月報『マラナタ』21号 主日礼拝

説教:
すくぬしたんじょうおおきなよろこび』

2019年12月22日
クリスマスしゅじつれいはいより

せっきょうしゃひきくに 牧師ぼくし
せいしょしょ:イザヤしょ26しょう12-13せつ
ルカによる福音書ふくいんしょ2しょう8-20せつ

19年主日クリスマス写真

1、クリスマスの実感は

 「みなさん、クリスマスおめでとうございます。」皆さんは、この「クリスマスおめでとうございます」という挨拶を、どのような実感を持って言えていますか。

 この二千年間、毎年、巡り来るクリスマスですが、私たち一人ひとりが受け止めるクリスマスの実感は、毎年違うのです。私は、本庄教会で皆様と守る3回目のクリスマスですが、一回一回のクリスマスに受け止める恵みの実感は違うのです。それは、私たちのおかれた状況、特に精神的状況に変化があるからではないでしょうか。

 ドイツの宗教詩人のシレシウスが、こう言っています。「たとえ、千たび、キリストが生まれようとも、あなたの心の中に生れなければ喜びがない。」と言っています。

 キリストの誕生の喜びは、私たちの心に関わることですから、私たちの精神的状態によってその喜びの度合いが違ってくるのではないでしょうか。

2、最初のクリスマス・羊飼いたちの喜びの実感

 今日のルカによる福音書は、最初のクリスマスの出来事でありました。この記事を通して、クリスマスの恵みとはどんなことなのかを聖書から聞いてみたいと願います。

 8節に「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」とあります。羊飼いたちは、羊の群れを野原に連れて行って、草を食べさせて羊を養うのが仕事です。今日のように家畜小屋を作り、囲いの中で餌を与えて育てるのではなく、自然放牧で野原の草を食べさせて育てるのです。ですから、野宿することが良くあり、夜には、羊を襲ってくる狼などから守らなければなりません。羊を盗みに来る人もいたようです。暗闇の中で、交代で寝ずの番をしなければ羊を守ることはできません。寒い夜など、大変につらい仕事であります。

 また、当時、ユダヤ人たちは、安息日には、仕事を休んで、神様を礼拝に行くことが大切な務めでした。しかし、羊飼いたちは、羊を中心とした生活ですから、仕事を休むことはできませんし、安息日には町に帰ることはできませんでした。野原で神様を礼拝していたと思いますが、礼拝堂に行って神様を礼拝できませんでしたから、宗教指導者たちから安息日を守らない人たちとしてさげすまれていました。
 
 ところが、9節~12節を見ると、大変な想定外のことが起こったのです。
 「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

 暗闇の中で、焚火を焚いて寝ずの番をしていた羊飼いたちに、主の栄光が照らし、民全体に与えられる大きな喜び、救い主誕生の知らせが告げられたのだから・・・・、どんなに羊飼いたちは驚いたことでしょう。 安息日を守らない者としてさげすまれている自分たちに、なぜ、民全体に与えられる救い主の誕生の知らせが告げられたのだろうかと、彼らは戸惑ったことでしょう。しかし、天使は「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。これがあなたがたへのしるしである。」と具体的に知らされたのであります。

 天使に天の大軍が加わって神様を賛美して言いました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」そして天使たちは、羊飼いたちから離れて、天に去って行きました。すると、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と話し合って、急いで行きました。羊飼いたちは迷子の羊を探すのが得意で、苦になりません。神様はその持ち味を生かして用いられたのです。どんな人にもその人なりの持ち味が神様から与えられているのです。羊飼いたちはマリアとヨセフ、飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子を探し当てたのです。その光景を見た羊飼いたちは、この幼子について天使が知らせてくれたことを人々に知らせました。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったのであります。たとえ、礼拝堂に行けなくても、神様をあがめ賛美する羊飼いたちの姿が証しされています。

 私たちは、ここから2つのメッセージを聞きたいと思います。

 1つ目は、暗闇の中で羊を守ろうとして一生懸命に生きながらも当時の社会でさげすまれていた身の羊飼いたちの、その持ち味に神様は光を当てて、誕生された救い主を探し出し、民全体に大きな喜び知らせを伝えるメッセンジャーとされたのです。

 私たちも人生において、暗闇と思われるような悲しみや苦しみの思いで歩むことがしばしばあります。そういう時に、光の恵みに照らされると戸惑いますが、暗闇と思われる歩みをしたがゆえに、その喜びが大きいのではないでしょうか。また、行き詰まりと思った時、光の恵みを受けると別の道を示されることがあるのです。また、その人の持ち味に光の恵みが当てられると、自ずと、素直に人々に光の喜びを知らせるようになるのではないでしょうか。

 クリスマスは、暗闇を歩んでいると思われる人々に、光の恵みが当てられる時であります。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」との天使の御告げを自分への知らせとして聞いてみましょう。そして、光の恵みを受けましょう。

 2つ目は、救い主メシアが、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子としてお生まれになったことは、人間として最も低く卑しい者の立場としてお生まれ下さったことです。

 今時の「飼い葉桶」は、救い主の誕生をファンタスティック(幻想的)なものとして演出していますが、実は大変不衛生な動物の餌箱です。今ならば、誰がそんな不衛生な動物の餌箱の中に、生れたばかりの乳飲み子を寝かすでしょうか。

