本庄教会月報第7号をお届けします。
次号は、「130周年記念礼拝・感謝の集い」を特集します。
説教は、本庄教会出身牧師である、日本基督教団京都教会牧師 入 治彦先生が10月21日(日)の130周年記念礼拝でご奉仕くださったメッセージを掲載します。
在 主
***
*
**
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
次号は、「130周年記念礼拝・感謝の集い」を特集します。
説教は、本庄教会出身牧師である、日本基督教団京都教会牧師 入 治彦先生が10月21日(日)の130周年記念礼拝でご奉仕くださったメッセージを掲載します。
在 主
***
*
**
*講壇のお花(#31)*
2018年10月28日聖書
ルカによる福音書21章33節が掲載されていました。
*講壇のお花(#30)*
2018年10月21日聖書
詩編96編1-3節が掲載されていました。
説教者:入 治彦 牧師*
*本庄教会設立130周年を記念して本庄教会ご出身の入治彦先生をお招きし説教をして頂きました。感謝いたします。
*講壇のお花(#29)*
2018年10月14日聖書
マタイによる福音書10章7-8節が掲載されていました。
*講壇のお花(#28)*
2018年10月7日聖書
ルカによる福音書12章32節が掲載されていました。
説教者:疋田國磨呂牧師
*
**
ヨナ書講解を再開しました。
9月は、「恵老の日」礼拝を守りました。
本庄教会では、2007年9月16日より「恵老」という言葉を用いています。「高齢化」の中にある教会が、「老い」を「神の恵み」と受け止め、主にある希望を分かち合う礼拝でありたいとの願いを込め、2006年度の臨時教会総会で決議されました。
在 主
***
*
**
2018年9月9日(日)礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:詩編119章105節、
テモテへの手紙二3章10~17節
*
*
先週の説教で、〝聖書は神様からの愛の手紙、ラブレターだ〟と言いましたら、そのことがとても心に響いたという方がおられました。
50年ほど前でしょうか、日本で行われた世界日曜学校大会で、あるアフリカの青年が話した証です。アメリカで恵まれた生活をするようになった青年は、アフリカのお母さんに折々、感謝の手紙と共にお金を入れて送りました。字の読めないお母さんは息子からの手紙を喜んで、封も開けないままその手紙を宝物のようにして保管しました。お母さんは、手紙を読まなくても息子から手紙をもらったということで十分満足していました。やがてお母さんが天に召されました。帰国した息子は、箱一杯に保管されていた手紙の封が開けられていないことを知りました。息子は、お母さんに送ったお金を使って幸せになってもらいたかったのですが、お母さんは封を切らなかったのでお金が入っていることに気づかなかったのです。
聖書は、神様からのラブレターです。その聖書を手にすること自体大変幸せなことです。しかし、ラブレターは開いて読んでみないと、神様の愛はどのようなものかわかりません。ラブレターを開いて読んでみてこそ、神様がわたしたち一人一人に語っておられる愛の御言葉は分かるし、神様の愛を味わうことができるのです。
昨年、9月の1日研修会で、聖書日課を用いて、毎日、聖書を開いて、神様からの御言葉を聞くディボーションの方法を学んで1年が経ちました。暫くして、ある姉妹は「先生、私は今まで日曜日にしか聖書を開きませんでした。毎日、聖書を開いて御言葉を聞けることは、とてもうれしいですね。」と告白してくださいました。
一般的に、聖書は、日曜日の礼拝に来て開き、説教を聞くというのが普通です。日曜日以外に聖書を開くのは、聖書研究の担当を与えられたり、集会で何か奨励の役割が与えられたりした時で、それ以外にほとんど聖書を開かないでも済むのです。
ところが、ディボーションは、神様からの愛の御言葉を聞くことですから、毎日、神様の御言葉を聞くために聖書を開くのです。聖書を開かなければ、神様からのラブレター、愛の御言葉を聞くことができないのです。
イエス様は言っておられます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と。私たちキリスト者は、神様の口から出る一つ一つの愛の御言葉によって喜びと感謝の生活ができるのです。だから、毎日、聖書を開くのです。
*
皆さんは、聖書は誰が書いたものだと思っておられるでしょうか・・・・・?
