説教:
『真の平和の中を歩もう』
2020年1月5日
新年礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:イザヤ書2章1-5節、
エフェソの信徒への手紙2章14-22節
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
2020年1月5日
新年礼拝より
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:イザヤ書2章1-5節、
エフェソの信徒への手紙2章14-22節
新しい年、2020年の歩みが始まりました。この年も、本庄教会に連なる皆様の上に神様の豊かな祝福があるようにとお祈りいたします。この年、神様は皆様と共に歩み、どのような御業を展開してくださるのでしょうか。
本庄教会では「わたしたちは神の家族」との言葉を掲げて歩んでいますが、どのように神の家族として花咲かせ、どのような実を結ぶ1年となるのでしょうか。神様のお導きに期待し、祈り、励んで行きたいと願います。
*
1月元旦の聖書日課は、イザヤ書43:1~7、マタイによる福音書4:12~25でした。私たち3人で聖書日課を分かち合い、祈って新しい1年が始まりました。
今朝は、新年のメッセージを、イザヤ書を中心に聞きたいと願いますので、元旦の聖書日課、イザヤ書43:1~7を、皆さんで、改めて読んで見たいと思います。
この43章は、神様に造られ、選ばれながらも、その神様に背いたイスラエルの民が、その裁きを受けて、バビロンと言う大国に滅ぼされて、バビロンに捕虜となって連れ去られた事に対して、神様はその裁きである捕囚から解放する、救い出すという預言として語られたものです。
1節のいくつかの言葉を解説します。
「ヤコブよ」「イスラエルよ」は、神の民であるイスラエルを指します。この場合、バビロン捕囚という神様の裁きの中にも最後まで神様に従おうとする「残りの民」を意味します。又、イエス・キリストを通して造り主である神様を信じる霊的イエラエルをも念頭に置かれた呼びかけであります。
「創造された主」は、命の造り主であるという意味ですが、ここでは諸民族の中からイスラエルを選び出し、又エジプトの奴隷の状態から導き出して、王や預言者を立てて神の民として整えて来た主なる神様であることを指してます。
「贖う」とは、神様御自身の所有の民とするために代償を払って買い取ったということです。具体的には、3節の「わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバ(エチオピア)をあなたの代償とする」と言うことであります。神様はイスラエルをバビロンの捕囚から解放して救い出すために、エジプトとエチオピアをバビロンの王キュロスに引き渡すということなのです。
「あなたの名を呼ぶ」とは、親しい関係を表します。この1節の言葉は、具体的には裁きを受けてバビロンの捕囚となっているイスラエルの民に対して呼びかけていますが、イエス・キリストの十字架の贖いを通して、造り主であり、救い主である神様を信じる全世界のキリスト者、即ち霊的イスラエルを指して語られている終末的な預言の言葉でもあるのです。
その意味で、「ヤコブよ」「イスラエルよ」と呼びかけている名を、私たち自身の名を入れて読んで見ると、「あなた」と私自身に呼びかけて下さっている神様が良く分かり、実感できるのではないでしょうか。「あなた」を自分の名に置き換えて読んで見て下さい。
元旦、私に「國磨呂よ」と語り掛けて下さる神様をあらためて実感できて、喜びに充ち溢れました。イエス・キリストの十字架の「贖い」を受けて神様のものとして買い取られて58年経ちます。神様はいつどんな時でも、〝恐れるな。わたしは國磨呂を贖った。國磨呂はわたしのもの。わたしは國磨呂の名を呼ぶ。わたしは國磨呂と共にいる。わたしの目に國磨呂は価高く、貴い。わたしは國磨呂を愛する。恐れるな、わたしは國磨呂と共にいる。〟と言い続けて下さっている58年であったことを、改めて深く思いました。
7年前、がんの再発で余命1年と宣告されましたが、今も、皆様の前に立たされ、御言葉に仕えています。2節の「火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」とはこういう事なのかなと思って感謝しています。
*
マタイによる福音書4:12~25では、イエス様がガリラヤで伝道を始められたことが記されています。
イエス様は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められました。そして、ガリラヤ湖のほとりで、漁をしていたペトロとその兄弟アンデレの二人に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人は網を捨ててイエス様に従いました。更に、別の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネにも呼びかけると、この二人もすぐに、船と父親を残してイエス様に従いました。
「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と記されています。
ここを通して示されたことは、ガリラヤ中を回って、御言葉を教え、御国の福音を宣べ伝えられ、そして、ありとあらゆる病気をいやされたイエス様のお姿を、今日どのように受け止めるのかということです。
イザヤ書で「あなたはわたしのもの」と言われている民が「神の家族」なのです。イエス様は御国の福音を宣べ伝えるために、漁師たちに「わたしについて来なさい」と言われて4人の漁師を弟子にされました。弟子たちは、イエス様と共に御国の福音を宣べ伝えるために共に歩み従ったのです。
本庄教会の神の家族は、御国の福音を宣べ伝えるために、どのようにイエス様と共に歩んだらよいのでしょうか。
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」とも記されています。
イエス様が、私たち人間の世界にお生まれになって二千年余り、科学や医学が大変進歩していますが、私たちの周りの人々が抱えている病気や悩み苦しみはあまり変わらないのではないでしょうか。そういう人々がイエス様のもとに連れられて来たように、どうしたら本庄教会に来ることができるのでしょうか。
