説教:
『神の家族となるために』
2019年6月30日、7月7日
の2回の説教から
説教者:疋田國磨呂 牧師
聖書箇所:詩編1編1-3節、
ローマの信徒への手紙12章1-8節
6月30日の第1回目の説教から
1、神の家族を証しする礼拝
(1-1)本庄教会の礼拝で
今年度の教会の標語は「わたしたちは神の家族」であります。イエス様の言われる「神の家族」とは、血のつながっている肉親を指すのではありません。イエス様は、神様のお話を聞くために集まっている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ。」(マルコ3:34)と言われました。
このことは、今日でいうと、こうして神様を礼拝し、神様のお話を聞こうとして本庄教会の礼拝に集まっている私たちを見回して、イエス様が、誰でも天の父である神様の御言葉を聞いて行う人を神の家族ですと言われていると思っていいのです。
私たちが神の家族であることの一番の証しは、礼拝を共に献げるために集っているということなのです。礼拝は神の家族の基本であると言ってよいのです。
(1-2)訪問・交わりを通して実感する神の家族
本庄教会で礼拝を献げている兄弟姉妹は、2018年度は平均26名でした。最近は30名前後の出席が度々あり、皆さんよく励んでおられると喜び感謝しています。
でも、施設に入所されたり、病院に入院されたり、いろいろな事情で礼拝に出席できない兄弟姉妹もおられます。そういう方は、神の家族としてどうなるのでしょうか。
6月9日(日)はペンテコステ礼拝でしたが、子どもの日・花の日と重なりました。持ち寄ったお花を飾って礼拝を献げ、礼拝に出席された80歳以上の兄弟姉妹には礼拝後花束を差し上げ、礼拝に出席できなかった兄弟姉妹には、牧師、役員と有志の兄弟姉妹で訪問し、花束を差し上げて、賛美し、お祈りをしました。その時の感想を2人の姉妹に書いていただき、「マラナタ」6月号の月報に掲載しました。二人の姉妹はこう書かれています。
「神の家族として、お互いを思い合いながら、祈りの内に覚えつつ歩みたいとの思いを強くしました。」
「お花をお届けする小さい業は、私にとって神の家族、神のもとにある兄弟姉妹を実感させられる、豊かな時となりました。」
礼拝に出席される方々は、礼拝を通して神の家族の恵みを実感し、分かち合うことができるのです。出席できなかった方々は、礼拝を通して恵みと喜びを頂いた兄弟姉妹がお訪ねして交わる中に、お互いに神の家族であることを実感できるのです。
花の日は年に一回ですが、敬老の日や、クリスマス、イースター、ペンテコステなどの祝日礼拝などにも覚え合ってお訪ねできると良いですね。何も、特別な礼拝の時でなくても、週報や月報「マラナタ」を届けがてらにお訪ねしてお交わりしても良いかと思います。
*
2、神の家族としての礼拝と献身
「ローマの信徒への手紙」12章を通して、神の家族としての生き方を共に学びたいと思います。この聖書の個所で、説教の準備のために御言葉を黙想する中で、12章を3回に分けて御言葉に聞くことを示されました。
(第1回)12:1~2 神の家族としての「礼拝と献身」
(第2回)12:3~8 神の家族として「互いに賜物を活かし合う」
(第3回)12:9~21 神の家族としての「愛の在り方」
今日は、神の家族としての礼拝と献身について1節から2節の御言葉に聞きます。
(2-1)自分の体をいけにえとして献げなさい
1節には「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と言われています。
この「こういうわけで」とは、1章~11章までに述べてきたことです。神様が人間を罪から救うために、キリストの十字架の贖いを信じる信仰によって救われる道を御計画されたこと。それはユダヤ人だけでなくローマの人々をはじめとする世界中の異邦人の救いに至る救いの御計画についての教えであります。
パウロは、そのキリストの福音の教えを生活の中にどのように活かすかを神様の憐れみによって勧めますと言って、12章以下が展開するのであります。
1節「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
ここでは、キリストによって救われた者たちが、神様の救いの恵みに応答することとして礼拝が語られています。
私たちは、誰かからプレゼントを頂いたら、まず言葉で「ありがとうございます」とお礼を言って応答します。中には、その喜びの余りに心ばかりのプレゼントを返す人もいるでしょう。