旧約聖書には、イザヤ書、エレミヤ書というように、イザヤやエレミヤという預言者たちの名前がついていますから、預言者イザヤやエレミヤたちが書いたと言われます。また詩編には、ダビデの詩とも書かれていますから、ダビデが書いたともいわれます。
新約聖書には、マタイによる福音書、マルコによる福音書、など、弟子の名前が付されていることから、マタイやマルコという弟子が書いたと言われます。
ところで、今日のテモテⅡの3章16節に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」とあります。これはどういう意味なのでしょうか。
日本基督教団信仰告白で「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。」と告白しています。
「神の霊感によりて成り」との告白は、テモテⅡの3章16節の「神の霊の導きの下に書かれ」ということなのです。「神の霊」とは聖霊のことです。聖書はすべて聖霊の導きの下に書かれたということです。
旧約聖書は、紀元前1400年ほど前からの事が書かれ、新約聖書は、紀元後100年ほどまでの期間に書かれたと言われています。合わせると約1500年間の事が書かれています。その意味で、聖書は、そんなに古い書物ではありません。エジプトやメソポタミヤでは紀元前3000年前以上の文書が出て来ています。
しかし、聖書の持つ驚きは、1500年の間に書かれた文書ですが、創世記からヨハネ黙示録まで、造り主である神様の存在と主旨が一貫していることです。
例えば、今日、日本は江戸時代から明治時代になってから150年余り経っています。150年前の言葉も、服装も、交通機関なども、大きな変化があります。まして、1500年を経ると文化や文明に大きな変化があります。しかし、その間に書かれた聖書の主旨は一貫して変わっていないのです。
それは、その時代その時代の人々が、神の霊・聖霊の導きによって〝神様がこう語られました〟ということを記したからであります。このことを「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」と告白し、テモテの手紙は「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」と言っているのです。
要するに、聖書の著者は「神の霊・聖霊」だということです。聖霊の導きの下に多くの人々が神の御言葉を書き記したのが旧新約聖書です。私たちが正典とする聖書は、旧約聖書は39巻、新約聖書は27巻、合計66巻です。これは九九の、三九、二七と覚えれば良いのです。
*
聖書の著者は聖霊で、それぞれの時代の人々が聖霊の導きの下に聞いた神様の御言葉を書き記したのが聖書なのです。それゆえ、聖書から神様の御言葉を聞く者は、聖霊の導きを頂いてこそ、初めて神様からの語り掛けを聞くことができるのです。
だから日本基督教団信仰告白に「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」と告白するのです。
今まで何回も礼拝で伝えましたように、洗礼を受けた私たちは、その時から聖霊が私たちの中に宿ってくださっているのです。
パウロは言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿っている神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19~20)
私たちの中に宿っておられる聖霊のお導きを信じて、聖書を開き、神様からの愛の御言葉を聞くのです。神様の愛の御言葉は、詩編に言われるように「わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」ともなるのです。
午後からの研修会で、お互いに御言葉に聞き、その聞いた御言葉からの恵みを分かち合う時を持ちますが、そこには、聖霊が私たちに働いて下さって、それぞれに恵みを感じ取らせて下さるのです。
ここで言う「恵み」というのは、聖書から神様の御言葉を各自が聞いて感じたことなのです。自分の心に残った御言葉を大事にしながら、その御言葉は自分にとって何を意味するのか、神様は何を教えようとしているのかを思いめぐらすのです。そして、示され思ったことを誰かに聞いてもらうのです。
