞き、私たちの信仰が弱まるのではなく、むしろ共に復活の主に顔をむけて、共に祈りを合わせ、賛美の歌を合わせる時に、復活の主の永遠の命の希望に共に結ばれて、私たちの信仰が新たにされ、私たち教会として新年度の歩みに押し出されて行きたいと願っています。
4年目から、一人一人が「キリストの体」としてどう生かされ、連なり、主体的に神様の御業に用いられるのか、お互いの歩みを主にあって受け止め合うことができるようにと願っています。その意味で「伝道協議会」を重ねて、皆で話し合って皆でできることを進める歩みをしたいと願います。
*
本日読まれたヨハネによる福音書の20章の箇所では、復活されたイエス様が、弟子たちの集まっている所に、2回に亘って、姿を現してくださいました。週の初めの日の夕方とありますが、週の初めとは、安息日である土曜日の次の日ですから、今日の私たちにとっては日曜日ということになります。日曜日の夜に1回目、ところが弟子のトマスはその場所にいなかったと24節にあります。そこでイエス様は十字架の死から三日目に甦られた最初の復活日から8日目、つまり最初のイースターを1日目として1週間後に、弟子たちと一緒にいたトマスと出会ってくださったのです。本日も復活節第二主日、イースターから1週間後ですから、まさに今の時期に、トマスは復活の主に会ったのです。
今日は説教題として「見ないで信じる人は、幸いである」とトマスとイエス様との再会の箇所を掲げましたが、まずはトマスよりも先に復活の主に再会した弟子たちの様子を見てゆきたいと思います。
*
さて、弟子たちが1回目にイエス様にあった時も、2回目にイエス様に会った時も、彼らは集っていた家の戸に鍵を掛けていました。私たちは、危険や恐怖を感じている時に、戸に鍵を掛けると思います。以前の日本では、ご近所との付き合いの中で、信頼関係が築けていたら、あえて戸に鍵はかけなかったという話も聞きます。これに対して、今日の聖書の箇所では、危険な存在を締め出すために、戸に鍵を掛けていたということが分かります。彼らは何を恐れていたのでしょうか。
イエス様の十字架の出来事を振り返ってみると、そこにはイエス様を「十字架につけろ!」と処刑所へと追いやった群衆の姿があります。これを扇動した当時の祭司長、ファリサイ派といった宗教指導者たちにより、自分たちも十字架刑に処せられるのではないかという恐怖があったのです。実際に、ペトロはイエス様が逮捕され連れていかれる中で、その後を恐る恐るついて行き、大祭司の中庭でイエス様が裁かれる様子をそっとのぞいている時に、イエス様の仲間だとの指摘を受けると、呪いの言葉を口にしてまでも、イエス様を知らないと、三度も関わりを否定したのです。
さて、ここで深く思わされるのは、この弟子たちが単に悪意を持った人間、つまり“人”を恐れていたのかということです。確かに、「ユダヤ人を恐れて」(9節)とは、祭司長たちのことです。しかし、ペトロもそうですが、弟子たちはみな、イエス様を裏切り、イエス様を見捨ててしまっていたのです。そのイエス様が復活されたことは、彼らにとって何を意味するのでしょうか。〝イエス様は私をどう思っていらっしゃるのだろうか。イエス様を見捨ててしまった罪人である私は、神様の前でどうなってしまうのだろうか。〟と言ったように、人間だけではなくて、神様への畏れもあったのではないかと思うのです。なぜなら、今回のイエス様の登場に先立って、イエス様のご復活後の目撃証言があったのです。
先週のイースター礼拝では、疋田國磨呂牧師の説教によって、マグダラのマリアが復活のイエス様に出会うという喜びの出来事を共に聞きました。ヨハネによる福音書でも同様に、イエス様が墓場で、マグダラのマリアに出会って下さったことが語り伝えられています。また、空っぽの墓を見たマリアから連絡を受けた、弟子のペトロと、イエス様の愛弟子と呼ばれているヨハネも既にイエス様の墓が空っぽになっていたことを目撃していたのです。時は既にイエス様の復活日の夕方になっていましたから、マグダラのマリアから、またペトロとヨハネからも、イエス様の復活について話を聞かされていたはずなのです。
特にマリアは「わたしは主を見ました」と、明確に証言しているのです。何度聞かされても信じられない、意味が分からないということはあると思います。特に、主のご復活については、私たち人間の知恵や論理では到底つかめない話です。しかし、それ以上に弟子たちは、今は復活され生きておられるイエス様ではなくて、十字架で処刑されて死んでしまったイエス様への負い目を感じて、罪の意識の中で苦しんでいたのではないでしょうか。これはまさに、罪を負って苦しんでいる、罪人である人間の姿なのです。
*
その罪の“暗闇”と言ってよいほどの悩みと悲しみの中に、イエス様は突如として復活されたお姿を現してくださいました。扉に鍵が掛けられていたにもかかわらず、その扉を通り抜けて、彼らの真ん中に立ってくださったのです。
ルカ福音書では、この通り抜けたということについて、亡霊を見ているのではと弟子たちが驚いた様子が伝えられていますが、その時も、イエス様はご自身の手や足をお見せになって、「まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ24:39)とお伝えになっています。ここでは、どのようにイエス様が家にお入りになったのかよりも、むしろイエス様が弟子たちにお語りになった言葉に注目したいと思います。