礼拝は、正に、御子イエス様の命を犠牲にしてまでも私たちを救って下さった神様の愛と言うプレゼントに対するお礼の応答の時であります。神の子・イエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りつつ、私たちの罪を赦すために御自身の命を、私たちの身代わりの犠牲として十字架に献げられました。そして、十字架による罪の赦しを信じる私たちは、神様を〝天のお父様〟と呼んで祈る神様の子供とされているのです。
パウロは、礼拝とは、神様の子供とされた私たち自身の体をいけにえとして献げることだと言っているのです。この御言葉に自分の体をどのように献げるかについて三つのこと、(ア)「神に喜ばれる」、(イ)「聖なる」、(ウ)「生ける」が言われています。
(ア)「神に喜ばれる」体とは、どういうことでしょうか。
どうしたら神様に喜ばれる体となるのでしょうか。
皆さんは、自分の親に喜ばれることは何かと考える時、どうしますか。親の願っていることが何かを知って、それに応えることですね。
これは神様に対しても同じことなのです。神様が何を願っておられるかを知って、それに応えることです。そのために、聖書を読んで、神様の御心を知ることです。
今、本庄教会で聖書日課カードに従って聖書を読むということは、その日、神様は私に何を語りかけ、何を願っておられるのかと神様の御心を知ることが目的なのです。
神様の御心が分かったら、それに従うのです。しかし、なかなか御心が分からなかったり、分かっても、なかなかその通りに従うことができないのです。でも、少しでも御言葉に聞いて従うことができると嬉しいですね。御言葉に従う喜びが分かってくると、私たちの生活も少しずつ変えられ、人間関係もだんだん変えられてゆきます。
聖書日課の御言葉を読むだけでなく、そこに語られていることを通して、神様は私に何を教え、導こうとしているかを数分間、黙想してみて下さい。すると神様の御心が分かってきます。それをディボーションと言うのです。
先日、小島明夫役員が、召されたお母様のものを整理していたら、御自分が大学時代に、学生の修養会をした時のプログラムが出て来たと持って来られました。そこに「ディボーション」と言う言葉が書かれているのです。そこでの「ディボーション」は、講師の先生のお話を振り返って黙想する時を意味していたのですが、「ディボーション」という言葉を40年以上も前、20歳頃に知らされていたのだと驚かれていました。
私たちは、この時代に神様に喜ばれる体として献げるために、まず、ディボーションを通して神様の御心を知りましょう。そして従う喜びを頂きたいと願います。
(イ)「聖なる」体とは、どういうことなのでしょうか。
聖い〟体と訳している聖書もあります。
〝聖なる〟〝聖い〟とは、自分の力で品行方正で正しい善い行いをする者となることではありません。クリスチャンとして恥じることのない正しい人間になることでもありません。私たちは自分の力では、そう願ってもできないのです。
〝聖なる〟〝聖い〟とは、神様のものとすることです。「私の命も生涯も、神様あなたのものです」と差し出すことなのです。罪を悔い改めて、洗礼を受けるということは、自分の命も生涯もあなたものですと差し出した印なのです。
神様に差し出すと、神様は信じる私たちに聖霊をおくって私たちの内に住まわせてくださるのです。パウロは言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(Ⅰコリント6:19)
聖なる体として献げると言うことは、神様のものとされている体であることを自覚して礼拝に望むと言うことです。すると、聖霊が働いて、ここに神様と復活のキリストが御臨在しておられることを信じることができ、御言葉を通して神様の御心を知ることができるのです。
(ウ)「生ける」体とは、どういうことなのでしょうか。
旧約聖書時代、人々は神様に対する罪を赦していただくために、貧しい人は鳩2羽、中間くらいの人は子山羊か子羊の傷のないものを、豊かな人は子牛の傷のないものを、自分の身代わりとして神殿にいけにえとして献げたのです。死んだ動物や傷ついた動物はいけにえに用いることは禁じられていたのです(レビ記1章参照)。
私たちの体を生ける体として献げると言うことは、あるがままの生きている自分を神様に献げることなのです。時々言われることなのですが、教会に来ている時の自分と家にいる時の自分を使い分けている人がいると。しかし、私は、「それは無理ですよ。使い分けは長く続かないし、自分が苦しくなります。神様がすべてを御存じなのですから。」と言います。
ありのままの生ける自分を神様に差し出すということは、キリストの十字架の贖いの赦しを頂かねばならない罪だらけの自分を差し出すことなのです。すると神様は聖霊の助けによって、罪だらけの自分の罪の一つ一つを赦して、癒して、だんだん神様の子供として生きることができるようにして下さるのです。
