「クリスマス、喜びの躍動」
2018年12月23日(日)
主日クリスマス礼拝説教より
疋田義也 牧師
聖書:詩編103編17~22節
ルカによる福音書2章8-21節
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本庄市見福にあるプロテスタント教会です
2018年12月23日(日)
主日クリスマス礼拝説教より
疋田義也 牧師
聖書:詩編103編17~22節
ルカによる福音書2章8-21節
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クランツのロウソクの4本すべてに火がともり、クリスマス・イエス様の誕生をお祝いする礼拝の日となりました。皆様、イエス様のお誕生、おめでとうございます!
この時期、町では綺麗な電飾がほどこされ、自宅でもクリスマスライトを飾って楽しんでいる様子が見受けられます。クリスマスというと、華やかな電飾やクリスマスツリー、サンタクロース、クリスマスプレゼントと陽気な気持ち、楽しさというのが、世間一般的なクリスマスの印象だと思います。
クリスマスの「メリー・クリスマス!」と、今では定着しているクリスマスの挨拶も、「メリー」というのは英語で「愉快な!陽気な!」といった意味ですから、そのようなフェスティブなお祭りのような楽しさという、今日のクリスマスの気持ちに近いのかもしれません。
しかし、その反面、「実はクリスマスが苦手」という人も結構いるみたいです。そのような意見の中には、このクリスマスの中の「お祭り騒ぎがどうも…」という方も多いかもしれません。そもそも、なぜクリスマスが嬉しいのか、なぜクリスマスが楽しいのか。なぜ、クリスマスを祝うのでしょうか。私は、そのようなお祭り騒ぎについてゆけない、自分の気持ちをそのような陽気な感じまでに高められない。むしろ、そのような方に今日の聖書の言葉は語り掛けていると思います。
また、既にクリスマスを楽しんでいる方で、この胸が高まる期待感、そのワクワクした気持ちというのはどこから来ているのか。なんでクリスマスは嬉しいのだろうか。その起源を知ることにこそ、私たちの「本当の喜び」があり、「そこに、生きる喜び」があります。そのように私たちに語り掛けられている聖書の言葉を聞いてゆきたいと思います。
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今日、ここに集まって下さった本庄教会の皆様、また初めての方も、イエス様のお誕生がどうして、それほどにまで大きな喜びの出来事だったのか共に見てゆきたいと思います。
さて、私たちはどのような時に一番喜ぶのでしょうか。特に西洋では、クリスマスにはプレゼント交換を行ったりする習わしがあります。プレゼント交換といっても、パーティーのレクリエーションやゲームのように、誰に何が当たるか分からないと言ったやり方よりも、この人の為にこれをと、とっておきのプレゼントをお互いに用意するのです。これはプレゼント交換とは言わないかもしれませんが、まさか何かプレゼントをもらえると、思ってもいなかった人にプレゼンが贈られたりすることもあります。
クリスマスにはサンタクロースの文化が普及して、クリスマスのプレゼントと言うと、「私はこれが欲しいです」と子供たちがサンタさん、或いはお父さんお母さんにお願いすることも多いと思います。でも、サンタクロースの起源をたどっていくと、現在のトルコのミラの聖ニコラスという司教が貧しく家族を身売りする寸前であった家族に銀貨を投げ入れて助けたということがサンタさんの始まりなのです。何を言いたいのかと申しますと、本当に嬉しいのは、思いがけない、思いも想像すらもしなかった物をもらったり、思いがけない人物からプレゼントをもらったりすることなのです。
今日お読みした聖書に出てくる荒野の羊飼いたちは、まさにこの驚きのプレゼントを受け取った人たちだったのです。
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さて、ルカ福音書には夜の暗闇に包まれた野原で、夜の番をしていた羊飼いの様子が語られています。「夜通し羊の群れの番をする」というのは、羊に牧草を食べさせるために、羊と一緒に旅をしなければならなかったようです。そして、夜には石で囲って作った檻(おり)のようなところに羊を入れて、そしてその入り口に枝木で簡易的に作った小屋に泊まるのでした。或いは、旅先では羊と羊飼いたちが夜を過ごすために、洞窟を見つけて利用したようです。
なぜ夜通しの見張りの番が必要であったかというと、夜行性のオオカミなどの野獣や、羊を奪おうとやってくる盗人がいたということです。50から200頭ぐらいの羊の群れを一つの群れとして数人で羊の世話をしていました。ですから、羊飼いの仕事というのは、大地を駆け巡るのどかな印象がありながらも、代わる替わるに見張り役を担う人の責任の大きさ、そして、何か野獣や盗賊などを察知した時の見張り役の緊張感は物凄かったのではないでしょうか。
