主題:
『イエス様の教会を建て上げるために(2)』
説教:
『十字架のキリストを仰ぐ救い』
2020年7月5日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:民数記21章4-9節、
ヨハネによる福音書3章9-15節
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
説教:
『十字架のキリストを仰ぐ救い』
2020年7月5日礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:民数記21章4-9節、
ヨハネによる福音書3章9-15節
前回は、キリスト教会では、神の家族とはイエス様の建てられた教会の群れを意味するとお話ししました。その教会の群れに加えられる者は、「霊によって新たに生まれた者」なのです。
霊によって新たに生まれるとは、イエス様は自分の罪から救い出してくださるキリストと信じて、バプテスマを受けることであります。そのことを「新生」とも言います。洗礼を受けてキリスト者として歩んでいる人は皆、この新生体験をしているのです。
そこで、今日、考えたいのは、なぜ人は新しく水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできないのでしょうか。神の国とは何なのでしょうか。
私たちの周りには、「新しく生まれる」とか、「神の国に入る」とか言わなくても、結構、楽しく充実した人生を生きている人々が多いように見えます。
私たち日本人は、いろいろな宗教行事を楽しんでいます。正月には神社に初もうで、二月には節分で、その年決められた方を向いて恵方巻を食べ、三月にはお雛祭りをします。五月には端午の節句としてこいのぼりを上げ、夏、秋の神社の祭りで神輿を担ぎます。十二月にはサンタクロースのプレゼント、ケーキとクリスマスを楽しみます。子供の頃は七五三で神社に行き、青年になるとキリスト教式の結婚式、死んだら仏式の葬式などと、いろいろな宗教行事を生活の中に取り入れています。
何も霊的に生まれ変わらなくてもいいのではないかと思われる日本人が多いかとも思います。こうした日本に住む私たちに「神の国」が意味するものは何なのでしょうか。
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私たちが信じる神様は、どんなお方なのでしょうか。
「神の国」とは、聖書では〝神の支配〟を意味します。神様を信じて、神様の御支配の中に生きることが、神の国に入るということなのです。
その時に、キリスト者たちが信じる神様は、天地万物の造り主を神様とします。神様は、御自分に似せて人間を「神のかたち」として造られたのです。
「神のかたち」とは、神様に「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)と記されているように、神の息、即ち「神の霊」を吹き込まれた存在なのです。
ですから、最初に造られた人間は、神様と霊的に交流ができ、神様の御言葉に従い、神様の祝福の中に生きるように造られたのです。
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しかし、アダムとエバが、蛇の誘惑によって神のように善悪を知る者となりたいと思い、神様が食べると必ず死ぬと言われていた禁断の木の実を食べて、神様に背き、神様から離れてしまったのです。これが罪の始まり、〝原罪〟と言います。
しかしながら、神様は人間を祝福して「神のかたち」として造られたゆえに、やがて、アブラハムを選び出して命じました。
「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12:2~3)
神様は、アブラハムを選んで、〝地上の氏族のすべての祝福の源〟とされようとしたのです。やがて、アブラハムの子・イサク、イサクの子・ヤコブから生まれた12人が、イスラエル民族となったのです。
神様は、地上のすべての人々を祝福へと導くために、イスラエル民族を用いられたのです。モーセを用いて、エジプトの奴隷状態にあったイスラエル民族を救い出し、十戒を中心とする律法を与えて、全ての民族の祝福の源となることを願われたのです。
しかし、この民は、今日読んで頂いた民数記にあるように、神様とモーセに逆らって「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と不平を言うのでした。このような繰り返しの中に、荒れ野を40年さまよい、約束の地・カナンに入り、12部族に土地が与えられます。
ところが、イスラエルの民は、神様を信じるだけは物足りなくて、周囲の国々のように国を治める王を求めます。そして立てられたのが初代のサウル王、2代目のダビデ王でした。神様はダビデの子孫から世界を治める王、メシアを立てると約束されます(サムエル記下7:12~13)。
