説教:
『その名はインマヌエル』
2019年12月24日(火)
クリスマス・イヴ礼拝より
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:イザヤ書7章14節、60章1-2節、
マタイによる福音書1章18-25節
本庄市見福にあるプロテスタント教会です
2019年12月24日(火)
クリスマス・イヴ礼拝より
説教者:疋田義也 牧師
聖書箇所:イザヤ書7章14節、60章1-2節、
マタイによる福音書1章18-25節
皆さま、クリスマス・イヴ礼拝にようこそおいでくださいました。クリスマスおめでとうございます。巷では、英語で挨拶を交わされることの方が多いと思いますので、今度は英語で、「メリー・クリスマス!」
このクリスマスの時期、12月に入ると、町にはクリスマスのイルミネーションが溢れます。教会でも、クリスマスの25日の前、アドベントの4回の日曜日に渡り、ろうそくに1つずつ火を灯して25日を待ちます。
本庄教会に入って来られた時にご覧になったと思いますが、教会の入り口にも、もみの木に電飾を飾りつけています。しかし、最近は、教会以上に、様々な施設などで、クリスマスの演出がなされるようになってきました。この近辺では、本庄早稲田駅近くのマリーゴールドの丘が、一番盛大なクリスマスイルミネーションかもしれません。様々な場所で、競うかのように、こぞって、ライトアップをするようになりました。
なぜ、私たちは、そんなにクリスマスをライトアップするのでしょうか。どうして、クリスマスは楽しくて、喜ばしい日なのでしょうか。もしかすると、クリスマスの日にクリスマス・プレゼントが貰えるからでしょうか?
さて、クリスマスの電飾・イルミネーションとは不思議なもので、その電飾を眺める人や置かれた状況によって、見え方や、受け取る感情が変わってくるものです。イルミネーションの内容にもよるかもしれませんが、鮮やかに輝く電飾を見て、お祭りの時の気分のように、気持ちが高まる方もいれば、真っ暗な中で煌々と輝く電飾を見て心が洗われるようだ、心が落ち着くと感じる方もいると思います。これに対して、チカチカと点滅するのが苦手、クリスマスのお祭り気分が苦手だと実際にお感じになっている方もいるかもしれません。また、クリスマスの楽しい雰囲気に気持ちが乗らないと、逆にこのイルミネーションが、どこか寂しく感じる時も、あるのではないかと思うのです。なぜならば、光が見える時、そこには暗闇もあるからです。
ヨーロッパの方では、日が一番短く、一番寒さの厳しい、冬至を迎えるころに、丸太をキャンプファイヤーのように、一晩中燃やすことで、暖を取り、明かりを確保したそうです。クリスマスの光の役割というのは、お祭りの気分を演出することもさることながら、私たちを取り巻く暗闇を照らし、私たちの心を照らし出す光なのです。今日は、このクリスマス・イヴ礼拝をろうそくの明かりのもとにお捧げしています。
今日、このクリスマスに、神様はこの世界全体を照らし、私たちの心を温かい光で包み、照らし出す、真の光として、私たちにイエス様をプレゼントされました。世界の光として赤ちゃんイエス様が私たちのもとに来て、お生まれになったのです。このことを覚えて、ろうそくの灯と共に、この場所に集まっているのです。
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先ほどの、「メリー・クリスマス」の挨拶にもあるように、「クリスマス」は誰にとっても「メリー(幸せ)」なことであり、また誰にとっても「おめでとう!」とお祝いできることなのです。実は、ここがクリスマスの核心部分です。「クリスマス」とは、一人の命が誕生したという喜びと共に、私たち全員に関わってくる大きな祝福と、恵みがそこにはあるのです。今日の聖書の箇所に登場する天使が伝えたように、私たちの為に、私たちの救い主として、イエス様がお生まれになってくださいました。
ここに、「Christ(クライスト)=救い主」としてイエス様が誕生された日を、賛美する「Mass(マース)=礼拝」、Christ-mass(クライスト・マース)=Christmas(クリスマス)が始まったのです。救い主のイエス様の誕生こそが、これほど盛大に祝われる日、喜ばれる日となったクリスマスの起源なのです。
西暦はイエス・キリストのお生まれをおおよその元年とします。今年は2019年になります。今から2019年前に起こった最初のクリスマスの出来事を通して、今を生きる私たちに語られている神様の恵みを受け取りたいと思います。今日は、新約聖書のマタイによる福音書に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」とイエス様の誕生について語られていることを、共に見ていきましょう。
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ここに悩める一人の男性がいました。ヨセフというユダヤ人で、彼は聖書の中で有名なダビデ王の血筋でした。しかし、遠い親戚のようなもので、彼自身、王族ということでもなく、裕福な家庭でもありませんでした。その彼の悩みとは、婚約していたマリアが自分の知らないうちに身ごもっていた、つまり子どもを宿していたというものです。
ヨセフは既に、マリアと婚約していました。当時のユダヤの文化の中では、結婚して一緒に生活するに至るまでに、1年間の婚約の期間があったそうです。当時の厳粛な掟に従っていたユダヤの民にとっては、婚約中の妊娠は重大なことでした。婚約によって、妻・夫という関係が既に成り立つようなのですが、婚約中は婚約者同士が二人きりになることも許されなかったとのことです。その婚約のさなかに、マリアの妊娠が分かったとなると、この子は誰の子なのだろうかという問題になるのです。そして、このことが公にされてしまうと、最悪の場合は、石打の死刑に処せられてしまうのです。実にこのことは、命の危機ともなりうる、手放しで喜べないことであったのです。本来は嬉しいはずの出来事が、悩みとなって、ヨセフは暗闇の淵に落ちるような思いであったかもしれません。そこで、夫ヨセフは「正しい人」とあるように、マリアの命を助ける為に、ひそかに縁を切って、このことを穏便に済ませようと考えていたのです。
