説教:
『あなたは永遠の命を持っておられます』
2020年3月15日
礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:ヨシュア記24章14-24節、
ヨハネによる福音書6章60-71節
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
2020年3月15日
礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:ヨシュア記24章14-24節、
ヨハネによる福音書6章60-71節
今日は、受難節第3週を迎えての礼拝で礼拝後、2019年度臨時教会総会を迎えます。本庄教会の2020年度の歩みの協議を前に、主の御言葉に聞きたいと願います。
神様が本庄教会に私たちを遣わされて、3年が経ちます。皆様にとって、この3年間はどのような3年間だったのでしょうか。私は、この3年間、神様が私たちを本庄教会に遣わされた目的は何なのだろうかと問いつつ、御言葉に聞いてきました。
教会が建てられているという事は、第1に、そこに生ける神様と復活のイエス様のおられることを証する礼拝を献げると言うことが、遣わされた者の任務であります。
イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と約束されています。そのイエス様の御臨在を証しするのが遣わされた者の第一の務めであります。この任務がどれだけできたのだろうかと問われます。
教会が建てられているという事は、第2にそこに生けるキリストの体としての群れがどれだけ活き活きとして造り上げられているかであります。
4年目から、一人一人が「キリストの体」としてどう生かされ、連なり、主体的に神様の御業に用いられるのか、お互いの歩みを主にあって受け止め合うことができるようにと願っています。その意味で「伝道協議会」を重ねて、皆で話し合って皆でできることを進める歩みをしたいと願います。
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今日のヨハネによる福音書6章60節からの出来事は、イエス様が会堂で教えられた話を聞いた弟子たちが「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか。」と言って、多くの者がイエス様から離れて行った話です。
弟子たちが「実にひどい話だ」と言った話は、53節~58節です。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
私が伝道者としての生涯を献げようとして決心して神学校に入ろうとした時、当時、所属していた中渋谷教会の山本茂男牧師は、「疋田君、神学校入る前に、是非、明治学院大学に行って学んでほしい。そこは明治初期のキリスト教信仰の宝庫のような学校だから。」と言われて明治学院大学に入学しました。
ある時、明治初期のキリスト教に関する文献を読んでいた時、国のスパイがキリスト信徒の中に入り込んで、〝この宗教は人の肉を食らい、人の血を飲むひどい宗教だから警戒すべきである。〟と報告していたという記事がありました。
恐らく、今でも、今日の個所を初めて読むと、意味の分からない人は、ひどい話だと思うでしょう。イエス様がこのお話をされたのは、カファルナウムの会堂です。そこはユダヤ人たちが集まって礼拝をする場所で、そのユダヤ人たちが信じて守っていた律法には、血を飲むことは禁じられていました。
「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(創世記9:4)
「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。」(レビ記17:10~11)
イエス様が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と言われたことは、ユダヤ人が大切に守っていた律法の教えに反することで、「実にひどい話だ。だれが、こんなひどい話を聞いていられようか。」と言って、ユダヤ人たちがつまずいて離れて行ってしまうのも無理がないのです。ユダヤ人だけでなく、イエス様に従っていた弟子たちの多くの者も離れて行ったのです。今でも、ユダヤ人は血抜きの肉しか食べません。
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イエス様は弟子たちのつぶやきを聞かれて言われました。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・。命を与えるのは、〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」(61~64節)
人の子であるイエス様が、もといた所である父なる神様のもと(天)に上った後、人々は現実にイエス様の肉を食べ、血を飲むと言うことはあり得ないことです。イエス様の語られた御言葉は現実の体ではなく、霊的に理解されなければならないのです。だから「命を与えるのは〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言われたのです。
このことは、6章の初めから展開される五千人に給食の奇跡の出来事、「わたしは命のパンである」と言って人々の罪を赦すために十字架に御自身の命を献げられた出来事についての対話、そしてユダヤ人に対して論争した命のパンの意味・聖餐の意味にも言えるのです。
この出来事の霊的な意味は、聖霊のお導きをいただかなくては理解できないのです。
22~40節までは、五千人の給食の奇跡の場所から、イエス様を捜して追いかけて来たガリラヤの人々がカファルナウムでイエス様と再会し、イエス様と「イエスは命のパン」について対話しています。
ガリラヤ人:25節「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか。」
イエス様:26~27節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
ガリラヤ人:28節「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」
イエス様:29節「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
私たちは「神の業」と言うと何か特別なことのように思いがちですが、神様がお遣わしになった者・神の御子イエス様を救い主・キリストと信じることなのです。イエス・キリストを信じると、私たちはイエス様の御言葉と御心に支配されて、神様の御心に叶った歩みができるのです。
ガリラヤ人:30節「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」
イエス様:32~32節「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
