月報『マラナタ』5号巻頭言

「神の武具を身に着けなさい」

2018年8月5日(日)礼拝説教より
疋田國磨呂 牧師
聖書:ヨシュア記1章5~9節、
エフェソの信徒への手紙6章10~20節


1、神様の三重の恵みと受洗

昨年9月3日から「エフェソの信徒への手紙」から御言葉に聞いて来ました。

最初は、1章3節~14節から「神からの三重の恵み」と題して説教しました。

1つは、父なる神様は、天地創造の前から私たちを愛し、キリストを通して選ばれたことです。
2つは、御子なる神様であるキリストは、私たちのために御自身の血によって贖われ、罪を赦され、私たちが神様の秘められた計画を知らされ、あずかる者とされたことです。秘められた計画とは、救いの業が完成され、天と地の全てのものが頭であるキリストのもとに一つにされることです。御国の完成です。
3つは、聖霊なる神様は、キリストを信ずる私たちが御国を受け継ぐことの保証です。

この父、子、聖霊としての三位一体の神様から三重の恵みを頂いている私たち信仰者が、「神の栄光をたたえる」ことが礼拝なのです。

  • 私たちは、天地の造られる前から神さまに愛され、選ばれている恵みです。
  • 私たちは、神様に背いていたがキリストの血によって罪が赦され、神の御国を受け継ぐ者とされた恵みです。
  • 私たちは、御国を受け継ぐ者とされたこ
    とを聖霊が保証してくださる恵みです。

私は熱心な日蓮宗の家に育ちました。しかし、母が40歳の時に生まれた子供で、自分は本当に親に愛されて生まれたのだろうか。妊娠したから仕方なく生まれたのではないかと疑問になり思い悩み、自殺さえ考えるに至りました。そうした時に、ルーテルアワーの放送で、キリスト教の話を聞き、羽咋教会に導かれました。

私の悩みを良く聞いて下さった杉山牧師に、「疋田さんは、神様に祝福されたから生まれたのです。」と言われて、驚きました。私がそれまで信じて来た神仏様は、人を呪い、たたり、罰を与え、地獄に落とす方として教えられて来たからです。人間を祝福してくださる神様を知りたくて、教会に通い、18歳の時、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けました。以来56年間、キリストを信じて神様に従ってきました。

今改めて思うことは、神様が人間を祝福してくださるとは、神様は天地の造られる前から私を愛し、御計画のもとで選んで私を誕生させてくださったと言うことです。そして地獄にではなく、天の御国に入る者として保証して下さっていると言うことです。

今朝、この礼拝の中で洗礼を受けられた藤宮栄子姉妹も、この神様の三重の恵みを頂いているのです。本庄教会に来られるようになったのは、昨年のクリスマスからですが、神様の御計画は、栄子姉妹が生まれる前からあったのです。栄子姉妹は、神様から愛され、神様に選ばれる者として今日までの歩みが導かれていたのです。

御一緒に、この恵みをまだ知らない人々に分かち合って行きたいと願います。

2、信仰者の実際的生活への勧め

 「エフェソの信徒への手紙」の4章からは、信仰者の実際の在り方が勧められています。

  • 神様からの三重の恵みを頂いたキリスト者たちは、集まって「キリストの体」として群れを造り上げ、互いに結び合わされる中で、頭であるキリストに似た者として成長するのです(4:1~16)。
  • また、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、・・・・あなたがたも愛によって歩みなさい。」と言われています。私たちは、神様からそれぞれに与えられた賜物を活かしつつ、神様から受けた愛によって暗闇を照らす、光の子として歩むのです(5:1~20)。
  • 神様とイエス様から受けた愛を最も活かす具体的な場が、家庭であります。妻と夫の関係、子供と親の関係、当時の奴隷と主人の関係は今日の働く者たちの部下と上司の関係になります(5:21~6:9)。