しかし、ヨセフが思っていたことと、実際にクリスマスに起こった出来事とは、180度、正反対の出来事だったのです。命が滅びてゆく絶望ではなく、命を生み出す希望であったのです。マリアが身ごもったという聖書の個所は「聖霊によって身ごもった」と伝えています。「聖霊」とは神様の力、神様の存在そのものです。ですから、神様のご計画の中で、神様の力によって子を授かったというのです。そして、それは神様ご自身が赤ちゃんとして、マリアのお腹の中に宿ることで、神様が、人間の世界に、人間の歴史に入り込んできてくださる出来事だったのです。これは、人間の理屈では説明できないことです。マリアはこのことを天使から告げられましたが、その説明をマリアからされても、到底ヨセフには信じることが難しかったのです。
そこで、神様はヨセフの眠りの夢の中へ、天使を遣わされました。まさに、絶望の暗闇の中に伏していたヨセフの上に、神様の光を放つ天使が訪れ、彼の暗闇を照らしたのです。天使はヨセフを慰め、励まして言いました。「恐れずにマリアを迎えなさい」と。マリアは、聖霊によって、つまり神様の力によって赤ちゃんを宿したのだと。そして、その子をイエスと名付けて自分の息子として受け入れるようにと伝えたのです。ここで、「子どもを名付ける」というのは、つまり自分の子どもとして受け入れ、育ての親となることなのです。
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さて、ここでマリアから生まれる赤ちゃんへの二つの呼び名が登場してきます。
一つ目は、「イエス」という名前で、人間として授かった名前です。救い主であられるので、クリスチャンは「様」をつけて、「イエス様」とお呼びしますが、その名前の意味も、「神は救い」という意味です。天使がヨセフに告げていたように、神様は御自身に背く人間を立ち帰らせ、人間を支配する死の力(罪)から救い出してくださる御方なのです。実は、この「イエス」というお名前は、クリスマスの舞台であった、当時のユダヤ・パレスチナ地方において、一般的な男性の名前であったようです。日本でも、翔君、唯ちゃんといった名前が親しまれているのと似ています。
二つ目の呼び名は「インマヌエル」という神様としての呼び名です。なぜイエス様が特別なお方、救い主(キリスト)なのかを示す名前です。古くは、紀元前700年代にも遡る、預言者イザヤによって伝えられていた名前で、この「インマヌエル」の意味は、ユダヤ人の言語であったヘブライ語で、「インマ(一緒)」「ヌー(わたしたち)」「エル(神)」となり、今日の聖書の箇所にもあるように、「神は我々と共におられる」という意味になるのです。これは、イエス様が、私たちと共にいて、私たちの歩みに伴ってくださる神様として、私たち人間のもとに生まれて来られたのだと伝えているのです。
このことは、教会でイエス様のことを、「真の人であって、真の神であられる」と告白することにつながっていきます。私たちは、天と地をお造りになり、すべてに命を与え、祝福し、愛し、尊んでくださる神様を信じ礼拝しています。その神様は、天国から私たちを眺める存在だけではなくて、イエス様において、人間となって、地上に降りて来こられ、人間と労苦を共にしてくださいました。その苦しみの根源である、罪を一挙に背負い、十字架で命を捧げることで、罪を打ち滅ぼしてくださったのです。
私たちの苦しみや悩みに、一番近いところで寄り添い、生きる勇気と力を与えるために、イエス様はインマヌエル(我々と共におられる神様)として地上にお生まれになられたのです。
世界を取り巻く状況というのは、本当に混沌としていて、神様が共におられるという恵みを、忘れさせてしまう状況が続いています。親が子の命を奪い、子が親の命を奪ってしまう悲しいニュースも流れてきます。自分の保身や自分の名誉のために、思い通りに事を動かそうと他の人をないがしろにする、自己中心的な言動が世界を占めています。私たちの心の中にも、時として、人を悲しませ、神様を悲しませてしまう心の影があるかもしれません。また、神様によって与えられた自分の命を、この人生を、素直に喜べないこともあるかもしれません。しかし、今日、この場所でろうそくの光が私たち一人ひとりを照らし、あたたかな光で包んでいるように、神様はそうした暗闇にあるわたしたちの身近にいて、私たちの命と存在を照らし、祝福で包んでくださいます。
ヨセフが悩みと戸惑いの中、暗闇の淵にあった時、神様は天使の光によって彼を照らし、救い主イエス様が共におられる希望と祝福を知らせました。これによって、恐れずマリアとの新しい人生を歩み始めることができたのです。そのように、私たちも今日、ここで神様の光に照らされて、神様が共に歩んでくださる恵みを心の内に、確かにいただくことで、この2019年クリスマスから始まる、2020年の新たな歩みも、希望と勇気をもって歩みだしていきたいと願います。では祈りましょう。
天の父なる神様、
ヨセフが戸惑いの中にも神様の光に照らされて新しい人生を歩んだように、わたしたち一人ひとりも神様からクリスマスの光をいただいて、2020年も新しく歩み出すことができますようにお導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン
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