ダビデ王の後、ソロモン王が立てられ、その後、王国は北イスラエルと南ユダに分裂します。十戒の第一戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト20:3~4)と命じられているにも関わらず、周囲の国々の偶像を崇拝するようになりました。その罪が神によって裁かれて、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされてしまいました。神様が祝福の源となるようにと用いようとしたイスラエル民族も、結局は、その期待に応えることができなかったのです。
しかし、神様は憐れみ深い御方です。バビロンに捕虜として連れ去られたユダ王国の人々は、約70年後、紀元前538年、ペルシアの王キュロスによって、解放されて故国に帰還することができました。そして更に、およそ500年後に神の御子・イエス様の誕生となるのです。神様に繰り返し背いたイスラエルの歴史でしたが、造り主である神様は、全ての人間が、神の祝福のもとに造られていることを知らしめるために、イスラエル民族から神の御子・イエス様を地上にお送り下さったのです。
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神様に繰り返し背いたイスラエルの民の姿は、私たち人間一人一人の姿であるのです。そう思って、民数記の出来事をもう一度見てみたいと思います。
民たちは、神様とモーセに逆らい「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と不平を言っています。
神様は、この不平を言って逆らう民を裁くために罰として「炎の蛇」を送ったので、蛇は人々をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。
「炎の蛇」と言うのは、かまれると焼け付くような痛みと激しい毒のためにこう呼ばれているのです。また、その地方の蛇には赤い斑点があり、陽の光が当たるときらきらと輝くことからそう呼ばれたとも言われています。
民たちは、モーセのもとに来て言っています。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」
モーセは民のために主なる神様に祈りました。すると神様はモーセに言われました。
「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」と。
モーセは、命じられたとおりに、青銅で一つの蛇を形づくり、旗竿の先に掲げました。蛇にかまれた人たちが、青銅の蛇を仰ぐと命を得たのでした。
ここで、注意して理解しなければならないのは、青銅の蛇自体に救う力があるのではないのです。「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」との、神様の約束を信じて仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れることができたということです。
この旗竿の先に掲げられた青銅の蛇に対して3人の人の姿を考えてみました。
① ある人は考えました。「旗竿の上につけられた青銅の蛇を見ることによって救われるのだと、そんな非科学的な迷信みたいなことに惑わされるものか。自分の理性が許さない。」そしてその人は死んで行きました。理性的、科学的に考える人です。
② ある老人は思いました。「自分の長い人生経験の中で、そんなことはいまだかつて一度も見なかった。そんなバカげたことで人が救われるという知らせは、人を惑わす以外の何ものでもない。私は信じない。」そう言ってその老人も死んで行きました。体験・経験を重要視する人です。
③ しかし、しかし、苦しみの余り、藁にもすがる思いで、旗竿の見えるところまでやって来て、その上に掲げられていた青銅の蛇を見た人は救われたのです。神様の御言葉を信じる人です。
ここで、ニコデモとイエス様とのやり取りを見てみます。
イエス様が「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われました。するとニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。
そこで、イエス様は答えられました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく(アーメン)。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」
ニコデモは、イスラエルの教師で、律法を守ることを大事にし、人々から尊敬も受けている人でした。彼は、律法をどう守り、どのように行うかについて理性的に指導できる経験豊かな人でしたが、しかし、イエス様の話される霊的なことが受け入れられなかったのです。
人間の理性や人間の経験からだけでは、神様の霊的なことは受け止められないのです。私たちでも同じです。幸い、イエス・キリストを信じる人々は、聖霊なる神様の助けと導きをいただくことができているから、霊的なことが分かるのです。しかし、今日のキリスト者も聖霊を受けていることの自覚が無いと言うくらい薄いのです。私も、韓国の教会と交流して、聖霊を受けていることの重大さに気づかされたのです。