ガリラヤ人:34節「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」
イエス様:35、38~40節「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない…わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
私たちの人生には平坦な道のりだけではありません。山あり、谷ありで、病気の苦しみや災害による災いや、人間関係による苦しみ悲しみがたくさんあります。しかし、どんな時でも、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されているイエス・キリストを信じて歩むなら、決して飢えることもなく、渇くこともないのです。喜びを見出し、感謝することができるのです。神様の御心は、信ずる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることであります。
「永遠の命」というのは、地上の肉体の命が何時までも死なないことではありません。私たちは皆、神様から与えられた地上の命を終えて、やがて神様にお返しする死があるのです。でも、私たちの命は地上を去っても造り主である神様のもとに帰って存在するのです。地上にいる時も、地上を去っても造り主である神様に覚えられて存在する命、それを永遠の命と言います。その永遠の命は、イエス・キリストを信じる者に与えられる命です。
ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしは天から降って来たパンである。」と言われたので、つぶやいて、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と言いました。(41~59節)
イエス様は、ユダヤ人たちに次のように言っています(51節)。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
イエス様は、神様に背いて生きてきた人間の罪を赦すために、十字架のうえで、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、御自身の命を犠牲として献げられたのです。イエス様の十字架の祈りと死は私自身の罪の赦しのためであったと信じて、パンと杯の聖餐にあずかる世の人々は永遠の命を得るのです。
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弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエス様と共に歩まなくなったので、イエス様は、12人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。
すると、ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と信仰を告白しました。
しかし、イエス様は、「あなたがた12人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と言われました。イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであるとあります。イエス様を裏切ろうとしていたユダのことをお見通しだったのです。
私が東京神学大学を卒業して、東京の柿ノ木坂教会の伝道師として遣わされた時、高校生の担当をしました。一人の女子高校生が、「ユダは救われないのですか。裏切る役割を与えられたユダが救われないのだったら、私は洗礼を受けません。」と言われたことが今も忘れることはできません。
ユダはイエス様を裏切りました。しかし、ペトロもカイアファの庭で、イエス様を知らないと3回も否み、他の弟子たちも皆イエス様を見捨てて逃げ去ったと聖書は明言しています(マタイ26:75、56)。イエス様を裏切り、背いたことは、12弟子の皆も同じだったのです。
その違いは何かと言いますと、ユダは自分のやったことの責任を取って首をつって死んでしまったのです(マタイ27:5)。他の弟子たちは、逃げて隠れていたのです。そこに復活されたイエス様が訪ね、また、ガリラヤの山でお会いし、御言葉を下さって、弟子たちを励まし、御業のために立てたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19~20)と命じ、約束されたのです。
今日の私たちも、12弟子と何ら変わらない、欠け多き弱き者であります。どれだけイエス様を裏切り、悲しませて来たことでしょうか。幸い、私たちは神の家族の一員とされて、愛する良き兄弟姉妹を与えられ、兄弟姉妹の祈りと励ましによって、復活のイエス様のおられる主の日の礼拝に立ち帰ってくることができています。
主の弟子の大切な本質は、どんな時も、どんなことがあっても、復活のイエス様のおられる礼拝に立ち帰ることができることです。
モーセに代わってイスラエルの民を導いたヨシュアに民たちは「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」と誓ってシケム契約を結んでいます。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と告白しています。しかし、どんなに誓約し、立派な告白をしても、私たちは自らの誓いや告白に背くような状態にしばしば陥ってしまう弱い存在です。
日本人は昔から、背いたり、失敗したら切腹などと死ぬことが責任を取って潔いように見てきましたが、聖書の教えは違うのです。
人間の命を祝福して造られた神様の御心は、悔い改めて、神様の御前に立ち帰って生きることなのです。それで、私たちは主日毎に、生ける復活の主・イエス様の御前に立ち帰って、悔い改めて、「あなたが永遠の命を持っておられます」とイエス様の御言葉と祝福をいただいて立ち上がり、生きるのです。それゆえに神様に感謝し、喜んで従い、御業に仕える歩みができるのです。
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父なる神様、
本庄教会の2019年度の歩みを導き、守って下さり心より感謝いたします。
新しい2020年度に備えて臨時教会総会を礼拝後、開催いたしますがお導き下さい。新年度も主の日の礼拝を守り、本庄教会の一人一人が「キリストの体」として、活き活きと歩むことができるようにお導き下さい。
背いた弟子たちの姿は私たちの姿でもあります。どうか、弱い私たちが絶えず、主日礼拝毎に御前に立ち帰って、悔い改めて、立ち上がり、神様と共に歩むことができるように憐れみ導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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