「あなたがたに平和があるように」(20:19)とイエス様は開口一番におっしゃいました。イエス様と弟子たちが当時アラム語でお話しになっていたことを考えると、「シャラーム(平和)」とアラム語で言ったのかもしれません。ここでは、神様の平和が「あなたがたに…あるように」とイエス様がはっきりとお伝えになっています。さらに、ここに続くトマスとイエス様の再開の場所を含めると、三回も、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに繰り返しお語りになっているのです。
*
イエス様は十字架で釘打たれた手と、槍で刺された脇腹とを弟子たちにお見せになりました。このことは、後にトマスが「指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と発言することに繋がります。
ただ、ここで私たちには、一つのことが示されます。それは、イエス様が、十字架の傷跡を残したまま復活されたということです。もし、傷跡も十字架に掛けられた形跡もなくなっていれば、十字架の出来事は、弟子たちの記憶の中からは忘れ去られてしまったかもしれません。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざがありますが、そうならないように、つまり、十字架で苦しまれたイエス様の御苦しみが、私たち人間の罪が赦されるためだったことを心に刻むためであったのです。
十字架の恵みを、復活された主に出会う時にも忘れることがないようにと、ここにイエス様の十字架の傷跡が示されているのです。そして、復活されたイエス様が、主なる神様の平和を告げながら、手と脇腹の傷を示されたことによって、弟子たちは初めて分かったのです。あのイエス様の十字架とは、私たちの罪の現実を示しながらも、私たちを死へと裁くためではなくて、私たちの罪を赦し、私たちを生かして下さる神様の愛の真実を知るためだったのです。イエス様の十字架の死は、永遠の命を与えて下さる神様への道を示して、私たちに救いの恵みを与えるためであったのです。
*
また、今日の箇所では、イエス様が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と聖霊をお与えになっています。使徒言行録では、聖霊降臨は、イースターからさらに50日目の五旬祭(ペンテコステ)で起こった出来事として証言されています。しかし、主の復活を伝えたヨハネ福音書では、あえて、ここでイエス様が弟子たちの集まり、つまり教会に聖霊をお与えになったことを強調しているのです。また併せて、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される…」と罪の赦しの力を、教会にお委ねになっています。
「あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という後半もここにありますが、しかしながらこの「聖霊」と「罪の赦し」を教会に与えたというのは、教会を形成してゆく弟子たち自身がまず主イエス・キリストの復活に出会い、そしてイエス様の御体の十字架の傷を通じて、十字架の恵みに結び合わされて、罪を赦された者として立つことが教会の基礎とされているのです。パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(第一コリント12:3)と言っているように、聖霊の助けによって、主の十字架と復活による救いの出来事が、教会の語り伝えるべき唯一の福音(良い知らせ)とされ、私たちはこの世へと遣わされているのです。
イエス様ご自身も既に、弟子たちに、神の子であるご自身が天の父なる神様から与えられていた役割について、お語りになっていました。
「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネによる福音書6:39)
*
さて、今日の新約聖書の箇所の後半部分には、“疑い深い”として有名なトマスが登場します。「わたしたちは主を見た」という証言を信じないで、「指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったことに対し、イエス様より「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたことにより、“疑い深いトマス”と称されるようになったのだと思います。しかし、トマスだけが、特段に不信仰であると、イエス様から叱られていると取る必要はありません。この箇所をよく見てみると、復活日にイエス様に出会った弟子たちは、再び家にこもって扉には鍵が掛けられていたのです。やはり当時の宗教指導者たちに怯えていたのでしょうか。それとも、イエス様が「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃった言葉にまだ応える時ではなかったのでしょうか。