私たちは思ったことを一人でそのままにしておくと、すぐに消えてしまいます。しかし、他の誰かと話して聞いてもらうと、その思ったことが消えないで残り、さらには具体的になっていくのです。お互いに聖書を読んで示され、感じたこと、思ったことを、お互いに率直に話し合うと、お互いに励まされ、相手の話を通して自分の恵みも更に深められるのです。
このことは、毎主日の礼拝の後でも同じことです。その日、聞いた御言葉に感動したり、深く指摘されたりすることがあったら、礼拝後の交わりの時間の時、互いに他の兄弟姉妹に聞いてもらい、分かち合うとその日の恵みがさらに豊かにされます。
礼拝後、ある姉妹は、あいさつすると、「先生、今日の説教を通してこんなことを教えられ大変恵まれました」と一言おっしゃって下さるのです。お互いに兄弟姉妹同士で、是非、礼拝で聞いたことを分かち合って下さることをお勧めします。そんな交わりの中に、道を求める方がおられるとどんなにか教えられ、励まされ、恵まれることでしょう。
パウロは、今のトルコの国にあったアンティオキア、イコニオン、リストラの伝道旅行で迫害や困難に遭いましたが、キリストを信じて耐え抜くことができました。そして12節から15節で言っています。
「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。 ・・・・だがあなたがたは、自分で学んで確信したことから離れてはなりません。・・この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」と。
そして16節から17節で結んでいます。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」
これがディボーションを通して与えられるものです。
「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」
日々、御言葉に聞いて、歩む者は、神様のどんな御業にも応えて仕えることができるように整えられるのです。神様の御業に仕えることは、決して特別大きいことではありません。日常の中の人間関係の中で求められてゆきます。イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい」と言われています。人間関係の中で、キリストの愛を思い起こしつつ、人と接することができれば、それが神様の善い業なのです。神様からのラブレターに日々聞く者は、その愛を分かち合うことができるようになるのです。
*
毎朝、マリーゴールドの丘までウォーキングをするのですが、示されたことがあります。丘は本庄早稲田駅のそばにありますから陸橋から新幹線が走るのが見えます。先日、どうしてこんなに力強く早く走ることができるのだろうかと見ていました。すると新幹線の上にあるパンタグラフが架線に触れながら走っているのです。架線に通っている電気は見えませんが、新幹線はパンタグラフを通して電気をもらいながら力強く早く走ることができるのです。
私たち信仰者も力強く歩むのには新幹線のように神様の愛をいただけなければなりません。架線に当たるのが聖書です。聖書には目には見えないが神様の愛のみ言葉が豊かに満たされています。パンタグラフはキリストを信じる信仰です。パンタグラフが架線に触れて走ることは、信仰によって聖書を開いて御言葉に聞く、ディボーションではないでしょうか。日々、ディボーションによって神様の愛の御言葉を聞くことによって私たちは力強く、喜びと感謝の歩みができるのではないでしょうか。
パンタグラフが付いていても、架線に触れないと新幹線は走ることができません。同じように信仰があっても、聖書に触れないと神様の愛の御言葉と力をいただくことができません。信仰を持って聖書を開いてディボーションをすることこそが、神様の愛と力をいただく基ではないでしょうか。
*
天の父なる神様、今日、こうして礼拝に集められ、共に神様をほめたたえ、御言葉に聞くことのできたことを感謝いたします。
今日は、礼拝後、教会一日研修会があり、ディボーションについて学び、分かち合おうとしています。聖書はすべて聖霊の導きの下で人々が書き記した、神様の御言葉であることを学びました。
どうか、私たちも聖霊の導きを頂いて神様からの愛の語り掛けの、御言葉を聞くことができるようにお導き下さい。神様から愛され、救われている恵みを、喜びと感謝を持って歩む一週間としてください。
病める者、重荷を負う兄弟姉妹の上にあなたの癒しと平安をお与え下さい。道を求める方々の上に、あなたの特別なお導きをお与え下さい。主イエスの聖名によって祈ります。