イエス様の贖いによる罪の赦しは、一万タラントンの借金の帳消しと言われています。それは20万年分の賃金に相当する額の帳消しですから、私たちの罪は自分でも自覚ができないくらい大きいものです。しかし、神様は、その大きな罪をキリストを信じることのゆえに、すべてを帳消しにして赦して下さるのです(マタイ18・21~36)。
キリスト者は、自分の罪の赦しの恵みの大きさを、生涯をかけて、〝イエス様、これも赦して下さっているのですね。感謝します。〟と死ぬまで、自分の罪を数えて、その赦しの恵みを感謝して行くのだと思っています。
それゆえ、1週間を振り返って、自分の罪深さ、御心に従えなかったこと、隣人を愛しえなかったこと等の全てを携えて、生きている自分のありのままを引っさげて神様の御前に出るのが主日の礼拝なのです。
これが「生ける体」として神様に献げることなのです。この礼拝で、罪の赦しと神様の限りない憐れみの愛と力をいただいて、新しい1週間が始まるのです。
以上のように「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とは、
・ディボーションを通して神様の御心を知り、神様に喜ばれるように献げることです。
・キリストを信じることによって神様のものとされている体として献げることです。
・一万タラントンの帳消しの赦しの恵みの中に生きている自分をありのままで神様の御前に出て礼拝を献げることです。
神様に、自分の体をいけにえとして献げて生きる人は、詩編1編1~3節に言われているように幸いな人であり、豊かに実を結ぶ人となれるのです。
「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
(2-2)生きる拠り所を変えていただきなさい
私たちは、2節に言われているように礼拝を通し次のように変えられるのです。
2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
心を新たにして自分を変えるとは、神の御心に基準をおくこと
礼拝を通して自分を神様のものとされている体として献げることは、この世の価値基準に自分の生き方をおかないことです。聖書を通して神様が示される御心に基準をおいて生きることです。自分の生き方の拠り所を、この世の価値基準から神様の御心の基準に置き換えることが、「心を新たにして自分を変えていただく」ことです。自分の生き方の拠り所を神様の御心に置くと、私たちの生活自体が変えられてゆくのです。
自分中心から神様中心に変えられるのです。すると、今まで、何かにつけて、不平不満で、周りの皆が悪いように思っていたことの1つ1つに感謝し、喜ぶと言う変化が起きてきます。
自分が変えられたしるしは「感謝ができるようになること」
今まで、文句ばかり言っていた人が、「ありがとうございます」「神様に感謝します」と言えることは、大きな大きな変化なのです。神様によって変えられることの大きな証拠の一つは「感謝ができる」と言うことです。
自分は果たして「心を新たにして自分を変えていただくこと」ができるのだろうかと深刻に考えないでください。神様と周りの人々に感謝ができれば、変えられているのです。
御心を知って世にたいして執り成しの祈りをする者として変えられる
自分が変えられることのもう一つは、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神さまに喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる」ことです。
不思議と、聖書を通して神様の御心が分かってくると、この世のすべてのことが透けて見えてくるのです。神様の御心ほど完全なものはないのです。
ですから、神様の御心を知ると、現在の政治の姿や社会経済の姿に対して、もっとこうあると良いのにとの思いが与えられると共に、神様にその実現を祈り求めざるを得なくなってくるのです。
私たちキリスト者は、この世のことを避けたり、無関心であってはならないのです。神様の御心を知ると、どうしても現在の政治経済に対してもっとこうあってほしいという願いが出て来るのです。そういう願いと共に執り成しの祈りが大切なのです。
日本の人口の1パーセントのキリスト者では何もできないと思いがちですが、イエス様は「あなたがたは地の塩であり、世の光である」(マタイ5:13、14)と言われています。
塩は、ほんの少しでも相手の味を引き出したり、悪い細菌から守ってくれます。私たちキリスト者は、いるかいないか分からなくても、日本の社会で「地の塩、世の光」としての役割を果たしているのです。絶望して暗闇の中にいる人々に、世の光として、私たちがいただいている神様の光を輝かすことができるのです。そして、希望のない人の人生に真の神様の光を照らすことができるのです。