しかし、ここに再び、復活された主イエスが、彼らの集いの中央に立ってくださいます。「あなたがたに平和があるように」と三度目におっしゃいました。まだ、恐れている彼らを受け入れ、彼らが罪を赦されて、主の平安の中にあることを再び示されたのです。そして、イエス様は、他の弟子たちと同様、トマスを責め立てることもなく、彼の求めを受け入れてご自身の十字架の傷に触れさせるのでした。その時に、「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」と彼を信仰へと導くのです。すると、トマスは信仰の告白によってイエス様に応答しました。
「わたしの主、わたしの神よ」(28節)
トマスは、一度は疑いましたが、イエス様に出会って、イエス様の十字架の恵みを知り、イエス様を救い主として受け入れたのです。イエス・キリストへの信仰によって、新しい命、永遠の命が与えられ、救いに入れられたのです。復活されたイエス様との出会いを1週間先取りした弟子たちの口にも、まだこのようなはっきりとした信仰の告白はありませんでした。しかし、彼らも主の復活を喜んだのです。救い主を喜び祝う教会である弟子たちの群れの中で、トマスは信仰へと至り、罪を赦され、永遠の命の恵みを頂くこととなったのです。主の十字架と復活を、私たちの罪の赦しと神様の平安の中にあるという救いの恵みを喜ぶという信仰の群れの中で、トマスは主に出会って、信じる者へと変えられたのです。
*
「信じる者になりなさい」という招きは、今も教会を通じて生きて働いてくださっている主イエス・キリストによって、私たちに語り掛けられ、さらには教会で共に礼拝を献げておられる兄弟姉妹の皆様の歩みを通じて、すべての人に語り掛けられています。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」との主の言葉はトマスと共に、現代を生きる私たちにも語り掛けられています。トマスは、復活から1週間後にイエス様に出会いましたが、私たちは、主が復活されてから約2000年以上も後になって、主に出会ったのです。しかも、実際に肉眼で見たり、主の肉声を聞いたりした訳ではありませんが、聖霊なる神様の助けによって、しかもイエス様によって救われた教会の群れのキリスト者の数々の証言によって紡がれた信仰が、私たちを復活の主へと導いたのです。
ヨハネによる福音書では、イエス様が十字架へと向かわれる前、天の父なる神様にこのように祈っておられました。イエス様は弟子たちを「彼ら」と呼んでこのように祈られたのです。
「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。…わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネによる福音書17:19~21、23)
イエス様の弟子たちも、また弟子たちの言葉を信じて後に続く私たちも、神様からの同じ一つの愛、主の十字架と復活の愛へと招かれています。主の愛によって、罪を赦され、聖霊の助けによって、主を信じる教会の群れとして建て上げられています。そのような私たちの言葉を通じて、私たちの歩みを通じて、トマスのように、信じるようにと招かれているこの世の人々がいます。イエス様が十字架と復活の愛によって招かれている全ての人々が信仰へと至り、罪を赦されて、神様と共に生きる群れ、教会へと加えられ、そして永遠の命が与えられますように、祈り求めて行きたいと願います。
本日は読みませんでしたが、私たちの信じるべき言葉、そして教会としての使命が、20章の終わり31節にもはっきりと示されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」
*
天の父なる神様、
新型肺炎の蔓延する中に、インターネット中継や電話中継で共に礼拝をお献げできることを感謝します。
鍵を掛けて隠れていた弟子たちの姿は、罪を負って苦しむ私たちの姿であることを示されました。しかし、そんな弟子たちにも「平和があるように」と三度も祝福して下さり、十字架の手と脇腹の傷を残されたまま復活されたことにより、十字架の痛みは罪の赦しの証であったことを知りました。
私たちも同じように神様からの御配慮をいただいていることを心から感謝いたします。イエス様の傷に触ってみなければ信じないと言ったトマスに会ってくださり、責めることなく、「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」と信仰へと導いて下さったように、信仰の弱い私たちをもお導き下さい。トマスのように永遠の命の約束を信じ、「わたしの主よ、わたしの神よ」と信仰告白をしつつ歩めますように聖霊の助けをお与え下さい。
新型肺炎の蔓延する中に病んでいる多くの方々を癒やし、愛する者を失った人々を慰めて下さい。すべての人々を守り、1日も早く終焉するように憐れんでください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
**