これらの関係は、神様とイエス様の愛による光が注がれる時、祝福され、豊かな実を結ぶことができるのです。

3、人間を神に反逆させる悪魔

パウロは、「最後に言う」といって、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなれなさい。」と勧めているのです。その理由は、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」なるためです。

今朝、私たちは藤宮栄子姉妹が洗礼を受けたことで、神様の御導きを感謝しつつ大いに喜んでいます。礼拝が終わってから藤宮姉妹の受洗をお祝いする会を持とうとしています。

しかし、このことを喜ばない者がいるのです。それは「悪魔」なのです。サタンとも言います。私たちの持っている新共同訳聖書の一番後ろに、用語解説が載っています。

「悪魔」は、「中傷する者」の意味で、人間を誘惑して神に反逆させる者。サタンとかベリアルとかいう名前でも呼ばれ、「この世の神」という別称でも呼ばれます。

悪魔は、人間を誘惑して神様に反逆させるものですから、藤宮姉妹がキリストを信じて神様のもの、神様の子供になったことを一番嬉しくないのです。

洗礼を受けた感激は、しばらくすると覚めてきます。すると、悪魔は、「洗礼を受けたって、ちっとも変わらないではないか」「お前は、それでもクリスチャンなのか」と私たちの弱さを突いて、惑わしてきます。

しかし、たじろがないでください。弱い私たちを助けるためにイエス様は〝助け主としての聖霊〟を送って下さったのです。この聖霊はずっと永遠に信じる者と一緒にいてくださると約束されています。(ヨハネ福音書14・16)

聖書日課は、7月半ばからヨシュア記を読んで御言葉に聞いて来ました。主なる神様はヨシュアに言っています。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。・・・この律法をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。・・・わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたはどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア記1:5~6)

この神様がヨシュアに約束された「どこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と言うことは、インマヌエルの主イエス様を信じる者にも与えられる約束です。イエス様は助け主としての聖霊を私たちに送ってくださっているので、うろたえたり、おののいたりしなくてもよいのです。

しかしながら、悪魔は,いろいろな策略を用いて、私たちを神様から引き離そうとするのです。その意味で、藤宮姉妹は、今一番、悪魔の攻撃を受けやすいので、皆さんで藤宮姉妹の歩みが神様の愛に留まり続けられるようにお祈り頂きたいと願います。
 

4、戦いの相手は血肉(人間)でなく悪魔

私たちは、何か悪いことが起きると、それをもたらした人、相手をののしったり、批判したりして戦おうとします。

しかし、パウロは、信仰者たちに「わたしたちの戦いは、血肉(=人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする者なのです。」と言うのです。要するに、私たち信仰者が戦う相手は、人ではなく、その人を支配して悪いことを行わせたり、神様から引き離そうとする悪魔であると言うことです。信仰者が戦う相手は、人の言葉や行動の背後にある悪魔との戦いであって、人ではないと言うことです。〝人を憎まず、罪を憎む〟と言われていることです。

5、神の武具

そこで、パウロは、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」また、「邪悪な日によく抵抗して、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と「神の武具を身に着けなさい」と繰り返し勧めています。

神の武具とは、次のように言われています。

  • 「帯」:戦うために自分の身を引き締めるために帯を締めます。神様が示される真理を帯として立ちます。
  • 「胸当て」:胸に当てる防具はキリストの正義です。
  • 「履物」:神との平和を内容とする福音をいつでも宣べ伝えられるように準備することが履物です。
  • 「盾」:信仰を盾として、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
  • 「兜」:救われていることを示す兜をかぶるのです。
  • 「剣」:霊の剣とは聖霊を与えてくださる剣です。即ち神の言葉を取るのです。

これらの「帯」「胸当て」「履物」「盾」「兜」「剣」は、既にキリスト・イエス様を信ずる者に与えられているのです。「霊の剣」、聖霊がいつも共にいて働いてくださる「神の御言葉を取る」ことこそが、悪魔の策略に打ち勝つ一番の戦い方なのです。
皆さんは、聖書日課カードを用いていますか。聖書日課カードは、毎日、神の御言葉を聞くことによって、霊の剣、神の言葉を取ることなのです。