その様な中での出来事です。急にパッとあたり一面が眩く白い光で包まれたのでした。「主の栄光があたりを照らした」という「主の栄光」というのは「光」と書くように、まぶしい光なのです。イザヤ書では、神様から注がれる光というのは、真っ暗闇を一瞬にして真昼のように照らし出す光だと言われています。普段、外敵が来れば羊の杖で対峙しなければならなかった羊飼いたちは、休んでいた羊飼いも飛び起きて、恐れおののいて、地面に伏したと思います。「何事が起ったのだろうか!」
そこには、少なくとも、何か良い事であったり、ワクワクするといった期待感はありませんでした。むしろ、聖書にあるとおり、そこには「非常な恐れ」がありました。実は、遠い昔のイザヤのような預言者たちは、神様の光で照らされるということを、嬉しいこととしてだけではなくて、いいことも悪いことも、白日(はくじつ)のもとに晒されて、全てが明らかになる、そのような出来事としても伝えています。
ですから、もしその預言者たちの言葉を知っていたとしたら、神様の光に照らされるというのは、単に光に驚いただけではなくて、神様の遣わされた天使が目の前にいる緊張感、もしかしたら裁きを下されるのか、という不安さえも感じていたと思います。しかし、神様のもとから来た天使は、初めに、こう伝えたのです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」
本来、恐れというのは、喜ぶというのとは対照的な、全く反対の心の動きではないでしょうか。もし、天使に恐れおののき、全ての出来事が恐れと緊張の中にあり続けたのであれば「大きな喜び」というのは、絵に描いた餅のように、形だけになってしまいます。
実はここで言われている「喜び」という言葉は、聖書がもともと記された言語であるギリシャ語では“カラ”となっています。ある韓国歌手グループはこの「喜び」という言葉にちなんでKARA(カラ)という名前で音楽活動をしていたりもします。この“カラ”という言葉と、神様の恵み(ギリシャ語で“カリス”)という言葉とは実は切っても切り離せない、繋がりがあります。同じ語源なのです。つまり、神様の「恵み」、“カリス”、は私たちに、本当の意味での「喜び」、“カラ”、を与えて下さるのです。神様の恵みを知る時に、神様が与えて下さる、決して“過ぎ去ってしまわない”喜びが与えられるのです。
そして、そこに神様からのお恵みがあり、神様に私たちの存在を受け止めて頂けた時に、私たちは初めて「神様が与えて下さる喜びとは何だろうか」ということに思いが及んでいくのではないでしょうか。私たちの「恐れ」というものを、喜びに変えて下さるお方がおられるのです。
「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」
ダビデの町に、あなたがたのために主メシア(救い主)が御生まれになった。これは「あなたを救うお方がそこにいます!」と天使が告げているのです。「恐れ」を「喜びに」変えて下さるお方が今まさに、ベツレヘムにお生まれになった。その知らせが、まず初めに、野原にいた羊飼に届けられたのです。
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これも神様の不思議な計らいです。もし、天使がこの知らせを、いち早く多くの人に知らしめたいと動いたならば、当時、人々が多く集まっていたはずのエルサレムや、ベツレヘムなどの町の人に知らせたはずです。当時、ローマ帝国が住民登録(つまり人口調査)を行っていたので、その報告をするために都に上ってきた人々で溢れていました。もし、その町のただ中にいた人に告げれば、労苦もなく、いち早くその知らせは広まったと思われます。もしそうならば、都から少し距離を置いた所の野原で過ごしていた羊飼いたちには、その知らせは入らず、彼らはこのクリスマスの出来事からは省かれてしまっていたことでしょう。
また、その知らせがエルサレムの宮廷に早々に入っていたとしても、この出来事を喜ぶのではなくてイエス・キリストの命を狙う人々もそこにはいたのです。ヘロデ王もその一人でした。イエス様がユダヤの新しい王となるべき存在だという話を聞いていて、自分の立場の危機を感じていたからです。
数々の神様の配慮と計らいの中で、クリスマスの出来事から一番遠い存在となっていたかもしれない、蚊帳の外におかれていたかもしれない羊飼いたちが、喜びの知らせを運び届ける、このクリスマスの出来事の中核の部分を担う役割を与えられたのです。では羊飼いたちは、羊はどうしたのだろうか、石の囲いに羊たちを残していったのだろうか、或いは子どもたちがこの時期にクリスマスの出来事を演じる聖誕劇の中では、羊飼いたちは羊を連れてそのままベツレヘムへと入っていきます。もしそうだとしたら、その場所は騒然としていたかもしれません。50頭以上もの羊が群れを成して町に入っていく、その様子は異様にも映ったかもしれません。でも、それもお構いなしでイエス様を探し出したのです。
