説教:
『備えられている天国の家』
2019年11月3日
永眠者記念礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:詩編23編1〜6節、
ヨハネによる福音書14章1~7節
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
2019年11月3日
永眠者記念礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:詩編23編1〜6節、
ヨハネによる福音書14章1~7節
私たちの日本キリスト教団では、11月の第1日曜日は、キリスト教会に連なって信仰の生涯を終えて、神様の御許に召された兄弟姉妹を覚えて「永眠者記念礼拝」の日としております。本庄教会も、この日を「永眠者記念礼拝」として関係のご家族たちと共々に、本庄教会に連なって生涯を終えられた兄弟姉妹の方々を覚えて礼拝をささげています。
本庄教会の逝去者名簿には、1888年9月26日に神様の御許に召された新井志ゲ子姉妹を始めとして86名の兄弟姉妹の方々が覚えられています。
1888年は、この教会が設立された年で、10月20日を設立記念日としています。2週間前に設立131周年の礼拝をささげました。131年前に、神様の御許に召された姉妹を始めとする86名の方々が、キリストによる神様の恵みによって生きて、本庄教会で神様を礼拝して来たのであります。
今、本庄教会の会堂が建てられているこの場所は、元々はキリスト教会の墓地であったのです。この教会は、本庄駅の北側、前原の地に在り、友愛幼稚園をも運営していました。しかし、経営困難から幼稚園を閉園したことと、会堂の老朽化もあり、移転新築となったのです。そのために見福の教会墓地の未使用部分を集約し、地目変更をして、ここに会堂建築となったのです。1993年、26年前のことでした。
この教会墓地に関してですが、県の歴史に、1888(明治21)年8月、本庄メソジスト教会が寺院管理墓地への埋葬に際して寺院や檀家から妨害を受けたことが記されております。そこで、当時の本庄の町長が県知事に相談し、キリスト教徒たちのために墓地を提供することになり、本庄メソジスト教会に寄付されたのです。こういうことがあって、今、この墓地は、登記上は本庄教会名義になっていますが、本庄教会の外に、本庄旭教会、カトリック本庄教会の方々が葬られる墓地となっています。
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今朝も、皆様と共に聖書の御言葉から神様の恵みを聞きたいと思います。
詩編23編は、多くの信徒の方々に愛誦されている聖書個所であります。ここでは、神様と私たち信仰者との関係を、羊飼いと羊の関係にたとえて語られています。
1節、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
「主」と言うのは神様のことです。神様は私の羊飼いなので、何も足りないものはなく、乏しいことはないということを、何も欠けることはないと言っているのです。何の心配もないということです。
2節、「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、」
羊飼いは、いつも羊たちを青草の茂っている野原に連れて行って草を食べさせ、休ませるのです。また、水のほとりに連れて行って、水を飲ませて憩わせるのです。神様は、この羊飼いのように十分な食べ物を備えて、私たちの心身を養い、憩わせてくださるお方なのです。
3節、「魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」
口語訳聖書は「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」新しい訳も、他の翻訳も、口語訳のように一つの文となっています。羊は、方向音痴と言われています。どこに青草があるか分からないので、羊飼いは羊の群れを青草のある方向に導かねばなりません。神様は、羊飼いのように私の魂を生き返らせて、神様の御心に適った道に導いて下さるのです。
4節、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
羊飼いは、いつも羊と共に一緒にいて、野獣が襲ってくると鞭を打って野獣を撃退し、進む道を誤ると杖で道を正すのです。神様は、羊飼いのように、私たちに敵が襲って来ても鞭で撃退し、私たちの歩む道が誤っていると杖で道を正してくれますから、私たちはたとえ死の危険のあるような所に行っても、災いを恐れないで歩むことができるのです。
私は7年前、腎臓癌が再発し、両方の肺にも癌が転移して、あと余命1年と宣告を受けました。癌の恐ろしさを痛感したのですが、神様を信じてすべてを神様の御手にゆだねました。教会員の多くの祈りもあって、良き医師と良き治療が与えられて、今なおこうして元気で皆様の前に生かされ、神様の御用に仕えているのです。余命1年の宣告を通して、この4節の御言葉の真実を味わうことができました。