今日読んだヨハネによる福音書の14節に、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と御自分が高く上げられることについて、民数記の出来事に言及されています。ここで「人の子」と言うのは、イエス様御自身のことを指しておられ、「高く上げられる」とは、十字架に架けられることを指しておられます。
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イエス様は、旗竿の上に掲げられた青銅の蛇のように、神様に繰り返し背いて来た私たち人間の罪を裁きから救うために、私たちの身代わりとなって十字架にかかって下さったのです。その十字架のキリストを仰ぎ、救い主だと信じる者が罪の裁きから救われるのです。
神様から「神のかたち」として祝福されて造られた人間は、あのアダムとエバが蛇に誘惑されて以来、今日に至るまで、蛇の誘惑によって、罪に陥れられ、その罪のために死ななければならない運命に置かれています。それは、ちょうどイスラエルの民が荒れ野で神様につぶやき背いて、毒蛇にかまれた時の状態のようなものです。
憐れみ深い神様は、モーセに命じて青銅の蛇を旗竿の上に上げさせて、「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」との約束を信じて仰ぎ見た者は救われたように、御子イエス・キリストが人間の罪の贖いの犠牲として架けられた十字架を仰ぎ見る者を救われるのです。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と約束されているのです。
罪なき神の御子イエス様が、神様に背いて「神のかたち」を失っていた人間のために、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈りつつ、罪人の身代わりの死を遂げて下さったのです。その十字架のキリストを仰ぎ、自分の罪の赦しのために死んでくださった救い主と信じる者が罪を赦されるのです。そして見失っていた「神のかたち」を回復し、神様を「アッバ、父よ」と呼びかけて祈り、霊的な交わりができるようになったのです。御子イエス様が復活して天に昇られた後、御自分に代わる助け主・弁護者として聖霊を私たちに遣わし、信じる者と永遠に一緒にいるようにして下さったのです。
私たちが今、〝天の父なる神様〟と呼んでお祈りができるということは、「神のかたち」を回復したからです。神のかたちを回復したということは、神様と霊的な交わりができるようになり、神様の御心が分かり、神様に喜んで従い、共に生きることです。聖霊なる神様が永遠に共にいて下さることは、私たちは永遠に造り主である神様と共に生きることです。
今、この地上に生きる時も、また、地上の生活を死によって閉じて天に行った時も、神様と共に生きることができるのです。これが永遠の命であり、「神の御国に入る」ということなのです。
キリストの福音と言うのは、十字架のキリストを仰ぐ者として罪が赦されたと言うことにとどまらず、「神のかたち」を回復して生きるということです。
罪のために滅ぶべきものであった者が、「神のかたち」として神様と霊的に交わって生きることができるのですから、「キリストの十字架を仰ぐ救い」は、嬉しい、喜びの知らせなのです。十字架のキリストを信じる者は皆、「神のかたち」を回復し、永遠の命を得ることができるのです。
今日、この後に与るパンと杯の聖餐式は、ここに集まる者たちが「神のかたち」を回復して生きていることの具体的なしるしであります。感謝と喜びを持って聖餐に与りましょう。
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父なる神様、
新型コロナウイルス感染の心配の中にも私たちの健康を守り、礼拝を共にささげることのできることを感謝いたします。
私たちは神様の祝福のもと霊的に生きるようにと「神のかたち」に造られたにもかかわらず、背きの罪の中を歩み、滅ぶべき者でした。しかし、聖霊なる神様のお助けによって十字架のイエス様を仰いで、罪が赦され「神のかたち」を回復して生かされていることを感謝いたします。
あなたは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことを願っておられます。
神様が、独り子であるイエス様を十字架に架けてまでも、人間一人ひとりを救おうとして愛してくださってるこの御愛を心から感謝して、まだ知らない人々に分かち合うことができるようにお導き下さい。
「神のかたち」を回復して、神様と共に霊的に生かされている具体的なしるしとして、感謝と喜びを持って聖餐に与らせてください。
世界中の人々が、新型コロナウイルス感染の恐怖の中に置かれています。この病気の収束の上にあなたの憐れみをお与え下さい。
この時、人々が十字架のキリストを仰いで救いを得ることができるように、あなたの憐れみとお導きを祈ります。
主イエス・キリストの御名によって、
アーメン。
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