救いの御業のためにキリスト者を用いる神様
18歳の私は、生きる意味が分からず、自殺願望者でした。ルーテルアワーのラジオ放送を通して教会に招かれ、牧師から「疋田さん、あなたは神様が祝福されたから生まれたのです。」と言われました。それで人間を祝福する神様を求めて、たった3人で始まる礼拝がしばしばであった小さな羽咋教会でイエス様と出会い、イエス・キリストを信じて洗礼を受けました。その私が生涯をキリストに献げて58年、伝道者として44年の歩みをしています。
大宮教会を辞める時、或る長老が「疋田先生は大宮教会で205名の方に洗礼を授けましたよ」と言われました。福井神明教会で50名でした。本庄教会で2名の受洗者が与えられました。自殺志願者の私がイエス・キリストを信じて、生涯をささげることによって、神様は257名の方々を神の家族に加えるために私を用いて下さったのです。しかし、人々が神の家族に加えられると言うことは、伝道者だけでできることではないのです。
神様は「自分の体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げる」すべての人を用いて救いの御業をなされるのです。伝道者だから、用いられるのではないのです。
伝道者以上にキリストを信ずる信徒一人一人を用いられるのです。なぜなら、救いを求める方々が、教会に導かれた時に一番感じ取るのは、そこに神様の救いの祝福をどのように喜び生きている信徒がいるかどうか、自分が来ることが歓迎されているのかどうか、だからです。
信徒が用いられることについては、次の礼拝で取り次ぎたいと思います。
*
祈り
天の父なる神様、
雨の中にも私たちをこうして礼拝に招いて下さり感謝いたします。
礼拝は、自分の体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げることであることを御言葉から示されました。
罪深い弱い者を、キリストの救いを通して神様のものとして下さり、神様の御心を知って神様に喜ばれる生活を願い求めることのできることを感謝いたします。礼拝を通して神様の御心に生き方の拠り処をおいて生活する者に変えられるようにお導きください。小さい者ですが、何が神様の御心であり、何が善いことであり、何が神に喜ばれる完全なことであるかを求めて知ることのできるようにお導きください。
どうか、日本に住んでいる方々が、神様の祝福にあずかるように本庄教会に連なる私たちを地の塩、世の光として働く神の家族としてお用い下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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7月7日の第2回目の説教から
3.神の家族として互いに賜物を活かし合う
神の家族として「互いに賜物を活かしあう」と言うことについて御言葉から学び合いたいと願います。
ローマの信徒への手紙1章~11章までは、神様の御子イエス様を通しての神様の救いの御計画がどんなものであったのか、いわゆるキリスト教の救いの教理について語られています。そして12章から、イエス様をキリストと信じる者の生活は、具体的にどうあるべきかについて、信仰の実践論が語られています。
(3-1)与えられた恵み
3節「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」
パウロは、「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」と言っています。
「わたしに与えられた恵み」とは、パウロが、キリストを信じることによって救われて、回心したという神様からの恵みを指しています。その恵みの体験に基づいて一人一人に勧めると言っているのです。
使徒言行録9章にパウロの回心が記されています。パウロは最初、主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のお墨付きをもらって、キリストの道に従う者を見つけ出して、エルサレムに連行するために、ダマスコに向かいました。
パウロは、その途中で、突然、天からの光に照らされて地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との呼びかけを聞きました。
回心前のパウロの名前はアラム語で「サウル」と呼ばれていたが、回心してから異邦人に伝道できるようにギリシア語で「パウロ」と呼ばれるようになったのです。
パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」と復活のイエス様からの答えがありました。パウロは、地面から起き上がったが目が見えなくなっていました。仲間の者に手を引かれて、ダマスコに連れて行かれたが、3日間、目が見えず、食べも飲みもしませんでした。
一方、ダマスコのアナニアは、幻の中で主の声を聞いてパウロのもとに遣わされました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」と言いました。すると、たちまちパウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになったのです。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をとって元気を取り戻したのです。いわゆる、パウロのダマスコ途上の回心と言われている出来事なのです。
パウロは、キリストを信じていないためにキリスト者を迫害する立場にありましたが、キリストを信じることによってキリストの救いの恵みを宣べ伝える者に変えられたのです。
パウロの回心は、大変劇的に描かれていて、何かパウロだけの特別な出来事のように思われますが、決してそうではないのです。イエス様をキリストと信じることは、誰にとっても、信じない者から信じる者に変えられると言う特別な出来事なのです。
「わたしに与えられた恵み」とは、キリストを信じない者から、キリストを信じる者に変えられたという恵みなのです。そして、その恵みに生きる者は、大なり小なり、イエス様を証し伝えて生きる者にされているのです。
パウロは、キリストの救いの恵みを与えられた者として、キリストの恵の中に生きる一人一人に言いますと言っているのです。
(3-2)自分を慎み深く評価する
3節「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」
ここに、自分を評価することについて、「過大に評価する」と「慎み深く評価する」と対照的に言われています。
なぜ、パウロはこのようなことを言うのでしょうか。
神の家族と言っても人間の集まりであります。パウロの時代は、キリストが宣べ伝えられて数10年しか経っていない教会の集まりで、いろいろな人がいました。特に、ユダヤ人からキリストを信じる者になった人から見ると、異邦人からキリストを信じる者になった人は割礼も受けていないし、律法の教えにも従っていないと見下す者もいたのです。ですから、自分はイエス様と同じユダヤ人で割礼も受け、律法をきちんと守っている、自分たちこそ真のキリスト者であると「自分を過大に評価する」者もいたのでしょう。
そのような人たちに、パウロは「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」と言うのです。
「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合い」と言われる「信仰の度合い」とは「信仰の量り」とも訳されていますが、どんな事でしょうか。
コリントの信徒の手紙一7章17~20節にこう言われています。
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のまま歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。」
ここに「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」と言われ、「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」とも言われています。
「神に召されたとき」と言うことは、神様がキリストと出会わせて、キリストの救いを与えて下さった時と言うことです。ここでは、割礼を受けている者が救いにあずかったことと、割礼を受けていない者が救いにあずかったこととが述べられ、どのような立場や身分で救いにあずかっても、その立場や身分を変える必要がないと言っています。
そこで、私たち本庄教会と言う状況でこのことを考えてみたいと思います。
ここで礼拝を献げている私たちが、イエス様と出会い、イエス様をキリストと信じて洗礼を受けた時の立場や身分はそれぞれ違います。神様は一人一人の立場や身分に応じて信仰による恵みを分け与えてくださったのです。
私たちは、イエス・キリストを信じる者として〝同じ信仰の恵み・救い〟を与えられています。しかし、それは一人一人の立場や身分に応じて神様が与えられたのです。ですから、神様の救いの恵みに対する応答の仕方は、与えられた立場や身分によって違うのです。
各自はその違いを認め合って慎み深く自分を評価すべきなのです。
(3-3)私たちはキリストの体の大切な一部分