8月3日の聖書日課は、ルカ福音書8章16~39節でした。ゲラサの地方で、悪霊に取り付かれた男が長い間、衣服も身に着けず、墓場を住まいとしていました。生きていながら、死人が葬られる墓場を住まいとすることは、何と惨めな可哀そうなことでしょう。正に生きた屍(しかばね)です。イエス様が、汚れた霊に男から出るように命じられました。汚れた霊どもは、ローマ兵の5千人部隊名のレギオンと呼ばれ、それほどの力を振るっていたのです。汚れた霊は、イエス様に命じられて男から出て行き、二千匹ほどの豚の群れに入り、狂った豚は湖の中になだれ込んで、溺れ死んでしまったのです。男は、服を着、正気になってイエス様の足もとに座っていたのです。

神の子・イエス様の御言葉は、このように悪魔や汚れた霊(悪霊)を追い出す力があり、それは私たちの日常の生活の中にも、聖霊と共に力をもって働くのであります。

私たちは、自分の力、人間の力だけでは、悪魔や汚れた霊と戦って勝つことができないのです。自分の弱さを知った者こそが、神様の御言葉に本当に依り頼むことができるのです。

6、絶えず目を覚まし、根気よく祈り続けなさい

神の御言葉を取って、御言葉に聞くことができる時、「どんな時にも、〝霊〟に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続ける」ことができるのです。

まず、全ての信徒のために信仰が守られるように祈るのです。
聖書日課で御言葉に聞いて祈る時、自分のためにだけでなく、本庄教会の兄弟姉妹のためにも根気よくお祈り頂きたいと願います。これが神の家族、兄弟姉妹なのです。

次にパウロは、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、私のために祈ってください。」と言っています。

説教者が、会衆の心に届く言葉を用い、福音の神秘を大胆に示すことができるように祈ることを勧めています。本庄教会の疋田牧師、義也牧師、勝子牧師が福音の神秘を、適切な言葉を用い、大胆に語ることができるようにお祈りをお願いします。

〝礼拝の説教は、語る者と聞く者の共同作業である〟と言われます。礼拝の中で、語る者が大胆に福音の御言葉を語ることができるように、聞く者は福音の御言葉を各自の心に受け入れることができるようにと聖霊のお働きを祈るのです。  

悪魔はいろいろな策略を用いて、私たちの弱さや欠点を突いて、私たちを神様から引き離そうとします。それ故に、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と勧められるのです。

自分の弱さを覚える時こそ、主に依り頼むのです。そして神の武具、とりわけ霊の剣、神の御言葉を取る時に、神様の力を覚え、神様に委ねることができるのです。それが神様に委ねることのできる者の強さなのです。キリスト者の強さは、自分の弱さを知って、神様に委ねることのできる強さであります。そして兄弟姉妹のため、牧師のために、目を覚まして絶えず、根気よく祈ることが大切なのです。どんな時でも、互いに祈られて信仰が守られているという喜びを共に実感できる神の家族、本庄教会の群れを現わして行きましょう。

祈り

 天の父なる神様、私たちは、大変なことや嫌なことがあると、それと関わった相手が悪いのだと批判したり、嫌ったりして、他人のせいにしてしまいます。しかし、わたしたち信仰者の戦いは、血肉である人間を相手にするのではなく、その人の背後にいて支配している悪魔を相手とするものであることを確認しました。信仰者が悪魔と戦うには「神の武具を身に着けなさい」と勧められています。聖霊なる神様、どうか、行き詰まったり、弱さを覚える時にこそ、主イエス様に依り頼み、神様の力をいただいて強くなるようにお導きください。主の御名によって祈ります。
アーメン。

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