アーメン。
*
*講壇のお花(#27)*
2018年9月30日聖書
ルカによる福音書18章41~42節が掲載されていました。
*講壇のお花(#26)*
2018年9月23日聖書
ルカによる福音書4章3~4節が掲載されていました。
*講壇のお花(#25)*
2018年9月16日聖書
ヨハネによる福音書16章25節後半-27節,33節が掲載されていました。
*講壇のお花(#24)*
2018年9月9日聖書
テモテへの手紙二3章16-17節が掲載されていました。
説教者:疋田國磨呂牧師
*講壇のお花(#23)*
2018年9月2日聖書
ルカによる福音書7章7節後半,9-10節が掲載されていました。
*
**
8月は受洗者が与えられたので、紙面を変更して「洗礼を受けて」を掲載しました。
「ヨナ書講解」は、次月より継続します。
在 主
***
*
**
2018年8月5日(日)礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:ヨシュア記1章5~9節、
エフェソの信徒への手紙6章10~20節
*
*
昨年9月3日から「エフェソの信徒への手紙」から御言葉に聞いて来ました。
最初は、1章3節~14節から「神からの三重の恵み」と題して説教しました。
1つは、父なる神様は、天地創造の前から私たちを愛し、キリストを通して選ばれたことです。
2つは、御子なる神様であるキリストは、私たちのために御自身の血によって贖われ、罪を赦され、私たちが神様の秘められた計画を知らされ、あずかる者とされたことです。秘められた計画とは、救いの業が完成され、天と地の全てのものが頭であるキリストのもとに一つにされることです。御国の完成です。
3つは、聖霊なる神様は、キリストを信ずる私たちが御国を受け継ぐことの保証です。
この父、子、聖霊としての三位一体の神様から三重の恵みを頂いている私たち信仰者が、「神の栄光をたたえる」ことが礼拝なのです。
私は熱心な日蓮宗の家に育ちました。しかし、母が40歳の時に生まれた子供で、自分は本当に親に愛されて生まれたのだろうか。妊娠したから仕方なく生まれたのではないかと疑問になり思い悩み、自殺さえ考えるに至りました。そうした時に、ルーテルアワーの放送で、キリスト教の話を聞き、羽咋教会に導かれました。
私の悩みを良く聞いて下さった杉山牧師に、「疋田さんは、神様に祝福されたから生まれたのです。」と言われて、驚きました。私がそれまで信じて来た神仏様は、人を呪い、たたり、罰を与え、地獄に落とす方として教えられて来たからです。人間を祝福してくださる神様を知りたくて、教会に通い、18歳の時、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けました。以来56年間、キリストを信じて神様に従ってきました。
今改めて思うことは、神様が人間を祝福してくださるとは、神様は天地の造られる前から私を愛し、御計画のもとで選んで私を誕生させてくださったと言うことです。そして地獄にではなく、天の御国に入る者として保証して下さっていると言うことです。
今朝、この礼拝の中で洗礼を受けられた藤宮栄子姉妹も、この神様の三重の恵みを頂いているのです。本庄教会に来られるようになったのは、昨年のクリスマスからですが、神様の御計画は、栄子姉妹が生まれる前からあったのです。栄子姉妹は、神様から愛され、神様に選ばれる者として今日までの歩みが導かれていたのです。
御一緒に、この恵みをまだ知らない人々に分かち合って行きたいと願います。
「エフェソの信徒への手紙」の4章からは、信仰者の実際の在り方が勧められています。
これらの関係は、神様とイエス様の愛による光が注がれる時、祝福され、豊かな実を結ぶことができるのです。
パウロは、「最後に言う」といって、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなれなさい。」と勧めているのです。その理由は、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」なるためです。
今朝、私たちは藤宮栄子姉妹が洗礼を受けたことで、神様の御導きを感謝しつつ大いに喜んでいます。礼拝が終わってから藤宮姉妹の受洗をお祝いする会を持とうとしています。
しかし、このことを喜ばない者がいるのです。それは「悪魔」なのです。サタンとも言います。私たちの持っている新共同訳聖書の一番後ろに、用語解説が載っています。