イエス様を探し出すこと、ここにも神様の深い配慮がありました。天使は羊飼いたちに、ひとつの「しるし」、〝このマークを頼りにしてください〟というイエス様だとわかる特徴が伝えられていたのでした。それは「布にくるまって、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであう」というものです。
もしかすると、私たちは「飼い葉桶」つまり「餌箱」に布に包まれて藁と一緒に寝かされたイエス様のお姿を、当然そのようなものだとして、クリスマスのカードや人形で見慣れてしまっているかもしれません。しかし、よく考えてみると、生まれたばかりの赤ちゃんを家畜の餌箱の中に置くというのは不衛生ですし、しかも、餌箱ということは、家畜小屋の中にイエス様はいらっしゃるということです。民全体、また全世界の救い主としてこられたメシア・イエス様には似つかわしくない、そのような状況の中に置かれていたのです。でも、だからこそ、羊飼いたちは、その場所に入ってくることが出来たのです。今日読まれた聖書の箇所から少しだけさかのぼりますが、月が満ちてイエス様が誕生された時の様子が2章の前半に伝えられています。そこでは、宿屋にはイエス様やマリアたちの泊まる場所がなく、飼い葉桶に寝かされることになった次第が、伝えられています。
もし、宿屋に空きがあって、部屋を取ることができたのだとしたら、その宿屋の部屋まで羊飼いたちが、立ち入って確認することができなかったかもしれません。迷惑です、と立ち入りを断られてしまっていたかもしれません。誰でも訪ねてくることが出来る場所に、イエス様はお生まれになって下さったのです。
それも、大勢の人がひしめき合う中で、その中で生まれた赤ちゃんを探し出すのは大変であったかもしれません。しかし、羊飼いたちの中には彼らを突き動かす喜びがありました。その様子は、天の大軍の賛美の後に「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さった出来事を見ようではないか」と奮い立ったことから見て取れます。
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さて、彼らがベツレヘムへと向かった、その直前に天の大軍の賛美がありました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」前半部分は「栄光、神にあれ」とこの出来事を通じて、天におられる神様が礼拝され賛美されるようにと、そして後半部分は、この地上に神様の平和が、「御心に適う人に」とあります。
私は、いつも、この箇所を読む時に、「御心に適う人」というのはどういう人だろうかと思うのです。「正しい人」或いは、「地には平和」とありますから、地上で平和をもたらす人が「神様の思いに適った(御心に適った人)」なのだろうかなどと思いめぐらすのです。聖書を読んで行くと、神の子であるイエス様に対して、天の父とも呼ばれる神様は、この子こそ私の「御心に適う」と言われています。御(おん)と言う字は、聖書の中では「神様のもの」と言う意味で“み”と発音して言われますから、「御心」というのは「神様の心」という意味です。神様の子であるイエス様は「神様の心」に適うというのは、なるほど、その通りだと思います。
しかし、実は、この「御心に適う人」というのは少し言い換えると、「喜んで受け入れる」と言う意味になります。この天使の歌の中では「神様が喜んで受け入れる人」という意味になりますが、今日この羊飼いの出来事の中で、羊飼いたちは確かにこの「神様が喜んで受け入れてくださっている一人一人である」ということが明らかにされているのです。
神様の光に包まれた時、恐れおののき、神様に裁かれるのではと恐れた彼らでした。羊飼いたちは、神殿の祭司たちや律法(聖書)の学者たちのように、神様の掟をしっかりと守った生活を送ることは困難でした。そこで、彼らは人の不完全さ、そして人の破れ、弱さ、儚さというものを身をもって体験していた人たちであったのではないかと思います。
しかし、神様はその彼らを喜んで受け入れ、そしてこのクリスマスの核心部分を担うものとして下さいました。神の子・救い主としてお生まれになって下さったイエス様がベツレヘムに、家畜小屋の中に、しかも羊飼いたちの目の前にいるのです。これこそ、神様が彼らを喜んで受け入れて下さったことのしるしです。