5節、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」
羊飼いは、羊を襲う野獣のいるようなどんな中でも、餌の青草を十分に食べられるように羊たちを守り、その食べ物を整えてくれるのです。神様は、羊飼いのように、私たちの敵の前であっても、私たちの食事を整えてくださり、客を迎える主人のようにオリーブ油を注いで食卓を満たしてくださるのです。この神様が共にいて下さることを信ずることができるならば、どんな状況にあっても、食卓が整えられ、満たされるのです。
イエス様は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と言われています。
6節、「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」この6節は結論です。生きている限り、神様の恵みと慈しみは、いつも私を追うように注がれるのです。わたしは生涯、神様の御許に帰り、住み続けます。と言うことです。
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詩編23編では、「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろうと」と言われていますが、これは具体的にどのようなことでしょう。
「主の家」とは、神様の家です。神様は私たちの目には見えなく、天におられる方ですから、神様の家は天の家、天国の家なのです。その天国の家に帰って、生涯、そこにとどまるだろうと詩編では言っているのです。
私たちの世の中では、人間は死んだらすべてが終わりと考え、だから生きている間、好きなことをして生きれば良いのだと思って生きる人がいます。他方、人は死んだら地獄か天国に行くのだと考え、地獄に行かないようにと一生懸命に良い行いをしようと生きる人がいます。
聖書は、イエス・キリストを信じる者は、すべての罪が赦されて、復活して天の神様の御許におられるキリストが準備してくださった天の父の家、天国の家に行くことができると約束されています。それがヨハネによる福音書14章の1節~7節に言われていることなのです。
1~3節、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
このように、イエス様ははっきりと約束して、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われています。このイエス様の約束を信じる者は、誰でもすべての罪が赦され、イエス様の準備された天国の家に住むことができるのです。
イエス様が「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている。」と言われたら、トマスは、「主よ、どこに行かれるのか、私には分かりません。どうして、その道を知ることができるのでしょうか。」と正直に問うています。
するとイエス様は答えられました。
6~7節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
私たちの命の造り主である神様は、神様に背いて生きてきた人間が神様の天国の家に帰ることができるようにと、イエス様をクリスマスに誕生させました。イエス様の33年の生涯を通して神様の愛と神様の御心がどんなものであるかを私たち人間に示し、現わされたのです。そして、人間の罪が小羊の命を犠牲にして赦されたように(出エジプト12:5、13、レビ5:6)、神様はイエス様を十字架に犠牲の命として献げて、すべての人間の罪を赦す道を開かれたのです。
イエス様の十字架の死は、わたしの命を赦すためであったのだと信じて、イエス様を救い主キリストと信じる者は、誰でも、復活されたイエス様が準備して下さっている天国の家に入って、イエス様と一緒にいつまでも生きることができるのです。
クリスマスにお生まれになったイエス様こそ、神様を知り、天国の家に行くことのできる道なのです。永眠者記念礼拝に来られたご遺族の関係者の方々は、是非、このイエス様を信じて天国に備えられた家に行かれるようにお勧めし、神様のお導きをお祈りいたします。
このイエス様を通して神様の恵みと憐れみを味わうことのできる1週間となるようにお祈りいたします。
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天の父なる神様、
本庄教会に連なって信仰の道を歩み通し、天の国に備えられた家に帰られた兄弟姉妹を覚えて、御遺族関係者の皆様と共に永眠者記念礼拝を献げることのできることを感謝いたします。
どうか御遺族関係者の皆様が、イエス様の備えられた天国の父の家に、やがて帰ることができますようにお一人お一人を守り、導いて下さい。主イエス・キリストの御名にて祈ります。
アーメン。
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