「悪魔」は、「中傷する者」の意味で、人間を誘惑して神に反逆させる者。サタンとかベリアルとかいう名前でも呼ばれ、「この世の神」という別称でも呼ばれます。
悪魔は、人間を誘惑して神様に反逆させるものですから、藤宮姉妹がキリストを信じて神様のもの、神様の子供になったことを一番嬉しくないのです。
洗礼を受けた感激は、しばらくすると覚めてきます。すると、悪魔は、「洗礼を受けたって、ちっとも変わらないではないか」「お前は、それでもクリスチャンなのか」と私たちの弱さを突いて、惑わしてきます。
しかし、たじろがないでください。弱い私たちを助けるためにイエス様は〝助け主としての聖霊〟を送って下さったのです。この聖霊はずっと永遠に信じる者と一緒にいてくださると約束されています。(ヨハネ福音書14・16)
聖書日課は、7月半ばからヨシュア記を読んで御言葉に聞いて来ました。主なる神様はヨシュアに言っています。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。・・・この律法をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。・・・わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたはどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア記1:5~6)
この神様がヨシュアに約束された「どこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と言うことは、インマヌエルの主イエス様を信じる者にも与えられる約束です。イエス様は助け主としての聖霊を私たちに送ってくださっているので、うろたえたり、おののいたりしなくてもよいのです。
しかしながら、悪魔は,いろいろな策略を用いて、私たちを神様から引き離そうとするのです。その意味で、藤宮姉妹は、今一番、悪魔の攻撃を受けやすいので、皆さんで藤宮姉妹の歩みが神様の愛に留まり続けられるようにお祈り頂きたいと願います。
私たちは、何か悪いことが起きると、それをもたらした人、相手をののしったり、批判したりして戦おうとします。
しかし、パウロは、信仰者たちに「わたしたちの戦いは、血肉(=人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする者なのです。」と言うのです。要するに、私たち信仰者が戦う相手は、人ではなく、その人を支配して悪いことを行わせたり、神様から引き離そうとする悪魔であると言うことです。信仰者が戦う相手は、人の言葉や行動の背後にある悪魔との戦いであって、人ではないと言うことです。〝人を憎まず、罪を憎む〟と言われていることです。
そこで、パウロは、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」また、「邪悪な日によく抵抗して、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と「神の武具を身に着けなさい」と繰り返し勧めています。
神の武具とは、次のように言われています。
これらの「帯」「胸当て」「履物」「盾」「兜」「剣」は、既にキリスト・イエス様を信ずる者に与えられているのです。「霊の剣」、聖霊がいつも共にいて働いてくださる「神の御言葉を取る」ことこそが、悪魔の策略に打ち勝つ一番の戦い方なのです。
皆さんは、聖書日課カードを用いていますか。聖書日課カードは、毎日、神の御言葉を聞くことによって、霊の剣、神の言葉を取ることなのです。
8月3日の聖書日課は、ルカ福音書8章16~39節でした。ゲラサの地方で、悪霊に取り付かれた男が長い間、衣服も身に着けず、墓場を住まいとしていました。生きていながら、死人が葬られる墓場を住まいとすることは、何と惨めな可哀そうなことでしょう。正に生きた屍(しかばね)です。イエス様が、汚れた霊に男から出るように命じられました。汚れた霊どもは、ローマ兵の5千人部隊名のレギオンと呼ばれ、それほどの力を振るっていたのです。汚れた霊は、イエス様に命じられて男から出て行き、二千匹ほどの豚の群れに入り、狂った豚は湖の中になだれ込んで、溺れ死んでしまったのです。男は、服を着、正気になってイエス様の足もとに座っていたのです。