(4~5節)「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」
パウロは、神様が各自に恵みを分け与えてくださった働きの違いを、わたしたち人間の体とその部分にたとえています。体は一つですが、体には手や足、目や耳など、たくさんの部分があり、そしてその働きは皆違うのですが、体全体を活かしているのです。
そのようにキリストを信じて結ばれている私たちも、一つのキリストの体を形づくっているのです。各自は部分で、その働きが違うのですが、キリストの体の大切な部分なのです。
本庄教会も、ここに連なって礼拝をささげている皆さんはキリストの体の一部分なのです。どの一人の存在も、どの一人の働きも本庄教会としてのキリストの体を現わし、活かす大切な存在なのです。
病気で施設や病院におられる方も、大切なキリストの体の部分なのです。私たちは病気したり、けがをした場合、その病気やけがをした部分を体の一部分ではないと切り捨てますか。決してそうではありません。かえって病気やけがが早く治るようにいたわり合います。
このように違いのある一人一人の存在や働きを認め、受け入れ合って、神の家族として喜び励んで行きたいと願います。
(3-4)恵みとして与えられた異なる賜物を互いに活かし合う
(6~8節)「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれに異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」
パウロは、「わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている」と言っています。
「異なった賜物」というのは、神様から与えられたそれぞれに固有な霊的才能・能力の事であります。それは、生まれつきの才能や能力ではなく、神様から与えられたもの(賜物)として受け止めるべきものであると言うのです。
神様は、キリストを信じるすべての者に異なった賜物を与えて下さったのです。ですから、すべてのキリスト者は異なった賜物を互いに活かし合って仕え合うのであります。
パウロは、7つの賜物を挙げています。
① 「預言の賜物」;聖霊の導きによって神の御言葉を語ることです。
② 「奉仕の賜物」;神の民の共同体・教会の管理運営に仕えること、貧しい信徒たちに食事などの配慮をすることです。
③ 「教えの賜物」;キリストの福音と福音に基づく生活の仕方を教えることです。
④ 「勧めの賜物」;生きる気力を失ったり、信仰の弱さに悩んでいる人を慰め励ますことです。
⑤ 「施しの賜物」;福音の宣教と貧しい信徒のために経済的に援助・協力することです。
⑥ 「指導の賜物」;教会における営みを、霊的に、現実的に指導することです。
⑦ 「慈善の賜物」;貧しい人を助け、困っている人を援助する憐れみの行為をすることです。
よく、「私には賜物なんか何もない」と言う人がいますが、決してそうではないのです。神様がキリストによる救いの恵みを分け与えてくださったということは、その人の賜物を用いて、キリストの体を築いて神の家族を証しようとされているから、必ず賜物が与えられているのです。
この7つの賜物のどれかは、必ず皆さんに与えられているのです。神様からの賜物は、他の兄弟姉妹と比較するのではなく、誰に言われなくても自分から進んで喜んでできることが、その人の賜物だと私は見ています。
例えば、お掃除の好きな人は、誰かに言われなくても自分から進んでお掃除をします。教会の掃除は、「奉仕の賜物」です。
9月の1日研修会などで、自分にはどんな賜物があるのか、賜物チェクの学びをしても良いのではと思っています。
もう一度、7つの賜物について言います。この賜物は、お互いに交わり、分かち合い、仕え合う中で神様からの賜物として活きてくるのです。どんな賜物も単独では活かすことができませんし、成り立ちません。
自分が喜んでできる賜物は何かを考えてみて下さい。そして、本庄教会というキリストの御体のためにその賜物を互いに活かし合っていただきたいと願います。
ここに集う皆様の賜物が、交わりの中に互いに活かし合うことができると、本庄教会の存在が際立って行くことでしょう。
*
祈り
天の父なる神様、
今日は、救われたときの立場や身分の違いのあることを教えられ、各自は異なった賜物を頂いていることを知りました。
神様が各自に分けて与えてくださった信仰の度合いによって、どうかお互いの賜物の違いを認め合い、キリストの体の大切な一部分として互いに活かし合って神の家族を形づくって行く本庄教会としてお導き下さい。
イエス様を求める方の上に、聖霊のお導きをお与え下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。