天国の神様への感謝の賛美が満ち溢れるように、神様はなんとご自身の大切な神の子であるイエス様を地上に送り出されたのでした。イエス様がこの地上にお生まれになった、このクリスマスの時、私たちには神様に罪を赦され、神様に喜んで受け入れて頂ける道が開かれたことを知ります。そこにこそ、救いに至る喜びがあります。私たちの日々の生活が、悲しみと恐れで終わるのではなくて、神様のもとへと、救いへと繋がっている、またクリスマスには、まだ「乳飲み子」とよばれていたイエス様がこれから十字架という救いを成し遂げて下さいますが、それに先立って既に、この時に救いの希望として、私たちをその恵みで包み、喜びで満たしてくださるのです。
飼い葉おけに寝かされた幼子イエスを見て、羊飼いたちはその様子をベツレヘムの人々に伝えました。聞いた者たちは不思議に思ったとありますが、羊飼いたちは確かに、その喜びの知らせを手渡す役割を与えられたのです。喜びの知らせは羊飼いたちの間だけに留まらず、彼らの心を動かし、そして彼らの喜びはその周りの人々へと伝わっていきます。「不思議と思った」とありますので、全ての人が耳をかしたのではなかったのでしょう。しかし、彼らは共に喜び、そして最後には神様への賛美・礼拝へと至ったのです。
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私たちはクリスマスの出来事に遭遇するとき、私たちがその救い主の誕生の知らせを「受け入れるか・断るか」選ぶ側にたっていると思うかもしれません。しかし、それ以前に神様の方から、私たちに扉は開かれているのです。
新約聖書の第一ペテロの手紙1章5~6節にはこうあります。
「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あながたがたは、心から喜んでいるのです。」
私たちはそれぞれに弱さもあり、また課題もあるかもしれません。しかし、今日の詩編103編が伝えているように、「主の語られる声を聞き、御言葉(神の言葉)を成し遂げるものよ、力ある勇士たちよ」とあるように、私たちの力は人間の力に掛かっているのではありません。今日の天使たちを通じて、羊飼いに知らされ、私たちにも知らされている言葉のように、神様の言葉に耳を傾けるとき、神様は既に私たちを弱いものから、神様の目において強く雄々しい勇士へと造り変えられているのです。羊飼いたちがまさにその勇士となったのでした。神様の恵みを聞き、そしてこのクリスマス、羊飼いたちのように、私たちもそれぞれの道をイエス様への信頼によって力強く歩ませて頂きたいと思います。
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最初は救い主(メシア)からは縁遠いとされていた羊飼いたちに、馬小屋で生まれたばかりの赤ちゃんイエス様を間近に見て、礼拝する特等席が与えられました。同じように、神様は私たちに対して、イエス様のすぐ近くに特等席を用意していてくださいます。クリスマスにお生まれになったイエス・キリストの恵みを感じて感謝し、祈るこの礼拝がイエス様の一番近くの特等席です。
教会にはいつも、イエス様の傍に、あなたのための席があるのです。「あなたたちのためのしるしである」と天使が伝えたイエス様の存在が羊飼いたちを包み、希望と平安で満たし、彼らに生きる力を与えたように、私たちがこのイエス様誕生のしるしを受け取る時には、私たちにも揺るぐことのない、希望と平安が満たされるのです。なぜなら、イエス様が一緒というのは、神様もその場を見守り導いて下さっているということだからです。
神様が救いの道を開き整えて下さっています。そして、私たちを喜んで受け入れ、迎え入れて下さいます。そこに既に、救いの恵みと喜びが既に始まっているのです。神様の守りと導きの中に私たちは生かされ、包まれている。私たちの恐れを喜びへと変えて下さる救い主が誕生した。このことに感謝し、このクリスマス、イエス様の誕生の喜びを共に分かち合いたいと思います。
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天の父なる神様、あなたはクリスマスに大切な御子イエス・キリストを私たちにお与えになって下さいました。あなたは私たち一人一人をよく知っていて下さり、そして私たちにイエス様に一番近いところに私たちの居場所を用意して下さいました。
私たちには、それぞれ異なった状況や課題を抱えており、また弱さも抱えています。喜ぶときもあれば、悲しむこともあります。その一つ一つをあなたは見守って居て下さり、そして必要を満たし、いつも寄り添って助けて下さいます。どうぞこのクリスマスから始まる一年、神様がいつも共に居てくださる。この希望と平安の中を歩ませてください。
主の御名によってお祈りいたします。
アーメン
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