神の子・イエス様の御言葉は、このように悪魔や汚れた霊(悪霊)を追い出す力があり、それは私たちの日常の生活の中にも、聖霊と共に力をもって働くのであります。
私たちは、自分の力、人間の力だけでは、悪魔や汚れた霊と戦って勝つことができないのです。自分の弱さを知った者こそが、神様の御言葉に本当に依り頼むことができるのです。
神の御言葉を取って、御言葉に聞くことができる時、「どんな時にも、〝霊〟に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続ける」ことができるのです。
まず、全ての信徒のために信仰が守られるように祈るのです。
聖書日課で御言葉に聞いて祈る時、自分のためにだけでなく、本庄教会の兄弟姉妹のためにも根気よくお祈り頂きたいと願います。これが神の家族、兄弟姉妹なのです。
次にパウロは、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、私のために祈ってください。」と言っています。
説教者が、会衆の心に届く言葉を用い、福音の神秘を大胆に示すことができるように祈ることを勧めています。本庄教会の疋田牧師、義也牧師、勝子牧師が福音の神秘を、適切な言葉を用い、大胆に語ることができるようにお祈りをお願いします。
〝礼拝の説教は、語る者と聞く者の共同作業である〟と言われます。礼拝の中で、語る者が大胆に福音の御言葉を語ることができるように、聞く者は福音の御言葉を各自の心に受け入れることができるようにと聖霊のお働きを祈るのです。
悪魔はいろいろな策略を用いて、私たちの弱さや欠点を突いて、私たちを神様から引き離そうとします。それ故に、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と勧められるのです。
自分の弱さを覚える時こそ、主に依り頼むのです。そして神の武具、とりわけ霊の剣、神の御言葉を取る時に、神様の力を覚え、神様に委ねることができるのです。それが神様に委ねることのできる者の強さなのです。キリスト者の強さは、自分の弱さを知って、神様に委ねることのできる強さであります。そして兄弟姉妹のため、牧師のために、目を覚まして絶えず、根気よく祈ることが大切なのです。どんな時でも、互いに祈られて信仰が守られているという喜びを共に実感できる神の家族、本庄教会の群れを現わして行きましょう。
天の父なる神様、私たちは、大変なことや嫌なことがあると、それと関わった相手が悪いのだと批判したり、嫌ったりして、他人のせいにしてしまいます。しかし、わたしたち信仰者の戦いは、血肉である人間を相手にするのではなく、その人の背後にいて支配している悪魔を相手とするものであることを確認しました。信仰者が悪魔と戦うには「神の武具を身に着けなさい」と勧められています。聖霊なる神様、どうか、行き詰まったり、弱さを覚える時にこそ、主イエス様に依り頼み、神様の力をいただいて強くなるようにお導きください。主の御名によって祈ります。
アーメン。
*講壇のお花(#22)*
2018年8月26日聖書
エフェソの信徒への手紙6章23-24節が掲載されていました。
*講壇のお花(#21)*
2018年8月19日聖書
マタイによる福音書9章13節が掲載されていました。
*講壇のお花(#20)*
2018年8月12日聖書
マタイによる福音書14章17-19節が掲載されていました。
*講壇のお花(#19)*
2018年8月5日聖書
エフェソの信徒への手紙6章10-12節が掲載されていました。
説教者:疋田國磨呂牧師
*
**
昨年度3月25日に続いて、第2回の高校生・青年会(役員会主催)を開催しました!
台風の接近に伴い不安定な天候で、時折強い雨が降る中でしたが、高校生2人、青年2人(内大学生1人)牧師先生3人、教会から5人、計12人が参加しました。
会場を玄関ホールとして、テーブルと長椅子を出し、スロープ側の枕木のテラスにバーベキューコンロを設置しました。
教会の正面の扉と受付の背後の扉をすべて開け放ち、快く吹き抜ける風を感じながら持ち寄った食材を炭火で網焼きにし、食事をしながら語り合いました。
17時から開始し、片付けが終わって解散した19時30分まで、楽しく交流し充実したひと時を過ごすことができました!
来年もぜひ行いたいと考えていますので、どうぞ奮ってご参加ください!
***
*
**
本庄教会月報第4号をお届けします。
猛暑が続き体調管理が難しい毎日です。
くれぐれもご自愛ください。
在 主
***
*
**