 そんな状態の中に、救い主がお生まれになったということは、人間としてこれ以下は無いと思われるような状態に置かれた人々をも救う、救い主として、この世に来られたということです。

 人々は、いろいろな悲しみや苦しみ、困難に遭います。ほとんどの人は自分の悲しみや苦しみは一番であって、誰も分かってくれない、受け止めてくれないと思うのです。そして自ら命を絶ったり、他者を巻き込んで死んでしまったりするのです。救い主の光は、このような人々も照らしているのです。

 私自身のことを少し話します。私は18歳の時の春、自分は呪われた人間でしかない、生きる意味がないという思いに陥って、自殺を決行しようとして山に向かいました。途中でバスに乗って来た婦人が喜びに光り輝いていたのです。買い物かごを持ち、花束を持って、よく見るとお腹が大きい妊婦で、幸せそうに輝いているのです。私は〝俺は死ぬのだから関係ない〟と思って目を閉じ、やがてバスを降りて目的の山の中を登って行きました。しかし、私の脳裏から、あの婦人の輝く姿が消えないのです。とうとうプロバリンという睡眠薬を飲むことができず、山を下りて家に帰りました。そして、翌朝、何となく聞いたラジオの話は大変に心の和む話で、終わると、「今日は日曜日です。あなたの町にもキリスト教会があります。礼拝にいらっしゃいませんか」と招きの言葉があり、キリスト教の話だと知りました。2、3日後、町の教会に行ったのです。

 話を良く聞いて下さった牧師は、「疋田さん、あなたは神様に祝福されたから生まれたのです」と言われてびっくりしました。私は思わず、「ええっ、神仏様は、人間を祝福するって本当ですか。私はいつも、そんなことしたら、呪われるぞ、たたられるぞ、罰が当たるぞ、地獄へ行くぞと言われながら育ちました。神様が人間を祝福するなんて聞いたことがない。」と言いました。そしたら牧師は旧約聖書を開いて、創世記1章27、28節「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた。『生めよ。ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。』」(口語訳)と読まれ、ここに「神は彼らを祝福して言われた」とありますよと言われたのです。私は、人間を祝福する神様って、どんな神様か知りたくて教会に通いました。そして18歳のクリスマスにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、今日59回目のクリスマスを迎えます。以来、神様に祝福されて生きる人間の喜びを、人々に分かち合い伝えてきました。

 人間はすべて、神様に祝福されて、祝福の喜びの中に生きる者として造られた存在なのです。〝すべての人に与えられる大きな喜び〟とは、あなたは神様の祝福の中に生きる者として造られているという喜びなのです。クリスマスにお生まれになった救い主は、光の恵みで照らして、私たちにそのことに気づかせて下さるのです。今年のクリスマス、救い主御子の光に照らしていただきましょう。神様の祝福の中に生かされていることを喜びましょう。

3、エンゼル・トランペットの花の恵み

エンゼルストランペット 私にとって3回目の本庄教会でのクリスマスの恵みは、庭に植えられているエンゼル・トランペットの花を通しての恵みです。

 昨年、鉢植えで頂いた苗を、今春、庭の中に植えました。なかなか花が咲かないのです。ところが秋の終わりころ、花芽をつけたのです。私の携帯電話のカメラの日付によると、10月23日に一つの花が咲いたのですが、強風に当たって落ちてしまいました。11月14日に2つの花が咲きました。それが終わると11月28日に3つから4つの花が咲き続けました。それが終わると、12月19日に最後の花芽が開き始めました。本日(12月22日)は満開に咲いています。

 エンゼル・トランペットとは、天使のトランペットと言う意味でしょうか。隣の百日紅の葉が落ちて、枝も剪定されていますが、11月から12月にかけて、2つが花を咲かせ、更に4つが花を咲かせ、クリスマスには最後の花芽が満開に咲いたのです。

 この秋、エンゼル・トランペットは正に天使のトランペットとして私の心の暗闇に奏でかけてくれたのです。待降節に入って4つの花が開花して救い主イエス様の誕生を喜ぶように咲いてくれました。私は心が癒され、エンゼル・トランペットの花と一緒に救い主のイエス様のお誕生を喜ぶ心へと整えられました。この花は、私にとって正にエンゼル、天使であって、あの羊飼いたちに救い主誕生の大きな喜びを告げたように、新たに救い主の誕生を喜ぶ大きな喜びを私に与えてくれたのです。忘れられないクリスマスとなることでしょう。

 皆様の心にも、救い主イエス様の光が当てられ、喜びが増し加わるクリスマスとなるようにお祈りいたします。

祈り

 父なる神様、
 2019年のクリスマスを、本庄教会において皆様と一緒に守ることのできることを感謝いたします。
 暗闇の中に、寝ずの番をしていた羊飼いたちに天からの光と天使の喜びの知らせが告げられたように、現代を生きる私たちも救い主御子の光に照らし出されて、神様に祝福されて生かされている喜びを、新たに見出すクリスマスとなるようにお導き下さい。
 そして、迎える2020年が、喜びと感謝に満ちた年でありますように祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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