そのために神の家族として何ができるのでしょうか。新年度の課題として受け止められたらと願っています。いわゆる神の家族が伝道するとはどんなことなのか、自分たちの課題として向き合うことができたらと願っています。
*
説教予告のイザヤ書2:1~5の御言葉に聞きたいと思います。ここには、アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見た終末の平和について語られています。
「終わりの日に」とは、神様に逆らっていた者が、悔い改めて、贖われて神の民として回復された終末の時です。その時、主を礼拝する神殿(今日の教会堂)が立つ山は、山々の頭として堅く、高くそびえ立ち、国々の人々は大河のように礼拝に来るのです。そして人々は来て言います。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えと御言葉は、エルサレムのあるシオンの丘から全世界に語られるのです。
国々の争いを裁かれる神様の御心は、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とすることです。戦いの武器である剣や槍を作り直して、作物を作る鋤や鎌にすることです。そして、国は国に向って剣を上げないで、もはや戦うことを学ばなくなることです。この神様の御心が実現することが「真の平和」なのです。
「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」とは、〝武器を捨てて、真の平和の中を歩もう〟と言う悔い改めの招きの言葉であります。
聖書日課のマタイによる福音書ではイエス様は「悔い改めよ。天の国が近づいた。」と宣べ伝えられたとありますが、マルコによる福音書では、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:14)と人々に呼びかけています。
1月2日の聖書日課は、マタイによる福音書5:1~12で、山上での幸いの教えであります。その9節に「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。
また、今日の説教のための新約聖書、エフェソの信徒への手紙2:14~18に次のように記されています。
このように、キリストは御自分の十字架によって、敵対している双方の敵意という壁を取り壊し、両者を一つの体として神様と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされたのです。このキリストの十字架によって敵対する者たちの敵意が滅ぼされて、両者が一つになって父なる神様に近づくことができるのです。これが「平和の福音」なのです。このキリストによる平和の福音こそが、真の平和なのです。
イザヤ書「主の光の中を歩もう」という招きの言葉を、キリストによる「真の平和の中を歩もう」と言い替えて説教題としました。
今日、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すことのできるのは、イエス・キリストの十字架なのです。敵対する罪人のために、十字架につけられて「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、御自身の命を献げられたイエス・キリストの愛こそが敵意を滅ぼすことができるのです。
このキリストによる真の平和を告げ知らせるために、最近、2つの出来事がありました。
1つは、ローマ教皇の来日とメッセージであります。昨年11月下旬、来日されたローマ教皇フランシスコは世界初の原爆被災地の長崎と広島に立って、原子爆弾はいかに最大の犯罪行為であるか、日本政府におもねることなく、大胆に率直に語られました。東京ドームを一杯にしてミサを行い、キリストの平和に生きる者として、証しされました。
朝日新聞のローマ教皇の取材ノートに次のように書かれています。〝「平和」という究極のモラルに向き合い、誰にも忖度(そんたく)せず、真っ当な主張を堂々と説いて回った。大きく注目されたのは、それが今日の日本でとても新鮮に映ったからかもしれない。〟ローマ教皇の残されたメッセージを日本のキリスト者の基盤の一つとして受け止めたいと願います。
もう1つは、アフガニスタンで人道支援に取り組んできたNGO「ペシャワール会」の現地代表で、12月4日に殺害された医師・中村哲さんのことです。最初、医師としてアフガニスタンの人々を診ていましたが、医療の根本問題として食糧不足に気づき、その解決として、食べ物を十分に得るために、砂漠化した土地に川から水を引いて田畑で作物を作ることができるように灌漑事業を起こしたことです。食べ物がないので、男たちはお金を得るために傭兵として雇われて、戦いに参加しているのです。
灌漑工事が完成して、田畑に水を引いて作物ができ始めると、兵隊に雇われていたタリバンの兵士たちも村に戻って来て、作物作りに精を出すようになった様子が、ドキュメント映像として放映されていました。人は戦いたくて戦うのではなく、食べるために兵として雇われ、戦っている人たちのいることを知りました。
タリバンの兵士たちが武器を捨て、農具を用いて作物作業に喜んでいる姿を見て、これこそ正に、イザヤ書が描く神様の願う平和、終末の平和であることを思いました。
聖書が告げる終わりの日は、いつ来るのか分かりませんが、今日のような争いの有る混沌とした時代の中にも、真の平和の中を歩むことのできることを私たちキリスト者は知っているのです。本庄教会に連なる神の家族としての私たちは、この時代に神様の御心の何ができるのかを、御言葉に聞きつつ求めて行きましょう。「真の平和の中を歩もう」と、その平和の喜びを町の人々と分かち合う教会となって行きたいと願います。
*
父なる神様、
御子イエス様の御降誕の喜びと共に、2020年という新しい年を歩み出すことのできたことを感謝いたします。本庄教会に連なる神の家族である皆の上に豊かな祝福をお与えください。
アメリカがイランの軍師司令官を殺害したという事で、戦争が起こるかもしれないという不安の中に、新年の初めから世界が置かれています。どうぞ、このような時代だからこそ、私たちを憐れみ、キリストの十字架による真の平和をお与え下さい。
本庄教会は、この新しい年に、神様の御心である「真の平和の中を歩もう」との招きを本庄市の町に人々に呼びかけることができ、人々を迎え、人々と共に喜ぶことができますようにお導き下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
**