月報『マラナタ』32号 巻頭言

説教:
めぐみとしてのえいえんいのち
2020年11月1日
えいみんしゃねんれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょそうせい2しょう7せつ
ヨハネのしんへのがみ3しょう16-17せつ

國磨呂牧師講壇

1、永眠者記念礼拝

今日は、永眠者記念礼拝として、本庄教会関係者の天に召された方々を想起して礼拝を献げます。神様の御言葉を通して慰めと励ましをいただき、御遺族皆様の上に神様の祝福とお導きを共にお祈りいたしたいと願います。

昨年の永眠者記念礼拝後、F.T.さん、S.N.さん、S.A.さんの3人が、「本庄教会 逝去者・納骨者名簿」にお名前が加えられました。お別れして1年も経っておられなく、まだ寂しさの中にもおられるかと思いますが、御遺族の上に神様の御慰めをお祈りいたします。

2、宗教心

最初に「宗教心」について考えたいと思います。

日頃、〝神も仏もあるものか〟と言って生きている人がおられます。また、日本人は、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれると〝無宗教です〟と答える人が多いと言われています。

このような〝神も仏もあるものか〟〝無宗教です〟と言われる人も、重い病気になったり、何か災いが起きたりすると、「神さま、仏さま」と言って恐れ拝むのです。正月三が日の初詣で、神社や寺に何百万人という人々が詣でる数は何なのでしょうか。

日頃、〝神も仏もあるものか〟〝無宗教〟と言っているような人々にも、「人間を超越した神さま、仏さま」を恐れ拝む心があるのです。それが「宗教心」なのです。

3、「神のかたち」

聖書は、この「宗教心」をどのように記しているでしょうか。

聖書の一番始めに書かれている創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された。」と書かれています。聖書は「天地を創造」された〝創造主・造り主〟を「神」と呼ぶのです。世界は、創造主によって造られた被造物の世界なのです。世界を造られた創造主は〝唯一の神〟なのです。

創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。」と記されています。

人は誰も皆、「神のかたち」に造られ、祝福されて生まれたのです。

創世記2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。この「命の息」は「神の霊」とも言われます。

土の塵のようなもので形づくられた人が、その鼻に神の霊が吹き込まれて、神様と霊的な交流・会話ができるようになったことを「生きる者となった」と言うのです。神様は人に霊を吹き込まれたので、人は生まれながらに神様と霊的に交流ができるのです。これが「神のかたち」なのです。それが「宗教心」とも言えるのです。

キリスト教では、目に見えない神様を「天の父なる神様」と呼びかけてお祈りをします。お祈りができることこそが「神のかたち」を生きることなのです。また「宗教心」があることの証拠なのです。

4、限りある人生

詩編90編10、12節に次のように言われています。
「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」

私たちの人生は、70年、80年と限りある人生です。しかも、苦労や災いが多く、瞬く間に終わってしまうのです。詩人は、自分の生涯を正しく数えることを教えてくださいと訴えていますが、人は誰も、自分の人生を正しく数えることができません。

コヘレトの言葉3章9~14節に次のように言われています。
「人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。
わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人はだれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。
わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」

私たちの限りある人生でも、「神を畏れ敬う」ことによって、神様がすべてを時宜にかなったように造られたことが分かるのです。「すべて時宜にかなうように造り」は口語訳聖書では「神のなさることは皆その時にかなって美しい」と訳されています。

私たちには神様のなされることを始めから終わりまで見極めることはできませんが、
人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることなのです。

誰もが飲み食いし、その労苦によって満足することができるのは、神様からの賜物(=恵み)なのです。

限りある人生において、私たちが喜び楽しんで幸福であり、満足できるという神様からの「恵み」を頂けるのは、「神を畏れ敬う」心を大切にすることによるのです。

5、「神のかたち」を見失った罪人

私たち人間は、いつの間にか「神のかたち」として造られたことを見失ってしまったのです。造り主である神様との霊的交流ができなくなって、神様の御心が分からなくなってしまったのです。このような状態を、聖書は「罪」と言います。

人間は皆、神様との交流を失い、神様の御言葉に聞かなくなったので、自分の価値観を基準にし、自分中心に生きるようになってしまったのです。

ですから、神様が恵みとして下さる喜びや楽しみの幸福や満足が分からなくなり、悪いことはみんな他の人の責任にし、他の人を裁き、他の人と争い、他の人の命を奪うこともしてしまうのです。そこには最早喜びも楽しみも満足もありません。

6、クリスマスに誕生された御子イエス様と永遠の命

神様は、人間に与えられている「神のかたち」を回復して、人々が神様から与えられる恵み・幸福が分かるようにと、神の御子イエス様を地上に誕生させて下さったのです。それがクリスマスなのです。

それが、ヨハネによる福音書3章16節、17節のメッセージなのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

クリスマスの出来事は、神の御子イエス様の誕生によって、世の人々が救われるためであります。「神のかたち」に造られながら、それを見失い、神様との霊的な交流ができなくなって滅びるしかない人間が、神の独り子であるイエス様を救い主として信じて「神のかたち」を回復し、永遠の命を得るようになることです。

キリスト教会の十字架は、神の独り子である御子イエス様が、神様に背いている全ての人間の罪を背負って、身代わりとなって死んでくださった十字架なのです。

イエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ福音書23:34)と祈りつつ死なれたのです。あのイエス様の祈りと死は、自分の罪の赦しのためであったと信じる者が「神のかたち」を回復し、永遠の命を得ることができるのです。

「永遠の命」とは、地上の限られた人生を生きる時も神様の御支配の中に生き、また、やがて死によって地上を去り、神様の御許、天の国に行っても神様の御支配の中に生きることなのです。永遠の命とは、神様の御支配の中に永遠に生きることです。

今日、永眠者記念礼拝の中に覚えられる方々は、神の御子イエス様をキリストと信じて、永遠の命を得て、神様の御許に生きる、天のみ民たちなのです。

今、こうして礼拝を献げていますが、この礼拝は既に神様の御許に召されて天におられる愛する方々と、地上にある私たちとが一緒に神様をほめたたえる礼拝なのです。

毎日曜日に献げる礼拝は、天上の民と地上の民が一緒になって献げている礼拝なのです。ですから、私は、御遺族の方々に、天に召された方々とお会いしたかったら、礼拝にいらっしゃい。お会いできますよとお誘いするのです。

今日も、天上の方々は皆さんと一緒に礼拝を献げておられ、地上の私たちを見守り、礼拝を共にできることを喜んでおられることでしょう。

〈祈り〉

天の父なる神様、今朝は、永眠者記念礼拝として、この礼拝を御遺族の皆様と共に献げることのできることを感謝いたします。

私たちの人生は限りのある人生です。「神を畏れ敬う」ことによって神様が賜物としてくださる喜び、楽しむことの幸福を私たちに満たしてください。

御遺族の方々が、十字架上のイエス様の祈りを自分に対するものと信じて永遠の命を得ることができるようにお導き下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

**

**

null
null